『紡音心算物語』 作:けゆの民
◇◆桜色の葉が栄える早朝の時節
「いやぁ、無理では……?」
中学を卒業し、晴れて迎えた春休み。
例えば紡音と学校が別々になる、だとか紡音と校内で話せなくなる、だとか登下校を共に出来ない……だとか、そんな陰鬱なことが浮かんで消え、浮かんで消え、とループしていた。
まあそれはそれとして。
高校に入って紡音と少し離れる機会が増えたというのは、決して勉強をサボっていいということにはならない。
彼女のことだから、もし僕が勉強をサボって遊び呆けていたすぐに気付くだろうし……何より、彼女に並び立とうとしているのに、最低限の教養がなければまさに論外だろう。
そして彼女が持つ異次元の学力を合わせて考えれば、春休みの内に高校範囲を勉強するというのは至極当然の結末になってしまう。
そんなわけで、あの衝撃の告白未遂事件が発生した翌日。
本屋に行き、インターネットとにらめっこしながら問題集や参考書を買い漁る。
何を真面目君ぶって、と思われるかもしれないが真面目君ぶらないと最低限にすら達しないのだからしょうがないだろう。
それに、いくら彼女の高校が女子高とはいえ近寄ってくる
彼女は全く気にしていない風に装うが、そもそもの前提として美少女である。それにあれで運動が出来ないわけでもなく、更に勉強は
……素の性格を除けば、本当に非の打ち所を探すほうが大学入試より難しいだろうというような人なのだ。
さて、そんな未来有望な彼女はそれはもうモテるだろう。
僕としてはとても……いや本当に大変気に入らないわけだ。
参考書とにらめっこしながら、僕が辿り着いた結論は簡単だ。
──とりあえず、紡音と同じ
つまり僕が考えたのは、圧倒的にイバラの道である。
そもそもとして、僕の脳はどっかの天才様と違ってそこまで優秀に出来ていない。
彼女に対抗して理系だなんだ、と言っているがそれはそもそもの話として馬鹿の分量勉強を積み上げただけのものである。
小学校高学年に到達する前。つまりは8,9歳の時期はといえば、数学の……算数の成績はサバを読んでも中の上と言ったところ。
ちなみに比較のために紡音は、といえば全て上の上だ。
何なら読書感想文コンクールか何かで金賞を受賞し、新聞に乗るという意味わからない快挙を成し遂げていた。
そんな紡音と対等になるためにまずは勉強を、と始めて……現在に至るわけである。
つまりは、とてもじゃないけど彼女と同じ大学に入るのは難しいのでは? ということ。
どうしたものかなぁ……
「まあ、朝のゴミ捨てを取りあえずして──」
そんなことを独りごちながら、僕はゴミ袋を手に持ち玄関を出る。
さて、ここで一つ。
さっきまで散々話題に上がっていた天才幼馴染様というのは、
ならばどれぐらい幼馴染なのかといえば、隣の家に住んでいるという位。
「おや」
隣の家に住んでいる、ということはゴミの回収時間も当然同じである。
よってゴミを出す時間の候補、というのも必然的に限られてくるわけだが……その結果、鉢合わせるという事象が発生してしまうのである。
この邂逅は、一昨日の告白未遂事件振りである。
「……」
僕が絶妙に気まずい雰囲気を醸し出していると、紡音の方から話が振られる。
「──ふむ、君と出会うのは一昨日ぶりだな。尋ねるまでもないが……壮健そうで何よりだ。あの晩の私の行動によって君の健康が阻害される、というのは本意ではないからね」
「まあ……ね。元気ではある」
どうしても歯切れが悪くなる。
というか、この状況でいつも通りの雰囲気で言葉をかけてくる紡音の精神はどうなっているのだろう。面の皮が厚いとかいう次元ではない。ガンマ線ですら貫通出来なさそう。
「何だねその歯切れの悪さは。もしや改めて考えた結果、私の事が許せなくなったか? 無論、あの夜の言葉は撤回しないとも。いつでも君の思うがままに扱って貰って構わない。それで君の今後が健やかになるというのなら、喜んでお受けしようじゃないか」
違う。本当に断じて違う。
今この瞬間に僕のことについての理解度テストを実施すれば、確実に紡音は
「そうじゃない。僕は……」
「おっと、わかった上で言っているのだとも。焦らなくてもいいとも」
やっぱ性格最悪では? という思考が渦巻く。
フった相手に対してこの言動、控えめに言って刺されても文句言えないと思う。
ああでも文句ないって言ってたなぁこの人……!
