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第一章:月曜日
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身体中に毒がまわった。恋の毒だった。先生のことが好きだと気が付いたとき、私の中にあったものは、不確定な恋への心の弾みや、胸のときめきではなく、ただ、静かな諦めだった。
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そのコンビニの喫煙所に先生を見かけたのは、卒業を来週に控えた月曜日の夜のことだった。彼は私に気が付くと、右手に持ったタバコの火を灰皿に擦り付けて消して捨てた。それから喫煙所を後にして、小さく右手を振りながら私に近寄った。
「ノア」
「こんばんは、先生。タバコ、吸うんですね」
「ああ、まあ」と彼はバツが悪そうに言った。「本当にたまにね」
彼はあまりそのことに触れて欲しくないようで、右手の人差し指を唇の前に立てた。
「心配しなくても、ユウカちゃんに言ったりしませんよ」
「助かるよ」
彼はそう言うと左手に持っていた缶コーヒーを右手に持ち変えて口元に運んだ。
「ノアは散歩?」
「はい」
セミナーの引継ぎ作業もそのほとんどが終わり、有り体に言えば暇になってしまった私は、持て余した時間に散歩をするのが日課になっていた。
「ノアもコーヒー飲む?」と彼が口元から缶を離しながら言った。「少し早いけど、卒業祝いってことで」
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八時を回った公園には誰もいなかった。彼から受け取ったコーヒーを持って、私はその古びたベンチに腰掛けた。
「なんか、あっという間だったね」
彼も横に腰掛けながら言った。
「私達の学生時代が、ですか?」
目の前には街灯だけがあった。
「そう。私はまだ先生を続けるけど、生徒は入れ替わっていく」
「そうですね」
シャーレの当番に呼ばれるのは、いずれかの学園に所属している生徒に限られる。卒業してしまえば、私達がシャーレに呼ばれることは無くなる。
「ノアにはお世話になったね。改めて、ありがとう」
「いえ、私の方こそ、色々と学ばせて頂きました。先生、ありがとうございました」
初めてシャーレに呼ばれた日から、当番の仕事の日には彼を観察し、脳に記録することが習慣になっていた。大人とはどのような立ち振る舞いをしているのだろうか?
見つめていると、彼は困ったように頭を掻く。また変化に敏く、私のこともよく見ていた。仕事を嫌っているようで、休憩時間中もキヴォトスのことを考えている。
彼のことを細かく観察していく内に、私はよく納得した。ユウカちゃんは、彼のこういう部分に惹かれているのだ、と。彼には支えてあげたくなるような弱さと、支えられてしまいたい芯の強さがあった。心を預けてしまいたくなるような、毒牙のような魅力だった。
ある時から──具体的にはユウカちゃんがシャーレの当番に頻繁に呼ばれるようになった時期から──ユウカちゃんの表情が明るくなっていった。仕事は増えているはずなのに、忙しい時間も幸せなようだった。
よく彼女から彼の愚痴を聞かされていたが、とても愚痴をこぼしているとは思えないほど、話している間は笑顔が絶えなかった。(むしろ惚気話をしているようだった)
そんな様子だったから、彼女が恋をしている、という事に気が付くのは簡単だった。しかしどうにも彼女は素直になれない性分なようで、彼へ好意を率直に伝えるようなことはしなかった。じれったく、しかし彼女の反応が面白く愛おしく、私は何度もからかってその反応を楽しんでいた。
私も彼に惹かれている、と気が付いたのはそれから程なくしてのことだった。それは花壇に撒かれた種がいずれ芽吹くのと同じように、仕方のないことだった。目を閉じても、耳を塞いでも、恋が身体を浸食していくのは止まらなかった。彼のことがすっかり好きになってしまってから、しかし私はその恋を諦めることを決めた。ひたむきに愛し続ける早瀬ユウカという親友の恋路の邪魔をしたくなかったのだ。私はそこで、自分の恋をハサミで切った。
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「そろそろ帰ろうか」と彼が言った。
腕時計を見やると、八時三十四分を指していた。
