命の危機、あるいは強いストレスがかかった時、人は脳の処理速度を限界まで上げて世界を〝遅く〟させると、DAの講義で聞いたことがある。
そこで見える世界は、自分の危機であればその危機から脱するために。
他人の危機でその世界が見えたなら、その他人の命を守るために自身の脳が見せているのだと。処理速度の上がった脳による緊急的思考で、その他人の────守りたい者の命を守るために、最適な行動を選ぶのだと。
千束は、目の前で血を纏いながら倒れていくたきなの背中が地面に付くよりも早く、入り口の床を踏み抜かんとばかりに駆け出した。
二秒で廊下の角に到達する。何の迷いもなく角から上半身を出して、廊下の北側の端、2階へと続く階段の曲がり角にKSGショットガンを三連射する。
敵のライトが引っ込んだ。姿も消える。敵の位置と自分の位置は約二十メートルほど離れている。人数は不明。最低でも一人はあそこにいる。
「千束ちゃん! 今!」
イレーネが左後ろからクリスベクターの引き金を引いた。敵が頭を出せないように弾を撃ち込んでくれている。千束はたきなの首後ろの襟を握って、事務所側に引き込んだ。敵からの射線はこれで通らない。
「よくも! よくもアタシのダチを撃ちやがったなクソ野郎ッ!!」
イレーネが怨嗟の声を上げながら弾を叩き込む。敵は顔を出してこない。
千束は床を見た。
たきなを引きずったところに血の跡が伸びている。たきなの長く綺麗な髪が、床に散らばってその血に染められていく。
千束はKSGショットガンを体の横に回し、焦る気持ちを無理やり抑えながらたきなの負傷箇所を確認しようとした。その時、
かん、ここここ…………。
イレーネの45口径の射撃音に混じって、今一番聴きたくない音が耳を叩く。イレーネが撃つ手を止めた。
千束は顔を上げるのと同時に廊下へ飛び出した。そして、転がってきた敵の手榴弾を蹴り返す。
「ちっ!」
廊下の北側で舌打ちが鳴ったような気がした。
千束が身を引っ込めた直後に、敵と自身の中程で手榴弾が炸裂。壁や天井に無数の穴が開く。
負傷者を引き込んだ直後の手榴弾。その判断力から察するに、敵の練度が高いことは明白だった。であれば、
「たきな、お願い生きててっ!」
悠長にたきなの手当てをする時間はない。敵を先に倒さないとこっちが全滅する。
千束はリグから黄色い外装のプロピタル注射器と緑の外装のeTG注射器を取り出し、立て続けにたきなの首筋へ突き立てた。
中の薬液が一瞬で打ち出される。
この二本の注射器は、人間の体の自己修復機能を高めてバイタルを安定させる作用がある。その代わり手の震えや視野狭窄、猛烈な空腹感などの副作用がある。常用はできないが緊急時には命を繋ぐ糸になり、今は、その糸を信じてたきなの命を現実に引き止めるしかない。
「リロード!」
イレーネが叫ぶ。廊下南端からの射撃が止まった。その隙を敵が逃すわけがない。
北側からの反撃。5.56mm系の射撃音がするが、M4系統のARの音とは少し違う。千束は壁に張り付いたまま、イレーネのいる側の壁に弾痕が走っているのを確認した。つまり敵は今、こちら側を照準していない。
千束は廊下に上半身を出した。KSGショットガンを突き出して、二十メートル先で左半身を露出させている敵に向かって発砲する。
敵はメインウェポンの銃口付近にタクティカルライトを取り付けている。薄暗い廊下を一方的に照らし出し視認性を確保して、照らし出された方は逆光のため敵の像が見えづらくなる。
千束は目を細めて敵の姿を捉える。しかし露出しているのは左半身のみ。胸の高さと思われるところで強力な光が発生しており、頭の位置や首の位置がわからない。
「くっ!」
一瞬の判断。一発撃ってすぐに身を引っ込めた。ただでさえ逆光で狙いにくいのに、二十メートルも離れていたら非殺傷散弾で精密に頭を狙うことはできない。当然拳銃でも無理だ。もっと近づかないと。
しかしライトが邪魔で銃口の動きが読めない。二十メートルの距離を確実に避けられる自信がない。
敵のヘイトがこちらに向いた。コンクリ壁の端が砕け散って飛んでいく。千束はあくまで冷静に状況を確認した。左手ではリグから取り出した7mm非殺傷弾をKSGショットガンに詰めていく。
廊下北側にいるのはたきなを撃った敵が最低でも一人。
先ほど一階に侵入してきたAKの男と、P90の男は北側の敵の仲間だろう。ということは分隊レベルでこの建物を制圧しにきている。一階と二階の同時奇襲。人数は? あと何人いる?
一人じゃないとしたら、敵はどう動く。どうやって一階を制圧しようとする?
一人が廊下の北側から私たちを釘付けにして、もう一人、ないし二人が回り込むとしたら。
どこに? どこに回り込む?
