ゆるしてくれ……サレワあげるから……さっき拾ったやつだから……。
幕間:ある女の非日常④
右腕を切り落とされた。
武装を全て解除された。
両足は手当されていたけど、おそらくこの男がしたものではない。
右腕を切り落としたのは、たぶん私のホルスターが右足についていたから。右利きだと判断して、その利き腕を無力化した。
半ば信じられない話だけど、この土地では腕を切り落とされてもまた生えてくるらしい。今はその眉唾物の話が真実であることを心から願う。
…………リコリスとしても、そうでなかったとしても、片手で生きるのは大変に違いない。
それに、きっと千束は落ち込んでしまう。こんな体の私を見たら、しばらく元気がなくなるかもしれない。
だから治ってほしい。いや、治る。この街なら。そう信じるしかない。
それにしても、この男は私をどこに連れて行くのだろう。
もうすぐ夜も明ける。
人一人を運び続けて数時間経つというのに、この男は一度も休憩せずにどこかを目指して歩いている。
いい加減私が疲れてきた。脱力して首にぶら下がるのだって数時間も揺られれば体中が悲鳴を上げる。そうでなくても疲労困憊を疑う余地のない一夜だった。
生きているのが奇跡に思える。
体が揺れるのに任せて周囲を見る。
ずっと変わらない光景。汚い路地裏。薄暗い通路。時々廃屋同然の崩れかかった建物の中を突っ切って反対側へ出てはまた細く汚い路地裏を進む。
おそらく戦闘にならないよう迂回を繰り返しているのだろう。
数日前の私も同じことをした。千束と離れて単独で解毒剤を探していたからわかる。こういうルート取りになる。
しかしどこへ向かうのだろう?
郊外を目指しているようにも見える。ちらちら見える建物の階層が少しずつ低くなっている。
中心のオフィス街からは間違いなく離れている。
「…………」
話しかけようにも、口の中に布を突っ込まれて猿轡にされている。頬から頭の後ろへぐるりと手拭いのようなもので巻かれている。呻き声なら上げられても、そんなことをする意味は何もない。
口の中で砂が動く。汚い布だろう。ジャリジャリと不快な感覚が舌や歯に伝わってくる。唾を飲み込むのもためらわれる。いずれ布が許容量を超えて口の端から垂れるのだろう。どれだけそれがみっともなくても、羞恥心を煽られようとも、耐えるしかない。
それにしても、救いようのない状況。
アイゼンさんから受け取ったSVDSはもちろん、ホルスターのM&P9もなくなっている。なによりバックパックがない。つまり通信機もあの戦闘地域で失逸している。DAとの連絡手段がない。千束とも話せない。
数日前の記憶が過ぎる。やっと合流できたのに、この有り様はひどい。
いや。
明らかに数日前の状況より悪い。ひどいでは済まされない。
この男がまともな人間である可能性は低い。今もジクジクと痛む右腕がそれを裏付ける。
何をされるかわからない。最悪、尊厳を破壊されるようなことをされるかもしれない。
覚悟は…………あまり、できていない。
嫌なものは嫌だ。いくら受け入れるしかない状況でも、いつかは失うものだったとしても、そして生物として交配は当たり前の行動だったとしても。
不快なものに変わりはない。嫌なものは嫌でかわることはない。
どこに連れて行かれるのか。
何をされてしまうのか。
ただ、今の時点で殺されていないことと、わざわざ手間暇をかけて
まぁ情報を引き出すための拷問くらいは覚悟しておこう。痛いで済むならそっちのほうがマシかもしれない。
◯
ペストマスクに四眼ナイトビジョンをつけた男は、陽が上るとナイトビジョンを跳ね上げて歩き続けた。
立ち止まらない。ずっと移動している。随分な体力だと感心する。私の方が疲れた。
そうこうしていると、体感では五時間近く移動したか。
一つの雑居ビルの前で止まった。飲食店とマッサージ店と普通の住居がそれぞれ部屋に入っているような、小汚いコンクリート作りのビルだった。5階建て。周辺にも似たような建物が並んでいるエリア。
男は私を担いだままビルの中に入る。木製の扉を開けると、中は金網と有刺鉄線が張っていた。そこそこ長い廊下だったが、二メートルも進めない位置でその金網と有刺鉄線が立ち塞がっている。よく見ると中央は金網が開くようになっていて、大きな金属製の鍵で施錠されている。
男は鍵を開けて金網の壁を潜った。通る時に私の服が有刺鉄線に引っかかり、腰の位置で服が裂けた。
なんの防御にもならない普通のスポーツウエアは、あっけなく破れて私の下着を露出させた。
