何か大きな変化が訪れればいいのだが...
日本の周辺情勢は徐々に、だが確実に悪化していった。
日本の眼前に位置する朝鮮半島では、ソ連とアメリカの対立により南北の統一は完全に決裂。
アメリカは南部の占領地域のみでの単独選挙を強行。主にアメリカで活動しており、独立建国運動の中心人物であった李承晩を大統領に選出し、1948年8月15日に『大韓民国』を成立させ、軍政を停止した。
それに対抗し、北部のソ連軍占領地域で全朝鮮最高人民会議の議員選挙を実施し、憲法を制定して、1948年9月9日に『朝鮮民主主義人民共和国』を樹立。元中国共産党の一員であり、満州で抗日パルチザン活動を行っていた金日成が首相に就任した。
また、中国大陸でも当初善戦していた国民革命軍は農民を味方につけた人民解放軍を前に敗退。
1949年4月23日に首都の南京が陥落したのを皮切りに、漢口、西安、上海、青島などの華北主要都市が次々と陥落。
躍進する共産党とは対照的な、国民党の凋落は明らかであった。
10月1日、未だ国民党が広西、広東、貴州省の華南に位置する三省と雲南、四川、西康省の西南部三省を支配していたものの、毛沢東は『中華人民共和国』の建国を宣言した。
その後も人民解放軍の勢いは止まらず、広州、重慶、成都などの華南重要都を陥落させた。
窮地に陥った国民党は大陸を放棄し、米軍の支援の元、台湾への完全撤退を決行した。
中国大陸は完全に共産党の支配下へと陥った。
東アジアでの共産主義勢力の拡大はアジアの共産主義化の脅威を現実のものとした。
一連の共産化の動きに影響を受け、日本でも活発に共産主義者による活動が行われることとなる。
日本共産党を中心として、生活に不満を持つ労働者達は労働運動を展開。
次第に激しいデモやストライキが行われるようになった。
また、下山事件、三鷹事件、松山事件からなる国鉄三大ミステリー事件が発生。容疑者は未定ながらも共産主義者の犯行が疑われ、世間を震撼させた。
日本の共産化を恐れたマッカーサーは、「共産分子の活動に関する書簡」を吉田首相に送付。
同じく共産化を警戒していた吉田により日本の共産主義勢力の拡大を阻止するべく、「赤狩り」が行われることとなる。
共産党員とその信奉者の公職追放に始まり、共産党新聞「アカハタ」の停止、報道機関からの追放、全国労働組合連絡協議会の解散、また、閣議決定により民間企業でも共産主義者は次々と解雇処分を言い渡された。
公職・一般企業での解雇により約1万2000人以上の共産主義支持者が職を失い、路頭に迷うこととなった。
一連の行動により、日本国内での共産主義活動は急速に失速し、日本国内は一定の安定を取り戻すこととなる...。
夏の日差しが日本を照らす1949年8月29日、ソ連の大地で全てを照らす閃光と鼓膜が破れるほどの爆音と共に、全てを吹き飛ばす熱波が吹き荒れた。
そう、原子爆弾である。
長崎と広島を破壊したこの爆弾を保有していたのは今まで米国のみであったが、ソ連でもベリヤの元核開発が進められ、カザフ・ソビエト社会主義共和国、セミパラチンスク核実験場での核実験にまで至った。
これは一つの町と数十万の人間を焼き尽くす爆弾が、どこの国でも生産可能な事を示しており、世界の不安定化が予測されている。
また、今まで表面上は協力を保っていた米ソもソ連の核実験を機に完全に決裂。本格的な対立状態。
いわゆる『冷戦』に陥った。
これは単なる国家間の対立ではなく、『社会主義』と『資本主義』、どちらが人類に相応しいか決める、イデオロギー対立の意味も含んでいる。
イギリスの首相チャーチルはこの状況を、「バルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステまで、ヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンが降ろされた。」と演説で表現した。
少なくとも、米国とソ連という二つの超大国の対立は世界のパワーバランスを大きく変貌させ、両国は世界中を巻き込んだ巨大な勢力争いを繰り広げるだろう。
ともかく、日本に大きな影響が出ない事を願うばかりだ...。
この冷戦の流れは、連合軍とソ連軍が占領していたドイツの地にも波及。
1949年の9月9日に、連合軍占領地域では『ドイツ連邦共和国』が成立。
