ダンジョンに訳ありデビルハンターがいるのは間違っているだろうか 作:EGO
リュー・リオンの朝は早い。
空から月が消え、けれど太陽は登らない
身の丈にも迫る木刀──正邪の決戦を共に乗り越えた愛刀を振るい、草笛にも、鳥の囀りにも似た高い風切り音を響かせる。
上段から下段へ、かと思えば刃が翻って袈裟懸けへ。
そこで動きは止まらない。続けざまに刃が走り、風が鳴く。
華奢な体に反してその動きは鋭く、速い。
もし敵対者がこの姿を見れば裸足で逃げ出すだろう剣技を披露しながら、彼女は不満そうに目を細める。
(これでは足りない)
木刀を握る手を見下ろしながら、胸中で呟く。
つい昨日グレイを護るとまで大見得を切ったが、今の自分では力不足なのは明白。
「精進せねばなりませんね」
けれど焦りはない。誰もがすぐに強くはなれず、毎日の積み重ねが【恩恵】によってこの身に刻まれる。
今の行動が未来の自分や仲間を救うことになる。そして彼も。
リューは深く息を吐き、再び構えを取った。
時間は多いが有限でもある。
正邪の決戦と同規模かそれ以上の戦いがあるかはわからないが、確実に『
その時になって『足手纏い』だと言われて留守番はごめんだ。
焦りはない。けれど急いではいる。そんな妙な気持ちを落ち着けるように、彼女は木刀を走らせた。
斬閃が走り、金の髪が揺れる。
上段から下段。袈裟、横一文字。淀みなく放たれる剣撃が加速していき、風切り音がより高くなっていく。
やがて剣のみならず体捌きさえも加わり、その動きは激しさを増していった。
彼女の想像の内で行われているのはグレイとの共闘。相手は悪魔とモンスター。
彼の背中を──彼の命を預かる場面を想定し、想像など軽く越えていく彼の動きをそれでも思い描き、追従せんと華奢な肉体を躍動させる。
短時間の内に行われる激しい運動に体が熱を持ち、肌寒い薄暗闇の中でも汗が滲んでくる。
頬を伝う汗をそのままに最後の締めを飾る渾身の一振りを放つ。
空気が唸る轟音を響かせ、彼女の剣舞は終わりを告げた。
「ふぅ……」
火照る体を冷ますように息を吐き、構えを解いた瞬間、頭に柔らかなタオルが被せられた。
視界が白い布に覆われ、一時的にゼロになる。
「申し訳ありません。起こしてしまいましたか?」
誰がそれを渡してくれたのか。それを確認するよりも早く謝罪を口にするリュー。
流石に熱を入れ過ぎたかと反省しながら頬や腕の汗を拭い、振り向くと、
「まだ日も出てねぇのに、元気だな」
グレイがいた。
いつもの
アストレアかアリーゼが来たのかと思っていた彼女は「グレイ!?」と思わず驚愕の声を上げ、対するグレイは「朝練か?」と寝ぼけ眼のまま微笑んだ。
表情こそ優し気だが、その視線は汗に濡れた彼女の体に向いている。
今のリューの恰好は動きやすさを重視した、袖なしの短衣にショートパンツ。
いつも付けている二の腕までを覆う長手袋も、太股までを覆うブーツも、肩を隠すケープもない。
「なんか新鮮だな」
朝ゆえか、四肢をそのまま晒している姿に率直な感想を口にするグレイ。
短衣に関しては汗で肌に貼り付き、四肢も汗に濡れ、言葉を選べば艶やかだ。
いつもは露出を出来るだけ減らし、覆面やケープで更に体を隠している彼女が、無防備なまでに肌を晒しているのは中々に乙なもの。
もう寝間着姿も見てはいるが、あれはあれ、これはこれだ。
彼の言葉と視線でようやく彼が何を思っているのか理解してのか、リューは羞恥に頬を染めながら「見るなぁ!!」と叫び、タオルをぶん投げた。
グレイはそれを避けようともせず、放たれたタオルが顔面を捉え、今度は彼の視界を塞いだ。
リューは訓練の疲労と羞恥に呼吸を乱す中、グレイはいきなりの事態に体を固めた。
視界がゼロだからか。否である。目を潰されても平気で行動する男がこの程度では狼狽えない。
