『紡音心算物語』 作:けゆの民
第一話なので長いですが、今後は3,000文字付近で収まると思います。
投稿頻度は期待しないで下さい……作者が死に絶えます。
第一話:未だ終わらぬ初恋の挑戦権
◇◆行儀の良い月が煌めく時節
「──ふむ。つまり君は理系でありながらも、文系である私に恥も外聞もなく数学を教えて欲しいと懇願している、ということだな?」
目の前にいるのは、
学校において全教科で圧倒的一位を取り続け、どこか超然的にも見える幼馴染様だ。
何かと万能を誇り、欠点らしい欠点が見えない彼女に頼み込んでいる最中。
最中、ではあるのだが……
「幼馴染みのよしみで教えてくれると嬉しいな、って……」
毎回毎回、何もなしに教えて貰うことへの罪悪感からか目をそらしてしまう。
それを咎めるように彼女は言葉を紡ぐ。
あ、いつものだ。
そう思った時には手遅れだった。
「なるほど。君は私に対価なしで労働をせよ、と言うのだな? 当然の友人間及び親友間において無償でのやり取りというのはあり得ない話ではない。それは親愛による行動とも表現され、健全な関係とも言えるだろう。しかしそれが常態化するとどうだろうか? 人間というのは常に寄り添ってくれる物に対して鈍感になるものだ」
「例えば君は、突然空気が無くなることを想像出来るか? 主たるものだけでも窒素が消え、酸素が消え、アルゴンが消え、二酸化炭素が消える。それによって現存している地球上生命の大半が息絶えることは想像に難くないだろう。だがしかし、その空気が突如として地球という星から奪い去られることを人間は想像しない。日常にありふれているからだ。常態化しているからとも表現出来るだろう。確かに理論的思考を経れば突如として空気が消え去る可能性は考えにくいというのは事実ではある。だが何事においても可能性が零であるということは考えにくい」
「多元宇宙論が正しく、そして仮に異なる世界に魔法があったとしたら? 突如として異世界人がこの世界に攻め込んできたら? 空気を奪ったら? そう考えれば、限りなく零に漸近せども零と一致はしない。それぐらいは君にはわかるだろう? 故に君の日常に溢れている様々な事象というのは次の瞬間に消え去っている可能性は十全に存在するわけだ。それは私であっても例外ではない。帰り道、車によって事故に遭遇するかもしれない。睡眠中、突発性の心筋梗塞を発症し帰らぬ人になるかもしれない。はたまた、私が心変わりをする可能性だってあるだろう?」
死んだ目を取り繕いながらうんうん、と頷きながら聞き流していく。
紡音の悪い癖が出ている。
かれこれ十年来の付き合いとなるものの、昔からこの癖は変わらない。
一つの言葉や概念に対して余りにも様々な角度から検討を重ね、文字も重ねてしまう悪癖。
人によっては明らかに面倒臭いとすら感じるであろうこの性格との付き合いが続いているのは、ひとえに「惚れた側の弱み」というものである。
はっきり言おう。僕は彼女が……千言紡音という人物が女性として好きである。
これは言うまでもなく恋愛的な意味合いであり、断じて友達としてであったり、兄妹愛といったものでも当然ない。
……まあそもそもの話として、僕と彼女は同級生だから兄妹だとかそういうことはないのだけれども。
──そして一つ。注意しておきたいことがある。
僕の恋心……初恋とも言えるこの気持ち。
“文系の”天才様は既に気付いている、ということである。
◇◆空色の空席を照らす淡い暗闇の時節
それは、中学の卒業式が終わった日のことである。
一世一代の期待をかけて告白を成功させようとしていた当時の僕は、様々なことを調べた。
例えば少しでも印象良く見えるようにしようと、普段は考えない髪型に気を遣ったり。
はたまた全く信じていない風水に頼ってみたり。
ともかく、荒唐無稽な藁であってもすがりたくなる程の覚悟で人生初の告白を成し遂げようとしたのだ。
「──恋愛感情の話かい? だとしたらすまない。私にはその提案を承諾する意思はないとも」
