リコリスinタルコフ   作:奥の手

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鼠狩

 全身黒ずくめの人間が、冷たく乾燥した風が時折吹き荒ぶ建物の屋上に、なんとはなしに立って夜空を見上げていた。

 上腕部には階級章が付いている。地味な色だが造りは豪奢で、一目で指揮官クラスであることが窺えた。

 

 男は考える。

 この仕事は楽だと。

 

 羽振のいい大企業の清掃員をするというのは、ずいぶん楽な仕事だと。

 でかい製薬会社のでかい悪事をこの世から〝掃除〟するだけで、その後の人生はリゾート地にマンションを買って酒と女を毎晩注文し続けても、死ぬまでに使いきれないほどの大金が手に入る。

 

 ゴミをなかったことにするのは難しい。だから丁寧に集めて掃き溜めて、袋に包んで人目につかないところへ捨てる。

 

 それで? 何を掃除するかって。

 相手にするのは素人集団(ゴミ)か、素人に毛が生えた程度の元PMC(粗大ゴミ)だ。

 それも、もう指揮系統なんぞとっくの昔になくなって、身内同士で殺し合っている〝先代〟たちだ。

 お前たちUSECも美味しい思いをさせてもらっていたんだろう? 

 残念ながら、履歴書を出す相手を間違えたようだがな。

 

 男はMP5を両手に持ち、銃口は下げたまま振り返った。屋上へと繋がっている非常階段の入り口に、部下の一人が立っている。右手には血の滴るナイフが握られていた。

 

「終わったか?」

 

 男の短い質問に、部下は頷いて答える。暗闇で見えにくかったが、屋上には死体が四つほど転がっており、うち一つは部下の足元に転がっている。

 

「屋上の警備はこの4人。建物の中には全部で21人。東隣の建物には13人だそうです」

「上等な遺言だ。すでに死体のほうが多い」

 

 鼻で笑う男に、部下も小さく苦笑しながらナイフの血を死体の服で拭ってシースに戻した。死体の顔は、人種がわからないほど切り刻まれていた。

 

 部隊を率いている男のヘッドセットに無線が入る。

 

『こちらFoxtrot1(フォックストートワン)、ネズミが籠に入った。繰り返す、ネズミが籠に入った。数1。単発ライフル所持。単独のPMCと思われる』

「了解」

Hotel1(ホテルワン)、現在目標は籠へ移動中。損害なし。目標の応援も現時点まで確認なし』

「了解。引き続き誘導せよ」

 

 男とその部下が、手にしている武器のセーフティーをそれぞれ外す。部隊を率いている男は、返す通信を全体に流した。

 

Hotel1(ホテルワン)が犬を籠へ追い込む。ネズミは必ず殺せ。犬は捕えろ。我々の存在を嗅ぎ回っているバカに〝しつけ〟を教えてやれ」

 

 男は一度息を吸い、そして確かにゆっくりと命令を下した。

 

「ブラックディビジョン、戦闘開始」

 

 

 ◯

 

 

 拳銃のセーフティを外したたきなは、軽く目を瞑って息を大きく吸い、少し止めて、そして吐き出した。

 ゆっくりと目を開ける。

 ヘッドセットに聞こえてくる廊下からの足音は二人分。リノリウムを打ち鳴らす音が、まるでスロー再生のように脳内で処理される。

 

 右手に拳銃、左手は足元に落ちていた小瓶を拾い上げ、躊躇わず廊下へ放り投げた。

 

 小瓶が壁に当たって粉々に砕けるのと、たきなが床に上半身を倒して頭と腕、そして拳銃を廊下に突き出すのが同時だった。

 

 廊下には、全身黒ずくめの男が二人。たきなに相対して左の男の銃口は砕けた小瓶に向けられている。右の男は正面、本来ならば立っているたきなの頭が来る位置に銃口が合わされている。

 

 それは、ほんのわずかな一瞬の隙。しかしその一瞬で充分だった。

 たきなの人差し指は、昨日までのように、これまでのように、日本で、東京で、躊躇いなく引いていたそれと同じように。

 

 とても軽やかに二度、引き金を引いた。

 ほとんど一つ続きで鳴り響いた9mmの銃声が、廊下に反響する。マズルフラッシュで照らし出された黒ずくめの男の顔面は、バラクラバの切り抜かれた目の部分だけ感情をあらわにしていた。

 

 驚愕。驚嘆。そして諦観。

 小瓶に銃口を向けた男も、まっすぐヘッドラインに銃口を突き出していた男も、等しく視線だけは床に寝そべったたきなを見ていた。

 

