2月上旬にUAEに入国したスペシャルラピッドは、メイダン競馬場の厩舎に帯同馬と共に入厩した。
入厩したての頃は、輸送による精神的な疲労と環境の変化に影響されたのか、食事量が減っていた。しかし、縣たちにとっては、想定の範囲内の状態であった。むしろ発熱等が見られず、比較的元気な状態であったため、驚いているほどであった。
スペシャルラピッドと共に入国した森本は、馬の状態が落ち着くのは3月頃になる可能性があると考えていただけに、この状態の良さはいい意味で予想外であった。
「オティオーススたちや伊藤君のおかげで、想定より早く体調が安定していますね。精神が図太い2頭のおかげで、スペシャルラピッドの精神もだいぶ落ち着いていますよ」
帯同馬として連れられてきた2頭は、日本で過ごしているときと全く変わらなかった。
オティオーススはメイダン競馬場にいる現地の馬たちをいつの間にか従えていた。キョウテンドウチは、いつもスペシャルラピッドの隣でのんびりと過ごしていた。厩務員の伊藤も付きっ切りで世話をしていた。
この「いつも通り」が彼の精神の安定化に貢献していたのである。
「まあ、普通に体重は減っているわけですけど……」
太めに残しておいて正解だったと縣は思っていた。スペシャルラピッドの状態で、調教の時期や内容を決めていかないといけないため、彼の状態の安定化が急務であった。
「ただ、許容範囲内で収まっています。オティオースス達のおかげでもあると思いますが、彼は思った以上にたくましくなっているのかもしれないですね」
彼の成長を讃える森本であった。その言葉を受けて、縣はスペシャルラピッドの方を見る。
相変わらず伊藤に甘えていた。首元を撫でられてご満悦のようだった。
「たくましく……なっているのかね?」
精神性はそこまで変わっていないんじゃないかと縣は訝しんだ。
「まあ、本当に余裕がないときは甘えることすらできないですから……」
二人から、生暖かい目で見つめられていたスペシャルラピッドは、伊藤に甘えるようにヒンヒンと嘶いていた。そして、その嘶きがうるさく思った隣のオティオーススの一喝によって黙らされていた。
その姿を見て、お前はもう5歳の牡馬だろ……と二人は思ったのであった。
その後、不安定だったスペシャルラピッドの体調も安定し始め、食事量も戻り始めていた。それと同時に少しずつ調教もスタートさせていた。
2月下旬になると、前哨戦に出走する馬たちもメイダン競馬場に入厩してきており、本番に向けて活気が出始めていた。
いつの間にかオティオーススは厩舎のボスとして君臨していた。人間には優しいが馬には厳しいタイプの馬なので、森本たちからは可愛がられていたが、馬たちからは怖がられていた。キョウテンドウチはきれいな葦毛で大人しく、賢い馬だったためか、ドバイの競馬関係者から誘導馬としてのスカウトが来るほどであった。帯同馬なのに濃過ぎる個性が故に、妙に目立っていた2頭であった。
そんな個性豊かな仲間に支えられたスペシャルラピッドは、またも騒ぎを起こしていた。
「なーんか去年の夏もこんなことありませんでしたっけ?」
「ドゥラメンテと喧嘩していましたね。オティオーススが絡むと急にヤンキーになるんですよ……」
3月4日に開催されるアルマクトゥームチェレンジR3に出走するため、メイダン競馬場にやってきたラニとひと悶着をしたのであった。
ラニは相当な暴れん坊で有名な馬であったため、森本たちも気を付けていた。ラニの関係者も日本の天皇賞馬にアクシデントを負わせたらとんでもないことになることがわかっていたため、お互いに接触を少なくするように警戒はしていた。しかし、相も変わらずオティオーススが絡んだことで、問題は起きてしまったのである。経緯はドゥラメンテのときと同様である。
「ラニも大人しいときは大人しいみたいですけど、本当なんですか……」
今回はスペシャルラピッドの方が喧嘩を売ったため、森本たちは方々に謝罪をする羽目になっていた。幸い、お互いに威嚇をし合う程度で済んだため、相手側も苦笑いで済ませてくれてはいた。ただ、ラニの関係者たちに「スペシャルラピッドはラニに喧嘩を売るぐらいには気性が荒っぽいのでは?」という妙な誤解を与えることになってしまった。
「オティオーススを連れてきた弊害がこんなところに現れるとは」
「どうも馬っ気を出そうとする牡馬には容赦がないようですね。最近は群れのボスに手をだすなというよりは、俺の女に手を出すなって感じで怒っているみたいです」
