『紡音心算物語』 作:けゆの民
◇◆始まり、終わる一歩手前の時節
「今日は普段よりも、少し卑近な話をしよう」
午前6時。
春の早朝に相応しい風が雪崩こんでくる。
夜の残滓を感じさせながら、今から始まる朝を予見させるような風。
折角だからな、と紬音は言う。
「今までのが卑近じゃないっていう自覚はあったんだ。それにしても何で今日?」
「──ふむ。じゃあこうしよう」
紬音は足をとめ、まだ咲きかけの桜へと視線を投げかける。
「桜は何故、八分咲きが最も綺麗だと言われることが多い?」
「十割……満開だと多すぎるし、それ以上だと少ないと思ったからじゃない? 昔の人が」
僕としては、その意見には賛同出来る。
十割完全に咲いている桜よりも、八割のが綺麗。
いやまあ何で綺麗なのか具体的に言語化せよって言われると難しいんだけれど。そもそも、なんで桜を綺麗と思うのかってのも言語化出来る気がしないから。
僕の反応に満足したのか、軽く頷いてから紬音は話を進める。
「では、何故か。何故
まあ飛んでくるとは予想出来る内容ではある。
僕の方から正しい答え、なんてものが出てくるとは紬音も思っていないだろうからいいけれど……うーん、まあいいか。
「あれじゃない? 『八百万の神』とか『八百比丘尼』みたいに、
あ、他にも
こう考えると本当に『八』って日本人に好かれているよね。理由のほどはわからないけど。
「そうだな。もう少し身近なものを出せば『腹八分目』なんて言葉もある。ならば、次だ。何故
……落ち着いて考えると、分って百分率の分なのかな。
そうすると八分目って腹8%とかになるからおかしいよね。
「こ、言葉の変遷とか……そこらへんじゃない? 昔の名残とか」
「実際この『分』は明治時代から使われ始めた用法だから、間違いではない。どちらかというと革新の結果というべきだが……それはいい。次だ。では、桜は──」
「ちょっと待って。これ、いつまで続く感じ?」
何となく嫌な予感を抱いて。
恐る恐るではあるけれど、一応訊いてみる。
「無論、本来ならば永劫に決まっている」
言わずとも、そこには『文句を言われるまで』という意味合いが感じられて。
「では、加えてひとつ問おう。人は何故桜の八分咲きを綺麗だと考えるのか。ああ、別に模範解答を出せと言っているわけじゃない。そんなのは誰も求めていないからな」
そんなの呼ばわりされる模範解答の気持ちにもなってあげて欲しい。いや、その
ちらり、と紬音が視線を向けていた桜へと視線を向ける。
この会話が始まる前にも、確かにその桜は視界には入っていたはず。
ただ、この会話を経てからだと『ただの桜』ではないような気がして。
「もしかして桜の木、本体はあんまり重要じゃない……?」
ふと、そんなことを思い立った。
今『ただの桜』ではなくなった桜。
それは、別に桜である必要はなかった。梅でも良かったし、何なら松とかでも抱く心象は変わらなかったはず。
何かの想い出の象徴、みたいな枠に桜を押し込めやすいから綺麗だと考えている可能性がある。
……いい感じじゃない?
自分なりにある程度納得の行く解答が出て、満足はした。
ただ、それを紬音はどう見るかというのは気になる。
「なるほど。『意味を帯びた空間』という概念は確かに存在する。神社に流れる清廉な空気、或いは鍛冶場に流れる偏屈な空気──それらは実のところ違わなかったとしても、我々は違うと感じる。そのように意味を帯びた空間をトポスと呼ぶ。だが、トポスという言葉にはもうひとつ意味がある。特定の内容を喚起する
元来、言葉というのは全て人間の性質以外を表していないという考え方もあるが──なんて紬音は小さく呟く。
「君の考えは誤りではない。敢えて否定も肯定もしないが、それは尊重されるべき思考だ。同時に、尊重されるべき思考経路でもある。私が事前に投げ掛けた二つの問い。恐らくそれらの有無に関係なく、君は同じ解答を導き出す。何故か? それは簡単な話だ。此処には私がいて、君がいて、私が桜を視線を向けた。それだけが条件であったからだ」
……まあ、それはそうかもしれない。
八分咲きがなんだ、みたいな話はあってもなくても良かったもの。少なくとも『桜は何故綺麗か?』という問いを今、僕が答えるにあたっては。
「では、先の問いは不要だったのか。ああ、君の人生にとっては必要なのかもしれない。だが、そんなこと今話題にしていない。桜の綺麗さの根源という問いに答えるにあたって、だ。確かに関係はなかった。だが、それは切り捨ててもいいものか?」
「……『桜は何故綺麗か』という問いに答えるのが終着点だとしたら、無駄だったと思うけれど」
紬音は少しだけ顔の角度をあげる。
「果たして、それは本当に無駄か? 何の意味もなさなかった。それは紛れもない事実だ。だが、それは本当に無駄か? 私は、君の結論がどちらになろうと構わない。重要なのはそこではないのだから」
