また、世界の厳しさもまた確かな物である。枢軸国という共通の敵を失ったアメリカとソビエト連邦は戦後の領土配分などを巡って大きく対立しつつあり、世界は時期に二極化されることであろう。
こんな世界の中で再び太陽を見れる時は来るのであろうか…
1947年5月24日に成立した、日本社会党総裁である片山哲を内閣総理大臣とする片山内閣。
片山内閣は無産政党*1の議員が首相を務めた初の内閣であり、その特色を生かし、多くの社会主義的政策を実行しようとした。
まず、片山内閣が実行に移したのは公務員の公僕化を目指した、国家公務員法の制定である。
戦前の官僚制度は、中央集権的国家の建設を目指していたため、天皇を最高の権力者として中央官庁が直接支配する権威的な性格が強く、軍部や政治家から圧力をかけられることも多かったため、不透明で権威主義的なものだった。
このような官僚制度が、戦後の民主主義体制とは相容れないと考えられたため、新しい国家公務員制度が必要とされたわけである。
新しい官僚制度の作成はアメリカから派遣された、労働法学者であるブレイン・フーヴァーの監修のもとで行われた。
戦前の問題点を踏まえ、官僚への政治的な介入の排除、能力主義に基づく公正な評価、公務員の権利と義務を明記し、公務員の質の向上を図るなど、近代的で公正かつ民主的な公務員制度の基盤を作ること目的として完成したのが、この国家公務員法であった。
次に、片山内閣が実行したのは、内務省の解体である。
元から内務省は、戦前の官僚制度の中でも特に権限が強く、かなりの権力を持っていたことから、解体を検討されていた。
その理由としては、内務省は地方自治や警察、消防など幅広い分野で権限を持っていたが、地方自治の自主性を制限することが多く、民主主義体制には不適切だと考えられたこと。
戦時中に国民統制や監視・弾圧活動などを行っていたため、戦後の民主主義社会において、その過去の活動を問題視されたことなどが挙げられる。
内務省が解体され、その統括していた職務は様々な省庁に掌握された。
地方自治関連の業務は自治省へ、警察関連は公安調査庁へ、消防関連は消防庁へと、それぞれ移管されることとなった。
また、片山内閣は新たな省庁である労働省の設置、失業保険の創設などの社会主義的政策を行なった。
戦前の日本では、労働者の待遇や権利を保障する法律が整っておらず、労働者は過酷な労働条件や、低賃金などで働かされていた。
このような状況は未だ引き継がれており、多くの労働者が貧困や社会的不安定に苦しんでいた。
片山内閣が労働省を設置したのは、このような労働者の状況を改善するためである。
新たに設置された労働省は労働者の雇用や職業訓練、労働法制度の整備など、労働者の生活を支援するための政策を展開。
また、失業保険の創設も、労働者の社会的保障を確保するための重要な措置であった。
片山内閣が最も意欲的であったのは、炭鉱国家管理法の成立である。
この法律は社会主義政策を具現化した社会党の重要法案であり、片山首相と水谷商工相が最もその成立に意欲的であった。
石炭増産が目的だったものの、管理される炭鉱主側や産業界から猛反発を受け、野党自由党ばかりか与党である民主党からも難色を示されたため、法案は臨時石炭鉱業管理法として成立したものの、炭鉱主側に配慮され、内容は「国家管理」とは程遠い骨抜きとなった。
また、臨時石炭鉱業管理法は有効期限が3年の時限立法でもあった。
このことは政権の脆弱さを露呈することとなった。
更に、炭坑国家管理法案採決の際の民主党の幣原喜重郎派の造反*2と離党、西尾官房長官と平野農相の対立などの社会党右派内での勢力争い、衆議院予算委員会において党内調整が終わらないうちに社会党左派の造反による補正予算の否決など内部対立が表面化。
遂に政権運営は完全に行き詰まり片山は1948年2月10日退陣を表明した。
片山内閣が退陣したことにより、片山内閣の副総理であった民主党所属の芦田均が次の内閣総理大臣として推挙されるものの、
野党第一党である自由党は明治憲法下の慣例であった『憲政の常道』の「政権交代の前か後には衆議院議員総選挙があり、国民が選択する機会が与えられる」という慣例を持ち出し、芦田の総理就任を「政権のたらい回し」と厳しく批判して、野党第一党である自由党への政権移行を強く主張した。
こうした批判に対し、片山前首相や政権側は、片山内閣の退陣はあくまで社会党内の対立に起因するものであり、政権枠組みそのものが否定されたわけではないと主張して、片山から芦田への政権移譲を正当化した。
