「ハンス。たった今悪い知らせと最悪な知らせが入った。どっちから聞きたい?」
静謐かつ豪奢な高級ホテルの最上階。
温かみのある光に包まれたスイートルームの食卓へ、慌ただしく入ってきた男が戦闘用ブーツの底を鳴らしながら選択肢を投げつけた。
食卓についていたハンスと呼ばれた男は、手にしていたスプーンをテーブルに置き直し、すぐ隣まで息を切って近づいてくる男────ジョニーへとあまり生気のない眼光を向けた。
「悪い方から」
「あぁ。例のボルシチデータを奪った奴は死んでいない。仕事は失敗に終わった」
「座れ」
ハンスが着席を促したが、ジョニーは片手で静止した。どうやら冗談を言っている間もないほど急いでいるらしい。
ハンスは一度だけ指でテーブルを叩いた。目線はジョニーから離していない。
「最悪の方は」
「ペストマスク野郎から、例の女子二人のうちの片割れを拘束していると報告があった。ついでに身柄の引き渡し交渉だ」
「…………」
ハンスの表情が一瞬引き攣った。
ジョニーから目線を外し、テーブルの一点を見つめる。長く息を吐いて目を瞑った。
「交渉内容は」
「身柄を拘束している場所の情報と引き換えに、今回の戦闘に関わった組織の情報を要求している」
ジョニーが上着のポケットから紙切れを取り出してハンスの前へ置いた。目をゆっくりと開いたハンスは、メモに触ることなく、その内容を読み取って、
「CIAが絡んでいると思われる情報は一切触れるな。ブラック・ディビジョンのことは持っている限り全て渡せ。拘束されている者が生きていることをこちらが確認した後、戦闘に関わったブラック・ディビジョン以外の勢力の情報を渡すと伝えろ」
「了解だ」
ジョニーはメモをテーブルに置いたまま、足早に部屋から立ち去った。
ハンスはゆっくりと首を左右に振ってから、テーブルのスプーンを持ち直した。ロシア連邦軍のレーションを開けて、中身を取り出す。
ミートペーストをスプーンでほじくり出し、クラッカーに載せる。口へ運んで咀嚼するが、さしてうまそうでもなく〝必要な補給〟として機械的に手を動かした。
全てのクラッカーを食べ終えた直後、テーブルの端に置いていた通信機が受信を知らせた。目だけでそれを確認する。
機械的なノイズの混じった音声が、静かな部屋の空気を震わせた。
『第111工兵部隊〝イルクーツク〟準備完了。出撃許可を願う』
ハンスは布巾を手に取ると、緩慢な動作で口元と手を拭ってから通信機に手を伸ばし、
「〝イルクーツク〟の出撃を許可する」
短く、それだけを告げた。
苦難の数だけ刻まれたと思われる深い皺を一層深めるようため息をつきながら、通信機をテーブルへ置いた。
◯
薄暗い廊下の突き当たりで、ジョニーは窓を開けてタバコに火をつけた。ガラス窓から顔は覗かせない。いつ、どこから、何が狙っているかわからない。
地上数十階のこの位置を撃ち抜くには同じ高さのビルへ登らなければならないが、そうしてでも殺されたって仕方のないことをこの数ヶ月はやってきた。殺して、殺されて、また殺す。組織とはそういうものだ。
その組織を動かす地位にいるということは、たかがタバコ一本を吸うために窓を開けるのにも慎重にならざるを得ないということだろう。
先端に赤い光を灯しながら紫煙を肺へと送り込み、ほんの数秒止めてから深く息を吐いた。
頭の中に、つい先ほど送り出した部隊の情報が勝手に流れて整理されていく。
第111工兵部隊。TACコード〝イルクーツク〟と銘打たれた部隊は、装備をAK-12で統一した地元住民構成分隊であり、ハンス商会の私設部隊の一つである。
元工場労働者、エンジニア、メカニックで集められており、機械操作や車両の確保、住居への侵入と陣地の構築を得意とする人員で構成されている。
ゆえに、拘束されている人質の救出に適していると判断された。
元々の部隊構成員は12名。しかし数日前に行った情報収集のための戦闘でその数は減り、現在は8名の人員で任務に当たっている。
隊長の名前はカラニード・ドラチェフ。
元ロシア連邦保安庁所属。技術職として主に機材や兵装の調達、納入を管理する部門に所属していた。趣味でクレー射撃を行っており、実際銃の扱いには長けている。
訓練の成績も良い。チームで仕事をすることに一定の経験値と確かな技術があるのも、彼を分隊長にしている理由の一つだった。
ジョニーはタバコを半分ほどの長さまで吸うと、別のことを考え始めた。
今回の仕事を依頼したペストマスクの男。
ザイーツという男の目的が見えてこない。
ただ情報を要求してきた以上、今後も我々と関わるつもりがあるのは確かだろう。仕事に失敗した挙句、殺すなとオーダーされた対象を拘束してあまつ交渉材料にする精神は尊敬に値するが、まともな精神状態でないのは確実。
今回は相手の勢力が強大だった。
それを鑑みれば、むしろ敵の身柄を一人確保した上で戦闘地域から脱出していることは評価できる。
そしてあのあたり一帯は〝何者か〟に砲撃を受けた。断定はできないが、誰がやったかは見当がつく。
「…………」
短くなったタバコをその場に捨てて、ブーツの底で捻り潰した。
「本気でやり合うことになるかもなぁ」
心底嫌そうに。
すり潰したタバコには目もくれず、ジョニーは廊下を戻っていった。