それぞれの道を走るキングヘイローとトレーナーが再会するお話です。
真新しい衣装に袖を通す瞬間、表情に不安と覚悟が混ざり合う。
彼女たちのそれを見届けることが、いつからか私の仕事になった。
話は聞いていた。彼女はデビュー戦での勝利の後、惜敗を重ねていた。それでも、と挑む初めてのG1レース。まだ抽選対象だけれど、どうしても私の勝負服を着たい。
彼女の願いを私は引き受けた。
『このキングが勝負服を手掛けるのだから、ターフで袖を通しなさい』
思いが通じたのか、彼女はゲートの一枠を勝ち取った。
彼女は私に憧れてこの学園に入学した。正確には私と、私の同期達。スペさんにスカイさん、私達の"世代"に憧れていたそうだ。
卒業からはもう十年が経つ。もう誰も現役で走ってはいない。家庭を持った人もいる。新しい夢を追い掛ける人もいる。
私は、私達はそれぞれの道を歩いている。私達のあるべき姿のために。
着換えた彼女を連れて、トレセン学園の応接室に戻る。彼女は息を呑んで鏡を見つめ、彼女のトレーナーは「綺麗だ」とつぶやいた。
「随分と気に入ったみたいね」
はっと気付いて、彼女は頭を下げる。
「ありがとうございます、キングヘイローさんに衣装を作ってもらえるなんて」
「遠慮なんていらないわ。首を下げるのもやめなさい」
私は一流としての仕事をした、それだけのこと。彼女にも堂々といてもらわなくては困る。
「このキングの勝負服を着るんだから、あなたも自分のすべきことをなさい」
自分のすべきこと。彼女は繰り返す。そうよ。いつだって自分のすべきことを果たす。誰になんと言われたって、それが変わることはない。
彼女とトレーナーは顔を見合わせて、静かに頷いた。
帰り際、ふと声を掛ける。
「ねえ。どうして私だったの?」
彼女は少し悩んでから、
「キングさんの走りに、勇気をもらったからです」
どんなに抜かされても、追い付けなくても、それでもひたむきに走って。
「勝つことを諦めなかったあなたが、私のヒーローでした」
「私は私であり続けた。このキングにふさわしい道を走っただけよ」
だからあなたも、あなたの道を走りなさい。芯の通った返事。不安の入り交じった顔は、もうどこにもいない。
レースを楽しみにしているわ、と部屋を後にした。
お店までの帰り道、スマートフォンが鳴る。学園時代の後輩からだ。
「キング、キング! ニュース見た!? 大変だよ!」
「ちょっと、いきなりどうしたの」
今すぐニュースを見て、と彼女はまくし立てる。そう言われても。
あたりを見渡すと、駅前ビルの大きなモニターに見知った顔。
速報。トレーナー。海外挑戦……? そんな言葉が流れていたと思う。
「……あら。楽しそうな顔ね」
電話が繋がっているのも忘れて、あの頃の私がそこにいた。あの日と変わらない彼がそこにいた気がした。
トレセン学園を卒業して十年が経つ。
私達は走り続けて、一流を証明した。欲しかった栄誉がなくたって、思い描いた道が違っていたって、それでも。
私達が足を止めることはなかった。
私がトレセン学園を卒業する時、トレーナーは頭を下げた。
『君をもっと勝たせてあげたかった』
皐月賞も、ダービーも、菊花賞も……。全部、自分の力不足だと、彼はそう言った。
『別に、気にしていないわよ』
『俺にはいつかがあるかもしれない。でも、君にはあの一度だけだった』
確かに欲しかった冠はひとつも取れなかった。けれど、春秋のスプリントに秋の天皇賞、それから有馬記念。私達にしか進めない道を走りきった、それで十分でしょ。
だけど、と彼は言う。
『だったら、一流の名に恥じないトレーナーであり続けなさい』
一度きりの勝利はまぐれと呼ばれてしまう。勝つことよりも、勝ち続けることの方が断然に難しい。
『次に会う時は、超一流のトレーナーね。私も一流の勝負服デザイナーとして、その名を世界に轟かせるわ』
私だって、レースを引退した後も、一流としてこの名を世界に知らしめる。それが、キングヘイローだから。
『お母さまの後追いだなんて言わせない。どんな道を歩こうとも、私は私だって証明するの』
『だから、あなたも。自分こそが一流のトレーナーだと証明しなさいな』
