俺の吐く言葉は軽い。
説得力が薄く、共感性に欠け、求心力は足らず、正当性すら皆無だ。
『安瀬に比べたら取るに足らない事だけど…………俺にも、思い出したくない昔があった』
だから、共感を誘うための言い訳じみた自分語りは許されない。安瀬に俺の事情は関係ない。
『母親の事は残念だと思う。でも、天国の母親は安瀬が苦しむのをきっと望んでいない。そうだろ?』
上から目線で彼女を諭す事も論外だ。こんな薄っぺらい言葉で、人は絶対に救われない。
人でなしである俺が何を言おうとも、彼女の益になる事はないだろう。
残った選択肢は、行動で誠意を示すことだけだった。
***********************************************************
「すぅ……ふぅー……」
隣町の駅前で、紫煙を吐き出す。
銀のスタンド灰皿は昨日掃除されたばかりらしく、その内容物は俺のウィンストンがほとんど。始発前からずっとこうしているので当然と言えば当然だ。
(煙草、これでラストかぁ……)
白いパッケージの中身はもう空だ。
名残惜しくボックスを見つめ、フィルターギリギリの煙草を大切に吸いきる。
もみ消す必要がない紙巻を灰皿に投げ捨て、周囲を注意深く見渡す。人の流れは落ち着いてきたので、どうやら通勤ラッシュは終わったようだ。
「はぁぁ………」
ニコチンが切れると、これから俺がやろうとしている行為に暗い気持ちが陰る。抵抗感を払拭するために煙草が欲しいが、待ち合わせをしているわけではないので、この場を離れるわけにはいかない。
連休中に彼女に会うためには、隣町の駅前で、電車が動く前の時間から待ち続けるしかないのだ。
『……私は3日後に用事もあるしな』
彼女から漏れ出た、あの情報を頼りに。
「よぉ、安瀬」
そして、5時間も待った成果がようやく表れる。
「…………なぜ、貴様がここに」
キャリーケースとリュックという大荷物を携えた彼女は、突然声をかけた俺に驚き、その体を強張らせた。
「お前を待ってた」
「っ……な、なんだと?」
「待って、引かないでくれ。ストーカーとか、そういった類のあれじゃないから」
「……それなら、なんだ。何か用事か」
訝しい視線を隠さずに、安瀬は俺の目的を問いただす。
「えっと、それはな……」
目的を答えるその前に、俺は彼女に確認したいことがあった。
「……今から帰省するつもり、で合ってるよな?」
「…………っち」
安瀬は忌々しそうに俺から視線を外し、心の底から不愉快そうに舌打ちした。その反応から確証を得る。
彼女は、今から地元へ帰省するのだ。
ゴーデンウィークをあけてすぐの日曜日。それは母の日だ。なので
「だったら、なんだ」
言葉により一層、攻撃的な意思が宿る。空気中に散ずるのは、殺意さえ含んだどす黒い瘴気。
「待ち伏せまでして、私に、何の用がある」
「…………」
今から一言でも間違えれば死ぬ。そんな冗談みたいな予感が体中に駆け巡った。
「黙るな。あに……人と待ち合わせをしている。用があるなら手短にしろ」
「……あぁ、悪い」
既に、俺に出来る事はやりきっていた。これ以上、安瀬に対して、俺がどうこうできるとは思わない。傷を開いてしまった俺には、そう思い上がることができなかった。
「これ」
だけど……俺はもう一度だけ、彼女に償いをする必要があった。
「これ、コサージュだ」
「……!!」
安瀬の過去を知る発端になった母の日のプレゼント作り。安瀬を泣かせてしまったあの後、俺は2人分のコサージュを作った。
「作ってたんだ」
俺は今日、彼女が母親に渡すはずだったコサージュを届けるために、ここに来た。
「俺の母親の分と……安瀬の──」
「黙れっ!!」
怒りは、ついに限界点を超える。
「ふざ、けるなよっ……!!」
胸倉をつかまれる。持ち手を失ったキャリーケースがバランスを崩してその場に勢いよく倒れた。
「同情か!?