タオルを避けられなかったからか。それは割合は小さいながらもある。寝ぼけ半分の状態とはいえ、不意打ちでも何でもない攻撃を直撃は流石に笑えない。
だが、そうではない。大事なことはそれではないのだ。グレイが動けなくなった最大の原因は、はっきり言えばリューにある。
彼女が投げたものが洗濯したてのタオルや雑巾であれば、彼はすぐに剝がしてちょっと怒鳴るか洗い直しに向かう程度だっただろう。
しかし、今回彼女が投げたのはリューの汗を拭ったタオルである。拭いたてほやほやのタオルである。
下手な冒険者どころか第一級冒険者以上の五感を持つグレイの触覚と嗅覚は、それはもうしっかりと感じていた。
布越しに感じる湿り気と、ほんのりと香る森を思わせる心地よい香りを。
自分でも愚かに思うほど一途に想う相手の匂いが脳に直接叩き込まれ、彼の思考は完全に止まってしまったのである。
「……グレイ?」
羞恥に悶えていたリューもようやく異変に気づき、動かない彼に声をかける。
だが返事がない。屍ではないが、気絶を疑う程度には無反応だ。
「あ、あの……?」
あまりに反応がないので、恐る恐る声をかけてみれば、彼はゆっくりとタオルを剝がしてそれをリューに投げ返す。
「……次からは投げるものも考えろよ」
「何を──」
照れながら放った彼の発言の意図が読めず、首を傾げるリュー。
投げられたタオルを受け取り、僅かに感じる湿り気と、それが何で濡れたのか、そんな状態のものを誰に投げつけたのかを把握した瞬間、もう何度目かもわからない頭部の爆発が起きた。
プルプルと震えながらグレイとタオルを交互に見やり、ちょっと涙目になる。
「え、あ、その、あ、え……?」
彼女は悲鳴をあげるわけでも、その場を逃げ出すわけでもなく、意味を持たない音だけを発する機械となってしまう。
そんな哀れな彼女の姿にグレイは困り顔になりながら頭を掻くと「まあ、その、なんだ……」と言葉に迷いながら告げた。
「いい匂いだったぞ」
ぐっ!と親指を立て、どうにでもなれと開き直りながらそう告げた瞬間、全てが限界を迎えたリューは再び頭部を爆発させ、意識を喪失させた。
倒れる彼女を咄嗟に抱き止めたグレイは、顔を赤くしながら目を回している彼女を見下ろし、困り顔を浮かべた。
「人って、こんな事でも気絶するんだな……」
ぶん殴られるかと思ったとぼやきながら、そっと彼女の額に貼り付いた髪を退かしてやる。
こうして考えてみると、自分はこの世界の人類──エルフ含めての亜人含めてのこと──をよく知らないと今更ながらに思う。
そこら辺の知識もリューに教えて貰う手筈なのだが、大丈夫なのだろうか。
グレイは一抹の不安にため息を漏らし、彼女を運ぼうと横抱きにして持ち上げるのだった。
リューからグレイへの第一印象は『不審者』以外になかった。
空から降ってきた謎の戦士。
世界の常識の悉くを知らない無知。
そして相手が誰であろうが不遜な態度をとる無礼さ。
しまいには喧嘩両成敗だと言わんばかりに輝夜の頭にぶつけられたこともしばしば。
助けたからには対価を払えと、自分では口が裂けても言えないようなことを平然と口にする。
はっきり言って、グレイへの印象はあまり好くはなかった。
だがその言動の裏にある彼の『正義』を知った。
『人は誰だって罪を犯す。くそほどくだらない事から、自分を含めて大勢の人生を棒に振るような最悪なものまで』
『そんな奴らを、正義の名の下に断罪するのは確かに正義だ。多くの人たちも、それを望む筈だ』
『──だが、それでも、たまには赦すことも大事だと思うぜ?』
相手を赦し、次の機会を与える優しさを。
『スパーダの魂を師匠が継いだように俺は師匠の魂を継ぐ。力だけじゃない高潔な魂を、スパーダが掲げ、巡ってきた「正義」を俺は継いでいく!』
『ここには守りたい人が大勢いる!やらなきゃならねえ事がたくさんある!』
