リコリスinタルコフ   作:奥の手

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幕間:ある女の非日常⑤

 この部屋に監禁されて恐らく五時間ほどが経った。

 

 窓がなく、裸電球一つのみの殺風景なコンクリ部屋は否応なく時間間隔を狂わせる。だから五時間という予測には何の根拠もない。

 

 喉の渇き、空腹感、全身の倦怠感から鑑みての、そういう答え。

 

 仰向けになって天井を仰ぐ。固く無機質な冷たい床も、もう何時間も同じ位置に居れば冷たさはなくなる。しかし固さはそのままなので休まるものではない。

 

「……」

 

 全身の力を抜く。ハチの巣にされ、誰によるものかはわからないが手当てされている足は残念ながら動かない。手当てされていなければ出血死していたのだろうから、それだけでも感謝に値する。

 

 右腕の肘から先がないのは、まだたぶん自分の中で受け入れられていない。今一つ現実味がない。天井を背景に自分の顔の前に包帯巻の短い腕を持って来ても、自分の物じゃないように思える。〝これは治る〟と信じる反面、だからどうしたと冷笑している自分が居る。辻褄が合わない。

 

 きっと精神の防衛機能が働いている。全てをありのまま受け入れることは得策ではないだろうから、合理的に考えて導き出した安定と、そうではない本能としての精神状態が乖離していく。

 

「……あー」

 

 千束。

 千束は大丈夫だろうか。生きているのか。動けるのか。

 私よりひどい怪我をしているかもしれない。

 今も、もしかしたらあの場所に取り残されているのかもしれない。

 

 あるいは、もし。

 

 今この場にいないということは、イレーネさんが何らかの形で千束を救助したのか。

 アイゼンさんが追ってきて、敵を追い払ったか。最後に聞いた銃声が、おぼろげながら耳に覚えのあるものだった気がする。

 無事かもしれない。この場にいないということが、少なくとも敵勢力の手には落ちていないことの証明になる。

 

 あの四眼ペストマスクの男がわざわざまた何時間もかけてホテル一帯まで戻るとも思えない。

 

「……」

 

 いや。

 あまり。

 あまり考えない方がいいか。

 

 身体が動かなくても思考は止まらない。でもそれが良い事とは限らない。今はどうやってこの状況を切り抜けるかのほうが先だろう。

 気休めでもいいから、そういうことを思案しよう。

 

 ○

 

 さらに十時間ほど経ったか。

 

 唇は乾燥してカサカサで、つばを飲み込んでも喉が潤うことはなく、声を出すのもきつい。空腹は既に感じていない。体を動かす気力も起きない。

 飢えと渇きで朦朧としてきた時、頭の上の方で重たい音を立てながら鉄扉が動いた気配がした。

 そちらを見る余裕はない。

 

 ぼーっと裸電球に照らされている天井を見ていると、そこに影が下りた。ペストマスクの男だ。

 

「起きろ」

 

 ロシア語。ロシア人か。たしかに戦闘服がBEARのものだ。

 起きろと言ったか。起きれるわけがない。もう体のどこに力を入れたらいいかもわからない。

 24時間以上、飲まず食わずだから。

 

「起きろ」

 

 同じ発音。同じ抑揚。同じ言葉を同じ位置で見下ろしながら繰り返す。できない。

 

 するとペストマスクの男はその場で身をかがめて私の左手を掴んだ。

 そして人形でも扱うかのように強い力で引き、私の上体は左腕の鋭い痛みと共に無理やり起こされた。間髪入れずに胸のあたりに男は腕を回し、床を引きずって私を壁にもたれさせる。

 

「……」

 

 ずいぶん痛かった。左腕が千切れるかと思った。でも声は上がらない。喉を音が通らない。

 

 ぼんやりとした視界の端で、男は水の入ったペットボトルを開封した。そのまま私の口に傾ける。

 

 手荒な運び方をしてきた割には水の注ぎ方は丁寧なものだった。私は喉を鳴らして水を飲み、せき込むこともなくボトルを一本飲み干した。

 男は空になったボトルのキャップを閉めて立ち上がる。

 

 水分とはすごいものなのだと痛感した。体がそれを欲しがっていたのだから、経口摂取した先で最も効率よく体内の塩分濃度と水分量を調節しようとしている。

 

 つまるところ、ぼやけた視界は数十秒前より鮮明になり、思考にかかっていた靄は徐々に晴れていき、体を覆っていた倦怠感は体感できるほど和らいだ。まるで、寝ていた体が動き出したかのように。

 

 そして耐え難い尿意が襲ってきた。

 内臓も機能し始めたのだろう。

 

「……お願いを言ったら、聞いてもらえる状況ですか」

 

 たぶん無理だろうと思いながら、私は顔を上げてペストマスク越しに男の目を見た。どこを見ているのかは黒く丸いガラス越しにはわからない。ただこちらを向いていることは確かである。

 

 ペストマスクの男の返答は五秒経ってから帰ってきた。

 

「内容による」

 

 それもそうだ。私は人質。あるいは商品。なんでもは聞かない。当たり前。

 

「トイレに行かせてください」

 

 不思議とあまり羞恥心はなかった。顔が見えないからなのか、それとも疲労と負傷が重なってそれどころではないのか。

 

 男は、これまた数秒の沈黙を守った後、

 

「自力で立てない人間がどうするつもりだ」

 

 低い声で至極もっともなことを簡潔に述べた。

 

 私は私の下半身を見た。

 この部屋へ入れられる前に金網に引っ掛けたスポーツウェアは、今もそのまま。白い下着が露出している。

 

 自力で立てないということは運んでもらうしかない。しかし運んでもらった先で一体どうやって用を足すのか。

 満足に手も動かない。下着を下ろすこともままならない。確かにそうだ。

 

 でも。

 だからと言って、酷な話だ。

 

「……ここで、垂れ流せと?」

「それ以外に何がある」

「私をどうするつもりかは知りませんが、感染症にかかれば商品価値は落ちます。生かしておくつもりがあるのなら、最低限の衛生管理を希望します」

「お前は商品ではない。生かしているのも気まぐれだ」

 

 男はそういいながら、ポケットから錠剤を取り出した。弱い鎮痛薬。痛みを取り去るのは数十秒。

 それを私の傍へと放り投げ、何も言わずに部屋から出た。

 

「……」

 

 これを、飲んで。

 自力で用を足せと。

 部屋の鍵を閉めて出ていったということは、この部屋の隅でしろということか。あの、部屋の隅の床色が微妙に違うのはそういうことか。

 

 左手で錠剤のシートを掴む。それだけでも重労働。穴の開いた腕は継続的に痛む。少し動かすだけで顔をしかめずにはいられない。

 それと、生理現象の方も、もう限界に近い。

 

 いや、

 

「……」

 

 限界、かな。

 左手の力を抜いた。無理。

 

 太ももや臀部に伝う生暖かさを務めて無視して、この事象の結果起こる自身への身体リスクを考える。

 感染症を引き起こすか。

 濡れてしまった部位から体温を奪われるか。

 そうなればもうあまり長くは持たないかもしれない。緩やかだが確実に命の終わりを感じる。

 

「…………千束」

 

 私は。

 どうしたらいいのだろうか。

 何に希望を持てばいいのだろうか。

 

 左手の中のアナルジンは、やたらに重かった。




「アナルジン(Analgin painkillers)」
最も安価で入手しやすいメタミゾール鎮痛剤。(wikiより引用)

ワイプ直後にこの錠剤で何度か命を救われたことがあったな……。
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