「っ」
首が布地で圧迫を感じるほど、彼女はきつく俺の喉を締め上げる。
「は、はは、ははははははは!! …………みじめ極まりないな」
狂った激情が絶え間ないスピードで揺れ動く。自虐じみた笑いは、そのまま自分を矮小だと決めつけるような苦笑へと変化していった。
「何か言え……言ってみろ。ほら、私に向かってもっともらしく、慰めの言葉でもかけてみろ。最後の言葉だ、特別に聞いてやろう」
「すまなかった」
「……それだけか?」
「あぁ、これだけだ」
伝えたいこと、内包した気持ちは山ほどあるはずなのに、俺が口に出せたのはたった6文字の謝罪だけだった。
「冷めたな」
俺への視線が失望一色へと染め上がる。
「元々ないが、愛想も尽きた」
彼女はもはや、俺に対してなんの感情も抱かない。その気持ちと同様に、胸倉を掴んでいた手から力が抜け、安瀬は俺から距離を取る。
「こんな物」
離れ際に奪うようにして受け取ったコサージュを、安瀬は高く振りかぶった。
「こんな物、誰が要るか。貴様の目の前で、踏みつぶしてくれる」
「…………」
俺はその行動を止める事はせず、じっと佇んでいた。
その次に起こるであろう反応を、ただ黙って待つ。
「……こんな」
コサージュを投げ捨てようとした安瀬の手が、震えはじめる。
「……こ、こんな……物」
ここからが、俺がクズである所以だ。
「き、貴様が」
安瀬の瞳から、熱く冷めた涙が零れ落ちる。
「貴様、が、私の母の、何を知っている……」
「…………」
「名前も、容姿も、何が好きかも……私を愛してくれた優しさも、叱ってくれた慈しみも!! 何も知らない貴様が……!! 貴様なんかがッ!!」
涙溢れる瞳が、部外者の俺を強く弾劾する。
「貴様みたいなクズが!! こんな物を軽々しく作るなっ!!」
涙は続き、コサージュは胸元で壊れてしまいそうなほど握りしめられる。
……彼女の言う通りだった。
俺は何も知らない。安瀬の苦悩だって、まだガキである俺には到底理解できるはずがない。
でも、俺にも分かることはあった。
安瀬はきっと、このコサージュを作りたかった。
俺が森に入ってまで安瀬を追い詰めなければ、彼女はその足で作業場まで戻り、泣きながらでもコサージュを作った。落涙する姿を他人に晒しながらも、それが少しでも母親の冥福につながるのなら、安瀬は自傷行為にも思えるその苦行をやってのけた。
「お前の作ったこれに、冥福の気持ちなんか籠ってない……!!」
絶叫に似た強い拒絶。捨てられない物体を手放す理由を、彼女は必死に探す。
「いや、込めたよ」
対して俺は、ただ冷静に事実だけを話す機械になった。
「薄ぺっらい……本当に薄っぺらい、故人を尊ぶ気持ちってやつを」
「っ、だろうな!! お前に込められるのは、その程度の物だ!!」
安瀬はコサージュを捨てられない。負い目や、菩提の祈り。複雑な感情は俺への敵対心を大きく上回る。
これは
「あぁくそっ、クソ……!! 止まれ、止まれ!!」
安瀬はこちらが不安になる勢いで目を擦り、必死に涙を抑えようとする。
「死ね!! お前なんて死んでしまえ!! くそ!! くそっ!! 見るな、私を見るなっ!!」
「……本当に、すまなかった」
「っ!!」
自然と頭が下がって口が動いた。許されたい、なんて気持ちはもうない。ただ、ただひたすらに、涙を流す彼女に謝りたかった。
「ぁ、ぁ、ぅっく……く、そっ…………」
安瀬は頭を抱え、俺の不用意な発言によって悶え苦しむ。
「ぅ、なん、で……くそっ…………あ、ありが、ち、ちがう……そ、そう、ではない。こ、こんなものは、こんなのは…………」
彼女は苦悩しながらも、自分の感情に何とか折り合いを付けようとしていた。
「ひ、卑怯者め」
彼女に似つかわしくない弱弱しいなじり。だけど……それは普段の罵倒より、何倍も心苦しかった。
「嫌いだ、お前なんか……」
倒れていたキャリーケースが起こされ、安瀬の手に取られる。涙を流しながら、安瀬は逃げるように走り去った。
