『紡音心算物語』   作:けゆの民

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第三話:理想と現実の状態方程式

 

 ◇◆薄明の兆しが暗雲を包む時節

 

「うーん……」

 

 僕は夜、自室で唸りながら問題集と対峙する。

 内容は高校1年の数学。恐らく6,7月……1学期の最後のほうにやりそうな内容の予習である。

 端的に言ってしまうのならば、二重根号がわからない。

 

 この間、紡音から受けた叱咤激励をモチベーションに勉強してみるものの、物事にはやはり限度というものがある。

 死に物狂いでやったとはいえ、限界値というのは往々にして存在するものだ。

 

 まあ高校数学の勉強を始めて3日でここまで行けたのなら頑張ったほうか、とケリをつけ教科書を閉じかける。

 

 脳裏にちらつくのはイマジナリー紡音。

 彼女のことだから、『なるほど。君が此処で諦めるのも自由だ。君の未来というものは、究極的には個人の意思決定に依拠せざるを得ないからな』とか言って……言って……

 

「いや、言うか……?」

 

 こうして、イマジナリー紡音とリアリティ紡音間での解釈違いが勃発した。

 

 千言紡音という人間のあの独特の空気感。僕をはじめとした他の人とは決定的に異なる視点からの言葉。

 あれを再現するのは、言うまでもなくまあ難しい。というか一番長く付き合っている幼馴染(ぼく)ですら再現不可能なのだから、彼女本人以外がそれを再現出来るかといわれれば……まあ、ほぼ不可能だろう。

 

 ここで不可能と断定しきってしまうと、また脳内のイマジナリー紡音が騒ぎ出すので、大人しく判断を保留にしておく。今度会った時にでも聞いておくとしよう。

 

 脳におけるシナプスの変化を間接的に感じ取りながら、開くは数多の参考書。

 よし、と心を妄言(妄想)から切り替えて進めようとした瞬間。

 

「──理想とは、何なのだろうか。それは人類が有史以来追い求めてやまない至宝であり、決して辿り着くことのない未来でもある。つまり形而上の理想に踊らされて、人類という種族はいつの世も万難に衝突しているわけだ。ああ、ここでいう理想というのは最高善という概念を指す。わかりやすくいうのなら、相対的な理想ではなく絶対的な理想のことだ」

 

 虚像の(イマジナリー)紡音ではなく、実像の(リアル)紡音の声が背後から聞こえてくる。

 

「不法侵入?」

 

「何も理想という概念はそう、高尚なものではない。そもそもの話として、古来より思考されてきた、或いは伝統と歴史ある経緯が存在するという一点だけで高尚なものであると認知を歪ませてしまうのは、人類の生まれもっての悪癖でもある。しかし、実情としては勿論異なる。歴史を持つという事実は、必ずしも高尚である──何の才も教養も無い一般人に考えることを許していない、なんてことを意味していない」

 

 家主……ではないものの、その家系の言葉が完全に無視されている。ここだけ治外法権条例とか結ばれたのだろうか。

 

 一瞬だけ文句が思い浮かぶも、僕の脳はどこまでも素直でしかない。

 その言葉の羅列、紡音が奏でる世界を聴いていたいと思ってしまうのだから。

 

「おっと、君ならばこの注釈は必要ないかもしれないが付け加えておこう。当然のことながら、それは歴史を軽んじて良い(・・・・・・・・・)ということではない。人類が連綿と積み上げてきたその軌跡を否定することを肯定する気は更々ない。だが、必ずしもそれに従う必要はない。昨今騒がれている多様性(・・・)、この概念は生物学的には種としての存続を優先させるにあたって「突発的な環境変化」に対応出来るように遺伝子変異が起きる。その現象によって生まれる多彩なバリアントのことを指していた。故に、歴史(・・)から外れるというのも、歴史に沿うというのも種としての存続にとっては肝要というわけだ。まあある種、循環論法染みているというのは否定出来ないがね」

 

「うん、その、あの……」

 

 さて、ここで思い出して欲しい。

 時刻は午後9時30分をそこそこ過ぎている。

 あと5分以内に長針と短針が重なろうとしている、そう表現すれば“文系らしく”時間を示せるのだろうか。

 

 普通に考えれば。いや、紡音に限って「普通に考えれば」なんて言葉が何の意味も持たないことはわかっているのだけれども。

 あくまで僕の普通の考えに従えば、夜遅くに告白してきた異性の部屋に転がり込むというのは、いくら何でも酷すぎると思う。色々と。

 

