千束たちが避難した建物はフュージョンと名付けられたビルだった。飲食店がテナントで入り、かつてはおそらく上品な料理を提供していたと思われる、豪奢で綺麗な内装だった。今は血痕や空薬莢、飲み食いの残骸が散らばり、栄光は遠い過去のものになっている。
南の方角へ、建物内部を警戒しながら慎重に三人は進んでいた。
大通りの方ではスカブが悪態を叫びながら走り回っている。位置はバレていないのか、建物に入り込んでくる様子はない。ただ、汚いガラスの向こう側にはどこを見ても人影がある。
「本当に囲まれていますね。一度二階へ登って全景を見るのはどうですか」
店の奥からテーブルの並ぶ店内を通り越して、通りの方をたきなが眉を顰めながらそう呟いた。アイゼンもこれに賛成し、目の前の螺旋階段を音を立てずに上がっていく。
行き先、つまり店舗の二階部分から物音はなし。目視でも確認して敵の存在がないことを確かめる。
「いないね」
「大丈夫そうです」
最小限の声量で千束とたきなが互いに頷き、そして千束は言葉を続けた。
「DAと何話したの?」
「簡潔に言います。私たちが居るこの街と、外の世界は流れる時間の速さが違うそうです」
千束は目を丸くして、それから天井を仰ぎ見て、次にアイゼンを見た。たきなとのやり取りは日本語でしていたので、その内容を聞かれている可能性は低い。現にアイゼンはまったく興味がない様子で、部屋の奥を警戒している。千束は、アイゼンに今聞いた内容を共有するべきか迷った。たきなとアイゼンの顔を交互に見る。
そんな様子の千束に、たきなは乾いた声で小さく口を開いた。
「千束」
「なに?」
「聞きたいことや話したいことがたくさんあります。ですがこの場所は危険です」
「それもそうだね」
「安全な場所にたどり着いたら、この深刻な問題を解決するための話し合いをしましょう」
「死亡フラグだからねそれ」
「なんですかそれ」
「マジかたきな……」
二階の通りに面した部分は全面ガラス張りになっている。いくつか銃弾が貫通して粉々になっていたり、蜘蛛の巣状にひび割れていたりする。
そのガラスの向こう側で、少なくない数の人の気配、あるいは誰かに向けた罵声が響き続けている。
せめて大体の人数だけでも把握したいと、千束もたきなも考えた。
「見てこよっか?」
「お願いします。アイゼンさんと私は奥をクリアします。いいですか、アイゼンさん?」
「話し合いは終わったのか?」
「終わってはいませんが、この場所で解決できる問題ではありません。いったん保留です」
「わかった。動くぞ」
テーブルと、中央には一段高い位置にピアノが鎮座するこのフロアには、南に抜ける出入り口があった。通りに出ずともこのビルの中は端から端まで移動できる。たきなとアイゼンはそこを目指して素早く立ち上がった。
「さてさて……」
千束は中腰で進み、テーブルからテーブルへ移動。外からの視界を切りながら窓際までたどり着き、柱に背を預けて眼下南北に伸びる大通りをさっと確認する。
「うん、たきなやばい」
『何人くらいいますか』
「三十はいるよ…………私たちを探してるっぽいね。かくれんぼの鬼みたいな動き方してる」
『だいぶ不利ですね』
「かくれんぼが?」
『ふざけてないで戻ってきてください』
「はいはい…………あ、ん? なんだろ」
ちらりと。
一瞬だけ、大破して横たわる車両の向こう側から、大通りの対岸にある建物に大柄な人物が入り込んでいくのが見えた気がした。
千束の並外れた動体視力と鮮明な視野でも、はっきり正確に、どのような装備と背格好の人物だったかは特定できなかった。一瞬である。しかし、思わず声を出すほどにはどこか異質な人影だった。
「なんか見ちゃったかも」
『なにを?』
