『紡音心算物語』 作:けゆの民
◇◆秘匿を是とした後の時節
図書館の屋上。
何故か一般解放されている場所に、僕と紡音は来ていた。
一生の全てを費やしても消費しきれない膨大な物語の上に立ち、紡音は空を見上げる。
「──物語とは何なのだろうか。現存する日本最古の昇天説話から、ナンセンス文学とも呼ばれた異世界譚まで幅広く存在する
千言紡音という人が今まで読んできた物語の数は、それこそ数知らず。少なくとも数多という以外の形容を許されないほどに、ではあるはずだ。
「作者の手によって創作された登場人物が。架空の世界の人々が現実世界の人々へと影響を与える。それが大きな意味であり、物語の孕む唯一の意味であるとも考えられる。物語は何も読者にのみ影響を与えるのではない。作者にも、そしてそれ以外にも影響を与えるのだから。元はと言えば、言葉という概念はそれを指していた。影響だ。人生にではなく、世界への影響──その媒介手段。それこそが言葉であり、それを高度に。同時に捨象して生み出されたものが物語である」
解説ではない。
そういう見方があるよという事実紹介ではなく、私はそういう見方をしているという自己紹介。
図書館の頂上で、曇りとも晴れとも判別が難しい天候であるからこそ。静謐の秘匿は剥がれつつある。
「ああ、そうだ。物語や言葉というものの真髄は捨象にある。何かを切り捨て、何かを強調する。言語化し、命名するという事象を意味付けするとしたならば、神は其処に宿るしかない。岐路における選択、運命の分岐点において──言葉は存在する。物語は、その為に在る」
紡音が持つ哲学である、とひとつの括りに納めてしまうことは簡単だ。
『そういう考え方をする人なんだな』と字義通りに受け取るのは、正しくはあるけれど間違いでもある。
紡音が言う通り、言葉というのは使った時点で概念の取捨選択が確定されている。
それは、覆しようのない大前提として存在する。
雪と聞いて『道路に積もり、車に轢かれて汚れと混じった雪』を真っ先に想像する人は少ない。
めらめらと輝く炎と聞いて『ガスバーナーにより生じた青い炎』を想像する人は少ない。
三次元と聞いて『縦、横、高さ、その三軸が全て入っていない次元軸の組み合わせ』を想像する人はほとんどいない。
だから、言葉というのは強調が同時に含意される。
『三次元に積もる雪と、めらめらと輝く炎』がどのような意味合いを持つ文章なのか──それは、その言葉の受け手の常識によって変わってくる。
……紡音のこういった話は、大分慣れてきた。
いくら埋まらない才能の差異があるとしても、経験というのは慣れを生み出していくらしい。
だから余計に、
「それは悪ではない。無限の情報量から取捨選択を行い、選び取って進んでいく。それは不可避の未来であり、ある種運命による強制でしかない。それは悲観するべきことでも、楽観するべきことでもなく──ただ、事実として鎮座している」
普段に増して言い回しが難解なのは、何か原因があるのか。
僕でも考えられる範囲だと『最近読んだ本の影響を受けた』とかだけれど……紡音に限って、それはないだろうなとわかる。
運命を変える一冊、なんてものは確かにあるのかもしれないけれど──星の数ほどの本を読んでいるだろう紡音が、大きな影響を与えられるような本に今更出くわすとは思えない。
だとしたら、もう一つ考えられるのは『煙に巻いている』とか。
「言葉というのは、幾ら綿密に定義したとしても人類に言語として扱われていくうちに変遷していく。文化によって必要とされる単語は変わり、文化は時代と場所──時空依存で変化を止めないものなのだから。変化、そう変化していくのだ。『万物は流転する』という言葉の例外に、言葉も──そして、きっとその言葉自身も含まれない。人の生きる意味も、物語の存在意義も、数式の描く世界も。全ては流動している。ただしく、万物は変化から逃れられない。人類が一つの抽象思考体系に執着し続ける内は、決して変化から逃れられない。『
『まあ、このような使われ方は正しくないが』と紡音は付け加える。
おそらく紡音が言いたかったのは、ゲーテルの不完全性定理だろう。生憎と僕はそこまで数学が特異……得意なわけじゃないから、その文言の意味を完全に理解出来ているわけではないけれど。
「では。言葉で造られた架空の世界と我々の世界の差異とは何なのだろうか。何を以て、創作と現実の境界は策定されるのだろうか。どちらも合理が全てではなく、互いが互いに影響し合う可能性を秘め、双方には異なる
問いかけの形をしながら、それは僕に向けて問いかけていない。
この世界で。架空か現実か判別不能なこの世界において誰よりも物語を──『架空と呼ばれたモノ』を観測した紡音本人に問いかけている。