「そう。人類というのは霊長と呼ばれるものの、生物である以上種の保存に生を賭けなくてはいけない。それを我々は本能と呼び、誰しにも眠る根源的な欲求はそのような理由で定義されているわけだ。従って、それを抱くことは決して悪しき事ではない。ただ、時と場所(・・・・)を考えよ。長期的視野に立って、それが果たして真に種の保存という観点で有用であるのか──それを深く考えて欲しい、と多くの人類は願っているわけだ。だからこそ、日常生活において忌避される傾向にある」

 

 紡音は少しだけ視線を上げる。

 とうの昔に参考書が背側に向いていた僕は、その微細な動作にみとれてしまう。

 紡音が自分の世界に入っている姿。僕や他の人のことなんていう雑音が、一切混ざっていないその姿──それこそが僕の好きな千言紡音という人間の姿で。

 

「畢竟。本能に従うにあたって。種の保存という観点から俯瞰して。果たしてその(・・)行動は合理的であるのか──そんな長期的な調節を行う機能こそが、理性である。そして理性から生まれた学問であり、研究であるなんて見方がある。包括的視点で眺めやれば、ある反応において促進と抑制という二つの機構はどちらも同程度重要である。故に二つあるのだ。一つではなく、境を明瞭に定義するが為に、世界は二つに分けられる。或いは分けよう(・・・・)とする」

 

 尊敬する姿。

 自身の思索に何処までも真摯であり、その思考軌跡そのものが一つの芸術であるような姿。

 昔も今も。僕の全てが魅了されているといって間違えない神秘性がそこにある。

 

「作為は悪ではない。自然は善ではない。どちらでもあるというだけだ。高尚と低俗も所詮は、一つの軸内の出来事でしかない。君が当初考えていた、世間一般においては「劣情」と呼称されるような感情も例外ではない」

 

「なっ……! あの、えっ……と!」

 

「理想化。それは捨象と抽出の極限に存在する途中式でもある。自身が望むものに「ひとつ」の属性を代入し、自由度を落とすような行動だ。理解の為に必要なステップだ。だが、理解そのものではない。あるがままに漂流する存在に対して、ある種の制約を加え──最終的には「あるがまま」を理解し、受容する為の段階でしかない。世界に存在するという状態は、単純ではないということを示すのだから」

 

 紡音に全くそのつもりがなくても。

 ……例えからかう意図があったとしても。それは根本に眠る伝えたいこと、のようなものに差異はない。

 

 今回であれば理想とは何か、ということ。

 数分前の僕も含めて、様々な人が無意識下か意識下で扱うことの多い「理想」という概念とは何なのか。

 よく対比される現実と理想という軸は、何なのか──ではない。

 

 紡音の言いたいことは、それではない。

 紡音は哲学染みた内容を吐き出す装置でもなければ、誰よりも才に恵まれたという属性を持つだけの存在でもない。

 千言紡音という、一人の人間であるから。

 

 何か別のことがあるはずなのだ。

 存在は証明出来る。けれど、内容がわからないというのが無性にもどかしい。

 言いたいことがあるというのはわかるのに、何が言いたいのかはわからない。

 

「理想は甘美であり、現実は儼然としている? いいや、違う。どちらも甘美であり儼然たる様相を呈するとも。双方を享受し、双方に流され、双方に苦しみ──その果てに作られたものを、我々は文明(・・)と呼ぶ」

 

「改めて。文明、歴史を軽んじることを是とも非とも言うことは出来ない。だが、それは同時に自身の欲望のままに動くことを是とするわけではない。探究を奏で、思索を綴り、理解を深めよ。時刻の積み重ねが理解の道標とならないならば。その時、我々はそれらを棄却し新たな世界を拓く糧とするべきなのかもしれない」

 

 ただ……珍しい、と感じた。

 理論的な背景はなく、確固たる証拠があるわけでもなく。

 ただ。何となく今の紡音を「珍しい」と、自らのこころは評した。

 

 軽んじていいものはない。

 積み重ねも、逆に新規事項も同様の丁重さで重んじるべきである……そんな見方があると、紡音は述べる。

 

「苦難は経験の糧である、なんて使い古された言葉を今更焼き増しする必要はないだろうが……全ての軌跡は。全ての過程は。失敗も、成功も、それ以外もおしなべて君の糧となる。そして、それらは他者の感情を誘引し──他者の糧にも繋がる」

 

「……考えて、悩め。そういうことじゃないんだろうけれど……そういうこと?」

 

 現在の僕の脳では、この程度の理解が限界らしい。

 独特な世界の果て。或いはその輪郭を掴み取る為に、様々なものを捨てて拾わなきゃいけない。

 

「私が思う、君の美徳はそこだ。未知を嫌わず、一見すると進捗のない探究をやめようとしない。まあ、もしかすると私も君のことを理想化しているのかもしれないがな」

 

 多分、そうなのだろう。

 紡音の思っているほど、僕は“高尚な”人物ではないのだから。

 

 

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