 その目と目の間に、たきなの銃弾はそれぞれ一発ずつ吸い込まれる。頭蓋骨を破壊して、脳をかき混ぜて、後頭部から人体の頭部をバラバラにしながら弾が貫通した。かぶっている優秀なヘルメットの中で、変形した弾頭と脳漿が広がる。男二人は糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。

 

 たきなは廊下の二人が床に寝転んで永遠に起きなくなる前に、腹筋を使って素早く起き上がる。

 

 バックパックもボルトアクションライフルも、たった今射殺した男たちの数メートル向こう、通路の反対側に置き去りにしている。つまり武装はこの拳銃一丁と予備のマガジンが3本、手榴弾と閃光手榴弾がそれぞれ一個のみ。

 

 敵の数は? まさか二人ということはない。

 たきなは起き上がってすぐに入り口の左から右へ、素早く通過した。

 その際に、二つの死体の向こう側に銃口を確認する。

 

 階段へつながる通路から、二人の人間が上下に並んで銃口を出していた。

 たきなの通過したすぐ後に、掠れた発射音と弾丸の通過する甲高い音が鳴り響く。室内の壁と天井にいくつかの穴が空いた。

 

 たきなは周りを見渡した。反対側に来たはいいものの、ここは袋小路。朝食のトーストとミルクを用意して雑誌でも眺めるしか他にない、なんの変哲も無いただのダイニングキッチンだ。

 

 何か武器になるもの。

 あるいは遮蔽になるもの。

 

 部屋の作りはたきなに味方している。廊下を繋ぐ入り口からは左壁で戦いやすく、相手には確実に右壁の不利な体勢を強いる。しかし退路がなく、たとえば手榴弾を投げ込まれれば、千束のように蹴り返して対応するしか生き残る術がない。

 

 だがここを移動するならば、部屋の奥に逃げるしか無い。それは、廊下からの射線が一直線に通っている。まさか背を向けて奥へ行くわけもいかず、もう確実にこの場所で、少なくとも今廊下にいる二人は殺さなければならない。

 

 もしくは。

 

「…………」

 

 たきなは閃光手榴弾に左手を触れた。これを廊下に投げ込んで、一瞬の時間を作る。そうすれば部屋の奥には行ける。

 

 ────いや。

 奥へ逃げても、どのみち出入り口からしか外には出られない。

 始めから袋小路だった。

 奥へ退却するのは、退却ではなく追い込まれているだけ。ならばまだこの場所の方が戦いやすい。

 

 たきなは息を吐いた。ため息ではなく、早まる心臓の鼓動を少しでも落ち着かせるため。

 ふと千束の顔が頭をよぎる。わざわざ心臓を落ち着かせるんだ、なんて言ったら、千束は何ていうだろうか。きっとしょうもないふざけかたをするに違いない。

 

 たきなはダイニングキッチンの角から顔だけを出した。音をよく聞く。廊下を歩く音はない。ということは連中はまだ移動していない。

 

 直後、金属の筒が甲高い音を立てながら廊下に落ちた。跳ねるような音。二回。そして転がる音。

 

 その音の正体は手榴弾。廊下を転がってきた死の塊は、出入り口を通過して室内に入ってきた。たきなは顔を引っ込める。

 

 数秒もせずにその場で炸裂。ヘッドセットがなければ間違いなく鼓膜にダメージを追うような空気の破裂をもたらしながら、金属片が室内の床、壁、天井を切り裂く。

 

 たきなの肌を切り裂く破片は一つもない。もうもうと埃があたりに舞って視界が悪くなる。たきなは膝立ちになりながら角から銃口と顔を出してぴたりと構えた。

 

 来る。

 間違いなく。

 このタイミングで。

 

 たきなの読みは、果たして正解であった。

 左に一人、右に一人、上半身とアサルトライフルを覗かせてきた黒い人間に、たきなは発砲した。

 

 廊下からエントリーした敵には、おそらくたきなの存在は数センチしか見えていなかった。対してたきなはもう敵が入ってくる場所もタイミングもわかっていたので、それは圧倒的にたきなの優勢な戦闘だった。

 

 そしてその優勢な状況は遺憾なく発揮され、無事たきなへ銃口を向けていた右側の男は、一発も撃ち返すことなく首元に9mm弾を二発くらって崩れ落ちた。

 

 しかし問題は左の敵、たきなからは奥の敵だった。

 その男の反応は鋭かった。片割れが撃たれたと認知した瞬間にその場で膝立ちになり、撃たれた男が床に崩れ落ちるのとほぼ同時に奥の敵は上半身を捻ってたきなの方へ発砲してきた。

 

 たきなは身を引いた。敵がどれほど狙いを絞っているかはわからないが、この状況で右手に被弾したらもう勝ち目はない。音からして西側5mmの武器。M4か、それに準ずるもの。

 

 撃ち込まれる弾には目もくれず、たきなは素早く床に視線を落とす。何かないか。なにか、少しでも優位に立てるもの。

 

 そして、ジャムの入った瓶を見つける。同じ手が効くか? 