「はい」と言って私は立ち上がった。「それでは、また」
「うん、卒業してもいつでもおいで」
もしかしたら、こうして生徒と先生として会うのは最後になるかもしれなかった。街灯の灯りの下で、彼はシャーレのオフィスビルの方へ、私はミレニアム自治区の方へと歩いて行った。D.U.は夜も忙しく車が往来していて、私は道沿いに歩いて帰った。
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第二章:火曜日
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先生と会った夜から数時間後の、火曜日の朝のことだった。私は残したセミナーの引継ぎ作業をするために登校していた。私の他の三年生は、そのほとんどがもう登校の必要も無いため、ミレニアムはいつもよりずっとがらんとしていた。
「ノア、来てたのね」
セミナーの扉が開かれると、ユウカちゃんが部屋の中に入ってきた。
「おはようございます、ユウカちゃん。まだ引継ぎの作業が残ってますから。ユウカちゃんもですか?」
「そんな所。後任が後任だから、変な事できないように形式を一新してるのよ」と彼女は心底面倒、といった口ぶりで言った。
「ふふ、頑張って下さい」
キーボードが沈む音や、ペンが紙の上を走る音だけが続いた。私としても、雑談を交わしながら作業をするような余裕はなく、それは彼女も同じようだった。そうしてしばらく時間が流れた後、私達はほぼ同時に作業を終えた。
「お疲れ様です、ユウカちゃん」と私はコーヒーを差し出しながら言った。
「ノアもお疲れ様。もうやりたくないわね……」
「でも、ユウカちゃんはシャーレの業務の引継ぎもありますよね?」と私は聞いた。
他の生徒に比べて、先生の支出の管理まで任されるほどシャーレの業務が多かった彼女は、そのいくつかの引継ぎをしなければならなかった。明日、彼女が最後の当番でそれを終える、という予定を聞かされていた。
「そうね……はぁ」
マウスの方に目線を逸らしながらため息をつく彼女の声色は、どこか嬉しそうに聞こえた。
「ユウカちゃん、この後ご飯食べに行きませんか?」
「いいわね。最近セミナーの仕事ばっかりだったし」
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駅前のカフェは、平日の昼間ということもあってあまり人はいなかった。濃いコーヒーの匂いのする店内で、私達は端の方の席に腰を下ろした。
「ユウカちゃん、三年間ありがとうございました」
私は目の前に座る彼女の目を真っ直ぐに見て、率直に伝えた。
「こちらこそ、ありがとう」と彼女も言った。
振り返れば始まりが見えないような長い時間だったようにも、一瞬で過ぎ去った時間だったようにも思えた。入学してからの思い出話に花を咲かせていると、話は際限なく広がっていき、何時間でも話せてしまいそうだった。
「そういえばユウカちゃん」と私は会話をどこかで切って、彼女を食事に誘った理由でもある質問をした。「先生には告白するんですか?」
彼女はアイスティーのストローを咥えたまま、しばらく押し黙ってしまった。それから少しずつ顔が赤くなった。
「の、ノア?! 何言ってるの?」
「あら」と私は笑顔を浮かべて見せる。「ユウカちゃんが長年の恋に決着をつけるのか、私は気になっているんですよ」
「長年の恋って……私が先生のことをす、好きって、なんで」彼女は狼狽した様子で、何度か意味も無く目線を動かしていた。
「気づいていないと思っていましたか?」
私は彼女の瞳の奥をじっと見つめた。サファイアのような綺麗なその目は、宙を泳いでいた。「それとも分かりませんか? ユウカちゃんは、恋をしているんですよ」
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「いつから気づいてたの?」
「さあ、いつからでしょう」
「はあ、もういいわよ。それで、告白のことよね」
「はい。予定はありますか?」
「……明日」と彼女はストローを咥えたまま小さく答えた。
ある程度予想していた答えだったから、特に驚きもしなかった。
「最後のシャーレの当番で気持ちを伝える、素敵だと思いますよ」と私は言った。
「正直、ずっと迷ってたのよね。先生のことが好きな子なんて、沢山いる訳で」
「応援していますよ」
