『満州事変』『五・一五事件』『国連脱退』『ニ・ニ六事件』『日中戦争』『近衛声明』『三国同盟』『南部仏印進駐』『真珠湾攻撃』そして『大東亜戦争』
我々はどこで間違えたのだろうか?
開国からたった数十年で大清帝国を打ち破り、強国ロシアにも見事勝利し、「戦勝国」として、「大国」として、「アジア唯一の列強」として
大正デモクラクシー、そして花開く文化。
帝国には栄華が約束されていたはずだったのに。
今、我々の手に残っているのは米軍の爆撃により焦土化した都市だけだ。
幾度の戦争により獲得した、台湾、朝鮮、南樺太、南洋諸島、満州。
今はそんなものはどこにもない。
そう、我々は負けたのだ。太陽は落ち、世界は東と西に引き裂かれた。
二極化した世界の中で、連合国軍の統治下に置かれた天皇と8000万の国民。その運命はダグラス・マッカーサーを総司令官とする
時は1946年1月1日。昭和天皇が現人神であることを否定した、俗に言う『人間宣言』が発布された日である。
また、日本本土に進駐したGHQによって、戦後改革が日本政府を通し、間接的に行われている最中であった。
日本が再びアメリカの脅威となることを防ぐため行われたGHQの改革は多方面に及んだ。
GHQが真っ先に行ったのは、日本軍の武装解除である。GHQは陸海空軍の完全な解体と、軍需工場の停止を要求した。これは半年ほど前に降伏したドイツとは違い、日本は本土や首都すら未だ陥落しておらず、相当数の軍人や兵器が残っていたため、日本軍が連合軍の進駐に抵抗することや、軍事的に再びアメリカの脅威となることを防ぐためである。
日本は各種兵装に、車両、艦船の引き渡しを命令され文字通り丸裸になることを要求された。一部地域での抵抗はあったものの概ね順調に進み、軍隊の解体としては類を見ないほどであった。このことはその後のGHQの占領政策が混乱なく進められた要因の一つとなった。
また、極東軍事裁判により元東條英機首相を初めとした、多数の政治家や軍関係者が戦犯として死刑または終身刑とされた。
次に、経済面では表向きは経済的民主化や、経済の集中を回避するため、実際には日本の経済的競争力を奪うため、戦争遂行の経済的基盤になったとして三井、三菱、住友、安田からなる四大財閥をはじめとした財閥の解体が行われた。これにより、多くの中小企業や新興企業が生まれ、のちの高度経済成長の礎となった。
また、日本はドイツと同じように脱工業化を図り、重化学工業産業を解体された。これは極東委員会*1が賠償金を払う以上の日本の経済復興を認めていなかったためである。
極東委員会は戦災をかろうじて免れた工業設備をアジアへ強制移転させ、
1950年までに当時の価格で計1億6000万相当の4万台以上の工業機械が梱包撤去された。
さらに、GHQは日本に社会的・経済的変化をもたらすために、当時大きな力を持っていた華族などの特権階級や、裕福な地主層に打撃を与えようと、
日本政府が地主から強制的に土地を買い上げ、小作人に安値で売り渡す、いわゆる農地改革が行われた。
元々、日本の官僚の間には農村の疲弊を打開するために地主制度を解体する案はあったが、財界や皇族・華族といった地主や既得権益層の抵抗が強く、実施できなかったものをGHQの威を借りて実現したとも言えよう。
これにより、資産家は没落した一方で多くの新興農家が生まれ、元小作人であった彼らの経済基盤は大幅に向上。終戦直後の食糧難の解消、都市部の焼け跡の農地状態の改善にも繋がった。
他に、GHQは女性の解放と参政権の授与、労働組合組織化の奨励、軍国主義的な教育の廃止、治安維持法などの思想・言論規制法規、検閲制度、特別高等警察の廃止や、戦争に協力したとされる者の公職からの追放、政治犯の釈放などを行なった。
この際に、徳田球一などの多くの元共産党員も釈放され、再び合法政党として日本共産党を再建している。
そんなGHQの改革が行われている最中の1946年4月に、最後の大日本帝国憲法下で行われた選挙であり初の男女普通選挙制度で行われた、第22回衆議院議員総選挙が行われた。