「観測とは、影響である。天道が古来より監視している通り。パノプティコンが施設として機能する通り。或いは、管理社会の代表が監視社会とされるように。観測とは、影響である。故に──それはコミュニケーションですらある。まさしく視線で会話しているだけだ。架空と現実が異なる言語──視線と文字で会話しているだけだ。然らば、観測されぬ隔絶した領域に存在する世界こそを現実世界と呼ぶべきなのだろうか? 何者にも影響を与えられず、何者からの干渉も起きない孤絶の世界。それこそが現実世界と呼ぶものの正体なのだろうか」
視線鋭く、空を睨む。
「ならば、我々の世界は──私の世界は架空で構わない。誰からも隔絶した『完成した世界』、まさしく『すばらしい新世界』のような皮肉だとも。運命論の存在是非、完全性の証明、それらは大した問題ではない。私の興味が与るところではない。私の本願は其処には無い。私という人間の本願は、この世界の如何に依拠しないのだから」
そこまで言い切ると、紡音はようやく此方を向く。
空へと向けられていた視線が、僕へと向けられる。
「謝罪しよう。君の時間を無為に使わせてしまったな」
「いや……それはいいんだけれど。むしろ、そういう意見があるのかって参考になったから」
そんなこと、思っていない。
全く思っていないわけではないが、精々が5%とか10%とか。
本音のところは『千言紡音』という人間の本音が垣間見えて嬉しい、というところ。誰しも好きな人の本音が見えたら嬉しいでしょうというもの。
加えて、その本音を見せてもいいと思われる対象に入ってること自体も無上の喜びって感じだから。
「ついで、と言っては何だが君はどう考えている?」
「どう、と言われると『現実世界と架空世界の差異』のこと?」
僕からしたら、それこそ紡音の存在こそ『架空』でしかない。
文系だと言い張りながら理系の数学が出来る──どころか。最近は趣味で大学数学を始めたりしている狂人にして、参加したコンクールのほとんどで最優秀賞を独占する才覚富裕層。
まさしく、物語の中の登場人物だとしか思えない。いっそ、そうであってくれと願ってしまうほどの輝きを持つ人間が千言紡音なのだから。
「私の意見は既に述べた。君はどのような意見を持っているのか気になってな。勿論、私の意見と真っ向から反抗するようなものでも構わない。思想というのは各個人によって違うものだからな」
「うーん、そう言われてもなぁ……」
現実世界と架空世界の差異とは何か。
順当な生き方をしていれば、正面から衝突することはないだろう質問に対する解答は残念ながら用意していない。
そんな都合で、今即興で重々しい問題に対する答えを出さなきゃいけないわけで。
「まあ大体同じ意見じゃない? 程度の感想しかないんだよね。架空か現実かって言うのは、あくまでただの言葉遊びでしかないし……ああいや、物語とかを侮辱してるんじゃなくてね!」
「ああ、わかっている。架空か現実かは
「そうそう。この世界が架空だとしても──」
あるいは、全てが架空で偽者だとしても。
僕は周囲を見渡す。
図書館の屋上というのは、別に街一番に高い場所ではない。ちょっと小高い丘の上に図書館があるとはいえ、それは別にそれ以上がないことを意味しない。
流れる川、乱立するビル群を視界の奥に迎え入れる。
例えば、ここが架空の世界ならば。今僕の視界に入った『それら』は、『僕の視界が向けられたことで存在が設定された』なんて考え方をすることも出来る。
あるいは、執拗なまでに物語においては背景描写が未来や心情の伏線になると教えられた通りにね。
曇りでも晴れでもなく、山奥でも大都会でもなく、冬でも春でもないこの情景が何を暗示しているのかは、わからない。
少なくとも試験問題で出題されたら、出題者と作者を恨む程度にはわからない。
まあ、文系の天才様は易々とわかるのかもしれないけれどね。
「──誰かに。何かを遺せるのならば良いんじゃない?」
「だとしたら、我々は大罪人だな。物語において安易なメタ構造は嫌われる傾向にある。折角『何かを遺そうとしていた世界』が、私たちの発言によって何も遺せなくなる可能性もあるわけだ」
軽く笑いながら、紡音は言う。
恐らく、彼女にとって最初から架空か現実かなどは大した問題ではないのだろう。大事なのはそれ以外。
この世界が架空であるかよりも、物語とは何なのか。そっちのほうが彼女にとっては一番大事な内容で。
「まあ、それも言葉による
千の言があるならば、千回の捨象が──取捨選択があるわけだ。
「ならば仕方ない。私から言葉を奪うのは不可能だからな」
それじゃあ帰ろうか。そう言ってから彼女は手を叩き、音を鳴らす。
千言の終わりの合図。
まあどちらかというと、割と会話だった気はするけれども。
どんな結論にせよ。どんな事実であるにせよ。
僕としては、どんな道筋であっても最終的に紡音への告白が成功すれば良いんだけどね。