『でもこれじゃ足りねえ!力を、もっと力を……!俺に、誰かを護るための力を……ッ!!!』
悪を滅し、無辜の人々を護る強さを。彼が秘めた魂の高潔さを。
『悪魔は家族を失ったくらいで泣かないさ』
『この結末があいつの望んだものだったとしても、それ以外のものを掴んでやりたかった……』
例え敵だったとしても、家族の死に涙を流す心の純潔を。
『お前のそういうとこ、好きだぞ』
歯が浮いてしまうような言葉を平然と告げてくる純心を。
傍から見ても苛ついてくる言動をしたかと思えば、神や英雄然とした達観した言動をし始め、今度は子供のように泣いたり笑ったり。
『不審者』はやがて背中を預けるに足る『戦友』となり、そして淡い恋慕を抱く『
だが、いいや、だからこそ言わせてほしい。
────もう少し手心が欲しい。身が持たない。
「──はっ!」
リューは目を覚ました。なんかもう思い出すだけでも恥ずかしくなるような夢を見ていた気がするが、夢のことなどすぐに曖昧になって消えてしまう。
「やっと起きたな」
というか今消えた。
寝転ぶ彼女をグレイが見下ろし、笑っている。
彼と一緒に見える空は明るくなり、もう日が出ていることを教えてくれる。
それだけならいい。いやよくはないがとりあえずそれはいい。
なんか近いのだ。視界にはグレイの上半身しか見えないし、ついでに後頭部に筋肉質な何かを感じる。
嫌な予感がした。かといって急いで離れるという気分にはなれなかった。
リューは右を見た。見慣れた
左を見た。黒の
弾かれるように視線を上に戻す。相変わらず笑っているグレイがそこにいた。
「あ、あの?こ、このっ、状況は……!?」
声を上擦らせ、万に一つの可能性に懸けて問いかける。
その問いに、グレイは悪びれた様子を見せずに笑った。
「膝枕だ。お前にされてばかりだからな、今度は俺の番だ」
その言葉に、リューはやっぱりと胸中で悲鳴を上げた。
じゃあ何か。自分はグレイの膝に頭を乗せて、吞気に気絶していたということなのか。
それを理解した瞬間、リューの顔が朱色に染まる。長耳も先端までが赤くなり、湯気が噴き出す。
だがグレイは気にしない。むしろ愛おしそうにそっと彼女の頬を撫でた。
声も出せず、羞恥に身を震わせる彼女をグレイはただ楽しそうに笑いながら見下ろす。
「いいもんだな」
「な、何がですか!?」
そしてしみじみと呟いた言葉にリューが嚙みつくと、彼は「何ってそりゃ」とただじっと彼女の顔を覗き込みながら言う。
「お前の寝顔も、今の顔も、全部独り占めにできるからな」
真っ直ぐと、ただ心からの想いとちょっとの独占欲を滲ませながらそう告げた。
「俺も気に入った」とまだまだやる気のグレイだが、される側のリューは強烈な羞恥と彼からの重めの想いを受け、
「はぅ──っ!」
またその意識を手放した。
またかよと半眼になるグレイだが、小さく息を吐くと彼女の髪を撫でた。
あうあうと熱に魘されていた彼女の表情も少しずつ落ち着いていき、また規則正しい寝息をたてはじめる。
グレイは彼女の寝顔を見つめながら微笑み、明るくなってきた空を見上げた。
そしてそれを見ていた人物達がいた。勿論主神を含めた【アストレア・ファミリア】の面々だ。
ある者は窓から、ある者は扉の影から、二人のやり取りに聞き耳を立てるのだが、
「流石に遠いわ。なんて言ったのか全然聞こえない」
「あ〜。知らない方がいいんじゃね?」
耳を澄ませながら呻くアリーゼと、二人の会話を読唇術である程度把握したライラがため息を吐く。
何というか、この情報は下手に教えるとリューの尊厳がなくなる気がするのだ。既にあってないものだというのに。
「そろそろご飯にしたいし、リューちゃん回収しないと」
「ほっといたらずっとやってそうだしな」
マリューが時計を確認しながら言うと、ネーゼが呆れながら同意を示す。