「全く相手にされていないのにナイト気どりか。かわいそうな奴だな……」
スペシャルラピッドが聞いたら、激怒しそうなことを縣が呟いた。実際スペシャルラピッドはオティオーススに相手にされていないので正しいといえば正しい。あくまで子分扱いである。
「まあ、ラニもドバイWCに出走すると思いますし、いい感じのライバルができてよかったんじゃないですか?二度と調教時間を被せないようにはしますが」
「ゲートが隣同士で、喧嘩して立ち上がったりしたらいやだなあ」
縣は、どこぞの白い暴れん坊を思い出す。
「レースになれば集中しますし、多分大丈夫だと思いますよ。秀明騎手もその辺りの制御はうまいですしね」
「まあ、当日は気を付けるように先輩に行っておくよ」
秀明の与り知らぬところでリスクが増えたのであった。そんなこんなで、2頭は、目が合えば威嚇し合う関係となり、関係者たちを盛大に困らせていったのであった。
そして、3月に入ると、調教は一層本格的になっていった。
スペシャルラピッドは想定よりも回復が早く、そしてドバイの環境に適応していた。
もうあの頃のもやしっ子は存在していなかった。
『秀明先輩。たぶんラピッドは完成したと思います。最高の状態に仕上げましたので、最終追切だけ頼みます』
そして現地に到着した秀明は、成長したスペシャルラピッドの姿を見て、この馬の成長力は頂上知らずの屋久島の杉のようだと思ったようである。
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大宮貞治郎は初めてのドバイ訪問にかなり緊張していた。旅行や仕事で海外に行ったことはあるが、ドバイは初めてであった。
スペシャルラピッドが正式に招待を受けたことで、その馬主の大宮のドバイ往復の航空券やホテル代はすべて主催者負担となっていた。
「いやー、この歳になってドバイに行けるとは。持つべきものは友だな」
流石に一人でドバイに行くのは寂しいため、大宮はいつぞやの友人を誘っていた。旅費は大宮持ちである。
「イスラム教の国だし、言動とか行動には注意してくれよな」
常識のない人間ではないことはわかっているが、初めてのイスラム圏の国に来たということで固くなっていた。
「その辺は気を付けるよ。でも馬券が買えないのは残念だな。競馬の醍醐味なのになあ」
「宗教的に難しいんだろうな。逆に言えば賭け事の要素が少ないからよりスポーツに近いのかもしれん」
「確かにそういう考え方はあるな」
中東特有の事情を考えつつ、雑談をしていた二人であったが、空港が大きいが故に少し迷ってしまっていた。
何とか目的地を見つけることができたが、空港でもスケールの違いを見せつけられた二人であった。
そしてそのスケールの大きさは、競馬場でも味わうことになった。
空港から車に揺られて15分。二人が目にしたのは巨大な競馬場の姿であった。
スペシャルラピッドが出走するドバイワールドカップが行われるメイダン競馬場は、芝とダートのコース、収容人数6万人のスタンド、そして大宮達が宿泊予定の「ザ・メイダンホテル」が併設されていた。
「東京競馬場も大きいが、ホテルとかがある分こっちの方が大きく感じるな」
「日本と違って厩舎も競馬場併設らしいからな。厩舎へ行くのも車を使うらしいぞ」
平時は厩舎の見学ツアーなども組まれているようであるが、今日厩舎に行けるのは競馬関係者やメディアのみであった。
大宮達はホテルにチェックインをすると、すぐにスペシャルラピッドが入厩する国際厩舎に向かった。
国際厩舎に中に入ると、日本からやってきたドバイ遠征組が入厩しており、にぎやかな状態となっていた。その中で、自分の馬はどこかと探していると、馬房からひょっこりと顔を出して嘶いた馬がいた。
大宮を見つけてはしゃいでいるスペシャルラピッドであった。相変わらずの愛らしい顔つきであった。
大宮は顔を撫でて久々の再会を喜んでいた。
「遠くまで来ちゃったけど頑張っているみたいだね。よしよし~」
【(*‘ω‘ *)】
大宮はスペシャルラピッドが何を考えているのかはわからなかったが、機嫌がいいことだけはわかった。
馬房から顔を引っ込めると、厩舎内で自分の体を見せびらかすように大宮にアピールをする。
その馬体は、重厚であった。
「これは……」
友人ともども言葉を失うほどであった。
天皇賞秋の馬体を超えているといっても過言ではなかった。ドバイでの調整はうまくいったと縣たちから伝え聞いていた。写真や映像でも状態は確認していた。しかし、馬房の外から見たレベルでも馬体が完ぺきに近い状態に調整されているのがわかるほどであった。