────出入り口、それが、イレーネのすぐ右側にある。
千束はそこまで考えて、イレーネの方に顔を向けた。鼓動のないはずの心臓が早鐘を打つ。目一杯叫んだ。
「イレーネさん右!」
千束の声は届いたらしい。クリスベクターに新たなマガジンを叩き込んだイレーネは、即座に右の出入り口に銃口を向けた。そして引き金を引く。
出入り口はわずかに開かれており、イレーネが引き金を引くのと、そのわずかな隙間から手榴弾が投げ込まれようとしていたのが同時だった。ピンの抜かれた手榴弾を持っていた敵の手は45口径弾に貫かれ、指と共に手榴弾が床に落ちた。
「やばっ!」
イレーネが思わず口に出しつつ、出入り口の方に足を向けてその場で伏せた。出入り口とイレーネの伏せた場所は五メートルほどの距離しかない。
被害を抑えるためにギリギリまで前に飛んだ。結果、頭が廊下側に露出している。このままでは北側の敵に撃たれる。
千束は牽制のため左半身を出して廊下の北側に発砲した。狙いはつけていない。敵が身を引っ込めてくれたらそれでいい。
身を乗り出した瞬間に敵のライトが目に入った。こっちに向けられている。千束は逆光でよく見えない銃口の動きを最大限予測して、その場でしゃがみながらもう一発撃った。
敵の5.56mm弾が頭上を過ぎ去る。白い光に紛れてオレンジとも赤ともつかないマズルフラッシュが周囲に瞬く。直後、耳朶を震わせる手榴弾の爆発音。西側の出入り口が大きく損壊し、周りには赤黒い肉片が付着した。
「イレーネさん!」
「生きてるよ!!」
千束は身を引っ込めながら確認。スイッチして伏せた姿勢のままイレーネが北側の敵を射撃する。引き金を引きながら叫ぶ。
「あんたのお仲間はミンチになったッ! 今にお前も風通しよくしてやる!!」
「それは困った。勘弁願おう」
敵の声が帰ってきた。
千束にはその声がドイツ訛りの英語であることがわかった。そして、声を聴いたイレーネは一瞬息を飲み、クリスベクターのマガジンが空になったので身を起こしながら壁に張り付いた。その表情が、烈火に燃える鬼の形相に変わっていく。
「アアアアアイイイイゼェェェンンンッッッ!!!!」
建物中に響くほど、イレーネの怨嗟のこもった叫び声がこだました。神速でクリスベクターのリロードを終えて、壁から身を乗り出す。
北側の敵はライトを消していた。半身を出してイレーネのいる側に銃口を向けている。
千束は顔だけを覗かせて敵の姿と装備を視認した。同時、目を見開いた。
敵の持つ銃は黒いAK。音が明らかに5.56mmだったので、西側の弾を撃てるよう設計されたAK101。その、ハンドガードの下には一目で〝撃たせてはいけない〟とわかる代物がつけられていた。
アンダーレールに装着するタイプの40mmグレネードランチャー。弾が撃ち出され、接触した瞬間爆発する。手榴弾とは違い撃ち出されたら最後、抵抗する間もなく肉片となる。
その、グレネードランチャーのグリップをアイゼンと呼ばれた敵の男は保持していた。引き金に指もかかっている。ぴたりとイレーネの方に照準されている。
「やはりイレーネだったか。逃げ出した割にはしぶとく生きているな。それもここで終わりだ」
アイゼンの指に力が込められるのを、千束はコマ送りのように視認することができた。だからこそ動けた。KSGショットガンを腰で構えて、引き金を引いた。
七つのゴム弾のうち六つは壁に当たり、一つがアイゼンの持つAK101の左側面を捉えた。ほぼ同時に、アイゼンはグレネードランチャーの引き金を引いた。
間の抜けたようなポンという音が廊下に響いた0.5秒後に、イレーネの張り付いている壁の廊下側に着弾。耳を砕くような爆発音と共に鉄片と粉塵が炸裂する。
破片はイレーネにも千束にも襲いかかることなく、廊下の壁を大きく削るにとどまった。千束の放った狙いをつけていない一撃が、偶然にもアイゼンの狙いを逸らした。アイゼンは少しだけ目を見開き、おどいたような表情をしたあと、
「ラッキーガールだな」
静かにつぶやいた。アイゼンの背後で二階に銃口を向けていた、ショットガンを持っている男が目線を動かさずに尋ねる。
「どうします、隊長」
「今の装備じゃ殺しきれん。三人やられた」
「書類は手に入りました」
「充分だ。引くぞ」
そう言うと銃口を下ろして踵を返した。
二階を警戒していた仲間がショットガンを下ろし、立ち替わるように壁際に張り付く。手榴弾を取り出し、千束たちのいる側へ投げる。爆発するよりも先に二人は二階へと登りだした。
「な!」
「こんにゃろ!」
イレーネが息を飲み、千束は爆発の衝撃で縮こまっていた体を無理やり動かして、転がってきた手榴弾を再び蹴り返す。
イレーネと千束が壁に身を隠した直後に炸裂。まだ粉塵が舞っている廊下をイレーネが走り出す。
「待て! 逃げんじゃねぇこのナチ野郎! ぜって許さねぇぞ!! ぜってぇ見つけ出してテメェの腐った脳みそ引き摺り出してやるッッ!!」
イレーネの怒りの叫びがこだまする廊下には、もう敵の姿はなかった。
千束はKSGショットガンに弾を給弾しながら、東側の出入り口から飛び出して外を見る。南に銃口を向ける。その方向に、二人組の男が走っていくのが一瞬だけ見えた。ほんの少しの間だけ見えたのち、男たちは遮蔽から遮蔽へ身を隠して、撤退した。どのみちこの距離では当たらない。立ち去ってくれるのならば、深追いする必要はない。
千束は胸を撫で下ろし、銃口を下ろして急いでたきなの元へ走った。
タルコフの主人公はお注射を腕に刺していますが、千束はここに至るまで毎回たきなの首に突き立てていますね。自分がされたら嫌なことを人にしてはいけません(白目)
まぁ慌てているから仕方ないか。効果も腕よりは首のほうがありそうだし。
【おしらせ】
めっちゃ今更ですが予告編のようなものを話数の一番最初に設置しました。
セリフのみ、千束やたきな以外にもここまで登場してきたジャック、イレーネなどの人物が出ています。
この物語で作者がやりたいことが何となく示唆されています。あんまり深く考えずにチラ見するといい感じかもしれません。