「あのモニュメントなに?」
薄暮の頃、空は雲に反射した赤とオレンジの夕日が燃えるように広がり、地上はその光の影響をわずかに受けて薄く暖色に映し出される。
しかし肉眼で見通せる距離はせいぜい数十メートル。
薄暗がりは距離感や輪郭を容易に狂わせるため、そんな世界の中で真っ赤な鉄骨が組み上がった中庭の置物は確かに目立つ代物だった。
千束は窓の向こうのモニュメントを指差しながらグリゴリーの方に振り返るが、質問を投げられたグリゴリーはアヒルのような白いガスマスクをわずかに傾けて、
「知らんよ」
簡潔に答えた。「そっかー」と残念そうな声を上げながら、千束は前を向いた。
アイゼン、千束、たきな、グリゴリーの四人はカーディナルホテルの東端。三階フロアの一室に居た。
窓の向こうに広がるのはホテルとアパートの中間点にある広い中庭で、そこには千束が気になった赤いアーチ型のモニュメントやバスケットコート。製氷機を巨大にしたような浅い真四角の池が並んでいる。
まともな日常を送れていた頃にはきっと住民や旅客の憩いの場であっただろう面影が、三階から見下ろす景色にはあった。
ベンチのすぐ近くで放置されたベビーカーや幼児用の自転車。クマのぬいぐるみも落ちている。
つまりここには子供も住んでいたし、建物のロビーで全面に押し出されているテラグループの名前からして、一定数社宅の役割も担っていたのだろう。
「家族で住むところだったのかな」
部屋の中を見渡して、千束は静かに呟いた。すぐ近くでクローゼットの中を確認していたたきなが、残された婦人用の上着を一枚一枚めくり、途中に挟まっていた幼児服を手に取って動きを止めた。千束へ顔を向けて答える。
「子供もいたようですから、そうなんでしょうね」
「……逃げれてるといいな」
「これらの服には埃がかぶっていました。ずいぶん前の話ですよ」
たきなは幼児服をクローゼットの箱へ置き、リビングへと戻る。
ほぼ同時にアイゼン、グリゴリーも全ての部屋を点検し終えて戻ってきた。どこにもトラップはなく、ひとまずこの場所の安全は確保していることをお互いに確認した。
部屋の点検が終わってから、アイゼンはホテルの廊下にワイヤートラップを仕掛け始めた。手際のよい作業が終了すると殺傷能力の有無はあえて千束たちに伝えず、不用意に廊下へ出るなとだけ忠告した。もちろん触れればミンチになる仕様だった。
窓の外はいよいよ暗く、夜になる。見えていた赤いモニュメントは闇の中に埋もれて、姿を隠した。
アイゼンが窓のブライドを下ろし、一番大きな部屋であるリビングの窓二つに、近くにあったテーブルを立てかけた。材質が木材なので弾避けとしては心許ないが、これで室内の明かりが外に漏れることはない。十分だった。
たきながランタンに灯りを入れて、床に置く。アイゼンも近くに倒れていた丸椅子を起こして腰を落ち着かせた。
千束とたきなはランタンの傍で床にクッションを置いて座り、グリゴリーは二人掛けのソファにバックパックを投げてそのまま体を預ける。
全員が数秒息をつく。弛緩した空気がランタンのわずかに照らされた暖色光で満たされる。
「ハンクたちとの合流時間は?」
休憩もそこそこに、アイゼンの至極まっとうな問いが部屋に響く。
グリゴリーはガスマスクを取って頭を左右に振ってから、髪をくしゃりとかき上げて、
「三時間後。場所は南の建物の三階。それまでは南の建物には入っちゃダメ」
「理由は」
「ほかの人が使ってる」
「もし戦闘になったら」
「この建物で夜明けまで耐える。そしたら治安維持のグループが介入してくるから、それから合流」
「わかった」
アイゼンが頷き、そして携帯端末をリグから取り出して数十秒操作した。端末に目を落としたまま、口を開く。
「今のうちにお前たちは休憩を取れ。食事と睡眠をなるべく優先しろ」
「アイゼンさんは?」
「二時間で交代だ」
「りょーかい」
にこりと千束が笑い、バックパックから食料を取り出す。たきな、グリゴリーもそれぞれのバックパックから今夜の食事を用意して、手早く、無駄なく補給した。
たきながグリーンピースの缶詰を千束に無理やり食べさせようとしている時、アイゼンの端末が音もなく震えた。メールの受信だった。
「……」
送られてきた内容を見て、その顔が難しくなる。口元に手を置いて頬をさすったアイゼンを、グリゴリーが視界に収めていた。手にしていたビスケットをグリゴリーは口へ放り込み、水を二口飲んでから息を吸う。
「どうしたんだ」
「ん? あぁ、イレーネが到着している」
アイゼンの言葉に、千束もたきなも驚いた様子で顔を上げ、グリゴリーに至ってはその場で跳ねるように立ち上がった。上ずった声で明らかにうれしそうに、立ち上がった勢いそのままでアイゼンに質問をぶつけ始める。
「今どこ? どこにいるの」
「ホテル南端。通りを挟んだ向かいのカフェで一時的に待機しているらしい」
「行っていい?」
「やめとけ。まずお前は面識がない。撃たれて終わる」
「千束たちと一緒に行く」
「却下」
「なんで」
「俺の部隊だ。いつ敵が襲ってくるかわからん。単独行動は許可しない」
冷めた目でアイゼンがグリゴリーを睨むも、グリゴリーは無表情でアイゼンを見下ろし、睨み返す。数秒の静寂を破ったのは、千束の口にスプーンで無理やりグリーンピースをねじ込んでいたたきなだった。