そして、始まる前に終わった……終わらせられた、というのが正しい表現となる。
「ああ、勘違いだったのなら申し訳ない。だが瞳孔の動きや君の落ちつかなさ等情報を統合して考えた結果の予測だ。外れているならば素直に申し出てくれ。私も恥を晒したいわけではないからな」
追い討ちのように言葉がかけられる。
あの時の心情をどう解説したらいいのかなんて今でも解けない難題の一つではあるけれど……一つだけ今も昔も目の前に横たわっている事実には『失敗した』というものがある。
「いざ告白しようとした際に考えることは多岐にわたる。いや君のことだから既に考えたのであろう。例えば失敗した場合に波及しうる影響、関係性の変動、周囲への接し方とかがざっと挙げられるだろう」
「そして熟慮した上で、何とか凌げる、或いは十全に対象可能だと判断したからこうしているのだろうね。君は……普段は歯牙にもかけない風水をわざわざ考慮した上でこのタイミングを選んだ。なんともまあ君の考えそうなことだ」
……恐らく100%善意で構成された死体蹴りを添えて。
この瞬間、僕の心は完全に砕け散っていたといっても過言ではない。
初恋の人に対して「こいつもう永劫に黙ってくれないかな」と思うほどには激情を混濁させていた。
やろうとしたことからこれからの展開まで全て見透かされていたという羞恥。または挑戦することすら叶わずに拒絶されたことへの理不尽な怒り。加えて現在進行形で続く饒舌な死体蹴りへの諦観。
様々な感情が入り乱れ、子供の癇癪を遥かに越える激情となって燻る。
「そして以上のことに留意して断言しよう。『お付き合い』という契約関係を結ぶことによって、私への合理的メリットが発生する……とは思いにくい」
契約関係、合理的メリット。
目の前で羅列されたまるで恋愛とは程遠い言葉につい瞬きをしてしまう。
相対しているのが絶世の天才であり、同時に初恋の人物だと知ってもなお驚かずにはいられない。
まさか「お付き合い」に合理的メリットという……それこそ空気の読めない理系のようなことを持ち出すとは思わなかったからだ。
──だが、当時焦っていた僕はチャンスだと思ってしまっていた。
理系のフィールド。論理と合理で構築される素晴らしい世界においてだけは、目の前の存在と並ぶことが許されているのだから。
はじめのはじめ。出逢った最初から引っ張り続けている唯一の対等であるのだから。
怒り、焦り、困惑。
それら全てを胸の奥へと押し込み、予定を180度真反対にひっくり返す。
素直に伝えて玉砕もしくは成就させよう、という予定から説得して終わらせるという予定への変更。
天才様の土俵から、僕の土俵へと一時的にひっくり返して、落として見せる。
「なるほど。確かにメリットを提示しない交渉は成功する道理がない。納得は出来る」
儚い夜の雰囲気はたち消え、肌を木枯らしが駆け抜けていく。
この瞬間、僕の行動は告白から説得へと変性した。
「まずは世間体。煩わしい風聞等を退けられる。一々些末な会話に時間を捻出する必要もなくなるでしょ?」
具体例を挙げるならば『彼氏出来たの?』だったり、他人から告白された際の断り文句が出来るということ。
紡音は意味合いの薄い会話を興じる、ということが苦手だ。だからそれらを断る名目が出来るというのは十分メリットの一つになり得る。
そう判断しての提示。
「ふむ。しかしそれでは充分でない。加えて理論の演繹漏れがある。『私がその無意味な会話から得られる情報を重要視している可能性』を考慮していない」
だが。
千の言葉を紡ぐ音色の操り手にとってはその程度、児戯にしかならない。
僕が全身全霊で取り組んで、ようやっとスタートラインに立てるほどの絶対的存在。
言葉遊びで言いくるめようとするならば、言葉遊びで対抗して言いくるめ返そうとしてくる。
何年付き合ってきたと思っているんだ。その程度、予測出来ないわけがないじゃないか……!