悲痛の涙は、地に落ちる前に中空で散って、重い空気に溶ける。後味の悪さと、申し訳のなさだけが俺の胸中で渦巻き、後悔が押し寄せた。
「……ごめんな」
去る彼女の背中に向かって、誰にも聞こえない謝罪を述べる。
「でも、これでお終いだから」
罪悪感からか、気づけば何の意味もない言い訳を口にしていた。
***********************************************************
「…………我に、どうしろ、というのじゃ」
人が行きかう新幹線乗り場。電車を乗り継いで、新幹線乗り口がある大宮で人を待つ。
手には、酷い男から渡された、最低の贈り物。持ったまま捨てられない花飾り。
「桜?」
涙が落ち着いた頃、この場所で待ち合わせをしていた兄貴がようやく姿を見せた。
「……遅かったな、兄貴」
兄に見られないよう、コサージュをリュックにしまい込む。
「ギリギリになって悪かった……桜、何かあったのか? その……目が」
「ない」
短く、優しい詮索をはねのけた。
「何もない」
「……そうか」
「ゆくぞ」
「お、おう」
ホームの待機列に並び、新幹線を待つ。
我と兄貴は、新幹線で羽田まで行き、飛行機で実家に帰るつもりであった。
「……まとまった休みはちゃんと取れたのだな」
「ん、まぁな。ゴールデンウィークは休日返上で働いてたし、その振替で取れたよ。そっちはどうだった?」
「どう、とは?」
「オリエンテーションだよ。豪勢に7日間もあったんだろ? ……友達とか、できたか?」
「はぁ……」
兄貴の顔は、まるで小学校に入学したばかりの子を持つ親のようであった。もう20歳にもなる我の学生生活を、本気で心配してくれている。
「……2人だけ」
「だよなぁ。できるわけがな……え?」
「2人だけ、話せる奴はできたぞ」
無駄な心配をかけたくはなかったので、兄が望んでいるであろう答えを返す。
「ほ、本当に!?」
我の返答を聞いた兄貴は、ぱぁっと顔をほころばせた。
「お、お、お前がか……!? 上っ面の付き合いが大嫌いで、異常行動でよく周りをドン引きさせてた、お前に?」
「うるさいぞ、兄貴……。人を社会不適合者みたいに言うでない」
「いやいや、お前は歴とした社会不適合者だろう……」
(…………足を踏んづけてやる)
兄に正当な制裁を加えようとしたその時、ポケットの内部が震えだした。
「?」
ポケットからスマホを取り出して、着信を取る。
「もしもし、佐藤先生?」
「あぁ、安瀬さん。良かった、繋がって……」
兄貴に目線だけで『外すぞ』というジェスチャーを送って、急ぎ足でその場から離れる。
「先生、どうしたんですか? 今日はお休みのはずでは?」
「生徒はお休みですけど、教員は今日も大学で仕事ですよ。なにせ、平日ですからね……」
「そ、そうですか。お疲れ様です」
社会人の現実を目の当たりにして、少々辟易とした。
「あの、それで、ご用件は何でしょう?」
「あぁそうなのよ。ねぇ、陣内さんの事をなんとか引き留めてくれないかしら? 貴方、そこそこ付き合いがあるのでしょう?」
「っ……!!」
唐突に、今は聞きたくない名前が飛び出る。名前を聞いたせいで、胸中がぐにゃりと歪んだ。
こちらの表情が分からない佐藤先生は、焦りを含んだ声音で矢継ぎ早にまくしたてる。
「こういうのを急に出されると、まず、私たち教授は何が問題だったか詳しく調査して報告しなきゃいけないのよ……彼、たまに授業をサボっていたくらいで出席数に問題はないし、まだ中間テストすら受けてな──」
「先生、待ってください」
一方的に加速する話をなんとか塞き止める。
「あの……徹頭徹尾、意味が分からないのですが」
「もしかして貴方、何も聞いてないの?」
「はい?」
「いや……それもそうですね。普通、誰にも相談しませんか、こんなこと」
電話越しにため息が1つ。佐藤先生は重々しい雰囲気を醸し出した。
「実は昨日……陣内さんが