問題は、あの空間に突っ込みたくないことだ。あんな二人だけの時間を堪能している──正確にはグレイだけがいい空気を吸っている所に首を突っ込みたくはない。
どうすると少女達が目配せし、責任を押し付け合う中で女神が仕方ないと小さく息を吐いた。
リューとグレイの個人的で密接な関係は見守っていきたいが、締める時は締めなければならない。
庭に出たアストレアが手を叩く。
グレイが驚きながらも彼女に目を向け、リューが弾かれるように起き上がった。
グレイは「おはようさん」と気軽に挨拶するのだが、問題はリューだ。
敬愛する女神に、自分の情けない姿を見せてしまった。しかもグレイの膝に頭を乗せて、気絶した、あまりにもあまりな姿を。
「~~~~~~ッッッ!!??」
彼女は声にならない悲鳴をあげ、彼女の死角でグレイは苦笑を漏らすのだった。
相変わらずリューの食事が遅いこと以外は何事もなく朝食は終わり、居候の身だからと請け負った皿洗いを終えたグレイは、
天井まで届く本棚が壁に沿って並び、清掃も行き届いているのか本には埃一つもない。
グレイが想像した書斎と言うよりも小洒落た本屋や小さな図書館のような広い部屋を見渡し、目についた本を取り出すとパラパラと
この世界の
途中の挿絵が意味するものは何となく分かる。湖で妖精に出会った騎士が、すったもんだの末に妖精の腕の中で眠りについている。
何が起きたのかはわからないが、おそらく騎士の死で幕を降ろす悲愛の物語なのだろう。
「『護人ベリアス』。我々エルフに尊ばれる英雄の物語です」
本を睨んでいたグレイの背中に、なにやら本を抱えたリューが声を掛ける。
「エルフに尊ばれる、ね」と本を閉じながら呟いた彼だが、その声はどこか不満げだ。
「どうかしましたか?」
「いいや、別に」
首を傾げるリューから彼女が抱える本を半ば奪う形で運搬役を変わったグレイは、書斎の片隅にある机へと足を向けた。
だが不意に足を止めると、ため息混じりに言う。
「俺は誰かを遺して逝くつもりはねえ。護るべきものを護って俺も生きて帰る」
それは遺された側に立たされた彼なりの覚悟だった。
大切な人のために命を懸けるのは何も間違ってはいない。だが、それでも遺された者には少なからず傷を残すことになる。
愛に殉じることを否定しないが、愛した人を泣かせては意味がない。
ベリアスなる英雄がどんな人物だったのかは知らないが、最後の最後で死んでしまったのはいただけない。
愛する人がいるのならちゃんと彼女を抱いてやれ。そして登場人物が、書き手が、そして読み手が、皆が笑顔で終われる物語を遺してみせろ。
先程滲ませた不満はそれだったのだろう。彼の亡骸を抱く妖精が何を思ったのか、最期に彼女を泣かせてしまった男は何を思ったのか、思わず考えてしまったのだ。
「私は──」
そんな彼の背中にリューが声を掛け、振り向いた彼に笑顔を向けた。
「湖の妖精にはなりません。大切な人に守られるだけの妖精には、決して」
昨日言ったはずですよと笑う彼女に追い越され、ついでに持っていた本も取り返されたグレイは立ち尽くす。
彼女の笑顔に思考を焼かれ、照れたように紅潮した頬を誤魔化すように顔を背ける。
その間に彼女は机に本を置き、席に着いていた。
金の髪の隙間から赤くなった耳が覗いているが、グレイはそれにも気づかず彼女の隣に座った。
「それで、そんな強気な先生は何を教えてくれるんです?」
照れ隠しなのか、机に頬杖をつきながらおちゃらけた様子でリューに問いかける。
その問いかけにため息を吐いたリューは、積まれた本から『今日から始める
「まずは基本的な言語を学んでもらいます。目標は、
「了解。そんじゃ、指導頼むぜ、先生」
「……先生は止めてください」
「へいへい。早速始めようぜ、リュー」
こうして始まるのは勉強会。
