カーディナルホテル東棟は血の海に沈んでいた。
黒装束の装備で統一された、小隊規模の兵士──正確には〝社員〟が無数に倒れている。
頭部、胸部、腕部、脚部。どこも無残に引きちぎれるような損傷を負っており、ホテル内部での戦闘とは思えないほど凄惨な光景であった。それを生み出したのは一丁のRPD軽機関銃と大量の爆薬。釘とベアリング玉を練り込んだ粘土爆薬やそこらで流通している手榴弾がここぞとばかりに廊下や階段に使われていた。
それがアイゼンの戦い方だった。
100発入るドラムマガジンには、先端が黒色に鈍く光る7mm弾、巷では「BP弾」と呼ばれ取引されている弾種をたっぷりと入れている。
生半可な防弾チョッキではトイレットペーパーほどにしか機能せず、胴体だろうと頭だろうと挽肉にしていく。そのつもりでアイゼンはRPDを敵の部隊に向け、射撃し、期待通り廊下は死体だらけになった。
現有火力を惜しみもせずに投下した理由は一つしかない。時間がないから。それだけだった。
ホテル外へ出るための唯一の階段を敵に占拠され、また通りにも部隊が集結していることを考えるに、もはや階段を使って降りることはできなかった。
かといって何もせずに背中を向ければ無数の銃弾が撃ち込まれることも明白。
であれば、やることは一つ。敵の足を止める。
敵が〝このまま進むと死ぬ〟と学習するまで徹底的に抵抗する。
軽機関銃を唸らせ、爆薬を起爆し、手榴弾で足を止める。
そうすることで甚大な敵の損傷を出し、移動時間を確保することができた。
「グリゴリー」
「な、なに」
「窓から飛び降りろ」
「死ねと?」
「ラぺリングもできないのか」
「なにそれ?」
一発も撃っていないPPSh-41を両手に握ったまま部屋の隅で固まっていたグリゴリーに、アイゼンは舌打ちをしてから窓の死角に立たせた。
弾避けで立てかけていた大きなテーブルの足にパラコードを括り付ける。自身の体と金具にも紐を素早く回し、降下の準備を十秒で済ませる。
ちらりとグリゴリーを一瞥した。
この女をここへ置いて行けばRPDを持っていける。この女を背負って降りるのならばRPDは持っていけない。
「……」
迷うのに費やせる時間などない。アイゼンは、
「背中に掴まれ。動くなよ」
命令した。グリゴリーは大人しく指示に従って、アイゼンの背中にピタリと体をつけた。
降下用の紐とは別に一本、腰の位置でグリゴリーと自身の体を固定する。腕力だけで後ろの女が地上までくっ付いているか怪しかった。RPDと天秤にかけて選択した存在をそう易々と落としてなるものか。
背中に感じる細身の体は数本のマガジンとPPSh-41本体の重量を合わせても紙のように軽い。もしかしたら、千束の方が重いかもしれないなどと無駄な思考が頭をよぎる。そんなことを考えている余裕はない。集中しなければならない。
最後に、安全ピンを抜いてレバーを飛ばした手榴弾を一つRPDのすぐ傍に投げた。間髪入れずに窓を割って、中庭へ飛ぶ。
「うううぅうあああぁぁぁ………………」
後ろでガスマスク越しに喚いているのを、アイゼンは無視した。
三階の高さは、足から落ちれば大けがで済み、頭から落ちれば死ぬ高さである。むろん、今のタルコフ市は運悪く生き残っても手当てをしてくれるような病院はない。
夜の闇とまだらな街灯で、まるで深淵に落ちるかのような速度で壁を蹴りながら降下するアイゼンの背中で、グリゴリーは本能からくる震えと共に悲鳴が漏れ出ていた。
程なくして部屋で手榴弾が爆発。これで軽機関銃の火力が敵に渡ることはない。とはいっても、もともと奴らには自前の物があるだろう。中庭へ降りてからが本番である。
撃ち下ろされる角度。三方を建物に囲まれて、うち一方は既に抑えられている。
時間がないのは〝救出〟のためでもあるが、こちらの危険度が一秒ごとに増しているのも避けられない現実である。
敵が機関銃を持っていないわけがない。個人携行重火器がないわけがない。対戦車榴弾砲すら飛んできたって驚くことはない。金を持っているというのは、つまりそういうことができる連中でもある。
アイゼンの足が地面に付き、素早くラぺリング用のロープとグリゴリーを固定していた紐をほどく。
「アイゼン」
紐を切り離している最中に、ガスマスクの中で声をくぐもらせながらグリゴリーが申し訳なさそうに呟いた。
「ごめん、漏れた……」
切り離した紐をその場に放棄。横に回していたAK101を撃てる状態にして顔を上げる。一瞬だけグリゴリーの方へ向いて、