私の差し出した手を、彼は受け取った。これが、もう十年も前の話になる。それ以来、彼とは会っていない。
トレセン学園からの帰り道。電車に揺られながら、いくつか記事を眺めた。
海外の学園にトレーナーとして合格したこと。来年の2月末――次のURA決勝を見届けて移籍すること。『やれることはやった』の見出し。
どのニュースも彼の話題で持ちきり。それもそのはず、今の彼は誰もが認める一流トレーナーだ。
私がトレセン学園を卒業して数年、彼は一流と呼ばれるようになった。
いくつものG1勝利を手にし、URA優勝を重ね、ついには無敗のクラシック三冠ウマ娘を送り出した。
あの日『俺こそが一流トレーナーだ』と声を震わせた、駆け出しのへっぽこトレーナーはもういない。
それは少しだけ、寂しい、かもしれない。
私は勝負服のデザイナーになるべく、新たな道を走った。感謝祭で応援団の衣装を作ったあの日から、少しずつ温めていた夢だった。
数年前、独立してお店を構えた。同期のみんなも来てくれて、娘が大きくなったら、なんて話に花が咲いた。後輩たちは「キングにはお世話になったから」なんて言って、今でも時折お店を手伝ってくれる。トレセン学園からも、その外からも、勝負服の依頼を貰うようになった。
良家のご令嬢じゃない。お母さまの娘でもない。キングヘイローとして、私は今、ここにいる。
私達は一流になった。一流であり続けた。
『次に会う時は、超一流のトレーナーね』
あの日の言葉を不意に思い出しては、まだ早いかしら、なんて思って。本当は少しだけ、彼と会うことが怖かった。怖くなってしまった。
「……今更。どんな顔して会えばいいのよ」
きっと彼なら、こう言うだろう。どんな顔だってキングらしいから、と。
彼の姿が思い浮かんでは消えてゆく。
お店は閉めていたはずだけれど、店先には人影。懐かしい顔が手を振っていた。
「おお、キングお帰り。キングも大変だねぇ」
「あはは……。お久しぶりです、キングちゃん」
スペさんにスカイさん。連絡くらいくれればいいのに。たまたま近くを通っただけだと二人は言うけれど、目を逸らしたスペさんで予想は付く。
「心配されなくたって、私は平気よ」
でも、二人の気持ちは嬉しかった。
「お茶菓子ならあるよ」
「もちろんお茶もあります!」
あなた達、最初からそれが目的じゃない。二人は笑って、答えなかった。
「それで、キングちゃんはどうするんですか?」
お茶菓子を片手にスペさんが切り出す。どうすると言われたって、どうもこうもない。
海外挑戦だって初耳だし、彼の決めたことに、とやかく言う理由もないもの。
「ふーん……ま、キングがいいならいいけどさ」
キングも随分丸くなったよねぇ、なんて、スカイさんは手を振る。
何よ、その言い方。「別に」とスカイさん。
「私の知ってるキングは、もっとわがままで、欲しいものは絶対に手に入れる、って感じだったけどなあ」
「セイちゃんなりに、キングちゃんが心配なんですよ」
スペさんの言葉に、そんなことないよ、とスカイさん。視線は合わせてくれない。
「エルが心配だってうるさいし、グラスちゃんやツルちゃんが様子見てきてって言うから、来ただけだよ」
素直じゃないのはどっちよ。さあねえ、とはぐらかされた。
「でも、キングちゃんは、もしここでトレーナーさんと会わなかったら」
――この先ずっと、後悔しませんか?
スペさんの言葉に胸がきゅっと締め付けられる。次に会う時。それはいつになる?
私達は誰もが認める一流になった。いや、誰かからの評価なんていらない。私達のことは、私達で決められる。もう、そこまで来たんだ。
「キングはさ、どうしたい?」
「どうしたいって、それは」
彼の顔が浮かぶ。必死に追い求めて、欲しかった頂をひとつも手にできなかったあの日のこと。
『君は、どうしたい?』
私は、どうしたいの?
「そんなこと」
着信だ。はっとしてスマートフォンを取る。なんて間の悪い電話。表示される宛名に溜息をつく。二人も誰だか気付いたのか、苦笑いを浮かべた。
「ごめんなさい、出るわね」
こんなに間の悪い電話を掛ける人を、私は一人しか知らない。
「もしもし、お母さま」
『思っていたより元気そうね』
別に、私はいつだって元気よ。それより何の用かしら?