「────は?」
***********************************************************
「んっ、んっ、んっ……」
自宅のキッチンで、いつもより少しだけ苦いビールを一気に流し込む。すぐそばには灰皿と火が付いたウィンストン。自然に上る煙は換気扇に吸い込まれていく。
「ぶはぁ…………あぁ、終わった、終わった……。終わったなぁ、俺の大学生活……でも……まぁ…………これしかなかったよなぁ」
俺にできる事は、黙って行動する事だけだった。退学届けとコサージュが、俺に出来る事の全てだった。
安瀬の周りには、美人で素敵な学友が…………ま、まぁ、素敵であるかはさておき、2人の学友ができた。入学してから一度も見たことがなかった笑顔も…………す、すごく邪悪だったけど、笑うようにはなった。
安瀬を取り巻く環境は、小さくはあるが確実に良くなった。
(……俺さえ居なければ、安瀬はきっとこれから普通で楽しい、なんの不快感もない大学生活を送る)
邪魔者は綺麗さっぱりいなくなって、半年後くらいに『陣内? ……あぁ、そう言えばいたな、そんなクズ』程度の認識になってくれれば御の字。というか元より、男の俺があの3人の輪に入るなんてのは無理がある。
これにて、俺の禊は終わりだ。今日から晴れて真っ白のプー太郎、陣内梅治の爆誕だ。
「……はぁ、マジで情けないな、俺」
当然、俺が取った行動は、方法としては下の下。
どれだけ言葉を飾ろうとも、この行動の本質は論ずるまでもなく
俺は安瀬に対して、絶対に許されないことをした。心無い言葉で傷口を抉り、晒してしまった。
それで、あまりの自責の念に心が折れ、俺は安瀬との関係の構築を諦めた。これが全てだ。
……最低だ。本当に、マジで、最低だ。
(これから、両親には頼れないな……)
おまけに、俺が不義を働いているのは両親にもだ。
……バイトで金を貯めて、専門学校にでも入学しよう。バイクに興味があるので、そっち系を目指すのがよさそうだ。
まぁ……志すのは簡単だが、決して楽な道のりではないだろう。また0からのスタートだ。誘惑に弱い俺は惑い、さらに堕落してしまうかもしれない
だけど、それが責任を取ると言う事。自分自身を犠牲にせずに何かを変えようなんて、図々しいにも程がある。
「……んっ、んっ」
これから先の展望の無さから逃げるため、ビールを呷る。
…………俺は、酒を全身全霊で愛している。お酒様の多種多様な在り方を尊重し、崇め奉っている。
だが結局のところ、俺はアルコールを過去や将来から逃げるための道具として使っているだけだ。
俺がお酒を愛する理由は、思い出したくない過去から逃げるためであり、自堕落な自分の将来に対する恐怖心を遠ざけるため。
酔って、気が紛れれば、なんでもよかったんだろう。それこそ、煙草や賭博といった退廃的な趣味嗜好。初めに触れたのが酒であっただけで、他2つが最初なら、俺は恐らくそっちを溺愛していた。
「…………」
結局、1年前のあの時からずっと、俺の心は弱いままだった。
───ガンガンガンッ
「んあ?」
思いっきりブルーに入った陶酔感が、猛烈な打音によって薄らいだ。
「……なんだ?」
音源は玄関口から。
インターホンがあるのにも関わず、唐突な来訪者はドアを激しく叩きまくっている。
「誰だよ、一体……」
訝しみながらも、特に何も考えることなく玄関扉を開いた。
「どなたですか、って……」
扉を開けた瞬間、凍り付く。
「あ、安瀬……」
「……陣内」
玄関の前に居たのは、安瀬だった。
もう永遠に顔を合わせるはずがなかった彼女が、そこに居た。
「な、なんだよ安瀬。お前、地元に帰ったんじゃ……」
「ふざ……けるなよ…………ふざけるなよっ!!」
突如、強烈な怒号が空気を裂いた。
激怒している安瀬に、今朝と同じよう胸倉を掴まれる。
「なんだ、それは!? なんなんだお前は!? そんな事をして、私の気が済むと思っているのか!?」