講師はリュー・リオン。今回はいないがたまにアストレアも参加する予定。
なお教師などしたことがないリューの教育方法はとても
「ではこの頁の文を写生してください。文字の形を、その意味を頭に入れながらです」
覚えるまで反復する。それだけだった。
リューとグレイの勉強会が始まった頃、アリーゼ達は朝の見回りのために
「さあ!いつも通り見回りの時間よ!最近は平和だけど、何が起きるかはわからない!警戒は怠らないで!」
団長として団員達に檄を飛ばし、彼女らもそれに応じる。
リューが欠けていることを除けば
「アストレア様、行ってきます!」
「ええ。皆、気を付けてね」
女神と出発の挨拶を交わし、少女達が
「おっと。グッドタイミングだったかな」
そんな事を口にする男神がそこにいた。
橙黄色の髪と瞳を持つ、一見軟派な雰囲気を醸し出す優男。
「ヘルメス。来るとは思っていたけれど、早かったわね」
「ああ。善は急げって言うだろう」
アストレアが突然の来客も予想通りだと言わんばかりの態度をとると、ヘルメスは帽子を押さえて肩を竦めた。
彼の後ろに控えるアスフィも『だとしても急ぎ過ぎです』と言わんばかりに、連日の労働でくっきりと刻まれた隈をそのままに主神を睨む。
そんな彼女に同情しつつも、輝夜は「それで、何か御用ですか男神様」と猫を被りながら問いかける。
「別に悪巧みしに来たわけでも、協力を依頼しに来たわけでもないさ。グレイ君、いる?」
どこか警戒するような彼女の言葉に真実で返しつつ、彼にとっての本題をあっさりと口にする。
同時にだよなとアストレアと彼女の眷属達の心の声が一致する。
怖いもの見たさなのか、あるいは他に事情があるのかは知らないが、ヘルメスは何かとグレイに肩入れしている。彼の帰還を知れば真っ先に接触してくるとは読んでいたが、まさか
問題は
少女達が言葉に迷う中、その視線がアスフィへと集中した。
ヘルメスが何かして即刻折檻してくれるだろう存在に、全てを懸ける。
「今は書斎にいるわ。アリーゼ達は今から出るから、呼んでくるわね」
「それは助かる。挨拶したらすぐに帰るから、安心してくれ」
というかグレイ君がいる場所で問題は起こさないよと、主神を残していくことになるアリーゼ達に一応のフォローを入れるヘルメス。
後ろのアスフィは黙って拳を握り、何かあればぶん殴りますと無言の宣誓をアリーゼ達に送った。
なら、とりあえずいいかと今度こそアリーゼ達は出発し、アストレアの先導でヘルメスとアスフィが屋敷に入り、応接室へと通された。
アスフィは行儀よく
「ヘルメス様……」
「仕方ないだろう。滅多に入れない【アストレア・ファミリア】の
神とて他の派閥の
グレイに会うという建前があってようやく入れた乙女の園に、ヘルメスも僅かばかりに興奮しているようだった。
アスフィがため息を吐き、途端に感じた頭痛を堪えるように額に手をやると、応接室の扉が開く。
部屋に入ってきたのはアストレアとリュー。遅れて腰に妙な剣を帯びたグレイが入ってくる。
ヘルメスは窓の前からひらひらと手を振り、グレイに言葉を投げた。
「やあ、グレイ君。元気そうでなによりだよ」
「そっちもな。アスフィは、なんか疲れてそうだが……」
「貴方がいなくなってから大変だったんですよ。悪魔の死体の処理とか、素材を活用方法の実験とかに付き合わされて……」
「それは災難だったな」
アスフィの愚痴を他人事のように受け流したグレイは、誰のせいでと睨んでくる彼女の視線を無視して「で、何の用だ」とヘルメスへと視線を戻す。
「ただの挨拶さ。帰還した英雄君にね」
「挨拶、ねぇ……」
そんな男神の言葉に怪訝な顔になったグレイは、けれどすぐに破顔した。
「まあ、お前がそう言うならそうなんだろうな」
神の考えなど見通せるはずがないとあっさりと思考を投げたグレイは、アスフィと対面する長椅子に腰を下ろした。