「これは、あり得るかもしれない……」
大宮は、目の前で可愛がっている愛馬が、1着でゴール板を通過する瞬間を想像していた。それはとんでもない妄想ではないと確信していた。
「それじゃあ、本番も頑張ってね」
大宮の激励に反応してヒヒンと軽く嘶いたスペシャルラピッドであったが、意味を理解しているのかは不明であった。
「貞治郎、俺は日本の奴らに絶対にスペシャルラピッドを買えって言っておくわ」
友人はスペシャルラピッドの馬体を見ただけで勝ちを確信していた。そういうことをするとツキに見放されるような気がした大宮であったが、自分の馬を褒められているようなものなので、有り金全部賭けてしまえとそれに便乗していた。
厩舎見学から数日はホテルを中心に大宮達はドバイを満喫していた。スペシャルラピッドの追い切りを見学したり、ドバイ観光に繰り出したりと遊び惚けていた。
しかし自分たちが競馬の世界の最前線にやってきたと認識したのは、競馬の主催者が開催したパーティーに参加した時であった。
周りはすべて一流のホースマンたちであった。生産者代表としてやってきた新井勇作ともども、緊張して食事に手を付けることができていなかった。
そしてなぜか注目を浴びている関係者の一員となっていた。
「大宮さんは2月から馬を現地入りさせて、それも帯同馬を2頭も連れてドバイに来ていますからね。全員が本気で勝ちに来ているのは当然ですが、その中でも超の付くほどの本気で挑みに来ていると思われているんですよ」
熱心に種牡馬入りをオファーしてくる日本の競馬関係者から言われる。
確かに言われてみれば日本のどの陣営よりも金と時間をかけてドバイにやってきていた。
「あと、天皇賞で勝ったのも大きいですね。特にモーリスを倒しての優勝はかなり評価されていますよ。香港の競馬関係者からは特に」
昨年の天皇賞秋でスペシャルラピッドはモーリスを抑えて優勝した。そのモーリスは、香港マイル、チャンピオンズマイル、香港カップと香港主催の国際GⅠを3勝もしていた。
「あとは、母のゴーストミステリアスの血統が北米の競馬関係者で注目を集めていますね。新井さん、あの馬はどうやって見つけてきたんですか?」
ゴーストミステリアスの血統は米国血統の詰め合わせセットのような血統である。普通はアメリカで繁殖牝馬をやっているような馬であるが、なぜか新井牧場で繋養されていた。
「まあ、現地にコネがありましてね……」
勇作は、苦笑いしながら答えていた。
コネがあったのは事実であるが、バカバカしい事情で日本にやってきたのがゴーストミステリアスであった。
大宮は詳しくは知らなかったが、セクレタリアトのコイントスのようなエピソードがあったとは聞いていた。
「そこまで注目されるとは……」
「日本の競馬もかなりレベルが上がりましたからね。そこで強い競馬をした馬を注目するのは当然ですよ。それに追い切りの評価も相当に高いですから、相当警戒されていますよ」
大宮は知らなかったが、ドバイワールドカップに出走する競走馬の関係者、特にアロゲートの陣営は、スペシャルラピッドを相当に警戒していた。日本の時計のかかるダートを走れるだけでなく、日本の芝の高速競馬にも問題なく対応する適応能力。天皇賞秋のようなハイペースな消耗戦でも先行して潰れることなく走れるスピードと心肺能力。
比較的北米競馬のダートに近いメイダン競馬場でもしっかりと走ることができる能力を持っていると予想されていた。そして、「先行して最後の直線でぶっちぎる」というアロゲートが得意とする展開に対応できる可能性が高いと警戒されていた。
「こ、ここまで仕上げてくださった縣先生たちに感謝しないといけませんね……」
「騎手としてはちょっと問題がある方でしたが、調教師としては間違いなく優秀な方ですよ」
実は調教師としての縣の運命も少しずつ変わっていた。当の縣は、パーティーで平然と飲み食いして、英国の競馬関係者と歓談していた。英国に留学していただけあって、さすがだなあと大宮は思っていた。
その後、多くの競馬関係者から話しかけられたこともあり、大宮は疲れ切った状態で、パーティーを終えたのであった。
そしてレース当日。
メイダン競馬場の天候は、『雨』であった。
ちなみにスペシャルラピッドのイメージとしては、新馬戦のころは、高校生時代の大谷翔平選手。ドバイワールドカップではMLBでホームラン王を取った時の大谷翔平選手だと思ってください。
あくまでイメージですが。