「なるほど、一理ある。その会話から得られる……人間の流行を始めとした情報交換に意義が見い出せないとは言いきれない」
彼女の先程の言い分というのは、至極全うな理屈に従っている。
『日常生活における雑談は苦手かもしれないが、雑談をしたくないとは断定出来ないだろう?』ということだ。
確かにそうだ、と思い直し……脳内で整理した情報を言葉として出力する。
しかし、文字遊びのプロフェッショナルにかかれば文句の付け所というのは、数多見つかる星のようなものらしい。
「ああ、今の君の思考は危うい。情報交換の機会なんて恋愛話に限られず遍在的にあるものだ」
「理論的に反論されているように見えて、不可視の条件が設定されるというのはよく使われる手法だ。折角の機会だ。覚えておくと今後、君の人生において有用かもしれない」
紡音は、冗談でも良い性格とは言えない。極端に人付き合いという行為に対して向いていない、と言っても妥当な性格の悪さである。
だが紡音は、そういう人間だということはとうの昔に知っている。
──その上で、好きになってしまったのだから。
.「では次だ。何か他にメリットあったりするのかい?」
不敵に笑う冬夜の女王。
そうだ、僕はこれを見て一目惚れしたんだ。
絶対に僕のものにして見せる、という生存欲求すら圧倒する強い情念。
あの日にも見た、決して穢されない絶対性。
世界が揺るごうとも、天と地が争うとも、神の実在非実在が確定しようとも決して動かぬ千言の紡音。
そんな彼女を惚れさせてみせる、という強い意思。
「次の長所としては適切なタイミングでの情報交換が簡単になる、という点がある」
次の切り口は、情報交換という観点。
人間は世間において上手く生きていこうとすると、情報交換というものが必須になる。
細かいところだと直近の予定変更だとか、大きいところだと世界情勢だとか。
そして紡音という人物は、とことん情報を好む。
情報を収集し、分析し、自分なりの解釈を持った上で保存することを好む。
彼女が対外的に趣味を読書であると公言しているのも、その一環であると言える。
読書を通じて作者の価値観、書かれた時代の共通認識、その本が生まれるまでに描いた背景の色彩を読むことは楽しいだろう──とは彼女の言だ。
「なるほど。私と君では対立軸が数多存在しているのだから、それを活用すればお互いの知り得ない情報の交換が容易になる──そういうことかい?」
説明しようとしていた部分を読み取られたものの、それぐらいはいつものことだと気を引き締め直す。
彼女が読んでくるのならば、僕は更に深く線を引き直せばいい。
「男女間で得られる情報は違う。学校も男子校と女子校、と対極に位置するから。だからお互い入手不可能な情報を今後得続けることになる。この状況下で契約関係を提携すれば、任意のタイミングにおいての円滑な情報交換が可能になる。そうすれば未知の概念についての知見も深められるでしょ?」
深める内容といっても、僕の貧弱な思考ではこの程度しか捻り出せない。要は身体的特徴を活かした──境遇の差異による獲得可能情報の差。
そもそもの話として、同一の情報であったとしても見る人が変われば受けとる
そう踏んでの提起発言。
「ふむ。しかしそれは交際関係でなくとも可能な事象──いや、確かに円滑さという面では敵わないか。それにこれといった間隙もない。素直に認めよう。それは紛れもなく私にとって有益なものだ」
苦虫を噛み潰したような表情を見せ、これ以上の反論は袋小路になると予測した紡音は、軽く息を漏らす。
「まあいい。君の目と理論構成方法から、相当本気で考えてることはわかった。その上で聞こう。私にとって、交際相手がきみである必要はあるのか? 他の人間で──私が困る、或いは利益を十全に挙げられない理由を挙げてほしい」
ここまで駒を進めて。思考と言葉と努力を積み重ねて。
ようやっと、僕はスタートラインに立つことが許される。
彼女を口説くという行為が許され始める。
それに伴って、相対している彼女の雰囲気ががらりと変わり──その
「だがその前に……アガペーについては知ってるかい?」
投げ掛けられるは哲学的な問い。愛情という概念の根源に迫った彼女なりの助け船。
当時の僕はそれが何なのか、まではわかってもどうして今なのか、をついぞ理解することは出来なかった。
「……古代ギリシアにおける概念が原典であり、キリスト教の文脈においては神の人間に対する愛を表す言葉だね。君は異国の文化を身をもって体感しているのだから、何となくわかるんじゃないか? 神による無償の愛、というものだ」
突然の質問への沈黙が、無知に依拠するものだと判断したのか簡単な解説が彼女から語られる。
……この場においての真実としては間違っているものの、生まれた僅かな時間で少しだけ気を気を引き締め直す。
「当然ながら私は神ではない。故に「無償の愛」というものを注ぐことは叶わない。つまり言い換えれば、有償の ──等価交換により成立する契約を求めたいわけだ。まあこの言い方では媒概念不周延の虚偽が含まれているがな」
バイガイ……なんて?