もともと足を蜂の巣にされて、布面積は随分小さくなっている。
いまさら、といえばそれまでだけど。それでも、幾らかの羞恥心はある。男は何も意に介さず振り返って金網の扉を施錠し、廊下を進み始めた。
電源が来ているため蛍光灯が光っている。
廊下の一番奥の部屋の扉を開けた。こちらは金属製。重苦しく手入れのされていない、不快な金属音を響かせながら扉が開いた。
部屋の中に入る。ヒヤリとした冷気が露出した腰回りと足、首筋を撫でていく。
埃とカビの臭いが鼻を突く。窓がない。廊下の蛍光灯の灯りがわずかに差し込む。切り取ったように薄汚れた床が目に映る。その床が近づいた。
男は私を床に下ろした。丁寧でも乱雑でもない。自分の荷物を下ろすのと同じような感覚で、私を床に転がした。
床はリノリウムだろうか。ヒヤリと肌に触れる。冷たい。硬い。
ぱっと、部屋の中央の裸電球が灯された。原初的なエジソン電球。オレンジ色の暖色光が部屋を包む。
墨色のペストマスクがぼうと照らしだされたかと思うと、そのぽっかりと空いた黒いガラスの覗き穴が私の方を向いた。
頭から足先までを見たのがわかる。
動かない方がいいだろう。男の持っているM4のセーフティは外れている。マガジンも刺さっているしエジェクションポートカバーも開いている。初弾が薬室に詰まっている。つまり引き金を引けば弾が出る。
「…………」
睨み返すしかない。
物理的に抵抗することはできないが、それで屈するつもりはないと目で訴える。声も出さない。無駄な体力は使わない。
男は私の元までゆっくりと近づいてきた。血生臭いグローブが私の顔に触れる。思わず目を閉じた。
口の周りを触られる。がさりとした感触が頬を滑ったかと思うと、口の中の異物が取り除かれた。砂混じりの小汚い布が、私の唾液で糸を弾きながら取り外された。男はそれを部屋の隅に投げた。
口の中にはまだ砂のザリザリとした気持ち悪さが残っているが、呼吸はしやすく、何よりこれで話ができる。
ただ、
「…………」
私はじっと黙って口を結んだ。男のペストマスクを、その目の位置の真っ黒な穴を睨み続ける。
千束ならどうするだろう。
猿轡を外された瞬間に仲良くおしゃべりを始めるだろうか。それともとりあえずは殺されなかったことについての感想でもいうのだろうか。あるいは感謝か。
私はどれも違う。この男と無駄話をするつもりはない。聞かれたことに答えるつもりもない。
さぁ、どうする。
「…………」
無言で目を合わせる時間が続いた。十秒ほどか?
ペストマスクの男はその場に立ち上がり、そのまま何も言わずに部屋から出た。
重苦しい金属音を立てて扉を閉められる。外から施錠する音。部屋の中にはじーっと電球の音が控えめに響く以外、何も物音がしない。
「…………そうですか」
なるほど。
とりあえず部屋の様子を見よう。
壁と天井はコンクリート打ちっぱなしで配管剥き出し。装飾品なし。家具なし。水道もトイレもなし。ゴミもないしなんか少しシミのような汚れはあるけど目立った汚物もなし。長年人の手が入っていない埃っぽさと、建物自体のカビ臭さが鼻腔に届く。
そうか。ここは監禁部屋だ。
そうくるとは思っていたけど、一番マシな結末かもしれない。
特にこれといった拘束もされていない。両足は治療されているとはいえ立って歩くことはままならず、右手は肘の位置から切り落とされて包帯が巻かれている。左手は唯一動きそうだけど何発か撃たれているので満足な運動にはならない。せいぜいスプーンで豆をすくって口に運べるくらいか。
点滴や薬による鎮痛はない。
水も食料も置かれていない。
攻撃的な拷問はない代わりに、既に負わされている傷が十分に私の精神力を奪い取り、飢えと渇きが生命力も奪っていくだろう。
あの男は賢い。何も手を下さなくても私を拷問にかけている。この状況下で、たえば千束のことや、アイゼンさんのことや、そのほか知り得ている情報を聞かれれば立派な〝尋問〟が成立する。
喋る気はないけれど、五時間後に新鮮で清潔な水と鎮痛剤を目の前に置かれて質問をされたら、私はどうなるだろうか。口を割らない自信が、少しなくなってきた。
肌寒い。
容赦なく冷えたリノリウムが太ももから体温を奪っていく。
いつまで持つかな。
耐えられるかな。
千束。
…………千束、生きていますか。
脱水タスクはーじまーるよー(震え声)
新章始まりました。いったい何ヶ月で書ききるんでしょうかね。わかりません。作者も分かりません。