占領政策の中心を担っており、リベラルな姿勢であったGHQ民政局も保守政権の復活を嫌い、芦田内閣の誕生を支持したが、国民の世論は自由党の主張に概ね賛同であった。
そんな中行われた内閣総理大臣指名選挙は、片山内閣では政権与党の一角を担っていた緑風会や、民主党の幣原派が離反、自由党と合同し、民主自由党を結党したことで、その総裁の吉田茂への指名が多数を占めていたものの、
1948年3月10日にかろうじて民主党総裁の芦田均を首相として、日本社会党、民主党、国民協同党の連立政権が成立した。
このため、新たに誕生した芦田内閣の政権基盤は不安定なものとなっていたのだ。
芦田内閣は、中央官庁の再編や、国家行政の効率化を行うため、国家行政組織法を制定。
その法に基づいて、中小企業庁、石炭庁、建設省、海上保安庁、水産庁、経済調査庁などの各行政庁が設置された。
また、教育委員会法、日本学術会議法、警察官職務執行法、地方財政法など、日本の基礎を築くような法を数多く制定したものの、それらはGHQが後押ししたことにより成立したものであり、芦田自身が動いたのはインフレ対策や、労働攻勢*3への対処程度であった。
GHQ民政局は中道的な芦田政権に好意的であったが、芦田内閣は脆弱な政治基盤と野党民主自由党からの攻撃に苦慮し続けていた。
これには、芦田に吉田茂のように、マッカーサーや米国政府と渡り合いながらも、自らの政策を遂行するほどの指導力がなかったことも挙げられるだろう。
そんな不安定な情勢下の最中、日本の政治界に激震が走った。
与党や野党の民主自由党、政界や財界、GHQまでに及ぶほどの、二つの未曾有の政治スキャンダルが発覚したのである。
一つ目は、西尾献金問題。
これは、副総理かつ、日本社会党書記長である西尾末広が土木業者から献金を受けていたという問題である。西尾はこの問題で証人喚問にまで呼び出され、結果として副総理を辞任。
また、献金問題から派生し、政党創設問題も発生。これにより芦田首相も証人喚問を受けることとなった。
このことは、ただでさえ政治的基盤の弱い芦田内閣に大きな打撃を与えた。
二つ目は、昭和電工事件。
この事件は、企業などへの復興援助のために設立された復興金融金庫から復興資金として融資を受けたかった大手化学工業会社、昭和電工株式会社の社長である日野原節三社長が行った政府高官や政府金融機関幹部に対する贈収賄に関する事件である。
この事件に真っ先に手をつけたのは警察であった。
警察が捜査を進めていくうちに、政界や財界だけでなく、GHQの職員にまで関わる巨大な汚職事件であったことが判明。
これを察知したGHQは警察に圧力をかけ、GHQの思うがままに動かせる検察主導で捜査を進めるように工作をした。
しかし、警察もそう簡単に折れるほど弱くはなかった。
警察は、現在所持しているGHQ関係者の汚職容疑者リスト、その全てをアメリカのキリスト教系宗教団体が発行するクリスチャン・サイエンス・モニターの記者、ゴードン・ウォーカーに譲渡したのである。
ゴードンは早速GHQを訪ね、
「GHQは日本の警察の邪魔をするのか?」
とリストを見せたところ、GHQから警察への干渉はパタリと止んだ。
これにより、汚職事件のすべてが暴かれると思われたが、GHQはやはり強かった。
ゴードンは突然朝鮮半島への転任が決まり、当初この事件の捜査にあたっていた警官も突如転任となったのだ。そして、事件の捜査も警察から検察へと移ることになってしまった。
当然、検察の捜査では、GHQへの疑惑は一切浮上することはなかった。
検察の捜査の末、大蔵官僚である福田赳夫、野党民主自由党の重鎮大野伴睦の逮捕に始まり、政府高官、閣僚までも逮捕されることとなった。
また、芦田内閣の栗栖赳夫経済安定本部総務長官、西尾末広前副総理が検挙されたことにより、芦田内閣は総崩れとなった。
芦田はもはや政権は立ち行かないとし総辞職を決意。
芦田内閣はたった8ヶ月の短期政権で幕を閉じたのだった。
芦田は辞職後昭和電工事件の容疑で逮捕され、次の首相として野党第一党、民主自由党総裁であり、保守派の重鎮でもある吉田茂が推挙されることとなった。
しかし、GHQ民政局はこれに反対し、民主自由党幹事長の山崎猛を首班に推した上で、社会党や民主党も与党に組み込んで、中道政権の維持をしようと画策した。