第一回連邦議会総選挙で第一党となったキリスト教民主同盟の党首、コンラッド=アデナウアーが初代首相に、ジャーナリストであったテオドール=ホイスが初代大統領に選出された。
この動きに対抗する形で、10月7日には東部のソ連軍占領地域でも『ドイツ民主共和国』が成立した。人民議会はドイツ社会主義統一党委員長であるヴィルヘルム=ピークを初代大統領に、副委員長であるオットー・グローテヴォールを初代首相として選出した。
2度の世界大戦を引き起こしたドイツという国家は完全に分断されてしまった。
そんな暗い世界情勢の中でも日本にとって喜ばしいニュースがあった。
物理学者である湯川秀樹が日本人初のノーベル賞を受賞したのである。
湯川は原子核内部において、陽子や中性子を互いに結合させる強い相互作用の媒介となる中間子の存在を1935年に理論的に予言、1947年にイギリスの物理学者セシル・パウエルが宇宙線の中からパイ中間子を発見したことにより、湯川の理論の正しさが証明され、彼にノーベル物理学賞が授けられることとなった。
この事は非文明的な後進国であった日本が、大きく遅れをとっていた科学分野で世界の最先端を初めて行った、象徴的な出来事であろう...。
一方で、敗戦後の日本経済は混迷を極めていた。
生産力の低下を原因としたインフレーションに加え旧帝国政府が太平洋戦争の戦費を国債を大量に刷り、日銀が自ら刷った日本円でその国債を買うことで調達していたことにより通貨としての日本円の価値が大きく低下。
さらに、円安により外国からモノを輸入する際の費用が膨らみ輸入インフレが発生。これにより、前代未聞のハイパーインフレーションへと突入し、国民生活へ大きな負担を与えていた。
この状況を見たアメリカは、日本をアジアでの強力な反共の砦とするため、日本の資本主義を強化することを決定した。
1948年12月に、GHQは予算の均衡、徴税強化、資金貸出制限、賃金安定、物価統制、貿易改善、物資割当改善、増産、食糧集荷改善からなる『経済安定9原則』を吉田首相に書簡の形で指令。
1949年2月には、GHQ経済顧問でありデトロイト銀行頭取のジョゼフ・ドッジが訪日。訪日したドッジは現在の日本経済を、
「日本の経済は両足を地につけておらず、竹馬にのっているようなものだ。 竹馬の片足は米国の援助、他方は国内的な補助金の機構である。 竹馬の足をあまり高くしすぎると転んで首の骨を折る危険がある」
と表現した。
ドッジは今の状況を改善するため、まず、一般会計のみならず、特別会計、政府関係機関勘定を含めた総予算を超均衡予算*1へと変更。総合収支を黒字に転じさせた。
次に、すべての補助金を可視化し廃止。財政の負担を減らし、財政健全化へ寄与した。
さらに、復興金融債券の発行と新規貸出を停止。インフレ要因を根絶し、復金インフレ*2の打開、また、通貨供給を抑制した。
他に、1ドル=160 ー 600円であった複数レート制の改正をし、1ドル=360円の単一為替レートに設定をした。これにより、市場メカニズム*3に依拠した日本経済の国際市場の復帰が可能となった。
最後に、物資統制と価格統制の漸次廃止、自由競争の促進を行った。このため、日本の市場メカニズムの機能が大きく改善された。
これらのドッジのハイパーインフレーションの鎮圧策は『ドッジ・ライン』と呼ばれる。
この結果、ハイパーインフレーションは完全に鎮火したものの、デフレーションが進行し、倒産、失業が相次ぐ『ドッジ不況』が発生。
ついには東京証券取引所の修正平均株価*4は史上最安値の82.25円を記録してしまった。
そんな中の1950年6月17日、多くの外交的努力により、アメリカ国務省顧問、ジョン・フォスター・ダレスが来日。マッカーサーとの会談後、対日講和の時機が到来していることを確認。22日に吉田首相と会談した後、民主党の苫米地義三最高委員長、日本社会党の浅沼稲次郎書記長らと会談し、アメリカ・イギリスなど西側諸国とだけ講和すべきという単独講和論と、第二次世界大戦当時の日本の交戦国でありかつ連合国であったソ連や中華民国も講和すべきとする全面講和論が対立しながらも、日本側も講和条約締結の気運が上昇していった。
とうとう日本が平和と主権を回復する時が来たのである...。
1950年6月25日午前4時
北朝鮮軍の38度線越境を確認。大韓民国首都ソウルに進撃中。繰り返す。北朝鮮軍の.......