それは間違いなく本心からの、彼女へのエールだった。近くで彼女を見てきた私は、彼女がどれだけ一途に先生を想っていたかを知っている。その美しい想いが報われて欲しいと、切に願っていた。
そして同時に、おそらく報われるであろうことも予感していた。彼女が彼を想うのと同様、彼も彼女を想っていることは、ずっと見ていた私には分かっていた。お互いがもっと素直になれば、もっと早く結ばれたパートナーだったはずなのだ。そしてもしそうであれば、こんなに私が苦しむことは無かったのだ。
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第三章:水曜日
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良く晴れた水曜日だった。春の訪れを予感させるような穏やかな風に、白い絵の具をそのまま塗ったような雲が流されていた。告白するには良い日だった。私は、今頃彼女が想いを伝え、切なる祈りが実ることを思い描いていた。
自分の椅子に上着を掛けて、私は最後の作業に取り掛かる。私の机も、向かいの彼女の机にも物がほとんど無くなっていて、段々とこの部屋から私達は忘れられていくような気分だった。三年間のセミナーの仕事は、今日を持って完全に引き継がれる。確かな寂しさがあった。
書類が片付いてきた所で、扉が開いた。
「ノア先輩じゃないですか」
「コユキちゃん」
黒崎コユキは小さな歩幅で部屋に入り、何かを探している様子だった。
「探し物ですか?」
「はい、えーっと。あ」
彼女は机の引き出しからペンを見つけると、ポケットに入れた。どうやら探していたのはその赤いペンのようだった。
「今日はノア先輩一人だけですか?」
「はい。ユウカちゃんはシャーレの方のお仕事がありますから」
「今頃告白でもしてるんですかね」
呟くように言った彼女の一言は、私の予想外のものだった。コユキちゃんがユウカちゃんの想いに気づいているとは思わなかったのだ。
「気づいていたんですね、コユキちゃんも」
「ええ、まぁ。ていうか見てれば普通分かりません?」と彼女が言った。
確かにユウカちゃんは言動に顕著に感情が現れる人だ。交流がある人ならば、その様子から推察するのは難しくない。計算外だったのは、コユキちゃんがそれほど他人を見ていることだった。
「コユキちゃんも、実はよく見てるんですね」
「ノア先輩はいいんですか?」
「えっ?」
「あー、いや。やっぱ何でもないです」
「コユキちゃん?」
「ひっ」と彼女は逃げ遅れた兎のような悲鳴を上げた。「いや、怒らないで聞いて欲しいんですけど」
「怒りませんよ」
「怒るときにしか言いませんよね?! やっぱり何でもないです!」
「本当に怒らないので、何て言おうとしていたのか、教えて下さい?」
「いや、ノア先輩も先生のこと好きじゃないんですか、って」
聞いて私は驚いた。誰かの前でその想いを悟られるような言動をした記憶は無かったのだ。
「どうしてそう思ったんですか?」
「いや」とコユキちゃんはおっかなびっくり、といった様子で答えた。「見てれば分かりますよ。恋すると目見えなくなるんですか?」
青天の霹靂だった。周りを見ていないものだというコユキちゃんへの認識は、どこかの地点から間違っていたようだった。
「そういう素振りを見せたつもりは無かったのですが、コユキちゃんは目敏いですね」
「何となく、ってだけですけど。で、良いんですか? ユウカ先輩に譲ったみたいな形で」
「今日のコユキちゃんは優しいですね」
「卒業する先輩への餞ってやつです。あの、いつもは優しくないみたいな言い方ですよね? まあ仕方ないとは思うんですけど!」と彼女は語尾を強めて言った。
「良いんですよ、私よりもユウカちゃんの方がずっと長く想っているんですから」と私は答えた。
「私にはよく分かんないんですけど」とコユキちゃんは言った。「どうせ譲るなら失恋覚悟で告白しても同じじゃないですか?」
「それは」と私は答えた。「先生を困らせてしまいますから」
「別に良くないですか? ユウカ先輩だけってズルですよ」
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第四章:木曜日
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空は濃い灰色の雲で覆われている、少し冷える木曜日の夜だった。私は月曜日に倣うように、夜の七時半に家を出た。
