このお話は猫屋事件のIFストーリーです。
本編の内容、結末には何の関係もありません。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
暗い、どこにでもある汚い路地裏。
他の物と相違点を上げるのなら、そこには陣内梅治が仕掛けた監視カメラがあることくらい。
室外機の中に隠されたカメラは、その一幕をじっと見つめている。
記録されているのは殺人未遂の現場であった。
「ひゅっ……ひゅ…………」
「く、
「あ゛あ゛!? お前らがちょうどいい得物を持ってねぇのが悪いんじゃねぇか……!! わ、私は……知らねぇぞ!! に、逃げるぞ……早く、車を出せ!!」
血濡れた金属バットを
目に痛いほどの赤。暗い路地で横たわる男が、身勝手な復讐のために彼女を必要以上に激昂させた故の末路。
「………………」
陣内梅治は、頭部から多量の血液を流し、徐々に力を失っていった。
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集中治療室の外。大きな一枚ガラスの向こうで、彼は様々な医療器具に繋げられて眠っている。
「植物……状態?」
「はい……」
春休みに入った途端に姿をくらました陣内梅治の元までたどり着いた、安瀬と猫屋と西代。彼女たちは、陣内の義理の叔父である
「……頭部への重い殴打。命に別状はありませんが、目を覚ます事は……もうないかと」
「は?」
安瀬桜には、目の前の人物が一体何を言っているのか理解できなかった。
「それは、どういう……」
「そのままの意味です。もう死ぬまで……目を覚まさない可能性が高い」
「…………なんじゃ……それは」
ふつふつと、理不尽な現実に対し底知れない怒りが顔を覗かせる。
「ふざ、ふざけ──」
「ふざけんなッ!!」
医者に詰め寄ろうとした安瀬を追い越して、先に金色の猛獣が医者に食って掛かった。
安瀬が纏う憤怒の感情とはまた違う、焦燥を交えた激情。猫屋は感情を爆発させ、自分よりも一回り大柄な男性の胸倉を躊躇なく締め上げる。
「な、治せよっ……!!」
猫屋は声を震わせながらも、攻撃的に命令する。
「こ、このやぶ医者ッ!! 陣内を治せ!! 目を覚まさせろッ!! い、いいや、やっぱり他の医者を呼べ!! 私の腕も治せなかったクソヤブが!! テメェじゃ話になんねぇんだよ!!」
「もう……既にできる限りの事は…………」
「あ゛ぁ゛!? 聞こえねぇよ!! ごちゃごちゃ言ってないで治せ!! 今すぐ治せ!! ぶち殺されてぇのか!!」
「ね、猫屋、落ち着いて──」
「うっさい、黙ってろ!!」
「っ」
仲介に入ろうとした西代を汚く罵倒し、猫屋はさらに強く医者に詰め寄る。
「おい、何突っ立ってる!! 早く何とかしろッ!! お、起こせ……起こせ!! じ、陣内を……わ、私のせいで……じ、じんな、ぁ、あ、ち、ちが、あぁ、あああ、ああ、ああああああああああああああああ!!」
喉が裂け狂いそうなほどの絶叫。
彼女の視界の端には常に、ボロ雑巾のようになった親友のいたたまれない姿が映っていた。
『いいや、お前は頑張ったんだ。逃げたんじゃない。不幸な事故にあって、でもちゃんと立ち直って、前に向かって歩き出せたんだよ』
怪我を理由に諦めた自分を、それでも頑張ったと受け入れてくれた人。親に迷惑を掛けながら逃げるように大学生になった自分を、辛い中よく前に進もうとしたと、優しい言葉をかけてくれた友人。
「やだ、やだ、なんで、なんで、なんで、なんでっ……!!」
大雨の中で、子供のようになく自分を慰めてくれた彼。
その柔らかい過去が、受け入れられない今と、無限に折り重なり続ける。
『お前は誰よりも立派だ。俺は心からお前を尊敬するよ』
「────────っ」
温もりが想起されるたびに、自我は崩壊していく。
自分のせいで、大好きな彼は、暗い路地で残酷なリンチを受け、そのまま指1つ動かせない状態にまで至ったのだから。
「い、今すぐ、陣内を起こせ。起こせ、起こせ、起こせぇぇええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!」
初めての恋。
猫屋李花は最低のタイミングでそれを自覚した。
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起きた。
「…………ぅ、ぐ?」
体が異常に重い。
……本当に鉛のように重い。関節が錆びてしまったかのように動かないので、起き上がる事すら満足にできない。
「か、ひゅ」
次点、声を出そうとして失敗した。
喉が渇いているという次元じゃない。喉だけ砂漠のど真ん中だ。
(どこだ、ここ? …………病院??)