これには、中道政権を支持するGHQ民政局と保守政権の復活を容認するGHQ参謀第2部の日本占領政策の激しい主導権争いが背景にあった。
日本占領当初、占領政策はリベラル的な民政局主導によって徹底した小国化・非軍事化政策が採られていたが、米ソ対立による東西冷戦が始まったことにより、アメリカ本国では日本を反共の砦として活用する目論みが生まれ、すぐに民政局に伝えられた。
社会主義的な傾向を持つ民政局はこのことに焦りを募らせるばかりであったが、保守的な傾向を持ち、しばしば民政局と対立することのあった参謀第2部はこのタイミングで一気に勢いづいていた。
また、昭和電工事件では、GHQ職員は誰一人として逮捕されることは無かったが、民政局のチャールズ・ケーディス大佐ら複数の高官は事件の関与のスキャンダルが報じられたことにより失脚していた。
これには参謀第2部のチャールズ・ウィロビー少将と日本の右翼活動家、三浦義一らの暗躍があり、民政局の勢力は後退していた。
更に、昭和電工事件の影響で民政局の支持する芦田内閣が総辞職したことにより、民政局は窮地に立たされていた。
しかし、民政局は尚も諦めず、保守派の重鎮である吉田茂が首相になることをなんとか阻止するため、民主自由党幹事長の山崎猛を首班として、社会党、民主党も与党に組み込んでまで、中道政権の維持をさせようとするこの行動に出たわけである。
だが、民主自由党の分裂を恐れた広川弘禅、白洲次郎らはこの動きを吉田に知らせ、吉田が直接GHQ最高司令官マッカーサー元帥に確認したところ、マッカーサーはこの動きを承知しないと返答。吉田内閣が成立すれば協力するという意向を伝えた。
そのため、ほぼ山崎首班支持で固まっていた民主自由党内では一転して山崎首班への非難が高まった。
これにより、民政局の工作は完全に失敗。
第二次吉田内閣が誕生することとなった。
吉田は民主自由党が現在では少数派であり、政権基盤が脆弱であると考えたため、前内閣からの懸案であったマッカーサー書簡に基づき公務員の労働権を制限する制度とする国家公務員法改正案を成立後に解散をし、総選挙を行おうと考えていた。
一方、野党は早期の解散総選挙は不利と見て、解散を回避する動きに出たのである。
また、日本国憲法第69条*4で内閣不信任決議可決による解散が明記されており、不信任決議なしで解散ができるのかという問題が発生していた。
吉田内閣は日本国憲法第7条第3号*5に衆議院解散の旨が記載されているため、69条所定に限定されず、決議可決なしで衆議院解散ができると立場を取っていた。一方、野党は衆議院解散は69条所定に限定されるとし、可決なしで衆議院解散はできないとの立場を取り対立していた。
肝心のGHQは第69条所定に限定されるという解釈をしていた。
なんとか解散総選挙をしたい吉田内閣は11月28日にジャスティン・ウィリアムズGHQ国会政治課長の立ち会いのもと、与野党の間で
「国家公務員法改正案を成立させること、政府は新給与ベースの追加予算などを国会に提出し、野党は提案後2週間の期限につき議了すること、期限終了後に政府・与野党の協議に基づくとしたうえで野党から内閣不信任決議を提出すること」
を盛り込んだ政治協定を結んだ。
しかし、第4回通常国会では新給与予算を延ばして政策面から政府与党を攻撃しようとする野党によって解散総選挙の時期がずれてしまっていた。
そこで12月15日、吉田内閣は新給与法と同予算案について野党の主張を全面的にとり入れることを決定。
その後の12月23日に野党が提出した内閣不信任案が上程されて可決、衆議院が解散された。
世間では、この解散を与野党のシナリオ通りに進んだことを皮肉り、馴れ合い解散と呼んでいるという。
翌年1月23日、日本国憲法下初の総選挙となる第24回衆議院議員総選挙が行われた。
現与党である民主自由党は全466議席中、半数越えの264議席を獲得。第二党である日本民主党の69議席に200議席近くの大差をつけて圧勝することとなった。他に第三党の日本社会党が48議席、第四党の日本共産党が35議席であった。
この選挙で単独過半数を獲得した民主自由党は緑風会や、民主党の連立派と共に第三次吉田内閣を組閣。
ここに、日本の政治的混乱は一旦の終結を迎えることとなったのであった。
やっぱ戦後史って難しいっすね...正直舐めてました
マジで全く分からないところはWikipediaを大分参考にしてるところがあるのでそこはご容赦ください