川沿いには等間隔で桜の木が植えられている。三月の頭では、まだ咲いているものは一本もなく、ただ夜風に枝が揺れているだけだった。
私は頭の中で、コユキちゃんが部屋を出ていく時に言い残した言葉を繰り返していた。
「どうせ譲るなら失恋覚悟で告白しても同じじゃないですか?」
ユウカちゃんの恋は実っただろうか。
そうだ、私はもう譲ったのだ。彼女はもう告白を終え、彼は答えを出した。それが二人の恋の唯一解であり、私が入る余地などは存在しない。
黒い川が流れるのを見ていた。
しかしもし仮に、と私は考えた。もしも予定にズレが生じ、まだ解が出ていないのであれば、コユキちゃんの言う通りにしてみてもいいのかもしれない。それが彼を困らせる、身勝手な行いだとしても。
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それを期待していた半面、そうでなければいいとも心のどこかでは思っていた。私がコンビニに着いた時、彼はその喫煙所で煙を吸っていた。
「こんばんは、ノア」
「こんばんは、先生」
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月曜日と同じように二人でコンビニに入り、彼に買ってもらった缶コーヒーを飲みながら、二人で公園のベンチに座った。彼はどこかくたびれた様子で、腰を下ろすと大きくため息をついた。
「お疲れですか? 先生」
「この時期は忙しくてね」と彼は笑顔を浮かべて言った。
「……沢山の生徒から告白されるから、でしょうか?」
その言葉を聞くと、彼は少し驚いたような素振りで私を見た後、落ち着いて正面に向き直った。
「まあ、ね」右手で頭を掻いていた。
「先生を好きな子は、一杯いるでしょうからね」
「ありがたい限りなんだけどね」
「誰かを選ぶんですか?」と私は聞いた。
彼は目の前の街灯を見つめたまま、答えないでいた。答えに迷っているようだった。
「正直、怖いんだ。……こんなこと生徒に言うべきじゃないね、忘れて」
「怖い」と私は聞き返した。
「愛するって、怖いよ」
「それはもしかして」と私は聞いた。口にしてしまってから、不用意な発言だと思った。「タバコを吸っていたことと関係ありますか?」
彼は何も言わなかった。
「すみません、不用意でした」
「別にいいよ」
「でも、誰かを愛することは素敵だと思いますよ」
「素敵」と彼は聞き返した。
「手探りでお互いの幸せを探していくのは、きっと幸せなことです」
「……ノアは大人だね」
「先生」と私は彼を見て言った。「好きです」
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夜風が足元を攫い、公園を通り抜けた。辺りはしんと静まり返って深く、夜の中だった。耳鳴りがしそうなほどうるさい静寂だ。
「えっ」
「意外でしたか?」私は悪戯な笑顔を繕って言った。「先生が思うよりずっと、皆先生のことが好きなんですよ」
「あはは、結構驚いてる」
「答えを聞かせてくれますか?」と私は聞いた。
彼は私の目を見たままで、じっと何かを探しているようだった。何度か唇を動かして答えを出そうとしているようだったが、実際に彼の口から声が出るまでには長い時間を要した。
「少し待って欲しいんだ。時間が必要で。卒業までには、絶対に答えるから」
「はい」と私は言った。「お待ちしています」
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第五章:金曜日
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その週の金曜日に、私はユウカちゃんに呼び出された。私は心のどこかで彼女を裏切ってしまったような気がして返信を迷ったが、いずれにせよ、私には彼女の恋物語を見届ける義務があると感じ、十二時丁度に約束を取り付けた。
時計の針が十二時を打つ五分前に、彼女はカフェに入ってきた。私が窓際の席から手を振っているのに気が付くと、彼女は料理を注文してからやってきて座った。
「こんにちは、ユウカちゃん」
「何か、毎日会ってたから調子狂うわね」
「そうですね」と私は答えた。
彼女が座った後で私も料理の注文をして、二人の料理を乗せたトレイが机に運ばれた。他愛のない雑談をしながら食事を終えてしまうと、話題は彼女が呼び出した理由に移っていった。
「告白、したのよ」
