「これはダメでしょ……」
「致死量ですね」
千束の視線の先には、まだ真新しい血痕が広がっている。かなりの出血量なのか、ちょっとした水たまりのように踊り場に広がっており、その血溜まりは2階へと引きずるように繋がっていた。ライトの光を反射して、まだぬめるように見えるところから、出血して十五分も経っていない。
何者かはわからないが確実に他者の存在がこの建物にあることを確信した二人は、声を押し殺して言葉を発した。
「これ絶対誰かいるよ」
「いるとわかっているなら、無力化してこの辺りの情勢を聞くチャンスかもしれません」
「チャンスかぁ……でも怖いなぁ」
「先へ進むのはやめておきますか?」
静かに問いを投げたたきなに、千束はほんの僅かな間を持って黙った後、小さく息を吸って首を横に振った。
「いや、たきなの言う通り都合はいいと思う。この辺よくわからないし、タラカンさんとの合流地点はまだ三ブロック先なんでしょ」
「そうです」
「じゃあせめて、スナイパーとか罠の情報はこの辺で欲しいよね。いつ撃たれるかわからない」
「決まりですね。…………気をつけていきましょう」
「あいさー」
階段の先を注意深く照らす。踊り場で折り返して上に登った先はもう2階であり、このフロアも電気がついていない。もしかすると建物全体の送電が死んでいて、すべての電気が使えない可能性がある。
真っ暗闇の中、慎重に階段を登る。引きずるように伸びている血痕は2階のフロアへは繋がっておらず、階段の先の3階へと続いていた。
チラリと2階のフロアも照らし出して、人影がないことを確認してから3階へと進む。
2階と3階の間にある踊り場に着いた時、
「…………」
「千束、大丈夫ですか」
「…………うん。がんばる」
左腕が落ちていた。服装から察するに市民のものであり、切断面が異様にぐちゃぐちゃなためノコギリのようなもので切り落としたことが伺える。当然血痕も相当量広がっており、むせかえるような血生臭さに千束は顔を青くした。
しかしここで止まることはできない。血痕が3階の方へと伸びているので、跡を追うと決めたなら追うしかない。
言葉を失っている千束を心配するように、たきなが静かに優しく声をかけた。
「ただの腕です。千束が気に病む必要はありません。それに、この街ならたとえ腕が落ちても生きていればまた生えてきます」
「そうだね…………」
「わざわざ拾って届ける必要がありませんから、千束は記憶から消してもらって構いませんよ」
「できるかンなこと…………」
力無く、明らかに気分は悪そうだったが千束はいつも通りたきなに返した。
とりあえず大丈夫かなとたきなも頷いて、先を促す。
猟奇的な殺人者が潜伏している。どれほど殺しに慣れていて、どれほどの実力があるのかはわからない。ただひとつ、こちら側を殺す手に迷いがないだろうということだけは、火を見るより明らかだった。
千束もたきなもいっそう慎重に足を運んだ。足音を極力立てず、フラッシュライトの視覚情報のみに頼らず、ヘッドセットから聞こえてくるであろう敵の足音や息遣いを絶対に聞き逃さないように注意する。
3階にたどり着いた血痕は右に曲がってフロアの方へと伸びており、千束はライトを消して壁際に張り付いた。すぐ隣にたきなも待機して、万が一のために階段下に拳銃の銃口を向けている。
千束は壁に体の正面を向けてKSGショットガンを前に突き出す。左肩にストックを当てるようにスイッチして、少しだけ上半身を廊下に出した。同時にフラッシュライトを点灯。真っ暗闇の廊下を強力な光で照らし出す。
一瞬にして様相を割り出された三階の廊下。その中央、千束との距離わずか五メートルの位置に人影があった。
こちらを見ていた。目深に被ったフード、薄汚れた黒染めの外套、鼻まで覆ったフェイスマスクと、青白い肌、落ち窪んで生気のない目。亡霊のように立ち尽くすその存在に、千束は思わず息を呑んだ。
同時に。
「千束ッッ!」