「イレーネさんとアイゼンさんがいきなり相対するのはリスクがあります。ワンクッション入れるためにも、私たちがここまでの状況を説明してから再開するのはダメですか」
「……」
「戦力の確保が急務なら、必要な工程だと思います」
たきなの言葉に、アイゼンはほんの数秒目を伏せてから、大きく息を吸った。
「……あいつは合理性より感情を優先する。お前ではなく千束が話をしろ」
「
「じゃあ、いいんですね」
「ただしグリゴリー、お前はホテルから出るな。イレーネに撃たれる」
「えぇ……まぁいいや。わかった。この部屋に残ればいい?」
「そうだ」
「
口に詰め込まれたグリーンピースで顔をしわしわにしながら抗議の声を上げていた千束に、アイゼンはメモを一枚書いて渡した。抗議は無視している。
「千束、最悪話にならないならこれをイレーネに渡せ。お前たちはこのメモを見るな。見たら許さんぞ」
「んぐ……。えーそんなこと言われたら気になるんだけど」
「命令だ。見るな」
「そんなにかぁ。じゃあしょうがないかぁ」
渋い顔をしながらメモを受け取り、それをポケットへ丁寧に入れる。千束は続けてアイゼンに聞いた。
「すぐ出発したほうがいい?」
「そうだな。──警戒は怠るな。PMCがたまたま通りかかれば、不戦協定など関係なく戦闘になる」
「その時はすぐ通信する」
「それでいい」
○
千束とたきなは装備を整え、弾薬と医療品を確認し、部屋の出入り口前に立った。
「じゃあ、ちょっとイレーネさんところ行ってくる」
「連れて戻ってきていいんですね」
「戦闘にならなければな。最悪の場合、あいつをちゃんと殺せ」
「ねぇ、アイゼンさんそういうの冗談でも言わないでほしい」
「……悪いが冗談ではない。お前たちの身の安全が先だ」
「うへー。ありがたいんだけどさ……何とかならないかな……」
「行ってきます」
部屋を出て、ワイヤートラップを注意深くくぐり、千束とたきなはホテルを後にした。
宵闇をわずかな街灯が照らす大通りの端を、二人は最大限の警戒を持って進む。
夜の匂い。都市部の乾燥した冷たい空気が、微量の硝煙と混ざった香りを漂わせている。銃声は聞こえない。時々遠くの方で何かしらの音はするが、ホテルを出てから嫌に静かな様子であった。
本来なら、車も人も音を立てて多くが往来していたであろう。信号機の音も、エンジン音も、人と人の会話も、生活の物音も、今では遠い過去の物。
人の営みが終わってしまった景色に目を凝らす。火薬の匂いは気のせいか、それとももうこの街に染み付いて離れないのか。千束は後者かもしれないなと一人で納得した。
「……ねぇ、たきな」
「なんですか」
「イレーネさん、話せばわかってくれるよね」
「アイゼンさんのことを、ですか?」
「そう」
「……五分五分、ですかね」
「たきながそれ言っちゃうとマジで成功率半分になるからやめてほしい」
「なんですかそれ」
声量を絞って、それでも期待と不安のない交ぜになった心持ちを紛らわすために口を開きながら、二人は進んだ。
ホテル沿いの歩道を抜け、荒れた車道の直前で止まる。
通りに面した大きな窓の、ぐちゃぐちゃに割れてしまっている廃れたカフェテリアが二人の目に入った。
「ここだね。たきな、合図するよ」
「はい」
千束がKSGショットガンに取り付けてあるフラッシュライトを三回連続で発光させた。二秒ほど置いて二回。そして待つ。
すると、カフェの店舗奥の方から、返答するようにフラッシュライトが三回光った。数秒置いて一回。
千束が嬉しそうに小声でたきなに振り返る。
「イレーネさんで間違いないよ」
「行きましょう。射線に気をつけてください」
ホテルの壁沿いから、カフェとホテルの間に横たわる車道を横断する。道の真ん中まで走り抜ける。
そしてたきなの目の前で。
前を走っていた千束が、右方向へ崩れ落ちた。両足から大量に血が噴き出し、周囲のアスファルトにも穴が開く。
たきなの目には、ほんのわずか一瞬の出来事が、まるで数十秒のことであるかのように鮮明に、ゆっくりと、映し出されていた。
千束の左足が先に被弾していたことも。
血液が右側へ散っていたことも。
つまり左側面から攻撃されていることも。
たきなは瞬時に理解した。分析した。そのうえで判断した。
倒れた千束をかばうように、千束の頭と胸を守るように覆いかぶさった。
とっさの判断が生死を分ける。正解を引き当てられるかどうか、つまり死なずにいられるかどうかは、その時どれだけ冷静でいられたかに依存する。たきなはすぐに結果を知った。
足に衝撃。叩かれたような、刺されたような、あるいは真っ赤に焼けた鉄棒を押し付けられたかのような。痛みと熱。衝撃と痺れ。急速に足の力が抜ける。
「あっっぐぅぅああぁぁぁ!!!」
左右両方の足に数発の銃弾が当たり、たきなはたまらず声を上げた。膝、太もも、足首、臀部。どこにでも売っている何の変哲もない有名スポーツブランドのジャージでは、撃ち出された銃弾を防げるはずもなく、穴の周りをどす黒く濡らしていく。下半身の周りのアスファルトが鈍い音を立てながら砕け散っていた。同時に、たきなの足の肉も飛び散る。
銃声はない。発砲音はない。怒号一つも聞こえない。
たきなの悲鳴だけが、不自然に静かな夜の街にこだました。
「たきなの悲鳴」を聞くために、アニメ本編12話を見返しました。
怒りで声を上げるけど〝言葉になっていない〟のが悲鳴として表出される。こーれはやっぱりいつ視聴しても震えますね。演出の神技法だと思います。