生憎と専門用語を持ち出されると、完全にお手上げとなってしまうのが僕の弱いところだ。いや僕じゃなくともお手上げになるとは思うのだけれど。
……だが、これは珍しいことだ。
本来、千言紡音という人物は文系の頂天の代名詞とすらなれる存在である。
紡ぐ言葉は万人に受け入れられ、奏でられる音色は人々を安寧と納得に引きずり込む……そんな孤高の語り手である。
それは同時に、誰に対してもわかりやすい物言いが出来るという証左であり──今この瞬間においては
紡音の心を少しでも揺るがせられた。その事実が
それにしてもこの人、さっきからアガペーだの何だのって超俗的なことばっか話してるけれど、そういう意味での愛については知っているんだろうか。
「その視線は……なるほど。君は私が世俗的文脈における愛情というものを理解していないのでは? という疑問を抱いているのか」
そう思ってしまうのも許して欲しい。
幼馴染みとして付き合わせて貰っているけれど、紡音からそういった話題というのは一度も出てきたことがないからだ。
哲学、心理学、人類学、社会学、数学、物理学、化学……数多の学問を話題として提示する彼女からそういう話題が出たことはない。
「……私の趣味を知っているだろう? 私の外向きの趣味は別に論理学的弁証ではない。物語の読書だ。君もそれは十分思い知っているはずだ」
幼馴染みなのだから当然。好きな人なのだから当たり前。
二つの整合性を以て、頷きの答えを返す。
外向きの趣味が世間に向けた舗装だと言うことも、そして真実は舗装でもあり
伊達に性格がわかり辛い彼女との生活を続けていたわけじゃない。
「ああ、言うまでもないことだが物語に描かれた出来事と現実というものは完全には連結しない。物語には揺るぎない根幹があり、作者があり、
勝手に話を展開して、勝手に話が置かれていく。
いつもの事とはいえ、相変わらず独特な世界を形作るのが上手な文芸女王である。
だけれど、彼女と並ぶのならこの程度は拾えるようにならなくてはいけない。
彼女の展開する彼女だけの世界、彼女だけの視点を拾って助けられるようにしなくてはいけない。
脳内で並べられた情報を咀嚼し、自分なりに飲み込んでから相槌をうつ。
「しかし、客観的事象として君よりは恋愛事における機微の概念を読破しているわけだ。そのような感情を無駄だと切り捨てているわけではないからな。そして後々有用になる可能性も考慮しているが故に──今現在、録音もしている」
は?
僕は死んだ。間違えた、心の折れる音が聴こえた。
いまこの人なんて言いました? 気のせいじゃなければ録音している、とか言わなかった?
