法も秩序も過去の話となったタルコフ市内で、生きている人間は二つに分類される。
群れるか、群れないか。
組織を持ち、仲間を持ち、独自の秩序とルールの中で生きる者を〝群れ〟とする一方で、最も確実に信頼できるのは己のみであると決断した人間は一人で行動し、一人で生き延びる。
しかし、あらゆる人間がタルコフ市以外での社会生活でもそうであるように、完全な孤独の上で生きることはできない。生きているだけで多くの人間の生産物を享受している。たった一人であらゆる物事を解決し、生産し、明日を生きることは並大抵の努力では成し得ない。それはタルコフ市でも同じであった。
アイゼン・ウント・ブルートは、絶対に信じられるのは己の身のみであると常に自覚していながらも、現在自身を含めて七人の大所帯で移動を続けている。
情報の取引として。
仕事の依頼として。
戦闘能力の確保として。
生存戦略の担保として。
他者との関わりが常にリスクを孕むこの街で、しかしアイゼンの前後左右には数奇な他者の存在があった。
「…………そこの建物だ」
アイゼンはほんの少し疲れた声音で、全隊に口頭で通達する。
七人の前にはコンコルディア集合住宅があった。
数週間前は地元のゴロツキが縄張りにしていたが、ブラック・ディビジョンとの戦闘を含む
安全な場所などこの街にはどこにもないが、敵ではない者が取り仕切っている場所であれば、それ以外の素性の知らない者が取り決めた〝非戦闘地域〟よりは信用できる。
夜はまだ開けていない。
この闇が、無防備な負傷者運搬のリスクを大幅に軽減してくれた。ここまでの道中で絡んできたスカブはハチが露払いし、PMCの二人組とニアミスを起こした時には向こうがこちらの戦力を過大評価した。攻撃はされず、アイゼンの分隊も攻撃をしないまま離れた。
ヒュージーからの通信で伝え聞いた、簡潔な案内に従ってコンコルディアの地下駐車場へ降りる。
まだらな蛍光灯に照らされた地下を進み、指定された鍵付きの部屋────警備の人間が事務仕事をする一室へと一行は足を踏み入れた。
七人も入ればやや手狭ではあったが、文句をつける人間はいない。
未だ目を覚まさない千束とイレーネを、部屋の隅に置いてあった解体済みの段ボールの上に寝かせる。
グリゴリーを背負っていたアイゼンは、
「お前はどうする?」
「そこの背もたれのある椅子に座らせてほしい」
「わかった」
オフィスチェアに下ろした。
グリゴリーは一息ついてから短くなった右足に視線を落とし、それからアイゼンを見上げた。アイゼンの目に薄汚れた白い肌が映る。
アヒルのようなガスマスクは砲撃地帯で粉々になっていることだろう。素顔では流石に誰が見ても女性とわかる。
これまで何の戦闘能力もないグリゴリーが生きてこられたのは、あのガスマスクあっての偶然だった。
素顔が露出し、性別が露見し、右足を失って身を守るものが物理的にも精神的にも乏しくなった現在。今日を生きられたとして、明日も生きられる確率はぐっと低くなった。
それでも、
「アイゼン、ありがとう」
グリゴリーの表情に影はなかった。
それどころか根拠のない安心感さえ思わせる穏やかな顔色で礼を言った。
アイゼンは眉一つ動かさずに「あぁ」とだけ返した。
ダンボールに横たわる千束とイレーネ。
そのすぐ近くで床に座ったルーク。
MCXを手に緊張を解いていないハチと、何やらにやけ面でアイゼンの方を見ているハンク。
アイゼンはひとつ息をつき、部屋に響くようやや声を張って口を開いた。
「俺とハンク以外は現刻より二時間休息。先に伝えた通り、今後現場の指揮権は全て俺が握る。ルークは休息後、情報の収集と渉外に注力しろ」
「了解です」
「ハンク、来い」
「はいよ」
アイゼンの召集に応じてハンクが向かう。ハチの前を通る時に少し立ち止まって、
「ゆっくり休んでくれ」
「あぁ。アンタも敵には当ててくれよ」
「あれは狙って外したんだ」
「だよな」
苦笑するハチに手をひらりと上げながら歩き出し、ハンクは口の端を緩めたままTX-15のマガジンを一度抜いて残弾があることを確認した。残弾よし。銃に戻す。
アイゼンの隣に立って首をかしげる。
「で、どんな警備プランなんだ?」
「地上は情報屋のグループが見ている。俺たちは地下駐車場を回る」
「苦手なシチュエーションだ」
「お前は見通しのいいところから侵入者の有無を監視しろ。歩き回るのは俺がやる」
「疲れてないのか? 一睡もしてないんだろ」
ハンクの言葉に、アイゼンはまっすぐに目を見ることで返事をした。言葉は返さない。
ハンクは「あぁ、わかった」と小さく呟きながら部屋を出た。アイゼンも後に続く。
蛍光灯が照らし出すコンクリートははっきりと浮き上がるが、それ以外の暗闇はまるで吸い込まれるかのようにその委細がわからない。裏を返せば、隠れるところなど山ほどある。
部屋を出て駐車場を見渡したハンクが、大体の潜伏場所を見繕いながら後ろにいるアイゼンに声を投げた。
「で? あのノッポな可愛い子ちゃんはあんたのものになるのか」
「何の話だ」
「とぼけないでくれよ分隊長さん。最高にカッコよかったぜ。あの子は惚れちまってる」