たきなの叫び声。間髪入れずにたきなの9mmが炸裂するが、その発砲音が千束の耳に届くのと、自らの右足、太ももの後ろに鋭い痛みが走るのが同時だった。
千束が後ろを振り返る。すぐ目の前に、右肩に、男の顔があった。廊下の中央に立っている亡霊と同じ服装。フェイスマスクに大きなフード。不気味なまでに呼吸音が聞こえない。いや、それどころか
「ぐっ……うぅ……!」
遅れてやってくる熱を持った痛みに、千束は振り向きながら歯を食いしばって耐えた。動きを止めてはいけない。完全に不意を打たれた。
そのことを瞬時に頭の中で処理しながら、同時進行で反撃に転じる。KSGショットガンの銃口を背後の男の腹部に押し当てた。躊躇いなく発砲。男はくの字になりながら後ろに吹き飛び、廊下の床に倒れた。
千束が男を吹き飛ばした直後に、たきなは千束の左腕を目一杯強く引いた。千束の発砲時に出たマズルフラッシュで、廊下の中央にいた男の存在をたきなも認識した。今、千束はその存在に背を向けている。
たきなの左手が塞がっているためライトが照らせない。真っ暗な廊下に、それでもたきなは出鱈目に拳銃の引き金を引いた。
マズルフラッシュで一瞬周囲が明るくなる。その一瞬の視界でたきなは射撃位置を補正、廊下中央に立っていた男はこちらに向かって突っ込んできていたが、たきなは正確に男の膝を両足とも撃ち抜いた。
が、しかし。
「とま────」
男は、亡霊は止まらなかった。
確実に9mmが両膝を撃ち抜いている。それでもまるでおもちゃの弾を撃ち込まれたかのように、男は低い姿勢で接近して右手のナイフをたきなに突き立てようと距離を詰めてきた。
千束の体を放り投げるように手放して、たきなは男の突進を正面から迎撃しようとする。男の右手に握られたナイフのようなもの。それは一人目の男が千束の右足を切り付けたものと同じ。二叉に分かれている。
たきなは直感的に判断した。ただのナイフではない。何かがおかしい。────これを、一度でも喰らってはいけない。
本能のレベルでそう察した。頭の中で警鐘がうるさくなっている。
同時にたきなの中で何かが外れた。
本能を頼りにして判断したが故に、理性で押さえつけていた何かが、音もなく外された。
自らの生きてきた経験と境遇が、男のナイフを〝危険〟と判断し、そしてその危険なものに────すでに千束がやられているという現実が、たきなの中で急速に膨れ上がった。
実態はわからない。なぜ危険なのか正確に説明はできない。しかし、確実に、このままではダメだと。ためらえば自分はおろか千束も死ぬと。
たきなは冷静に判断した。そして決断するまでの間、男に許した行動は足を一歩踏み出すというただそれだけだった。
時間にして0.3秒もない。
ごくごく短いそのわずかな間に、たきなの目は、喫茶リコリコで千束と出会う前のそれになっていた。
人を殺すことに、疑問も躊躇いもない時の自分に。
ゆえに澱みなく。
流れるような確かな動作で、たきなは引き金を引いた。手の届く距離まで接近してきた男の眉間に向かって。
リコリスとしての人生を歩み始めた時から握っている拳銃を。
千束の声よりも聞いた回数の多い、耳に馴染んだ自らの
返り血が少量はねて、たきなの頬を汚す。崩れ落ちたフードの亡霊男を本当にこの世のものではないものにして、たきなはぐしりと右手の甲で頬を拭った。生臭い血が伸びてしまい、バラクラバに染み込む。たきなは顔を顰めながら、その不快感を努めて忘れることにした。
自分の姿になど構っている暇はない。
すぐさま振り返り、倒れている千束の元へ駆け寄る。千束を引き倒してから十秒ほど経っているが、自力で起き上がらない。その事実にたきなの心臓は早鐘を打ち続けている。
仰向けにして右足の膝を立てるように曲げる。少しでも心臓の位置より高くする。
たきなは焦りで動きが雑になる手を必死に抑えつけて、何度も落ちつけと自分に言い聞かせた。
傷の具合は? 他に負傷箇所は? あのナイフに感じた〝違和感〟は何か?