「はぁ!? なんだ急に……!?」
「言え!! 答えろ!! 何故、退学届けなんかを出した!!」
「っ」
再び体が凍り付いた。ぎゅっと心臓が収縮し、血流さえ止まる。
知るはずのない人物が、俺の退学を知っていた。
「な、なんで、それを……」
「黙れ!! そんな些末な事はどうでもいい!!」
俺の混乱を、安瀬はどうでもいいと切って捨てた。それ以上に聞きたいことがあると、彼女は襟をより強く引っ張る。
「あ、あんな物を作って、渡して!! そうして自分は退学か!? それでケジメでも取っているつもりなのか!? そんなのが私への償いだとでも言うつもりか!?」
「っ……!!」
暴かれたくない核心に、安瀬は容赦なく触れる。
「ふざけるな陣内梅治!! ど、どこまで私を哀れめば気が済む!! どこまでは私を虚仮にすれば──」
「違う!!」
「っ」
反射的に叫んでいた。
突発的な事態で、まるでおぼつかない思考。それでも本能的に、俺は安瀬の追及を全力で否定した。
「そ、そうじゃねぇ……」
必死になって、自分の中から使えそうな感情を探す。この場を切り抜ける方法を模索する。
「こ、これは……………………………」
溺れてしまいそうな窒息感をなんとか乗り越え、次に吐くべき台詞を決断した。
「……俺のためだ」
「は?」
「勘違いしてんじゃねぇよ。元から居心地が悪かったんだよ、あんな大学」
そうだ。その通りだ。俺にとって有益だから、俺は大学を辞める選択をした。
「周りは酒も飲めないガキばっかりで馴染めないし、学習分野も思っていたのと違って興味がでねぇ。……そ、それに、遊べそうな女が少ないのも最悪だ」
これは俺の本心。心の底からの言葉だ。嘘じゃない。
「あとな……お前たちの事も大嫌いだったんだよ」
事実に即し、ただ真実を並べる。
「西代は言動がクズ過ぎて付き合いきれないし、猫屋は無駄にうるさくてバカでうぜーし、お前に関しては…………言うまでもないだろ?」
「なんで」
「どいつもこいつも生意気で気に入らなかったんだよ。もうお前たちの顔を見なくていいと思うと清々するぜ」
「なんで……」
「この大学に入って、詰まらねぇことばっかりだった。暫くは親の脛でもかじって遊んでないと釣り合いがとれねぇよ」
「なんで、嘘を付く時だけは……そんなに口が回る……」
「っ」
思いつく限りを並べ立てたが、期待していた結果は得られない。
安瀬の体から力が抜け、襟から手が離れる。強い意志を内包していた視線は俺から遠のき、重力に負けて下に落ちる。
安瀬の表情や態度には、哀れみに近い物が宿っていた。
「……もう良い」
「おい」
そして、最低最悪の結末が訪れようとする。
「私が、意固地であった」
「やめろよ」
「もういい、陣内」
「やめろって」
「許すよ、陣内」
「なにがだよ……!!」
「もういいよ、陣内。そこまで追いつめるつもりはなかった」
「ふざけんなっ!! 俺は!! 俺の意思で大学を辞めるんだ!! テメェの許しなんていらねぇんだよ!!」
それ以上を言わせないため、我を忘れて、道理すら無視して、彼女を怒鳴りつけた。
「……ここ数日、楽しかったよ。思えば、あんなに馬鹿をやったのは久しぶりな気がする。出会いがどうであれ、発端はお前だった」
「ち、違う……」
「色々と、気を使われていることは分かっていた。人の輪に入れようとしてくれていた事も、私に必死に謝ろうとしていた事も…………。だが、私は……ほら、こうだろう? 素直には受け入れられなかった」
「違うっ……!!」
お、俺は……こ、こんな、身を盾にするような真似がしたかった訳じゃない!!
ほ、本当に、自分に嫌気が差して!!
何とか変わりたくて……!!
謝りたくて……!!
安瀬の泣いている姿が忘れられなくて……!!
でもこれじゃあ本当に卑怯者だ!!
ガキのやった無鉄砲を、諦めて受け入れられているだけで!! 安瀬の優しさにっ、救ってもらっているだけで!! 俺はなにもっ!! 俺はなにもっ!!