「シュレディンガーの猫という思考実験を君は知っているかい?」
シュレディンガーの猫。
まあ正直な話、ある程度教養があれば誰しもうわべだけは聞いたことがある言葉ではあるけれど……生憎と、その詳しい話までは知らない。
毒と猫と植物を箱の中に突っ込んでしばらく放置したとき、箱をあけるまで内部の猫の生死は不明である……みたいな話だったはず。
前中学校のクラスメートとそんな感じの話になったときに、女子の一人が『ネコちゃんがかわいそう!』とか言っていた記憶がある。
「シュレディンガーの猫という思考実験。猫の生死を感慨なき確率論で表記するのはどうなのか、という倫理的問題は定期的に巻き起こるが……そんなことは主題にはならない。あくまで思考実験。人類の特権足る理性を回し、思考の葦を広げることがこの実験の主目的なのだから」
朝だというのに彼女の弁舌は普段と全く変わらず、饒舌を体現したような性格は絶好調である。
そして今回はテーマがシュレディンガーの猫という理系よりの話であることも功を奏して、自然と関心が湧いてくる。
「この実験における核は猫に対する倫理的問題でもなければ、実験の手法でもない。放射能物質が猛毒の劇物になろうと、電気的殺害手段が化学反応に変化しようと、何の問題も発生しない。重要な点はたった一つだ」
ちょっと聞き慣れない言葉が混じった気がするけれど……本来のシュレ猫実験はそういうものだったんだ、という驚きが出てくる。
「20世紀。時の科学者がこれを量子力学という学問の不完全性の説得材料にした、ということだ」
量子力学。
どうしても言葉の圧が強い文字列ではあるけれど、大雑把な意味は知っている。
「ああ、君は君であるから量子力学の不完全性について話を進めたがるだろうが……今回私が話を進めたいのはその方向ではない。私が注目したのは科学者が説得材料にしようとした、という部分だ」
……ちょっと残念に思ってしまった自分がいる。
まあ気を取り直して、話の続きを聴いていこう。
それにしても、科学者がシュレ猫を説得材料に使ったということが重要か。
「科学というのは厳密な数式の上で成り立っているように見えて、その実演繹的な思考の元で成立している。勿論用いられている数式全てが虚偽のものである、とは言わないとも。だが現在、かの有名なニュートンの運動方程式すら数式的には示されていない。あの方程式は、反するものが見つかっていないから用いられ続けているだけだ」
だけ、って言われると思わず反論したくなるけどその通りではある。
証明出来ていない以上、なんか反例が見つかったら割とすごい勢いで大騒ぎになる。
数学と科学の違いは、原理が示されているかどうかの違いっていう見方もあるのだから。
「古典力学の根源がこの様子である以上、科学というものは──究極的には、人間が観測している範疇において成立していれば、何でもいいということになる」
人類の観測範囲外まで完全にカバー出来ている法則があるというのなら、教えてほしいくらいだし……それが観測範囲外までカバー出来ていることを示せるなら、観測範囲外の定義が危ぶまれることになってしまう。
「故に真理というものは無数の場合分けが生じても、棄却されない筈なのだ。それが人類にとっての真理である可能性は十全に存在する。だが人類は宇宙の神秘に対して絶対の解を探求し続けている。綺麗な解答がある、一本の式で世界を定義出来るはずだ、とね」
超大統一理論のことね。重力、電磁気力、弱い力、強い力という現行の『力』を一つに纏めようプロジェクトのこと。
確かに夢があるし、統合したい気持ちはわかる。生きている間……はキツイかもしれないけれど、超紐理論あたりが頑張ってくれればワンチャンあるのかもしれない。
「それ故に科学者は、確率論というものを本能的に拒否していたのかもしれないが……それはさておき。科学者というのは合理に縛られ、逆説的に合理にさえ従っていれば
「科学というのは、世界を数式で描き続ける文学だと私は思っている。ならばそこに簡潔性、綺麗さといった採点項目を設けることは不思議ではない。むしろ自然とすら言えるだろう。同じ事実に対して駄文と良文、双方で描かれた物語があるとしたならば──数多の人類が後者を選ぶのだから」
点と点とが繋がってくる。
少しずつ、紡音の描きたかった全体像が掴めてくる。
少しだけ久しぶりに感じるこの感覚が胸を包む。
「そして、それは君も同じだ。君自身が思い、望み、描こうとする物語──それが少しでも“良い文”で書かれることを探求するのは、何らおかしなことではない。思う存分悩みたまえ。少しでも最良の文章に近付けることを、私も陰ながら応援しているとも。つまり、君の一番やりたいことをやりたいようにやりたまえ、ということだとも」
それじゃあまた。そう言ってから彼女は手を叩き、音を鳴らす。
千言の終わりの合図だ。
一昨日と同じように取り残された僕は、励まされたことに気付く。
……僕のやりたいことをやりたいように、か。
よし、高校生活の三年間……頑張ってみよう。
全力を出して、それでダメだったらその時はその時だ。
僕はそんなことを考えながら、家に戻った。