「千束、千束。しっかりしてください。足は? 止血しますよ」
まだ敵がいるかもしれない。時間に猶予はない。傷口を悠長に観察することもできない。まずは止血帯で太ももの血流を抑制し、出血を止める。同時に絶えず話しかける。
「千束。わかりますか。千束」
「聞こえ…………てるよ、たきな」
「具合は」
「よくは、ないね…………これ、あれだ」
千束の声が掠れている。力が入らないのか、声を出すのもやっとの様子である。
「……毒、だね。神経の……体が…………痺れて、力が……入らない」
たきなの奥歯がぎしりと音を立てた。割れんばかりに食いしばる。
「他に様子がおかしいところは」
「今は、しび……れ、だけど、あしが…………いたい……視界も……」
たきなは自覚した。頭の中でぶちりと、何かが音を立てた。
怒りで腹の底が煮えたぎっている。一瞬にして沸ききり、思わず叫びそうになったのをたきなは必死に飲み込んだ。飲み込んだ言葉が、叫びが、慟哭が、さらに怒りへくべられて燃え盛る。
「…………千束、移動しましょう。ここはダメです。毒が回らないように、極力動かないでください」
たきなはバックパックをその場に捨てて、千束を背負った。千束のバックパックもその場に置く。バラクラバをずらしてフラッシュライトを口に咥え、前方を照らす。右手に拳銃、左手で千束を支える。
足早に三階フロアを進み、右側の部屋のドアを手前から順番に開けようとする。ドアノブを回すが、しかしどれも鍵が締まっており、固く閉ざされている。
どこか、どこか開いていないか。
とにかく部屋へ。隠れられる場所へ。千束の身を隠して、それから────。
五つめの部屋のドアノブを回した時、ガチャリと音を立ててドアが開いた。間髪入れずたきなは扉を押し込み、中へと入る。
カーペットを敷き詰めた狭く短い廊下。階段から続いていた血痕が部屋の奥へと伸びている。廊下の端には蝋燭が何本も立てられ、そのうちの何本かが明かりを灯している。
壁には赤い色で、おそらくは血液で、奇怪な模様が敷き詰めるように描かれていた。たきなには何を意味しているのかは全くわからないし、知ろうともしなかった。
廊下を進み、半開きのドアを蹴ってそのままの勢いでリビングへと入る。
八畳ほどの広間。部屋の隅にはダブルベット。室内の至る所に蝋燭が立てられ、オレンジ色の光で室内を朧げに照らしている。その光源が映し出す壁や天井、床のカーペットにも、廊下と同じ紋様や魔法陣のようなものが描かれている。
蝋燭の燃える匂いと共に、むせかえるような大量の血液の匂いが充満していた。
部屋の中央には人がいた。一人だけ。こちらに背を向けている。
廊下で戦った男たちと同じ服装の、目深にフードを被った痩せた男だった。
男が振り向く。右手にはべったりと血のついたノコギリ、左手には拳銃が握られている。
たきなは全く躊躇いなく男の頭に拳銃弾を放った。男は一言も発することなく、後ろへと倒れた。男の後ろには
バラバラにされている死体の左腕がない。おそらくは階段の踊り場に落ちていた左手の持ち主だろう。市民の死体を損壊していたこの男たちが何者なのか、たきなは調べる必要があった。
しかしその前にやるべきことがある。背負っている千束をダブルベットに横たわらせて、千束のかぶっているキャップとヘッドセット、バラクラバを外す。たきなはリグからプロピタル注射器を取り出して、効果があるかどうかは不明だがないよりはいいだろうと千束の腕に突き立てた。
汗が浮き、前髪が濡れて張り付いている千束の顔を覗き込む。
「千束、これから男たちの持ち物とこの建物全域を探り、解毒剤を見つけます。千束のショットガンと拳銃、私のライフルをすぐに撃てるところに置いておきます。もしもの時は撃ってください。この部屋をまず調べて、鍵があるようならそれを使って施錠します」
「…………うん」
息も絶え絶えな千束は、目を瞑ったまま声だけで返事をした。