「分かっている、分かっておるよ。全部、お主の考えていることは分かっている」
ぐちゃぐちゃの思考に、安瀬の言葉が染み入る。俺にだけ、あまりにも都合の良い甘い言葉が、俺を許そうとする。
「許すよ、陣内」
「ちがっ、これはちが……」
「だから、泣くな。涙は嫌いでな」
気が付けば、俺の頬をみっともない涙が濡らしていた。
「あ、ぁあ、こ、これは、これは……」
「止めようと思っても、止まる物ではないか」
俺の髪が梳くように優しく撫でられる。
慰めは、より落涙を加速させた。
「……ご、ごめんな……ごめんなぁ安瀬」
決壊と共に、謝罪が零れた。
「ひ、酷いこと言って……あんな、あんなに酷い事、言っちまって……」
足から力がぬけ、膝をついて、何よりも伝えたかった本音が滑り落ちる。
「な、何も、知らなかったのに……お、俺……バカ、で、……安瀬の事、知ろうともしなかったくせに、あんな……あんなっ!!」
しゅるりと、首元で柔らかい衣擦れの音が響いた。
「っ……!!」
「もう……あまり気にしてくれるな」
泣く子をあやすような抱擁。
制御がきかず勝手に漏れ出た懺悔と涙を止めるため、安瀬は俺を強く包み込んだ。
「不器用だなぁ、陣内は……」
耳元で囁かれた安瀬の呟きには、呆れと親しみが交じり合っている。
「これで、もう、自分を許してやれ。そこまでする必要はない。陣内だって……やっと前に進みだした所なのだろう?」
「っ!!」
無駄にした2年間。無価値なくせに埋まるはずのない喪失を、彼女は同じだと言って埋めようとしてくれる。
何も知らないはずの安瀬は俺と違って、大人のように知的で、寛容的だった。
「ご、ごめんなぁ……ごめんなぁ……」
「……ん」
俺のクソだせぇ謝罪と、被害者ぶった涙は、彼女の許しを得ても暫くの間止まらなかった。
安瀬は俺が泣き止むまで優しく頭を撫でてくれた。
***********************************************************
「落ち着いたか、陣内?」
涙が引いて暫くした後、安瀬は心配そうな顔でこちらをのぞき込む。
「……悪い、気を使わせて」
涙が流れた跡さえ残さないように、目元を強く擦る。
「だから、何度も言っただろう。もうあまり、気にするな」
安瀬の口調からは、重みが完全に無くなっていた。刺々しかったいつもの雰囲気は、もうまるで感じられない。
「それよりも陣内、今すぐにでも大学の事務室に行って退学届けを取り消しておけよ? 佐藤先生、すごく心配していたぞ?」
「あぁ、分かってる。この後、すぐに行ってくるよ」
「良し、約束したからな…………はぁ、しかし、今からまた飛行機のチケットを取り直しか。我ながら無駄な出費をした……」
「出すよ、その金。いや、頼むから金くらいは出させてくれないか?」
「……なら、折角だ。お願いしよう」
少し俊住したあと、安瀬は控えめにうなずいた。
安瀬が頷いたのを見て、俺は財布から万札を5枚引っこ抜いてそのまま彼女に手渡す。
「釣銭はいい。どうせパチンコで稼いだあぶく銭だ。なんにでも使ってくれ」
「ふふっ、それは気兼ねないな……そうだ、陣内。ついでにライターを貸せ」
「え、なんでだ?」
「よいから」
「?」
首を傾げながらも、言われた通りにライターを手渡す。
安瀬はライターを受け取って、リュックから赤い本を取り出した。大学入試のための教材だ。
「えい」
安瀬は勢いよくフリントを回して、本を燃やし始めた。
「ぅお!?」
「ふん」
『もう不要だ』と言わんばかりに、安瀬は燃える赤本を乱雑に投げ捨てる。
「ふふっ、ふは、ふはははははは……!! 一度、これをやってみたかったのじゃ!! ふははは、教材とはよく燃える物だな、陣内!!」
「え、あぁ、そうだな。よく燃えてるな……」
燃ゆる炎を楽し気に見つめ、安瀬はゲラゲラと高らかに笑う。
危ない雰囲気に圧倒されているうちに、教本はあっという間に燃え尽きて、残ったのは灰だけになった。
「ふぅ……満足した。悪いが灰の掃除は任せたぞ、陣内?」
「あ、あぁ。まぁそれくらいは全然いいけどよ……」
「うむ。なら、
「…………?」
何か、いま……おかしくなかったか? その違和感が何か分からないが、何かが異常ではなかっただろうか?