アストレアがその隣に座り、リューが万が一に備えて後ろに控える。
アスフィもいるので大丈夫だとは思うが、一応は主神の護衛でもあるのだ。形だけでも取っておく意味はある。
ヘルメスもアスフィの隣に座りそれぞれの立ち位置がはっきりすると、グレイがじっとヘルメスを見つめた。
先に言った通り男神が何を考えているかはわからない。だがこの男神がただ挨拶をしに来たわけがない。この神がそういう神だとというのは理解している。
そんな無言の圧力に屈したのか、あるいは沈黙に耐えかねたのか、ヘルメスが口を開く。
「参考程度に聞きたいんだけど、グレイ君ってこれからどうするなんだい?やっぱりアストレアの
男神が告げたのは問いかけだった。
腹の探り合いなどというまどろっこしいことはせず真正面から。
グレイという現状世界に一人しかいない『人類に味方する悪魔』が、今後どうするのかを単刀直入に。
「いや。店をやる」
故に悪魔も手短に。
だがその返答が予想外ではあったのか、「み、店?」とヘルメスは露骨に狼狽えた。
「民間人から
「それは、驚いたな……」
聞いてもいないのに説明してくれるグレイに、ヘルメスは顎に手をやりながら小さく唸る。
てっきり【アストレア・ファミリア】に籍を置き、正義の派閥として活動していくものと思っていたのだが。
「どっかの派閥に入るよりも身軽そうだからな。何かと自由にできそうだし、何かあっても全部俺の責任だし」
グレイは端的に便利屋をする動機を説明し、自分がオラリオにとっての異物であること強調する。
「ギルドには話を通してる」と肩を竦めて見せた彼に、ヘルメスは何かを思案する素振りを見せた。
帽子の鍔に隠した橙黄色の瞳が細くなり、これって好都合じゃねと内心で笑う。
「グレイ君。その店に一枚嚙んでもいいかい?」
「ヘルメス様!?」
主神の突然の言葉に驚くアスフィ。
アストレアとリューも怪訝な顔になる中、グレイは「話は聞いてやる」続きを促す。
「噛むと言ってもただの仲介役さ。俺達の派閥は都市外でも活動も活発でね。と言っても誰かに頼まれて物や人、時には情報なんかを運ばされる使いぱしりだけど……」
自分達の仕事を僅かに俯きながら自嘲すると、顔を上げた。
「そこでだ。オラリオにはいけないけど君の助けが欲しい
ヘルメスがそう言うと、グレイは僅かに思慮する素振りを見せた。
要はヘルメスが
「情報料に関してはまあその内容によるが、仲介料に関しては成功報酬の四割。まるっとお前にやる」
「四割?おいおい。まだ依頼の相場もわからないのに決めていいのかい?」
あまりにもヘルメスへの譲歩が目立つ提案に、ヘルメスの方が面をくらう。
最初に五割で吹っ掛けて三割くらいで落ち着かせようと思っていたのだが、向こうからちょうどいい数字を出してくれるとは。
あっけなく決まったなとヘルメスが彼との業務提携を決めようとした瞬間、
「代わりに依頼人から追加で仲介料を貰うのはなしだ。したら潰す」
淡々と、けれど明確な殺意がこもって声でそう告げられた。
何度も言うがグレイは悪魔だ。マルコシアス同様、神殺しに遠慮はない。
「忘れんなよ」と微笑む彼の背後に牙を剝き出しにした竜を幻視したヘルメスは首の後ろに冷たいものを感じながら「もちろん」と頷いた。
これは曲がりなりにも悪魔との『契約』。それを行う意味の重さを今さらになって痛感する。
横で主神が冷や汗を流す姿にアスフィは困惑し、リューとアストレアは勝手に話を進めたグレイにせめて相談してと言いたげに目線を送る。
「ま、この話はここまでだな」
そんな二人の視線から逃れるように腰に帯びていた剣をアスフィに差し出す。
「これは……」
鞘に納められたそれを両手で受け取ったアスフィは、柄に仕込まれた謎の機構や鍔周りに組み込まれた謎の装置。
見た目の割に軽いそれを切先から柄を含めて観察し、その特性をおおよそ把握する。