確実に心を仕留めてボロボロにするために動いているのか? っていうクリティカル撲殺行動。
……深呼吸。
今の発言内での、殺意以外感じられない録音という爆弾情報は、ただの付随情報でしかない。
言いたいことの本質は前半。『私は一般的な意味での恋愛について詳しくない、ということはない。少なくとも君よりはね?』という煽りのニュアンスを包含した言葉。
まあ確かに言われてみれば当然のことではある。
文系の臨界値に対して、恋愛感情についての理解の深度で勝てるなんて思考は通常生まれない。
だが──僕にはわかる。
通常だとか、常識だとか、当然だとか。そんな考え方をしている内は永遠に紡音に並ぶことは叶わないということを。
既存の常識を疑い、世間の語る共通認識を見直し、その時点での情報のみから推論し直すことこそが彼女と並びたつための必須の一歩であることを。
「いいや、怪しい。飛躍している。『物語の読破』が恋愛観を知る上で負の影響を与える、という点が否定しきれていない」
だが真実そうとは限らない。単純に悪影響だということも考えられるし、読みすぎたことによる独特の弊害が発生する──そんなことを否定しきれない。
物事は極限を取ることで、有限とは異なる挙動を示す可能性は十分にあるのだから。
「……なるほど。悪影響か。確かにその可能性は否定しきれない。私も悪影響が発生すると考慮した上で読破してはいたが、それでも無意識的に思考の雛型が形成されることは可能性として存在しているわけだ。ならば君の理論は成立しうる可能性はある。そして私は否定するだけの客観的根拠を提示することが出来ない。つまりこの分野においては悪魔の証明になるわけで……引き分けという落とし所が妥当だろうか。ああ、君が望むのなら君の勝ちということにしてくれても構わない」
飄々とした様子で、満足そうに頷く紡音。
本当に性格が良いとは言えないな、と改めて実感する。
もちろん誰に対してもこの物言いをしているわけではない、ということは知っているけれど……それをふまえてなお酷い性格だ。
まあそれは僕もお互い様だから、あまり強いことは言えない。
彼女の為だけに全てを投げ捨てた……人生の設計図自体を変革させた僕だって、良い性格ではない。
でも、それでも。これだけのことをしてでも僕は彼女のことが──
「ふむ。きみも平静さを少し欠いているように見える。どうだろう? 少しそこの椅子で水分補給による休息でも挟まないか?」
内心のちょっとした焦りを見抜いたのか、彼女が休憩を提案する。
平静さを欠いている原因に指摘されるというのはかなり癪に触る上に、まるで何でもない日常かのように思われているのが腹立たしい。
「……ふむ、どうやら平静の欠落は議論の白熱によるものではないらしい」
からかうような口調で紡音は言う。
ほんの少し口角をあげた意地の悪そうな笑み。
滅多に見ることのない、思わず見惚れてしまうような大悪魔の微笑。
「どうした? 私が“悪戯”をするのが珍しい? まあそうだろう。普段はそんなことをしても益がないからな。無為に疲れるというのは往々にしてつまらないことだ。だが今は別だ。この行動によって君の理論構築に悪影響が波及する可能性がある」
「そうすれば、君のわかりにくい本音も漏れやすくなるだろう?」
またしても空気が変わる。
たたみかけ、最後の操作、詰め将棋。
どう言い換えても変わらない終了の合図。
「キミの本音はわかりにくい。思い悩んでいても適切な論理武装で固めようとするだろう? それはキミの良い癖でもあり、悪い癖でもある。大切なものを守るときには基本、役に立つ技能だが今回ばかりは悪手だ」
「そも、恋愛ごとにおいて理論武装で説得しようというのは一般的に“相手が醒める”行為だ。キミのことだから上手く言葉を回し、雰囲気の落差と感覚の誤謬だけで誤魔化そうとしたんだろうが……それは、仮に私のような相手だとしても悪手だ。他の人なら言わずもがな、というものだ」
終わった。そう確信する。
議論は終わり、説得の機会は潰えた。そう判断してもおかしくない声色。
不信、焦り、怒り。
いっそのこと此処で彼女の心に傷を残すことだけを目標にしようか、とすら考えてしまう心の弱さが発揮される。
最初に立ち返るなら、そもそもがおかしいのだ。
僕は告白しにきたはずだ。しかし結果としてはそのステージに上がれただけ。
いわばする権利を手に入れただけ。それを行使する前に完膚なきまでに拒絶された。
心の天秤がぐちゃぐちゃになり、愛と憎が渦巻く人類の感情というものを身をもって理解する。
「……」
そんな僕の様子を無言で見つめる彼女。
その表情が示すは如何なる感情か。
日常のちょっとした延長線上を過ごしているような余裕であるからこそ、心を掻き立てられる。
こんな人だから。
千言紡音がこの人だからこそ、僕は好きになったんだ。浮世離れしていて、見ている次元そのものが違う──異次元の隔絶した教導者だからこそ、僕は並び立とうと思ったんだ。
さいしょの気持ちを思い出し、最後の理性を振り絞り、最悪の行動を抑制する。
奥歯を噛み締めるような気持ちで別れの……別離の言葉を告げようとて、それが遮られる。
「──そして、私のここまでの行動すべてがキミを怒らせるようなものであったことは謝罪しよう。気持ちを踏みにじり、無慈悲に切り捨てるものであったことを謝ろう」
予想外にも彼女からもたらされた言葉は、謝罪であった。
「恨んでくれてもいいとも。それに値する行動をしたという自覚はある。だが、これは必要なことだと私は判断した。そしてこの場面が最も効果的だとも判断した。私を嫌ってくれてもかまわないとも。“後腐れがなくなる”このタイミングを選んだのはキミだからね。ここで縁を切られても私は一切文句を言わない、そして言えないわけだ」
「……っ!」
心が乱される。だったら。拒絶するのなら、そんな言葉をかけないで欲しい。素直に拒絶したまま、終わって欲しい。キズに傷を上塗りしないで欲しい。
──これ以上、僕の気持ちを壊さないで欲しい!