ハンクはグリゴリーの表情を思い出しながら、ほんの一瞬だけ振り返ってアイゼンの顔を見た。
相も変わらず仏頂面のヒーローを特に深い意味もなく讃えるつもりだったが、アイゼンは、
「利用価値があるからここまで連れてきた。デメリットが勝れば置いていく。障害となるなら始末する」
変わらない声のトーンで、淡々とハンクの問いに答えた。
ハンクは「まぁ今はそうなるよなぁ」とひとりごちてから、鼻歌混じりに潜伏先へと分かれる。
ハンクは一つ安心した。この分隊長は変わらない。今も昔も本当のことを言葉にはしない。何もかもが変わり果てていくこの街で、それはハンクにとって良い事実であった。
◯
「…………?」
地下駐車場オフィスのジム椅子に座って休息をとっているグリゴリーは、人の視線の気配を感じて目線を上げた。
血の散ったワイシャツの上から防弾チョッキだけをつけて、部屋の壁にもたれて床に座る男────ルーク・コンバイスと、ここまで隊の護衛を一人で担ったMCXを握る男、ハチ・フロストロイト。
この二人が、物珍しげな目でグリゴリーを見ていた。
ルークは、グリゴリーと目が合った瞬間に逸らしたがハチはわざとらしくじっと見つめ続けた。壁際から、部屋全体が見える位置で、MCXを保持して銃口は床に下ろしたまま。
観察と興味の両方が拮抗した視線に、グリゴリーは口をへの字に曲げながら、
「変な気起こしたらこのエリアで休憩できなくしてやる」
いつもより低い声で唸った。
ハチは、グリゴリーの威嚇を聞いてふっと口角を上げながら、
「こんな地獄で家族を裏切るつもりはない。俺は家に残した妻と息子を愛している。安心しろ。そういうことにはならない」
「…………そうか」
「だが興味はある。いくつか、そうだな。休憩がてらの雑談だと思ってほしい」
ハチは懐からタバコを一本取り出して火をつけた。
そして箱をグリゴリーに見せて〝いるか?〟とジェスチャー。グリゴリーは首を横に振った。ハチは頷いてタバコの箱を大事そうにしまった。
一吸いして、肺の中の紫煙をうまそうにゆっくりと吐き出す。それからハチは自分の疑問を表に出そうとハチの方へ視線をやったが、疑問が口をつく前にグリゴリーがため息をついた。
「私は情報屋だ」
「らしいな」
「情報の価値は時に命より重たくなる。お前のような軽んじた考え方の人間に話すことなどない」
きっぱりと言われたハチはタバコの先端を赤くしながら口の端を上げた。
「前にも似たようなこと言われたな」
「自己紹介か?」
「……あんたイレーネと気が合いそうだな」
「?」
眉根を寄せたグリゴリーに、ハチは寝ているイレーネを指差した。
「女に飢えた野郎どもが跋扈するのがこの街だ。あんたが〝人間〟をやれていることにすごく興味がある。それこそ、そこで寝ている小さな猛犬も同じだ」
「何が言いたい」
「そこのコンパクトな女はイレーネ・サンダース。俺の仲間で、毒舌で、小さいくせに自分より二回り以上デカい男を投げ飛ばすし、時と場合によっては手段を選ばない生き残り方をする」
グリゴリーはイレーネの方を見た。何かを言いそうになって一度止めた。結んだ口で代わりの言葉を用意したのか、ハチの方を流し見ながら呟く。
「そう。私はそのイレーネ・サンダースさんに用事がある」
「おぉ…………おぉ? そうか。仕事か?」
「私用だ」
「私用……?」
話が見えず混乱するハチだったが、とりあえず右手のタバコに口をつけることにした。
イレーネも大概読めない言動だが、この女はそれを超えてきそうだなとニコチンの回った脳みそが仮説を出した。結論はわからない。口数は少ないのに口が悪いことは分かった。
「じゃあ、イレーネが起きたら話でもするか。なんだかんだこいつも喜ぶかもな」
「なんで?」
「この街で生きている女は少ない。まともに話が通じる女はもっと少ない。同性のよしみとか、単なる知り合いとか、そういうもの以上に惹かれる何かがあるんだろう」
「…………」
「千束とたきなを助けるために、イレーネは冷静さを欠いた。あらゆるものごとの結果────今、たきなはいないってわけだ」
「そうだね」
目を伏せながらグリゴリーは小さく答えた。
敵に十代の女の子が連れ去られた。この街で。法も秩序もない自助努力しかないこの街で。
それが何を意味しているのか。わからない大人などいなかった。
ハチはだいぶ短くなったタバコを足元に落として踏み消した。
それから、その場で腰を下ろして壁を背もたれに座り込む。MCXは体の右脇に立てかけて、スリングを腕に通しておく。
「…………グリゴリー」
「なに?」
「イレーネが起きたら起こしてくれ。あんたとイレーネの会話を聞きたい」
「聞かせるわけないだろ」
「そうか」
そんなに嫌なのか? と喉元まで出かかった言葉はあくびで誤魔化して、ハチは目を瞑った。
「…………」
数メートル先の小汚い段ボールに横たわるイレーネを、グリゴリーはぼんやりと見た。
何を思うでもない。何かを言うつもりもない。
ただ。
言葉にできない感情が今晩は多すぎた。少し、いやだいぶ、疲れたなと。それだけをグリゴリーは思って深く息を吐いた。
それでも眠気は不思議と全くなかった。
グリゴリーの私用(意味深)