 わからない。でも手榴弾が存在する戦闘場面で、投擲されたものを見ないわけにはいかないだろう。

 自分だって必ず確認する。投げられたものがなにか、一瞥する。

 

 たきなは拳大のジャム瓶を取って、あえて蓋を開けた。

 まだ八割入っている苺ジャム。それを、

 

「プレゼントだ!」

 

 ロシア語で大きく叫びながら、左手で出入り口方向へ向かって投げた。間髪入れずに拳銃を突き出し、右目だけで状況を確認する。そこに一秒とかからない。

 

 視界に飛び込んできたのは敵が瓶へ発砲して飛び散る赤いジャムとガラス片。マズルフラッシュ、その出所はたきなから見て奥の反対側の部屋。男の右肩と右目が見えた。たきなは右手のみで拳銃の引き金を引く。

 

 銃弾は男のメインアームと右肩に当たった。銃の上部、ハンドガードの上半分と、おそらくバレルにもダメージがある。つまり敵の武器は沈黙した。そして右肩から出血。敵は、被弾と同時に身を引っ込めて、

 

「くそが! てめぇ女かよ! かかってこいクソビッチ!! 泣くまでファックしてやるぜッ!!」

 

 口汚く英語で罵った。たきなは迷いなくダイニングキッチンから飛び出して、全速力で走った。

 一瞬、千束の姿が脳裏に浮かぶ。今の自分はまるで千束と同じような戦い方をしているなと。命知らずにも距離を詰めて、確実に、敵を逃さず銃弾を撃ち込もうとしている。

 違うのはゴム弾か実弾か。そして銃弾を避けられるのか否か。

 

 どっちも後者で、千束に比べたら何もかも違うのだが、はるかに性能の良い武装を持った相手が、メインアームを失ったこの状況を逃す理由はない。

 機会は見極めなければならない。今は前へ出る時だ。

 

 数歩も走ると敵が身を引っ込めた部屋まで辿り着ける。そのはずだった。

 

 ――――慢心していたわけではない。

 事実、自身の左側、つまり外へとつながる廊下側には気を配っていた。そこは追加の敵が現れるかもしれないから。警戒していた。左側は。

 

 銃声は右側から鳴り響いた。しかし右は確かに間違いなく袋小路であり、いくつかの小部屋がドアを隔てて存在する、それだけのはずだった。通路などない。増援など来るわけもない。つまり敵が現れるはずがなかった。そう思い込んでいた。

 

 事実は違う。二人の黒ずくめが右目の視界に入るのと、それぞれが発砲してマズルフラッシュが見えるのと、右腕、右肩、右の脇腹、右の太もも、そして右側頭部に衝撃が走るのがほぼすべて同時だった。

 

 たきなは大きくバランスを崩す。つんのめって上半身が先行するように、敵が身を引いた奥の寝室に飛び込む。

 部屋に身を投げる前に、右手の拳銃を左手に持ち替えたのは、もうほとんど反射的な行動だった。

 

 転がり込むように、血の跡を床に撒きながら寝室に、入るというよりはほとんど慣性で傾れ込んだ体勢で、たきなは床に転がった。

 

 入ってすぐ右手のところに、全身を黒ずくめにした男が立っていた。ズボンも、シャツも、ジャケットも、アーマーも、リグも、バラクラバも、ヘルメットも、ホルスターも、全て黒一色。

 

 その男の左手に拳銃が握られている。拳銃も黒色だった。

 たきなは男の姿を床から見上げながら、自身のシルバーのスライドに乗っかっている照準を男の眉間にぴたりと合わせる。

 ヘルメットが側頭部に飛んできた銃弾を防いでくれた。鈍器で殴られたようにあたまがくらくらするが、運のいいことにめまいはない。

 

 視界は良好。照準の先で男の拳銃もこちらを向いている。そして。

 

 9mm口径の発砲音と、おそらく45口径の発砲音が、全く同時に部屋に響いた。

 それぞれ一発。ただの一発。しかし人を死なすにはお互いに十分なそれだった。

 