『貴方のお店を預かってあげるから、一度帰って来なさい』
追いかけるんでしょう、とお母さま。
「なあに、それ。心配しているの?」
『つまらない意地で足踏みして、みすみす海外に逃してしまうのなら、心配だわ』
ばかな娘、だなんて。親の顔が見てみたいものね。
『本当に、誰に似たのかしら』
お互いに苦笑して、少し間を置いてから切り出す。
「……お母さま。ありがとう」
『せいぜい頑張りなさい。でも、海外で恥を掻くくらいなら、すぐに帰ってくることね』
ひとしきり笑ってから、「私を誰だと思っているの?」
「本当に、ばかな娘」通話は切られていた。
改めて、二人を見渡す。
「私がどうしたいかなんて、決まってるわよ」
いつものわがままキングだ、とスカイさんが笑った。
スペさんとスカイさんを駅まで送って一息。カップを片付けながら、すっかり静かになったお店を見渡す。
必死に駆け抜けて掴み取った私の夢。少しの間でも、いい夢を見ていられた。
けれど、見ているよりも追い掛けるほうが私には合っている。
お店を閉めた所で、聞き慣れた声。学園にいた頃から変わらない、古い車が停まっている。
「やあ。遅くまで、忙しいみたいだね」
「そんなこと無いわよ。今日はスペさんやスカイさんが来ていたから」
大きく出遅れたな、と彼が笑う。
どうせさっきまで、記者に捕まっていたのだろう。
「あれだけの発表をしたらね」
「でも、居ても立っても居られなかったんでしょ」
「……そうだね。ここでやれることをやりきって、次の世界を見たくなったんだ」
暗くなった空に、白い息が舞う。
「久しぶり、キング」
「待たせすぎよ、おばか」
十年も経ったら、また会うのに勇気がいるんだよ、とトレーナーは笑った。
少し眩しい夜の街を走る。
どこに行くの? さあ。行きたい場所はあるかい。
話しやすい場所ならどこでも。分かった、とトレーナーが頷く。
「海外の学園に、合格したんでしょ。おめでとう」
それはどうも、とトレーナー。
「随分、楽しそうな顔ね」
「十年ぶりの再開が、嬉しいだけだよ」
気が利くところも相変わらずだ。でも、それだけではないことは分かる。
「あなたもすっかり、一流の顔付きね」
「必死にやってきただけさ。ようやく、彼女達の走りを楽しめるようになった」
それまではずっと気が重かった、とトレーナー。
少しだけ、寂しそうに遠くを見つめる。
勝つことより、勝ち続けることの方が難しい。
君の言うとおりだったよ、とトレーナーが笑う。
大事なレースを勝てなかったこと。怪我をさせてしまったこと。何度も担当のウマ娘と衝突したこと。
「一流であり続けるのがこんなに難しいだなんて、思っても見なかった」
「そんなの、私もよ」
トレセン学園を卒業して飛び込んだデザイナーの世界。
ここでもまた、"あの人の娘"だと呼ばれた。いつだって、誰かの視線に晒されてきた。
私達を私達として認めさせるには、途方もなく長い時間が必要だった。
それでも。
「私は自分のお店を持った。今度また、私の勝負服を着た娘が走るのよ」
「流石は一流の勝負服デザイナーだ」
そういう彼だって、年明けのURAに担当の娘を登録している。走れるだけでも栄誉と呼ばれるURAの、最多優勝トレーナーは他でもない彼だ。
「そうね。私達は一流になった」
「次に会う時は超一流、なんて言ってたけどさ。十年掛かっちゃったな」
でも、あなたは私に会いに来てくれた。
「会いに来てくれなかったら、私から差し切りに行くところだったわ」
「どうだか」トレーナーがハンドルを切り、街中から遠ざかってゆく。どこまで行くの? 一流のスポットだよ、と彼は流す。
「キングも俺も、目標が高いからさ」
どこまで行っても、悪くないって思っちゃうだろ。
「似た者同士だよな」
「……そうね。本当は、私も今更どんな顔して会えばいいんだろうって思ったの」
どんな顔だっていいんだよ。
「どんな顔だって、それがキングらしさだから」
顔を反らすと、遠くに夜景が映る。着いたよ、とトレーナーがドアを開けた。
都会を見下ろす展望台。遠くにはさっきまでの景色が並んでいる。
少し風が強くて彼のコートを借りた。なにか買ってくるよ、後でどこか行こうか、なんて話をして、彼を待つ。
都会の煌めきを目の前に、ぼんやりと考える。
海外への挑戦。きっと彼のことだから、不合格なら挑戦したことすら言わなかっただろう。
それだけ悩んで、それでも掴みたいと思った彼の夢。
あのへっぽこトレーナーが、ここまで変わったのだ。
あの頃のへっぽこな私は、どうだろう。
「お待たせ」
ミルクティーを受け取って、口を付ける。
しばらく二人で、街の光を眺めていた。
「ねえ、トレーナー」
私との三年間は、どうだった?