声にならない声が心の悲鳴になる。
チカチカと点滅していた街頭が消える。
夜の公園を照らすものがなくなり、お互いの顔すら見えないほどの暗闇があたりを包む。
人通りのない閑静な住宅街。
木々のせせらぎすらも凪によって消え去る夜の静寂。
一筋の風が吹き抜ける。
雲の隙間からおおきな満月が僕達を見下ろし──ぼんやりとした月明かりが公園を照らす。
「──ああ。その上で私は断言しよう。キミには私よりもよっぽど相応しい人がいる。故に私はキミとは付き合わない」
はっきりとした拒絶の言葉。だが不思議と先程のような怒りが湧いてこない。
怒りどころか、諦めや困惑といった感情も喉元からすとんと落ちてしまう。
そこにあるのは、納得であった。
「この際だから言おう。私はキミが素晴らしい人だと思っている。それは何も成績が、人との接し方が、という話ではない。キミという人間の在り方だ。そんなきみだからこそ、これから高校大学と羽ばたいていくのだろう。私はその飛翔を横で眺めていたいとも────ああ、キミが許してくれるなら、という注釈つきならば、だが」
不思議な納得が沈黙の感情を押し殺す。
その時の僕はただ聞き入れる姿勢になっていた。
「私と縁を切ってもいい。嫌いだと吐き捨て、悪評を広めようと私は何も文句を言わない。キミの積み上げてきた人脈や信頼というものはそれを可能にするだけのものであるからね。それに対して私は一切の干渉をしない。約束しようとも。この録音は、そのためのものである。私にとっての誓約、キミにとっての“教材”になるための、だな」
「気が済まないならば、殴ってくれたっていい。後の弁明を考えれば見えない箇所であるほうが有難いが、キミが望むならそうでなくとも構わない。実際私はそれほどのことをキミにしてしまったからな。自由にすればいいとも」
「キミの恋心……初恋をこんな形で奪ったんだ。どう裁いてくれてもいいとも」
ひらひらと手を振りながら、彼女はそう告げる。
超然とした態度の裏にほんの僅かだけ見え隠れする動揺。長年の付き合いは僕にそれを見逃させてくれなかった。
暗闇であろうと、慣れ親しんだその声が僅かに震えているということを見抜いてしまう。
「一応公平性を期すために私も言っておこう。私はキミのことが、人間として好きではある。しかしそれは恋情ではない。勿論それでもいいから付き合え、というのなら受け入れてもいいが……それが健全な関係とは思えない。端的に、君にとって悪影響だ。親愛と恋愛を混ぜるのはよくとも、混同して取り違えるのは誰にとっても良くない。異性間の友情──それを恋情と結びつけやすいのはわかるけれどもね」
そう言って、彼女は手を叩いて音を鳴らす。
千言の終わりの合図だ。
締め括られては仕方がない。不思議な充足感と共に家に帰ろうとして──
「……君が何か言う前に全て終わらせたのは、私なりの誠意だ。君は未だ初めての告白をしていない。始まる前に私が終わらせた。故に──君の本物の運命の人にそれはささげると良い」
そう言って、本当に彼女は立ち去った。
暗闇の公園に一人取り残された僕は、始まっていないという言葉に衝撃を受けた。
はは、ははは。
なら、始まっていないのなら、当然終わってもいない。
終わっていないのだから、続けてもいい。
──僕はまだ、千言紡音という人物に恋をし続けても良い。
そうして僕は更に増した恋心を胸に、家に帰った。