真っ白な部屋とベット。どこからどう見ても病室にしか見えない。
なぜ、こんな場所に居るのか? その疑問を解くための考えそのものが上手く形成できない。体の調子が振るわなければ、思考の方も十全には回らなかった。
(喉、乾いたな)
思考を一切合切放り出して、ベッド横にある小型冷蔵庫に意識を向ける。体を虫のように這わせて、腕をベットの柵から伸ばした。
(ビールでも入ってないかな)
ふらふらと頼りなく、冷蔵庫を開ける。その際、視界に入った異常に細い自分の腕の事は無視した。頭に掛かっている深い靄のおかげで、緊急の要件であるはずのそれを脳は認識できていない。
「…………んぐ、んぐ」
中身が中途半端に残っていたペットボトルに口をつける。一度開封してある物があって助かった。力が全く入らないので、未開封の品なら開くのに苦労しただろう。
「ふぅ…………で、何だこの状況」
潤いを取り戻した喉は、少し痛みを伴いながらも正常に動いた。
「……あれ? や、ヤバくね、これ」
病室のベットで、動く事が困難な体。……も、物凄く怖いんだけど? 何をやらかした、俺。
(と、とりあえず、頑張って体を起こそう)
ぐぎぎぎ、と歯を食いしばって何とか上体を起こした。本当に体が重たい。インフルエンザに罹って40度を超える熱を出した時でもこんなに辛くは無かった。
「あぁ……!! クソだりぃな、おい!!」
ばさ──
突如、何か柔らかい物が落ちる音が室内に響いた。
「ん?」
反射的に視界をそちらにやる。
扉の前。ビニールに包装されたお花が床に落ちていた。
「………………ぁ」
そこには、猫屋が突っ立っていた。
「…………え? なん、で?」
彼女は目を丸くして俺を見ていた。
表情は完全に固まっており、まるで幽霊にでもあったような顔をしている。
「お、猫屋。なんだ、良かった」
見知った顔の登場に、俺は少しだけ安堵した。
「なぁ俺ってなんで入院してんの? 昨日、深酒したっけ?」
俺が病院に居る理由は、1つくらいしか思い浮かばない。
恐らく、急性アルコール中毒。それなら体が重たいのにも納得がいく。胃洗浄の後なら当然、体も満足に動かないだろう。
「ぁ、あ、ぁ、ぁあ」
「猫屋? どうした?」
「ぅ、ぁ、じ、じんな……じ、ん…………」
「いや、マジでどうしたよ? 猫屋も、もしかして二日酔いか? …………というか、あれ? なんか髪伸びてないか、お前?」
「ぁ、ああ……ぁぁぁぁあああああああああああああああああああああ!! せ、先生!! せんせーーい!! せんせーーーーーい!!」
彼女は俺の疑問に答える前に、全速力でどこかに駆け出した。
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「…………あのさ。俺、4年も寝てたって、マジ? 黒羽のクソに、金属バットで頭殴られて」
「う、うん……」
お医者さんによるやたらと長い診断と、MRIによる精密検査を受け終わった後。俺は猫屋からこうなってしまった経緯の説明を受けていた。
「そうか……」
どうやら俺が4年も寝たきりになってしまった原因は、猫屋の故障の原因でもある黒羽桔梗にあるらしい。
よし、退院したら、あいつ殺しに行こう。……いや、流石に捕まって今は刑務所の中か。懲役何年ぐらいだろうか? なんにしても、ざまぁねぇや。
「はぁ……しっかし、大学の方はどういう扱いになってんのかね、俺。休学扱いなら、今からでもちゃんと通わないと…………6つも年が離れた奴らに馴染めるかな?」
「え?」
「いや、だって、そうだろう? 俺って今、4年間寝てたプー太郎だぜ? 大学ぐらい卒業しておかないと就職できなさそうじゃないか?」
「しゅ、就職? いや、その前に気にする事がいっぱい……」
「あ、そうだ。なぁ、猫屋は就職できたのか?」
「ぇ、あ、うん……。今はママのボクシングジムで経理の仕事させてもらってるけど……」
「うおっ、マジかよ!! す、凄いなお前、ちゃんと社会人やれてんのか…………そう言えば、猫屋。お前、また綺麗になったよな。髪もロングになってて、なんか大人びてる」
「……え!?」
鎖骨付近までだったミディアムウェーブの金髪は、緩く巻かれた気質はそのままに肩より下まで綺麗に伸ばされている。