彼はじっと、夜景を見たまま口を開く。
「楽しかった。でも、それ以上に悔しかったな」
君の力なら、クラシックのレースで勝つことだってできた。でも、結果はそうならなかった。
「俺にもっと力があったらなって、そう思っていたよ」
じゃあ、私が卒業したあとの。
この十年は、どうだったの?
「……少しずつ、担当の子が勝てるようになって。彼女達が喜んでいたのは、嬉しかったな」
あの時ああしておけばよかったのに、と何度も思った。それだけ、見えていなかったものが見えるようになって。
「肩の荷が下りたというか。やっと俺も、あの日の悔しさを忘れられるかと思った」
だったら、トレーナー。
震える声を強く吐く。
「G1レースに勝って。クラシック三冠のウマ娘を送り出して。どう、感じたの?」
彼はじっと、考える。
これまでのことを懐かしむかのように。口元を少し、緩ませて。
「ずっと夢に描いていたことが、現実になった」
彼の瞳が煌めいた。夜景の光だろうか、星のまたたきかもしれない。
「やれることをやり切って。あの日手に入らなかったものを手に入れて」
「少しだけ満たされたような気がして、それから――」
「君に、会いたくなった」
ああ。
あの日の瞳だ。
私の隣に立って、震える声を張り上げて。「俺こそが一流のトレーナーだ」と叫んだ、あの瞳。
あの日から、彼は何も変わっていないんだ。
本当に、本当に……。
「なんなのよ、もう」
堰を切ったように、言葉が溢れる。
私だって、ずっと待っていたの。
あの日、頭を下げたあなたを見て。そんな顔をしてほしくなかった。
私が知っているトレーナーは、いつだって。
諦めが悪くて、どんな状況でも前を向いて、走り続けて。
私にいくつもの勝利をくれた。私と一緒に走ってくれた。
他の誰でもない、"キングヘイロー"と向き合ってくれた。
そんなあなたが、いつしか一流と呼ばれるようになって。
自分が認められたみたいに、嬉しかった。
でも、どこか寂しかった。
私もデザイナーとして独立して、お店を持って、だけど。
トレーナーが遠くに行ってしまうことが、少しだけ、怖くなってしまった。
一流になったあなたへ、なんて声を掛ければいいのか、分からなくなってしまったの。
もう、私には手が届かないんだと、思ってしまった。
だけど。
「私ったら、本当におばかよね。届かないかもしれない、なんて悩んでしまうなんて」
らしくない。
そんなの、キングヘイローらしくない。
勝てないかもしれない、なんて。ターフにいた頃は思ったこともなかった。
私がどうしたいかなんて、最初から決まっていたのにね。
「私、決めたの。私も海外に挑戦するわ」
日本だけじゃない。世界中に、私とあなたの名前を知らしめる。
私は勝負服デザイナーとして。あなたはトレーナーとして。
でも、たまにはトレーナー業だって、手伝ってあげてもいいわ。
「だから、その。あなたに思っていることを言う権利をあげる」
「わがままお嬢様は、相変わらずだね」
あら、忘れたの? 片時も忘れたことなんてないよ。
笑い合って、トレーナーが私を見つめる。
「君とまた、栄光の舞台へ挑みたい」
「あの日掴めなかった夢も。手に入らなかった栄光も。また追いかけよう」
その先の言葉を、彼は言いよどむ。
それでも、彼は私を見てくれている。
「だから、これから先は。キングにも、俺と同じ道を走ってほしい。どこまでも、ずっと先まで」
私達は私達らしく、私達だけの道を走り続ける。これまでも。この先も。
「これからもよろしくね、あなた」
首を下げた彼に、私は少しだけ背伸びをした。