「千束と仲良くできそうだな」
それだけを伝えた。グリゴリーは意味が分からず首をかしげたが、アイゼンは詳しく話すつもりはなかった。
「急げ。向かいの建物まで走る」
「わかった」
アイゼンの先行で東棟から離れた。暗闇に乗じて動くように、陰から陰へ。腰の高さの柵を乗り越え、スロープを下り、植え込みを突っ切って放置車両のすぐそばへ。警察車両のセダンだった。
アイゼンが振り向き、グリゴリーをセダンのエンジンブロック周辺に引き倒す。ほぼ同時に銃弾が地面と車に撃ち込まれて音が響く。
アイゼンは応戦した。AK101のサプレッサーが発射音と噴出ガスを大幅に削り周囲にタタタンッっと音を撒く。
完全な無音など映画の中の話である。
閑静な夜の街中で、5mmの弾を撃ち出しているのに〝音無し〟など望めない。ただ、こちらが何発撃ったかを相手に悟られるほど大音声を知らせるわけでもない。
ごく短く、指切りで、アイゼンは自分たちのいた部屋からわずかに顔を出していた黒ずくめのヘルメット二人を撃ち抜いた。一人はやった手ごたえがある。もう一人は、恐らく生きている。引っ込んだ。目標は果たした。移動する。
「合図したらあの車まで走れ」
このホテルとマンションの中庭はどうやら避難民が一時的にいたらしい。
炊き出しの道具が放置されていたり、ロシア政府側の車両が乗り捨てられている。兵員輸送用の装甲トラック。四輪で走破性が高いのだろう。ずいぶんと車高のある輸送車まで現在地点から十五メートルほど。
「行け」
グリゴリーを走らせた。防弾車であることを見越して。
その間の隙はカバーする。東棟三階以外からも撃ち込まれている。建物内でだいぶ始末したはずだったが、部隊を再編成したらしい。いったい何人いるのかわからない。無尽蔵に増えていく感覚がする。そんなことはありえないとわかっていても、手元にある弾倉の数に意識を向ける必要があった。無駄遣いはできない。
アイゼンはグリゴリーが車の陰に隠れたことを確認して、警察車両のエンジンブロックから身を乗り出した。
全力で走る。後を追うように銃弾がアスファルトを穿つ。グリゴリーと同じ位置、車両の前方に飛び込んだ。車に弾が当たって甲高い金属音を響かせる。
息を整える。上下する肩を今は揺れるがままにして、この後の動きを再確認する。
敵の数が増え続けている。部隊を再編し囲むように展開し始めている。ということは北からも来るし、千束やたきなが向かった南側も、もうすでに回っているかもしれない。
「グリゴリー、南棟に居るのはどこの連中だ」
「知らない。そこまでは聞いていない」
アイゼンが頷く。南側でも散発的に銃声がしている。誰と誰がやり合っているのか現段階では確かめようがない。
この土地のどこかにハンクがいることは確定している。しかし連絡は取れない。通信回線も部隊が違えば周波数が違う。連携はおろか所在地の共有すらできない。
戦力差がありすぎる。敵の数は不明。今も増え続けている。囲まれ始めている。東側は完全に落ちている。おそらく北の通りも。
味方は何人いる? 敵はブラック・ディビジョンだけか? 動かせる人員は? 撃ちもしないPPSh-41を抱えている隣の小便臭い女しかいないのか? 何より撤退のための退路が確保できていない。千束とたきなの回収も、奴ら二人共が自力で動けないとしたらもはや回収することもままならない。
せめて。
せめてハンクと連携が取れれば。
まともに動かせる人員があと一人、欲を言えば二人。居れば退却できる。
車両へ散発的に撃ち込まれていた銃撃が止まった。鳴り響いていた金属の衝突音が一息に消える。全く音がしなくなった。嫌な静寂にアイゼンは顔を上げた。
血の気が引く。瞬間、アイゼンは鋭く息を吸って、
「離れろッ!」
グリゴリーの体を力いっぱい掴んで放り投げながら、自身も地面に伏せた。
直後、ほんの一瞬〝何かが噴進する音〟がアイゼンの耳朶を叩き、間髪入れずに防弾の兵員輸送車が爆発した。
飛び散るガラス片。突き刺さる金属片。そして車両は四輪で耐えきれない衝撃を側面に受けて横転した。
熱風と衝撃波がアイゼンの平衡感覚を奪った。地面に伏せたはずが、まるで立っているかのような感覚になり、前後感覚を失った。
耳鳴りが世界を奪う。ヘッドセットでは物理的に止めきれなかった衝撃波で脳が揺れた。視界が滲み、ゆがみ、意識を手放す直前まで持っていかれる。