たきなはすぐに部屋の中を漁った。机の引き出し、棚の上、中、カーペット、そしてフードの男の死体のポケット。
「…………あった」
鍵らしきものを見つける。男は鍵以外には何も持っておらず、解毒剤となりうるものもなかった。
腰のシースには、階段で戦った男たちと同じ二叉のナイフが収まっていた。
たきなは鍵を部屋のドアに差し込んで、使えるかどうかを確かめる。間違いなくこの部屋の鍵であり、ひとまず千束を置いて行動するのにドア一枚の防護壁を作ることはできそうであった。
千束の元へ戻り、そっと千束の胸に手を添える。
拍動のない人工心臓が、必死に千束の命を繋いでいる。心臓が動くから全身に毒が回るのだが、心臓が動かなければ千束の体は生命維持活動を行えない。当たり前の二律背反に今更ながらたきなは歯軋りをした。
「千束、この部屋の鍵がありました。解毒剤はありません。他を探します。部屋の鍵は閉めていきます」
「た…………きな」
震える声で、千束がしぼりだした。
立ち去ろうとしていたたきなは足を止め、踵を返して千束の真横に立った。一瞬、迷うように自らの手を宙に出した後、ゆっくりと千束の左手を握った。千束の言葉を待つ。
千束が細く目を開けて、たきなを仰ぎ見た。毒の痛みか、瞳にはうっすらと涙が浮いており、少しずつ充血し始めている。
たきなの目は────人を殺す目をしていた。冷たく、仄暗く、命を命として見ていない者の目だった。
多くのリコリスが何の疑問も持たず行っている任務。殺しを肯定し、常識とし、必要とし、善とする価値観。それに従事するリコリスはみんな多かれ少なかれこの目をしている。
千束は以前から、一つの結論に至っていた。
〝おかしいのは私〟ということ。わかっている。錦木千束はリコリスの常識から外れている。
でも。
それでも。
私がおかしくても。異端児でも。それでも。
たきなは私と同じ目をしてくれていた。人を殺さない、人を助けるために引き金を引く。そうしてくれていたのに。そうやってそばにいてくれたのに。
────私のせいで、たきなが遠くに行ってしまう。
千束は震える声で、やっとの思いで声を絞り出し、か細く懇願した。
「…………そんな、目、しないで…………おね、がい」
千束には聞こえていた。
たきなの拳銃の音が。その弾が、人間の頭部を破壊した音が。殺された男たちの最後の呻き声が。
たきなが人を殺したことも、殺した理由が自分を助けるためだということも痛いほどわかっている。そうせざるを得ない状況を作ってしまったのが自分のせいだということもはっきりと自覚している。
わかってる。全部わかる。
それでも。
わかっても、飲み込むことはできない。たきなが人を殺すことを、仕方がないことだと認められない。
殺してほしくない。そんな身勝手なことを言えるような状況じゃなくても、たきなに、人を、命を、大切にしない行いなんてさせたくない。
でもどうすればいいのかもうわからない。
「たき……な、ごめん…………ね。私、が、気をつけて……いれ、ば」
「千束。わかっています。千束が何を言いたいのかも、私にどうして欲しいのかも」
たきなは千束の左手から手を離した。千束の手が力無くベットに横たわる。
「…………私は千束のために生きています。たとえ千束に嫌われても、私は千束が生きてこの街を出られるなら、躊躇いません。千束は────千束の信念を守ってください。私は千束を守ります」
たきなは千束に背を向けて、バラクラバをかぶりなおした。拳銃に新しいマガジンを入れながら部屋を出る。鍵を閉めて、廊下を走り出す。
廊下で、別の部屋で、階段で、くぐもった9mm口径の音が響いてその度に千束の耳朶を叩いた。
千束は力の入らない腕をそれでも顔の前に持ってきて、仰向けのまま目を腕で覆って肩を振るわせた。
目尻からとめどなく涙が溢れる。耳をつたい、枕を濡らし、散らばった白金髪に少しずつ染み込んでいく。
二人分の死体が転がる、血と蝋燭の匂いが充満する室内に、千束のすすり泣く嗚咽はいつまでも響いていた。