ペストマスクの男の背中越しに見る夜のタルコフ市は、一層不安の強くなるものだった。
自分の両足が地についていないのも大きな要因であるとたきなは冷静に分析したが、それを除いても今この瞬間のこの場所は、例えるなら腹を空かせたクマの前に目隠しで立っているのと同じだろう。
建物の裏手から素早く飛び出したペストマスクの男は、四眼ナイトビジョン越しに裏手の細道を見通してから、機械的な動作で数発の銃弾を放った。
たきなも銃口の先に目を凝らすが、人影は見当たらない。大通りの街灯と僅かな月明かりは、両側にそびえる小汚いコンクリート壁に遮られている。それこそ、ナイトビジョンがあってようやく視認できる明るさ。
しかしたきなの不安とは裏腹に、ペストマスクの男の攻撃は一方的に成立している。
敵が撃ち返してこない。何を撃っているのかもわからないほど暗闇と遠距離に向かってペストマスクの男は断続的に撃ち続けている。
およそ60連マガジンの半分ほどを撃ってから、前進し始めた。
「…………排除、できたんですか」
耳元で、男の神経を逆撫でないように努めて穏やかな声で聞いた。返事はない。
ぺストマスクの男はぴたりと水平にM4A1を突き出したまま、人がすれ違うのがやっとの細い路地へと足を運んだ。この先に銃弾を注ぎ込んだ場所がある。何人か死んでいるはずだ。
暗闇に目が慣れてきたたきなは、よく見ると両壁に血痕がついていることに気がついた。しかし死体はない。かなりの出血量だし、おそらく一人のものではない。
この男は一体どういう撃ち方をしたのか。相手が即死していない。
まるでわざと手負にしているかのように。逃げ道を意図的に作り、反撃はさせず、生殺与奪を常に自らの指先に委ねているかのような。
たきなは両足の傷が急に疼くのを感じた。我慢ならず身を捩ったが、ペストマスクの男には何の影響もない。
この足の負傷は、この男によるものかと。
男の部隊が、などではなく。この男直々の攻撃であり、それがこの男の戦い方なのだろう。
周囲の壁から血痕が消えた。代わりに建物のドアが開いて、その出入り口に死体が連なっている。
ペストマスクの男は警戒しながら入り口周辺をクリアリングして、一度建物に入った。
床は木板張り。古い建物をその場しのぎで増改築しているのか、入り口時点で中が入り組んだ構造になっていることが見てとれた。無論、奥まで侵入する気はないだろう。
入り口から二つ向こうまでの部屋と廊下の死角に漏れなく銃口を向けて、そこに生きている人間がいないことを確かめてからペストマスクの男は死体の前でしゃがんだ。
M4A1を右手に抱えたまま、左手で死体の胸元を探る。
ドックタグはない。まず服装が一般市民とそう変わらない。着ている防弾ベストはロシア連邦軍のもので、持っている銃も道端で拾ったにしては手入れされている。
ポケットや荷物も軽く漁り、いくつかの戦利品を自身のポケットに忍ばせてから、立ち上がった。
「レイダーだな」
「…………レイダー?」
たきなには聞き馴染みのない言葉だった。どういう意味か問いたかったが、男の次の言葉を待った。
しかし何も発さない。建物入り口から左右を見渡した男は、そのまま滑らかな動作で小道へと出て、移動を再開し始めた。完全に聞くタイミングを失った。
そもそも襲撃者の本隊を叩いたはずなのに移動し続ける理由がわからない。聞いたところで教えてくれるわけもないが、今現在何が起きているのか、これからどう動くのかがあまりにも不鮮明すぎる。
この男の名前すらもまだ知らない。
自分を半殺しにして商品にする人物の名前など知ったところでどうするというわけもないが、たきなは無性に自分の〝何も知らない〟という事実に腹が立った。
この男の顔も名前も何をしているのかもこれから何をするのかもわからないという事実に憤りを────。
「…………」
いや、違う。
たぶん違う。
不安だ。恐れだ。自分は怒っているのではなく、きっと怖いのだろう。見通しの立たない暗闇で、目隠しをして立っているのと同じだから。
だからせめて名前だけでも教えてほしい。
たきなは至極冷静に自分の現状を振り返った。憤るのは精神の疲弊からくる余裕の無さの現れだろう。もっと根深いところにこの感情の震源がある。結局〝怖い〟に違いない。
ならば知ろうと動くしかない。殺されることはもうないのだから、やれることはやった方がいい。
たきなは半端に力の入る左手を動かして、男の腹部に腕を回した。そのまま軽く男のリグを叩く。
「名前、教えてください」
「…………」
「あなたの目では気が付かないことや、知らないことが起きた時に効率よく伝達できます」
たきなの言葉に、ペストマスクの男は相変わらず無言のままM4A1を機械のように操作して小道をクリアリングする。
十秒以上経った。試みは失敗したとたきなは左手から力を抜いて息をついたが直後に、