 結果、死んだのは男の方だった。全身黒色の男が唯一赤い血液を顔面から吹き出しながら、その場に崩れ落ちる。

 

 たきなは、

 

「ぐっ…………がはっ…………!」

 

 鈍く咳をしながら体を起こす。男の拳銃弾はたきなの胸に当たり、アーマーがそれを防いだ。しかし衝撃波は体に間違いなく襲い掛かり、事実たきなの呼吸は首を絞められたかのように浅い。

 

 浅くても。

 息ができなくても。

 結果脳に回る酸素の供給量が激減しようとも。

 

 今この場で寝転んで休むことは許されない。〝袋小路〟のはずの奥の部屋から、正確には部屋があるだろう奥側から、足音が複数聞こえてくる。

 

 部屋に潜伏していた? ありえない。何のために。わざわざエントリーした部屋のドアを閉めて待ち伏せする襲撃者などいない。すでに戦闘になっていたなら別だが、タイミングから見てそれはない。

 

 であれば。

 たきなは、もやのかかり始めた頭で必死に考えた。

 

 であればたぶん、そもそも〝袋小路〟じゃなかった。

 廊下か、あるいは部屋の向こう側が隣と繋がっている。ここは集合住宅だ。そんなに厚い壁じゃない。

 ちゃんとしたハンマーがあれば数十分で人が通れる穴くらい開けられる。それくらいのことはあるだろう。

 

 たきなは、今いる部屋の出入り口の、入って右側。ついさっき殺した男のすぐ傍で、壁に背をついて座った。

 背後で足音がしている。警戒しているのか、安易に入ってくる様子はない。よかった。数秒だけ寿命が伸びた。

 

 これはミスだ。

 部屋が隣につながっている可能性を落としていた。大きなミスだ。残念ながら、死に値する。

 

 右腕も右肩も右足も、もう動かない。立ち上がるのもきつい。そして右の脇腹。最悪なことに、アーマーを簡単に貫通するような良い弾を使われていた。脇腹に分厚い鉄板なんて入っていない。お守りがわりの防御力は、悲しいことに守ってはくれなかった。

 

 左手の拳銃を床に置く。

 回復薬を入れているリグのポケットに手をやって、そういえば千束のベットに置いてきたと、口元を綻ばせた。

 鎮痛はある。モルヒネを取り出そうとして、リグについているフラップを捲るために指が触れた瞬間、すぐ左側に足音がした。

 

 そっか。

 間に合わなかった。

 もうすでに、右半身が焼けるように痛い。これから左側も撃たれる。万が一打たれなくても、出血でこのまま死んでしまう。

 どうされるかな。

 虫の息だと分かったら、もしかしたら撃たれないかもしれない。

 

 でも撃たれなかったら。殺されなかったら。それはそれできつい未来が待っている。

 女性が戦場で生きたまま捕らえられたらどうなるかは知っている。死んだ方がマシな目に遭わされる。まして法も秩序もないこの街では。

 

 頭に靄がかかっていても、ここまでは考えられた。世界がゆっくりになっている気がする。実際に過ぎた時間は、たぶん一秒か? 二秒? もうわからない。すぐ左に人の気配はある。左目の視界の端にも、オレンジ色のサイリウムに照らされて、全身黒ずくめの人間がチラリと見える。

 

 何人いたんだろう。

 敵は全部で何人だったんだろう。

 この建物では四人殺した。あと何人いたんだろう。

 元気な状態の千束がいたら勝てただろうか。あるいは千束だけでも勝てただろうか。室内強いからなぁ、千束は。

 

 たきなは目を瞑った。左側の人の気配が、ぴたりと止まった。多分銃口をこちらに向けている。確認もできない。目も開けられない。

 

 ごめん、千束。

 だめだった。

 負けてしまった。

 こんな相棒で、ごめん。

 力になれなくて。

 助けてあげられなくて。

 もっとちゃんと見ればよかった。

 まだ他の可能性を考えるべきだった。

 反省してる。

 でももう遅い。

 ごめん。

 一緒にいることも、一緒に生きることも。

 そばにいてあげることも。いてもらうことも。

 できなくて、ごめん。

 千束。

 ごめんなさい。

 

「…………ごめん……なさい」

 

 両目から涙が落ちて深緑色のズボンを濡らすのと、廊下からマカロフの連続した発砲音が響いたのは、寸分違わず同時のことだった。

 

 

 




ストタルに聖地巡礼されたら分かっちゃうんですが、ちょいちょい集合住宅の中身の描写が事実と異なります。寝室じゃなくてリビングだったりね。ごめん……記憶ってこうも曖昧なんだね……。
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