柄を捻れば剣は猛獣の如く唸り声をあげ、峰から小さな火花が散った。
「炎で剣を物理的に加速させて無理やりにでも相手を斬る。何をどうすればこんな武器を思いつくんですか……!?」
いっそ狂気さえも感じる作り手の執念に唸り、新しい玩具を与えられた子供のように目を輝かせるアスフィ。
「こっちの素材とか、魔力で加速させられるようにできねぇかな?必要なら手伝うし、報酬なら出すからよ」
グレイは愉快そうに笑いながらそう頼み、アスフィも「やってみます!」と即答。
最近解剖だったり修理だったりで新作の開発ができていなかった彼女に、その剣は──グレイが持ち帰った『機構剣デュランダル』は、少々刺激が強かったらしい。
ヘルメスはそんな眷属の姿に苦笑しながら、いい息抜きになるかと無言の許可を出す。
「それじゃ、そろそろお暇しようか」
「……っ!はい」
だがいつまでもはしゃいではいられないと咳払いし、アスフィに声をかけるヘルメス。
彼女はハッとして剣を鞘に戻すと、それを大事そうに抱えながら頷いた。
「アンドロメダ。今度はゆっくり話しましょう」
「ええ。お互い忙しくなるそうですけどね……」
リューの挨拶に、アスフィは彼女とグレイ、そして抱えた剣を見ながら言う。
リューはグレイ関係で、アスフィはこの剣やその他雑務で忙殺されることだろう。そんな予見を告げる。
彼女が自分とグレイを見る視線に気づいたのだろう。リューは「アンドロメダ!?」と頬を紅潮させながら悲鳴を上げた。
そんなわかりやすい反応に、悪戯成功だと言わんばかりに微笑するアスフィ。
その横でヘルメスは「また来るよ」とグレイとアストレアに別れの挨拶を投げた。
「ああ。またな」
「次に来る時は事前に言っておいて欲しいのだけれど」
彼の言葉にグレイが笑顔で手を振り、アストレアは少々わざとらしいため息を吐きながら告げた。
「ああ。次があればそうするよ。君達とは仲良くしていきたいからね」
【ヘルメス・ファミリア】は『台頭を好まず中立を気取る』ことを方針とする派閥でもある。
ロキやフレイヤの大派閥と敵対しないのは当然として、都市中から慕われる
というか、【アストレア・ファミリア】との敵対はグレイとの敵対と
ヘルメスが立ち上がり、応接室を出ていこうとする。
すると、チリンチリンと呼び鈴が鳴った。
「……客の予定があるなら先に言っておいて欲しいんだが?」
アリーゼ達が帰ってくるにはあまりにも早い。
また客人かとアストレアに目を向けると、女神も連続の来客に驚いていた。
「どうせ俺目当てだろ」と嘆息混じりにグレイが席を立ち、「流石に彼だけに対応させる訳には」とリューが。そしてアストレアと、帰り支度を整えたヘルメス達もその後ろに続く。
「はいはい。どちらさん?」
そのまま玄関を開け、彼の視界に入り込んだのは2
戦意に満ちた錆色の瞳がグレイを射抜き、頭に生えた猪の耳がピクリと揺れる。
「オッタル!?」
「帰ってきたようだな。グレイ」
都市最強の冒険者にして【フレイヤ・ファミリア】団長、オッタル。
突然の再会に驚くグレイは「で、何の用だ」とすぐさま意識を切り替えた。
瞳に宿る戦意に悪魔としての本能がすぐさま臨戦態勢となり、それを人としての理性で閉じ込めて抑え込む。
だがオッタルもそれを見透かしているのだろう。彼自身も戦意を爆発させようとするが、小さく息を吐いて己を律した。
彼の戦意が落ち着けばグレイも落ち着く。開戦間際の睨み合いが突然終わり、残るのは沈黙のみ。
そして遅れて到着したリューとアストレア、そしてヘルメスとアスフィすらもオッタルの来訪に驚愕する。
だが彼らが視線を向けるのは、オッタルの影から顔を出している女神の方だった。
紺色のローブを纏い顔を隠しているが、フードの下から覗く銀の瞳がグレイを見つめていた。