「重武装の何か…………誰か。反対の建物に入った。でも見間違いかも。わかんないや、戻るねたきな」
『了解です。南の入り口まで移動しています』
柱に身を隠した時と同じように、低い姿勢で千束はなるべく早く移動してたきな、アイゼンと合流した。
レストラン二階の出入り口から、隣の区画へとつながる廊下を確認する。相変わらず音はない。発砲音も、建物内部はもちろん外にも響いていない。
「ねぇ、アイゼンさん」
近くに敵がいないことを確認してから、千束は先頭を行くアイゼンの背中に声をかけた。
「この辺りのエリアって、今は取りまとめている人はいないんだよね」
「ヒュージーの話ではそうだな」
「スキーヤーもそう言ってた。でもさ、普通何日もエリアが手付かずみたいなことってあるの? 誰かがそこを実効支配するのを繰り返すと思うんだけど」
「通常であればそうだな。だがここは事情が違うだろう」
「…………事情?」
「そうだ」
アイゼンは廊下のドアの前で立ち止まり、北東の方角を左手で指差した。
「このエリアは、この街がこうなった始まりの場所になる。俺の部隊が強襲し、証拠の隠滅を図った最初の場所だ」
◯
ドアを開けて室内に入る。
先ほどの飲食店とは空気が違った。鼻を通る匂いが全く違う。
血、腐敗臭、火薬の匂い。
数歩進んで右手に死体があるのがわかった。うつ伏せで倒れ、背中にナイフが刺さっている。それが致命傷となったのか、あるいは見せしめ、腹いせで死体が損壊されたのかは、千束たちにはわからない。
「この場所は────」
アイゼンがそんな死体を一瞥して、さしたる興味も示さず階段のほうに足を運びながら、平坦な声で千束に聞かせる。
「支配しようなどという話にならないほど、本来は常に戦闘になる条件が揃っている。にも関わらず情報屋が〝空き家〟宣言をしているのには、必ず裏があるだろう」
「…………じゃあ、本当はもうここは誰かの縄張りってこと?」
「縄張りとまではいかない。常に権利と利益を強奪する連中が睨み合っているということだ。いや…………今はその均衡が崩れた、と表現するのが正しい」
二階から一階へ。そしてガラス張りの扉を右へ曲がって建物の南端へ進む。
その部屋にはパソコンが並んでいた。通路を挟んで奥はミーティングルームだろう。小さいが立派なオフィスであり、ここがオフィス街の一等地であることが窺える。
そして足元には、そんなオフィスに似つかわしくない武器弾薬を収納する木箱が散乱していた。
デスクの下、横、棚の前。
この場所は簡易的な拠点だったのか。あるいは、ただただ地元住民が戦利品を蓄えているのか。
「…………」
アイゼンは、足元で口を開けている緑の木箱を見下ろした。中には無造作にM4A1が横たわっている。何もカスタムされていない、まるで西側正規軍の新兵が持たされるようなキャリングハンドル付きのM4A1。
ただし新品と違うのは、グリップとハンドガードに血の跡がついている。付着して時間が経ち、どす黒くなった血の跡が。
アイゼンは顔を顰めた。背中にべたりとした汗が流れる。気のせいでは決してない、首筋にひりつくような感覚。
あえて言葉にするなら、これまで銃を握ってきた人生で散々な目に遭わされてきた呪い。
この目の前に横たわる小銃は、自身も味方も窮地に立たせる。それは何度となく繰り返されてきた〝ジンクス〟の一言では片付かない前兆。
M4A1から目をそらす。
アイゼンは乾いた声で呟いた。
「嫌な予感がする」
オフィス内の電子機器やロッカーを見検めていた千束とたきなが、顔を上げてアイゼンの方へ振り返った。
直後。
千束は息を吸い、一瞬だけ南側の窓────遮光フィルムで覆われて向こう側は全く見えない────を睨んでから、隣にいたたきなをぶん投げる勢いでワークジャケットの襟首を掴んで床に引き倒した。