「ザイーツと呼べ」
ペストマスク越しにくぐもったロシア語が届いた。
たきなは口の端を僅かに上げてから、
「井ノ上たきなです。たきなと呼んでください」
ひとまず、猟奇的な誘拐犯への自己紹介は成立した。ほんの僅かだが、先行きの不透明さに改善の余地が見つかり、全身を震わせるような不安も微々たるものだが和らいだ。
◯
ハンス商会が根白にしている高級ホテルの中階層。宿泊室の一角に設けられた作業デスクには、書類やメモが散乱している。
それら何十枚もの情報に視線を走らせていたジョニーの通信端末が着信を知らせた。手にして耳に当てる。
『〝イルクーツク〟より報告』
「許可する」
『商品受け渡し場所に対象人物なし。繰り返す、対象人物なし』
ペストマスクの男が捕らえた人物。日本から送り込まれた少女二人組の片割れ。これを回収しこちらの持っている情報と交換取引するために向かわせた部隊からの報告だった。間違いなく悪い知らせになる。
「…………詳しく話せ、カラニード」
事務的な手続きから一歩踏み込んだトーンでジョニーは返答した。近くの椅子に腰を下ろし、タバコを一本咥える。
派遣した部隊の隊長、カラニード・ドラチェフはため息混じりに言葉を続けた。
『引き渡し場所は何者かの襲撃を受けたみたいだ。出入り口で手榴弾を喰らったバカが死んでいた』
「死体の数は」
『この建物には一人。裏の通りに五、六人死んでいた』
「どこの連中かわかるか?」
『見た目だけじゃ判断できん。ロシア人なのは確かだ。服装はスカブだが装備がいい。間違いなく何処かの息がかかった連中だ』
「くそったれが…………」
思わずついて出た悪態と一緒に、タバコの煙を嫌そうに吐き出す。
目を瞑り、この後のことを思案する。つまり、ペストマスクの男ザイーツは捉えた日本の女子高生の片割れを連れたまま夜のタルコフ市を練り歩いている。
情報は錯綜する。加えてまだ何か〝用のある〟連中が手を出してきている。相手が何を目的として、しかもピンポイントに取引現場へ強襲してきたのかがわからない以上下手に次の合流地点を指定することも難しい。
『ジョニー、どうすりゃいい?』
端末の向こうでカラニードが急かす。確かに時間の余裕はない。どうも相手には情報戦で先を越されている。最前線の兵隊がスタンドプレーでその場しのぎの勝利を収めているに過ぎない。この状況はよろしくない。
ジョニーは眉間を指でつまみながら絞り出すように、
「別の手を打つ。カーディナルホテルへ向かえ。すでに〝ポス〟が動いている。ポスと連携し随伴歩兵として一帯を占領しつつ、戦闘の痕跡を探れ」
『了解』
通信はそこで終了した。ジョニーは短くなったタバコをデスク端の灰皿へすり潰し、一枚のメモに目を落とした。
差出人はチェルノボーグ。スラブの死神は死神らしい情報を寄越していた。
内容はハンス商会の主力部隊派遣を勧める旨。信頼に足るその報せに基づき、ハンスは数時間前にプスコフ装甲騎兵────巡回装甲車輌部隊、TACコード〝ポス〟の出撃を要請した。ポスの部隊編成は装甲車両が四両。そのうちの即応できる一台が向かった。
それでも動かす価値があると判断した。ハンスも、自分も。
瞬間的に叩かなければならないものがある。あるいは抑えなければならない局面がある。電撃的な火力を持って事態の収拾に努めるのは古今東西の習わしだろう。
なにより、チェルノボーグからの念押しがあった。〝戦わずに済むならそれが良い。できれば殺してほしくない。いい奴だから〟と。
ジョニーはもう一本タバコを取り出して火をつけようとした。ライターに親指をかけた瞬間に、端末が着信を知らせた。舌打ちを一つして邪魔した犯人の宛名を見る。ハンスだった。
「どうしたよボス。俺は今から一服するところだ」
『すぐに部屋まで来い』
「…………なにがあった」
火をつける前のタバコは箱に出戻りする。電話越しの返答を聞く前にジョニーは部屋から飛び出し、足早にエレベーターへと向かった。
端末の向こうのハンスは至って抑揚のない声でジョニーの質問に答える。
『ロシア政府に動きありだ。アメリカの犬が入り込んでいる証拠を提示すれば、一儲けできる』
「はは! そりゃいいな。最高に良い知らせだ」
エレベーターが到着。両開きのドアをくぐり、ジョニーは中に入って鼻を鳴らした。
「陸の孤島が金塊の街に早変わりか。でもどうやって通信を? 断絶していただろ」
『直接話す』
「あいよ」
エレベーターが最上階に着く。ゆっくりと開いた扉をくぐり抜け、ジョニーはブーツの音を鳴らしながらハンスの部屋へと入っていった。
タルコフにロケットランチャーが来たみたいですね!
ぜひ装甲車に撃ち込んで横転させて女の子の右足を挟みまs(噴進音
バックブラストにダメージ判定あるの最高にタルコフ味。好きすぎる。