早朝未明。突如として北朝鮮から砲撃が開始。まもなく十万人以上の兵が南へ雪崩れ込み始めた。
そう、『朝鮮戦争』である
朝鮮半島の南北分断からはや2年。同じ民族であり、同胞であるはずの2国の対立はとうとう軍事行動という最悪の形で爆発してしまった。
開戦前、朝鮮人民軍はT34-85などの戦車、航空機や砲など多数の兵器を所有しており、師団の充足率も比較的高かった。一方韓国軍は、戦車を保有しておらず、航空機も練習機が22機あるのみであり、有効な対戦車兵器もなく、北朝鮮の装甲火力の優位は隔絶したものであった。また、共産主義ゲリラの対応に追われ、訓練の終了していない師団も多かった。
それに加え、国境地帯の韓国軍の多くは、農繁期だったこともあり警戒を解除しており、また、前日にソウルで陸軍庁舎落成式の宴会があったため軍幹部の登庁が遅れて指揮系統が混乱しており、韓国側としてはまさに最悪の状況で始まった戦争であった。
国境近くの春川は同日中に陥落。2日後の27日には大韓民国首都ソウルは朝鮮人民軍により陥落した。韓国は京畿道の道庁所在地である水原に遷都したものの、その水原もすぐに陥落、韓国軍はもはや総崩れ状態となった。
国際連盟は北朝鮮の軍事行動を非難。国連軍による介入を行うものの、状況は全く変わらず、準備不足で人員、装備に劣る国連軍は各地で敗北を続けた。また、米軍も準備不足の面が大きく、予備役でない元海兵隊員を無理矢理招集し、ほぼ訓練なしの状態で全線に送ったりともはや末期の様相を呈していた。
こうした背景もあり、国連軍や米軍の介入がありながらも朝鮮人民軍の快進撃は止まらず、8月には釜山近郊まで迫っていた。朝鮮での総司令官となっていたマッカーサーは釜山で防衛陣地を築き、「二度目のダンケルクはない。陣地固守か死かだ。」と釜山の死者を命じた。
追い詰められた韓国側は山口県に亡命政府の樹立の準備さえも行っていたほどであった。
朝鮮半島が大きく荒れる一方、日本は銃後で米軍の活動を支えていた。
30万人以上の日本人が進駐軍により雇われ、軍服やテントに用いる繊維製品だけでなく、戦場での携帯食糧、前線での陣地構築に必要とされる鋼管、針金、鉄条網などの各種鋼材、コンクリート材料、兵器の修復など、生産活動は多岐に及んだ。
朝鮮戦争による需要の急激な増加は『朝鮮景気』と呼ばれる特需景気を呼び出し、日本中を大活況へと包み込んだ。
また、特需景気は繊維・金属産業に集中していたことから「糸へん景気」、「金へん景気」とも呼ばれ、活況により多くの企業も設備投資を加速。
朝鮮景気は未だドッジ不況に喘ぐ日本を救い出し、日本は少しずつだが戦前の経済水準を回復していった。
また、敗戦直後から行われていた戦災復興都市計画も財政的困窮やドッジ不況など多くの困難を抱えながらも着実に進行し、東京、大阪、名古屋、広島、神戸、仙台など多くの都市で都市インフラが整備され、敗戦からの市民生活の復興を大きく支えた。
他に、GHQは軍事的に手薄となった日本の防衛のため、準軍事的組織である「警察予備隊」の組織を命令。そのトップである中央本部長に内務官僚出身の林敬三警察監が就任した。
当初はあくまで治安維持を名目とした軽装備であったものの、朝鮮戦争の戦況が悪化してくるにつれて状況は一変。日本を共産主義への砦とするため、軽戦車や榴弾砲等の重装備化が進み、極一部の旧日本軍将校が参加するなどその内実は大きく変貌していた。
そんな中朝鮮では、マッカーサーによって立案された仁川上陸作戦が北朝鮮側の慢心もあり大成功を収めた。半島南部に進撃していた朝鮮人民軍の多くが包囲され、士気も大きく低下。
9月28日にはソウルを奪還。朝鮮戦争の形成は完全に逆転した。