たきなから「くぎゅ」というあまり聞かない声が漏れるのと同時に、部屋が無数の弾丸で射抜かれる。
「うあああああああああぁぁぁぁぁ!!!!!!!!」
「ちょ!!! 千束!! 千束!!! なんですか!!」
「頭下げてたきな!!! ぜったい! 上げちゃダメ!!!」
弾丸は千束が睨んだガラス窓の向こう側から。
装弾数30発のマガジンで撃たれているとは思えない。もうすでにその倍の弾数が部屋に叩き込まれている。
ただ複数人の一斉射撃でもない。たった一人が、たった一つの銃火器で厄災をもたらしてる。
けたたましい銃声。腹に響くような低音の発砲音。大口径だろう。それが狂気を孕んだ連続性で千束とたきなの頭上を薙いでいく。
ロッカーも、机も、モニターも、部屋を仕切るガラスも、天井の蛍光灯も、ありとあらゆる部屋の中のものが爆発したのかと見紛うほどに吹き飛んでいく。
たきなは目を瞑った。恐怖からではなく、舞い散る鋭利なものから眼球を守るために。
対して千束は腹這いのまま左目だけ開けて匍匐全身。部屋から通路まで這ってその先、南側にある出入り口を見るために机の陰から顔を出す。
出入り口の先に広がるのは駐車場と植え込み。残念ながらこの暴力的な制圧射撃の主は千束の視界に収まらなかった。
そして、横から降り続けていた死の雨は唐突に終わりを迎えた。嘘のように銃声も弾丸も止まり、耳の奥にキーンと響くものを残して部屋は静寂に包まれた。
たきなが即座に立ち上がる。
廊下から南を見ていた千束も跳ねるように体を起こし、さきほど入って来た通路へ戻る。オフィスを仕切る薄っぺらい壁などなんの遮蔽にもならないとわかっているので、そのまま走り抜けて階段まで退却する。
目の前にアイゼンがいた。
千束、たきなの順でアイゼンの姿を確認し、それぞれがそれぞれ胸中で安堵を浮かべる。
「下がれ」
アイゼンの指示に従う形で階段まで走る。二人がすれ違うのと同時に、アイゼンが手榴弾を先ほどまで千束とたきなが伏せていた部屋に投げ込んだ。爆発するよりはるかに早く、アイゼンも踵を返して階段の真下まで前線を後退させる。
部屋の方で爆発。呻き声や悲鳴、銃声はない。
「報告」
「怪我なし!」
「無事です」
「よし」
奇跡、あるいは幸運か。
大口径の全面制圧射撃を受けてなお、三人には弾一発かすることもなく損傷なしであった。
「よく反応した千束。だが敵はまだ生きている。おそらく武装は7mm軽機関銃、この街に出回っているとなると────RPDあたりか」
「撃ってる人が見えないんじゃ流石に避けきれないよ。しかも百発くらい撃ってきたでしょ」
「そもそも避けるようなものではない」
アイゼンはリグから40mmグレネードの弾を取り出し、AK101のアンダーレイルに取り付けてあるグレネードランチャーへ叩き込んだ。
「やはり均衡は崩れていたか」
AK101を構えて、南の方角へ銃口を向ける。
「この場所で迎え撃つ。決して開けたところへ体を晒すな。たきな、二階の出入り口を止めろ。千束はそこの出入り口だ」
アイゼンが一瞬だけ指を刺した、階段から見て西側の出入り口に、千束がKSGショットガンを向けた。たきなは二階へ上がり、レストランとこの場所をつなげる出入り口へ拳銃を向ける。
外から、通りから、建物の向かい側から。
粗野で野太いロシア語の雄叫びが、聞くに絶えない内容でいくつもいくつも上がっていた。
グラゼロがマジで危険地帯ですね。
ただでさえ交戦距離がマウスtoマウスで息をするように銃弾が飛び交うのに、そのうえあんなバケモンまで寄り付くなんて。その太くて黒いもの頼むから出さないで。