「……訊かないと駄目か?」
その視線を意図して無視していたグレイがオッタルに問うと、彼はそっとその場を退き、主神の背後に控えた。
「我が主神、フレイヤ様だ」
最強の眷属の言葉に合わせ、女神がフードを外す。そこには『美』があった。
下界に彼女の美しさを形容する言葉は存在せず、『美』という言葉すら彼女の前には跪く。
新雪を思わせるきめ細やかな白皙の肌に、月光を思わせる銀の髪。
体を隠すローブのせいで体つきはわからないが、おそらく極上という言葉すらも霞む肢体がそこにあるに違いない。
ヘルメスが驚きながらもだらしなく鼻の下を伸ばし、アスフィもその女神の美貌に魅了されて表情を蕩けさせ、アストレアは少し困り顔。リューは突然すぎる女神の来訪に困惑していた。
「初めまして、ね」
女神フレイヤ。オッタルを筆頭とする【フレイヤ・ファミリア】の主神にして、美の女神。
声すらも美しいソプラノの音色にヘルメスが『ありがたや~』と言わんばかりにひれ伏す中、グレイはこてんと小首を傾げた。
「初めまして?」
彼女が纏う気配というか、雰囲気というか、それをつい最近感じたことのあるグレイは疑問符を浮かべる。
どこかの酒場の看板娘が似たような雰囲気を纏っていたような、また違う気配を纏っていたような。
「ええ。初めましてよ」
うんうんと唸るグレイに、フレイヤが念を押すようにそう告げた。
本人がそう言うのならそうなのだろうと、「ならいいか」と匙を投げる。
思考停止と言えば聞こえは最悪だが、面倒事を避ける為の行動だとすればこれが正解だろう。
「貴方からも挨拶するべきでは?」
「今さらじゃねぇか?」
リューの小突きをひらりと躱し、彼女の言葉に言い返す。
ハベルの最上階からたまに見てきていた相手に、今さら何を名乗れと言うのか。もう名乗らなくとも相手はこちらのなまえも顔も認識しているというのに。
「それでも神への礼儀というものがあるのです」
「礼儀ねぇ。人が話している最中に露骨に目を逸らすのはいいのか?」
リューのもっともな指摘に肩を竦め、彼女の照れ隠しを指摘するグレイ。
リューの顔が途端に赤くなり、吼えた。
「……っ!あ、貴方だってたまにするでしょう!?」
「それは、そうだけどよ……っ!」
そして彼女の反論にグレイもまたいつかの光景を──リューの「貴方を独りにはしない」発言を思い出し、思わず照れてしまう。
「ふふ。貴方の
「貴方にそう言われると、余計に誤解が広がりそうね」
「あら、誤解って?」
「まだそこまでの関係じゃないのよ。いい加減、進めばいいのに」
フレイヤが
フレイヤにとっての『オーズ』は基本的に伴侶という意味だ。他の使い方をしたとしても、かなり身近な存在を意味する。
二人はまだ籍を入れてはいない。もっと言えば恋人関係にすら進展したのかすら怪しい。
やはり何かしらの発破は必要なのだろうか。どうすればいいのかがちょっとわからないが。
「とにかく入って。話を聞くわ」
やいのやいのと騒ぐグレイとリューを横目に、二人の関係よりもフレイヤへの対応を優先したアストレアは、フレイヤとオッタルを歓迎する。
アストレアの先導で屋敷に入るフレイヤは、それを合図に口論をやめた二人に流し目を送る。
グレイは街で綺麗な人を見かけた程度の軽い反応を示し、リューの反応も似たようなもの。
微笑むだけで万物を魅了し、その気になれば万軍はおろか国すらも掌握する彼女の『美』を前にしても、二人の反応はあまりにも薄い。
本来ならヘルメスのように鼻の下を伸ばすか、アスフィのように恍惚として動きを止めるなどの露骨な反応があるものだが。
「本当、面白い子達ね」
フレイヤはそんな二人をそう評価し、優雅な足取りで屋敷へと踏み入るのだった。
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