持ちこたえたのは精神力か、経験値か、あるいは神の加護か。アイゼンは数秒で意識の覚醒を取り戻し、平衡感覚も聴覚も自身の元へ手繰り寄せた。
リグから手榴弾を抜き取り、一つ投げる。東棟の方へ。数秒開けてもう一つ。北側へ。
敵に生存を知らせてしまうが、同時に〝反撃がある〟と思わせる。足を止めさせる。今はとてもじゃないが銃で撃ちあってまともに当てられる状態じゃない。もうあと二十秒は欲しい。だからこれは時間稼ぎだった。
手榴弾の爆発を聞きながら、隣を見る。視覚がやっと戻ってきた。見える。ピントが合う。隣にいたはずのグリゴリーに。
「──っ。ごめ……アイ…………ゼン」
ガスマスクが吹き飛んでいる。薄汚れた金髪があらわになり、白磁のようだった頬を擦過傷と飛び散ったオイルが斑点になって汚している。
そしてグリゴリーの右足は膝から下がつぶれていた。何トンあるのかわからない兵員輸送車の天井が、固いアスファルトとの間にグリゴリーの右足を挟んで押しつぶしていた。原形などとどめていない。出血はあるが切り落ちたわけではないので直ちに死ぬわけではない。
しかし、もう、助からない。
血を股関節で止めて足を切断し、止血作業をすればまだ助かる。例えばここが安全地帯で、何処からも銃弾が飛んでこない保証が数分間確保されるのなら、それも可能である。
アイゼンは体を起こして、オイルに引火して燃え始めた車両の側面から反対側にAK101を向けた。
暗闇は燃え始めた車両の炎で淡く照らし出されている。光源を挟んだすぐそばに居るアイゼンの姿はおそらく敵からは見えず、逆にアイゼンからは数十メートル先も暗視装置なしで見通せた。
ブラック・ディビジョンが進行している。複数人。
「…………くたばれ」
撃つ。一人当たったが殺せていない。敵の足は止まり近くの遮蔽物に待避し始めた。三秒もせずに撃ち返される。アイゼンは身を引っ込めてグリゴリーのそばまで這い寄った。
グリゴリーを見る。足の状態、体のほかの部位、負傷箇所。そして表情。
「アイゼン……わかってる」
ガスマスク越しではない鮮明な声。中性的な、ハスキーな、落ち着いた声。容姿を見ればまだ若い女性であることは明白な顔。不安と、絶望と、諦めの顔。
グリゴリーは、消え入りそうな声で続けた。
「無理なんだろう。助からない。私の役目は終えた。もともとここに案内することが私の仕事だった」
傷と汚れが目立つグリゴリーの白い頬に、涙が伝った。燃える車両のオレンジの光が、容赦も遠慮もなくその涙を照らす。
「いままでが……よかったんだよ。たまたま、運が良かっただけ」
上半身の力を抜いた。仰向けで空を見る。燃え盛る煙で空気が揺らぎ、涙で視界が滲んだ先には何も見えなかった。夜空があることもわからない。星なんて一つも見えやしない。
「行って……私は良いから。千束と、たきなを助けて」
震える声で、消え入る声でそう吐き出してから、グリゴリーは最期にアイゼンの方へ目を向けた。
揺らぐ視界に姿が映る。注射器を持ったアイゼンが。
「黙れ。しゃべるな。命令だ」
黄色、緑、青。三本を立て続けにグリゴリーの首から注入し、空いたインジェクターはその場に捨てた。
AK101の弾倉を交換する。初弾を薬室に送り込む。
「なんで?」と目を見開いて涙を流し続けているグリゴリーに、アイゼンは短く簡潔に答えた。
「お前にはまだ利用価値がある。死ぬな。そして敵は排除
燃える車両を盾にして。
アイゼンは通信機に
「遅いぞ、ハンク」
『これでも急いだんだよ。で? 何すりゃいい』
「現在地より北にいる脅威を排除。この車両に一人も近づけるな」
『了解。──美人だなその子。死なすには惜しい。助けてやってくれよ』
「善処する」
『そうこなくっちゃ』
一瞬の間。敵が発砲し、マズルフラッシュが暗闇の中庭に瞬いた直後、その連続した射撃の主は黒いヘルメットの下の顔面を吹き飛ばされた。
アイゼンのヘッドセットに静かで落ち着いた福音が響く。
『ハンク・リーシャ。これより支援を開始する』
いつもどこにいるのか、何をしているのかわからない。
姿は見えない。銃声も聞こえない。敵との〝撃ち合い〟をしているところを見たことがない。
だがそれでいい。目の前の敵が、脅威が、彼の手によって倒れ続けることは約束されている。
あ……。
リコタル女性キャラ、全員戦闘不能になっちゃってる。
男達の戦いが、今始まる!!(無理なポジティブシンキング)