この選挙ではいずれも単独で過半数を確保する政党はいなかったものの、141もの議席を獲得し、第一党となった日本自由党の総裁である鳩山一郎は、他の政党の倒閣運動や閣内から離反者が出たことにより総辞職した幣原内閣の幣原喜重郎の次の首相として、指名を待つのみであったが、就任を目前にして戦前の統帥権干犯問題を発生させたこと等を問題視したGHQにより、公職追放の処分を受けた。
自身が公職追放に該当する旨が記された通知書を渡された時、鳩山は我が目を疑ったという。
公職追放に際し、鳩山は外交官で貴族院議員であった吉田茂を後継総裁に指名し、同年5月22日に日本進歩党との連立を組んだ第1次吉田内閣が発足した。
これが旧憲法下で天皇から組閣の大命を受けて発足した最後の内閣となった。
新たに成立した吉田内閣が主に着手したのは、新憲法の施政や、第二次農地改革などである。
その中でも、新憲法についてはGHQから重要視されていたため、日本にとって重要な課題であった。
GHQは大日本帝国憲法を軍国主義的思想の根源とし、憲法の改正を日本政府に求めた。
GHQが新憲法に取り入れることを要求したのは、軍国主義的要素の排除、民主主義の復活、強化へむけて一切の障害を除去、言論、宗教及び思想の自由ならびに基本的人権の尊重を確立等である。
少し時を遡って、1945年10月4日にGHQ最高司令官であるマッカーサーから憲法改正を示唆された当時の東久邇宮内閣の国務大臣である近衛文麿は、政治学者の高木八尺、憲法学者の佐々木惣一、ジャーナリストの松本重治らとともに憲法改正の調査を開始した。
また、近衛らの作業と並行して、東久邇宮内閣の総辞職後に組閣された幣原内閣は、松本烝治国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会(松本委員会)を設置して、憲法改正の調査研究を開始した。
こうして、内閣と内大臣府の双方で、それぞれ憲法改正の調査活動が進められることとなった。
しかし、近衛文麿は後にGHQから過去の戦争責任を追及され、近衛らの憲法改正作業は挫折。
後に出された、GHQから日本政府に近衛の逮捕命令の発表を軽井沢の山荘で聞いていた近衛は、その日の未明に青酸カリで服毒自殺をした。
こうして、憲法改正作業は内閣のもとに設置された委員会に一本化されることとなった。
松本委員会では、順調に憲法改正作業が進められていたものの、翌年2月1日に毎日新聞が「松本委員会案」なるスクープ記事を掲載。
これを見たGHQはこの案を極めて保守的な性格のものと批判し、世論の支持を得ていないと分析した。
実は、毎日新聞のスクープした「松本委員会案」は実際の松本委員会案ではなく、宮澤委員が提出した「宮澤甲案」であった。「宮澤甲案」は松本委員会案で出された案の中でも比較的リベラル的だった。
だが、GHQはこれを真の松本委員会案だと判断、このまま日本政府に任せていては、極東委員会内の国際世論から、天皇制の廃止を要求される恐れがあるとして、自ら草案を作成。
そこで出来たのが、いわゆる「マッカーサー草案」であった。このマッカーサー草案を元に修正を加え日本政府は憲法改正草案を作成。
新たに成立した第一次吉田内閣下の枢密院をこの草案が通過し、衆議院へ提出。若干の修正が加えられた後、8月24日に圧倒的多数で可決された。
続いて貴族院に提出され、こちらも若干の修正が加えられた後、10月6日に可決。
これにて帝国議会における憲法改正手続きは全て終了した。
10月12日、政府は「修正帝国憲法改正案」を枢密院に諮詢。10月29日に枢密院の本会議は、天皇臨席の下で「修正帝国憲法改正案」を全会一致で可決した。同日、天皇は、憲法改正を裁可した。
11月3日、大日本帝国憲法を改正する形を取って日本国憲法が正式に公布された。
同日、貴族院議場では「日本国憲法公布記念式典」が挙行され、宮城前では天皇皇后が臨席して「日本国憲法公布記念祝賀都民大会」が開催された。
その後の1947年5月3日、日本国憲法は施行された。
さて、長々と日本国内の情勢について語ったが、一旦世界へ目を向けてみよう。