「頑張りましたね」と私は言った。「どうでしたか?」
「返事を待って欲しいって」
おおよその予想通り、彼女も私と同じ状況にいた。
「断られてはいない、という事ですね」
「返事を貰ってないだけよ」
「先生はきっと」と私は言った。「ユウカちゃんと他の誰かの間で迷っている、という訳ではないのでしょうね」
「どういうこと」と彼女は聞いた。
「私の予想に過ぎませんが、先生もユウカちゃんを一番に想っていますよ」
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「何でそんな」彼女は顔をりんごみたいに真っ赤にして言った。
「恋は盲目ですね、ユウカちゃん」
「ノア、けむに巻くような言い方はやめて。真剣に悩んでるのよ」
「私だって真剣にユウカちゃんの恋が成就することを願ってますよ」
「せ、先生も私のことが好きって、どうして」
「ふふ」と私は笑った。「見ていれば分かりますよ」
彼がユウカちゃんだけに向ける、愛しむような視線や言動を見ていれば、そんなことは自然に分かった。親友の恋が順調に根を下ろし葉を広げていくのを、私はずっと静かに眺めていたのだ。
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第六章:土曜日
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土曜日の夕方の空には、霞のような雲が薄く広がっていた。彼からのメッセージを受け取った私は、長い影を踏みながら、呼び出された公園に向かっていた。
とても不思議な感じのする風景だった。オレンジ色の夕焼けに当てられた街は、いつもよりも彩度を増しているような、例えるならば絵画の中にいるようだった。烏が鳴いていた。
「急に呼び出してごめんね」と彼は言った。
「いえ、大丈夫です。今はほとんど暇な身なので」
「答えを決めたから、会って直接言いたかったんだ」
「はい」と私は言った。
彼はその決めた答えを口にすることさえも、随分と躊躇っているようだった。その素振りを見れば、私が今から失恋することは明白だった。断る上で、どれだけ私を傷つけない言葉を選んでいたのか、彼ならきっと多くの時間を悩むことに費やしたのだろう。
「ごめん、ノアの気持ちには答えられない」と彼は言った。瞳の黒が、いつもより悲しそうだった。
「はい」と私は、彼と対照的に笑顔で言った。「ありがとうございます。真剣に悩んでくれたことが、嬉しかったです」
影は恐ろしく早いスピードで伸びていった。すぐそこまで夜が迫っているのだ。
「もし、答えたくないのであればいいのですが」と私は聞いた。「他の誰かに決めたから、でしょうか?」
「……そうだよ」彼は伸びた私の影を見やりながら言った。
「ユウカちゃんですか?」
そう聞くと、彼はハッとしたように顔を上げて私を見た。その目じりには涙が浮かぶ。彼は何も言わないまま。
「良かったです」と私は言った。
「……ノアは優しいね」彼の声は震えていた。
「自分勝手に告白して、困らせてしまってすみません」
「自分勝手だなんて」と彼は言った。「気持ちを伝えてくれたこと、嬉しかったんだ。本当にね」
「ありがとうございます」
彼はどこまでも優しかった。その優しさに全てを預けられればどれだけ幸せだろう、と考えた。それはきっと、湖の底へ沈んでいくような感覚なのだろう。しかしそれはあり得ないのだ、と目の前の彼を見つめた。
「それでは、失礼します」
「ああ、寒くならない内に帰ろう」
私は彼に背を向けて、夕日が沈む方へ歩き始めた。最後に一つ、彼の困った顔が見たくなって、振り返って彼を呼んだ。
「先生」
左足を後ろに置いて、彼を振り返る。呼び止めた私の声に気が付いた彼と目が合う。
「やっぱり私じゃ駄目ですか? ユウカちゃんと同じくらい、貴方を真っ直ぐ愛していますよ」
彼は本当に複雑な表情をしていた。優しく微笑んでいる青年のようにも、雨の中で泣いている子供のようにも見えた。
「ありがとう、ノア」と彼は言った。「でも、ごめん。もう決めたんだ」
「知ってます。先生が迷うような人ではないこと」
その言葉を最後に、私達は公園を後にした。日はもうほとんど落ちて、少しずつ辺りは、まるで黒い絵の具を伸ばしていくように暗くなっていった。
穴が開いたように心は軽く、自分の鼓動だけがうるさく聞こえていた。その穴を、夜風が静かに通り過ぎる。ひどく胸が痛かった。