無駄か……いや、流石にどう考えても無駄でしかないでしょ。
それ以降があるなら話は変わる。ただ、その問いが全ての終着点で、収束点だったとしたら。まさしく二つの問いは不必要なもので、無駄なものでしかなかったはずだ。
ただ。紬音が拘るということは、そこに何か意味を見出だす理由があるはずで。『意味がある』といえ考えが──賛同可能かはさておき、理解可能な何かがあるはずで。
「全ての結果が判明した上で、無関係であった過程。それを本当に無駄と切り捨てていいのか。その独立した過程は、果たして真に無駄であるのか──」
紬音は一度言葉を区切り、前へと歩き始める。
何の予備動作もない突飛な行動に、慌ててついていく。
「無駄か否か。その判断をする際、肝要な事柄は視点だ。どの立場の誰が、何を基準として判断するのか。それが判断にあたって必須の視点だ。無関係であった情報、無関係な思索、無関係な過程。それらが無駄かを判断するのは、その定義に明確にしてからでも遅くはない」
「私は、無駄ではないと考える。今、この瞬間に生きる私の視点では無駄ではないとしか判断出来ない。存在には意味がある。存在という、ある種の軛に捕らわれた以上、それは無駄であり続けられない。意味を持てるか、有益か、意味をもたらせるかではない。ただ、無駄ではないとしか唱えられないがな」
「……この前話した『無為』の話にちょっと似てるような。あれも無為は無為でしかない、って結論だったよね」
「ああ、似ているだろうとも。なにせ意図的に似せているからな。話したいことはあまり変わりないのだから」
「話していること、ではなく?」
紬音の言い回しにつっかかり、口から疑問が漏れでる。
「話したいことだ。話していることは少し違う。だが、私が君に伝えようとしていること──それは変わっていない。不変。そう、不変だ。全てから独立した不変を我々は追い求め、嫌い、同時に好いている。この一見して矛盾した感覚と行動は、実のところ矛盾していない。憎み、愛し、夜空に輝く星を恐怖するように、不可解の間隙から零れる未知に縋るように、我々は存在している」
それこそ、一見すると変な感覚。
夜空の星を見上げて、恐怖を覚えることはあんまりない。むしろ、夜という暗闇に灯りがあることで安心すら覚える。
「極低温の炎のように、須臾の永劫のように、御伽噺の現実のように。我々は存在している。いいや、我々だけではない。全てはそのように存在がある。極論、それ以上の“力”なぞ我々には無い。ならば、『矛盾した存在であること』が存在意義か? 否、違う。矛盾した存在であるという事実すら、矛盾している。我々という存在は矛盾しながらも、そこから脱却している。つまりは。努めて要約せよと命令すれば、それは単純なことでしかない」
いつの間にか、場所は家の前に変わっていた。
紬音の家と、僕の家の中間点。
「……でも、その単純なことを言わない。そうでしょ?」
「ああ、私からは──決してそれを言わない。未来というものが、如何に残酷か。過去というものが、如何に冷酷か。現実という名の神は、どれほど我々に興味が無いか。私は
二度使われた『それ』という言葉は、違うものを指していて。
「……一応訊くけれど、何が言いたいの?」
今日だから訊くけれど。
そんな前置きを隠して、僕は訊ねる。
「折角だ。
「僕よりも、そっちのほうが変えそうだけどね」
「ならば、私は待っていよう」
遥か高みから見下ろすように。
同じ高さの地上から見つめるように。
紬音は、待ち望むと宣言する。
「君の憧れる『千言紬音』を、君が好きだという『千言紬音』を保持しようじゃないか。それが何者なのか、どのような存在かは君と私が定義するんだ。私と君の視点は同一じゃない。押し付けるのは、理想ではなく現実で。その存在は、現実ではなく理想で。私はキミの
そこまで言われたなら、仕方ない。
こんなにも挑発に等しい文言は、そうそうないでしょう。
「なら、追い付かなきゃいけない。『文系の天才』である千言紬音が
「ああ、存分に足掻きたまえ。全ては私の掌の上だと思え。例えそれが事実でなくとも」
「もちろん、そんなの言われなくても……!」
堂々とそのセリフを吐けるのは、ここまでの積み重ねと自信からだろうね。残念ながら、僕には到底吐けるようになる予定のないもの。
「さあ、門出の時間だ。新たな世界を観照し、君の視点での世界を示したまえ」
今日の日付は、3月31日。
強風が巻き起こり、桜が舞い散る。
「私はそれを、心の底から楽しみにしているとも」
彼女は軽く手を叩き、清廉な音を鳴らす。
千言の終わりの合図。
今日が終わり、目を覚ませばそこは新世界。
つまり……こんなにも興味深くて嬉しい門出の祝いって実在していいのだろうか。