まず、欧州では第二次世界大戦が終結後、敗戦国であるドイツ、オーストリアが英米仏ソに分割占領されていた。ドイツは今まで2度大戦を起こしていたこともあって、特にソ連占領区域では日本より遥かに過酷な占領政策が行われていた。また、ドイツ・ポーランド国境も大きく西に移動。
ドイツはナチスが獲得した領土を全て失陥し、残った領土も大きく削られることとなった。
一方でイタリアでは、ドイツ降伏後に英米の占領統治を受けていたが、降伏後に連合国軍としてバドリオ政権がドイツ傀儡のイタリア社会共和国と戦闘を行っていたことを鑑みて、1946年にはイタリア本土のうち、重要拠点トリエステを除いた多くの領土がイタリア統治下に復帰している。
また、ルーマニア、ブルガリア、ハンガリーといった東欧の枢軸国は1944年からソビエト連邦軍の単独占領下に置かれ、その状態が継続していた。この期間にソ連は自国の協力者を政府の要職に就け、衛星国化した。
西の資本主義のアメリカと、東の共産主義のソ連との間で戦後の領土などを巡ってその協力関係に亀裂が走りつつある。超大国同士の対立は日本だけでなく世界に大きな影響を及ぼすであろう。
第二次世界大戦で勝利したものの、国力を大きく疲弊したイギリス、フランスなどの植民地を保有する国家では、激化する独立運動に頭を悩ませていた。
日本が一時的にアジアから欧米勢力を駆逐したことにより、希望を見出したアジア人は、日本の降伏後、すぐさま独立闘争を開始。
独立運動には、降伏後も現地に留まった軍人や、日本の兵器などが大きく寄与していた。
なかでも、インド、インドネシア、ベトナムなどでは独立運動が激しく、現地民と植民地の独立を阻止しようとする欧州国家との戦いが激化している。
独立闘争の果てに、インドは比較的早期に独立を獲得。インド連邦として正式にイギリスから独立することとなった。しかし、国内のヒンドュー教徒とイスラム教徒が深く対立など、国内に多くの問題を抱えている。
中国大陸では、日本が降伏したことにより、中国で戦っていた日本軍は完全に撤退。蒋介石率いる国民党の完全勝利かと思いきや、毛沢東率いる共産党との国共合作は完全に崩壊。
外からの脅威が完全に去ったことにより、両党の対立は激化、第二次国共内戦が勃発することになる。
日中戦争の間、国民政府軍が日本軍の前面に立って戦力を消耗していたのに対し、共産党軍は後方で力を蓄えると共に巧みな宣伝活動で民衆からの支持を得るようになっていった。
更に日本の降伏後、共産党は日本軍から最新式の兵器を鹵獲、ソビエト連邦からの援助により、国民政府軍に対して質的均衡となるほどの軍事力を得た。
また、ソ連から日本が開発した満州を引き渡され、経済的基盤も整いつつあった。
一方で国民党は、アメリカからの支援を得ていたものの、失策や腐敗による民心離反によりその勢力は後退しつつある。
この先どうなるかはまだ分からないが、共産党が勝たないことを願うばかりである。
そんな世界情勢下の日本では、新憲法下の初の選挙となる第23回衆議院議員総選挙と第1回参議院議員通常選挙がそれぞれ1947年4月20日、4月25日から行われていた。
両選挙で、与党である吉田茂率いる日本自由党はかなり善戦したものの、片山哲を総裁とする日本社会党が衆議院議員選挙では、日本自由党を12上回る143議席、参議院議員選挙では、9上回る47議席を獲得。
日本社会党が比較第一党となった。
吉田茂は連立を組み直してまで政権にすがるよりは下野する道を選び、ここに内閣は総辞職した。
新たに総理大臣となった片山は、日本民主党、国民協同党と共に連立内閣を組閣をし、片山内閣が誕生した。
片山内閣は日本国憲法施行後、初の内閣であり、片山哲の手腕に大きな期待が寄せられている。
彼は日本をどのように動かしていくのだろうか。
日本は敗戦により栄華の道から転げ落ちてしまった。未だ主権すら持っておらず、国の方針すらも連合国によって大きく左右されている。
だが、ここには強く逞しく、美しい日本人がいる。
明けない夜がないように、辛く苦しい日々も過ぎ去り、いつか日の丸のような太陽が世界を照らす日が来るはずだ。
再び世界に旭日が昇るその日まで、我々は進み続けるのみである。
※このまま〜完〜となりそうですが終わりません。続きます。
初回なので説明ばかりでしたが、許してください。