李承晩はこれを朝鮮統一の好機とみて38度線突破を指示。それに追随する形で国連軍や米軍もマッカーサーの強い支持を受け38度線越境を開始した。
各地で国連軍は勝利を収め、10月20日には朝鮮民主主義人民共和国の暫定首都である平壌が陥落。10月26日には鴨緑江まで到達し、朝鮮半島統一は間近まで迫った。
しかし、ここで中華人民共和国の"義勇軍"が友邦北朝鮮を支援するために朝鮮戦争に参戦。それは最前線だけで26万人、後方待機も含めると100万人規模の大部隊であった。
人民解放軍の人海戦術により各地の国連軍は敗走を重ねていった。また、ソ連軍のジェット機MiG-15の支援も相まって中朝連合軍は12月5日に平壌を、1951年1月4日にはソウルを再度奪回。2月には忠清道まで進撃した。
しかし、次第に進撃は衰え始め、3月には勢いを取り戻した国連軍によりソウルを奪還されていた。その一方で中朝軍の塹壕を前に国連軍も大きく進撃することができず、戦線は完全な膠着状態へと陥った。
また、核の使用を強く訴えたマッカーサーはトルーマンによって連合国軍最高司令官を解任。後任にはマシュー・リッジウェイ中将が就任し、極東情勢は新たな局面を迎えつつあった。
そんな中、日本では講和会議に向けて着々と準備が進みつつあった。1951年1月25日、米講和特使ダレスが来日した。1月29日には吉田・ダレス会談が行われ、1月31日、第2次会談、2月7日、第3次会談がおこなわれた。2月11日、ダレスは、日本政府は米軍駐留を歓迎と声明し、フィリピンにむけて離日した。吉田首相は米国との安全保障取決めを歓迎し自衛の責任を認識すると声明した。3月27日、日本政府は、米政府よりダレス特使の構想にもとづいて米政府が作成した対日講和条約草案の交付を受ける。4月16日、ダレス特使が来日し、4月18日、連合国最高司令官マシュー・リッジウェイ、吉田首相と3者会談し、対日講和・安全保障に関する米国の基本的態度不変を確認した。
1951年7月20日には、米英共同で日本を含む50カ国に向けて講和会議への招待状を発送。8月にはインドシナ3国にも招待状が送られた。
一方で中華民国・中華人民共和国は招待されず、また、招待が送られたインド、ビルマ、ユーゴスラビアも参加を辞退した。
また、韓国は条約参加の資格があるとしてアメリカに訴えかけ、一時的に締結国リストに加わったものの、ダレス国務長官補に韓国は日本との戦争に参加しておらず、連合国共同宣言*5にも参加していないとして講和条約署名国になれないことを通知された。
しかし、韓国は日本の在朝鮮半島資産の韓国政府および米軍政庁への移管、竹島、波浪島*6の韓国領編入、マッカーサー・ライン*7の継続を要望していたものの、在朝鮮半島の日本資産の移管を除いて全て要求は拒否され、韓国は署名国とはならなかった。
8月16日、日本政府は、8月15日にGHQより受けとった講和条約最終草案全文を発表。
9月4日にサンフランシスコ市の中心街にあるウォーメモリアル・オペラ・ハウスに全52カ国の代表が集結。講和会議が開催された。
9月7日、吉田茂首相により、条約を受諾する演説が日本語でなされた。
ソ連、ポーランド、チェコスロバキアの共産圏3国は講和会議に参加したものの、同じ社会主義国の中華人民共和国の不参加を理由に会議の無効を訴え署名を拒絶。
1951年9月8日、条約に49カ国が署名し講和会議は閉幕した。調印は、国名の英語表記のアルファベット順にこれを行い、講和当事国の日本が最後に調印した。署名は各国とも全権として会議に参加した者全員でこれを行った。
日本は戦火から回復し、再び独立国家としての主権を取り戻したのである。
ア...オクレテスイマセン...ハイ...超低頻度ながらも必ず続けていくので待っていてください