俺が首を傾げている間に、安瀬はスタスタと俺から離れていく。
「陣内!!」
敷地と道路の境界線。そこで安瀬は振り向き、俺の名を大声で叫んだ。
「我は楽しむよ、この大学生活を!! 一生に一度しかない、この最後の青春を!! お主ら3人とな!!」
これまでの陰りを一切感じさせない、陽の光すらはじき返すような満面の笑顔。
もはや別人にも思えてしまう朗らかさを、彼女は俺に向けた。
「来週からはどうか、本物の我の相手をしてやってくりゃれ!!」
「──ぇ?」
「滅茶苦茶をやるつもりだから、覚悟しておくでござる!! もう!! なにも!! 遠慮はしないのである!!」
「ん??」
聞き、間違いだろうか……? さっきから安瀬の言葉遣いが常軌を逸しているような……。
「ではまたな、陣内!! また来週、大学で!!」
元気いっぱいに、安瀬は手を振って去っていく。
「…………」
雲間が晴れて、ようやく顔を見せた太陽。
今まで見てきた安瀬のイメージを全てぶち壊していった、別れの挨拶。
「あぁ、また来週な。安瀬」
胸に飛来した幸福感は『この大学生活で、彼女の笑顔だけは絶やさないようにしよう』と決意するには十分すぎるほどだった。
***********************************************************
そこからは、まぁ……本当に色々あった。
色々、なんて言葉じゃ語りつくせないほどの出来事が、毎日毎日、濁流のように流れ込んできた。
母の日を終えた週明けの月曜日。
安瀬桜最初の奇行は、どこからか入手した中間テストの過去問を無人販売所で売り始めたことだった。このせいで、一部の教授は毎年流用していた問題を作り直す羽目になったらしい。
梅雨の季節には、安瀬が突然、3ミリのメビウスを買ってきて喫煙を始めた。
猫屋がピカピカとした笑顔で安瀬に抱き着き、あれこれと世話を焼いた結果、最終的に彼女はメンソールのメビウスを愛煙するに至った。
初めての夏休みは、4人で遊びまくった。
バイトが終われば朝まで酒を飲み、休日はパチンコかスロット。紫煙が絶えない俺の部屋で、この世の終わりのような楽しい日々を過ごした。
秋の文化祭。
俺の忌まわしい過去を、3人が文字通りぶちのめしてくれた。
方法は下劣で過激、世間様には大目玉をくらうような内容だったが…………俺はそれで救われた。
クリスマス会終わりの深夜、安瀬にアイスフラワーを渡した。
イメージだけでピンク色の睡蓮を選んだが、後で白いユリやカーネーションの方が献花として好ましいと知り、ちょっとだけ後悔した。
21歳になった、俺の誕生日。
部屋が爆発した。…………よく生きていたなと、冗談抜きで思う。その後の部室暮らしは男の俺には結構キツイ環境だったが、同時に馬鹿みたいに楽しかった。
最悪の事態を招いた春休み。
猫屋に重い後遺症を負わせ、安瀬は大怪我をした俺なんかのために涙を流した。それで、また、安瀬は馬鹿な俺を許してくれた。…………あの出来事を生涯忘れないよう、俺は戒めとして心に刻み込んだ。
桜舞う2年目の春。
4人で京都旅行に行っ……く前に、警察に捕まって留置所にぶち込まれた。俺たちにしては珍しく悪いことは何もしていなかったが、あれは生きた心地がしなかった……。
梅雨入り、ギリギリ前の時期。
心労を癒すためにキャンプに行って、大雨のせいで帰れなくなった。酒と煙草をめぐって泥沼の中で本気で争い、結果は大雨に打たれたせいで全員が風邪を引く羽目に…………阿呆だ、阿呆すぎる。
…………色々と、後悔はある。
だけど、本当に、本当に、楽しいことだらけだった。
安瀬のおかげで、理不尽に女性を目の敵にするクズ以下の精神性は改められ、俺は少しだけましになれた。
全部、安瀬のおかげだ。
安瀬のおかげで、楽しかった。
安瀬が居てくれたから、俺の大学生活は幸せで、頭を抱えるほど滅茶苦茶で……一生の宝になる思い出が沢山できた。
きっと……これから先も同じだ。
明日も、きっと、誰にも想像ができないような楽しい日々が続いて────!!
***********************************************************
「お、親父が交通事故にあった」
やめろ。
「意識不明の、重体で、病院に、搬送され、て。ぁあ、なんで、なんでどうして、こんな、こんな事に」
それだけはやめろ。
「こ、これからだったんだ。桜も、私も、受け入れて、やっと元に、元に戻って来たはずなのに、これから全て上手くいくはずだったのに、何で、どうして、どうして」
なんでそうなる。
「さ、さくらに、な、なん、てっ、言えば……!!」