細くて華奢、なおかつ朗らかな性格が相まって金色の妖精の様だった彼女は、4年という歳月を経て、もはや触れることも躊躇われる美人さんへと昇華していた。
「あ、えっと、その…………そう、かな? う、嬉しいっ…………あ、ありが……って、違う!! 大学とか就職とか、今はどうでもいいでしょー!? 陣内、4年も寝てたんだよー!? もっと落ち込んだり、悲しんだりしないわけーー!? ちょっと普通に振る舞いすぎじゃなーい!?」
「…………まぁ、少し現実逃避中なんだよ」
喪失感や無力感と言った負の感情は、現状を正確に捉えようとすると際限なく湧き出てきた。だから、少しでも現実から目を反らしたい一心で、これから先の展望や目の前の見目麗しい友人に意識を向けていたのだ。
「ぅ……ぁ……ぁ……そ、そっか。そうだよね……ご、ごめん。本当に、ごめんなさい。馬鹿で無神経で、本当にごめん」
哀愁に誘われて無意識的に窓から遠くを見ていると、猫屋がなぜか謝ってくる。その謝り方も、なぜか執拗なほどに連続的だった。
「お、おいおい……そんなに謝るなよ。俺がこうなったのは、完全に自業自得だろ? 猫屋が気にすることは何もないって」
「…………違う」
「? 猫屋?」
「だって……だって………………私が………悪くて………最低で………………傷つけて……………………………………………………………………クズ………………私は…………………………くそ………………………………
猫屋は顔を伏せて、うわ言のように小言を呟き始める。
「?」
紡がれる言葉は小さく、すぐ傍にいるというのに俺の耳にさえ届かない。だけど、声音の低さから、それが自虐的な物を含んでいる事だけは伝わってくる。
(やっべ、言葉選びを間違えたか?)
猫屋は優しい。底が抜けて優しい。
優しすぎる彼女はきっと、俺の昏睡を自分のせいだと思っている。それなら、俺がいくら猫屋に非はないと訴えようと、彼女の罪悪感が晴れる事はないだろう。
「……猫屋がすぐ近くに居てくれてさ、俺すげぇ嬉しかった」
「え?」
猫屋の事を気遣うのなら、俺が口にするべきは責任の所在なんかではない。
ただただ、慈愛に満ちた彼女に感謝を伝える事だ。
「正直言って、起きた時は結構怖かった……。なんでか病院のベッドで寝てるし、体はやたらと重かったからな…………でも、猫屋の顔見たら、なんか安心できた。見舞いに来てくれてて、本当に助かったよ」
「……そんなの、ただの偶然だよ。たまたま今日、私が気まぐれで来てただけ」
「嘘つけ、バーカ。検査の時に看護師さんが教えてくれたぜ? 彼女さん、毎日欠かさず見舞いに来てくれてたんですよってな? ……ありがと、猫屋」
「…………」
「それを聞いて俺は思ったね。俺が目を覚ませたのは、絶対に猫屋のおかげなんだってな。今思い返せば、夢の中とかで猫屋が出て来てた気がするもん。いやぁー、超感謝してるぜ、マジで。もう無茶苦茶に……って感じでな?」
寝たきりになる前の自分。俺にとっては昨日までの自分を思いだして軽い調子で振る舞ってみる。
暗い雰囲気はとにかく苦手だ。俺は無事に目覚めたのだから、もう猫屋には何も気にしてほしくはない。
「……ふふっ、陣内は優しいね。ありがと」
縁側に射す陽だまりを連想させ、向けられる者の心を釘付けにする微笑み。それは4年前とはまた違う、お上品で綺麗な笑い方だった。
「っ」
大人びた笑顔は、浦島太郎状態の俺に強烈なギャップを与えた。
……ふ、不覚にも、見惚れてしまった。
「よ、よせよ。お礼を言うのは俺の方なんだって……あ、そうだ。安瀬と西代はいないのか? って、4年も寝てたら見舞いになんてこないか……」
「──────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────ぅ、あ」
その瞬間、温和な空気が崩れた。
ぐしゃり、と猫屋の表情が明確に歪む。元から白い肌が、生気を失って病的なほど青白く変色していった。
「………………2人は、さ。私が異常じゃなかったら、ちゃんと、ここに居たはずだよ」
「い、異常?」
「うん…………ねぇー、陣内。知ってたー?」
猫屋の情緒がぐるりと反転する。
「私ってー、頭おかしいんだよー? 西代ちゃんにー、あり得ないくらい酷いこと言ったんだー」
目覚める前と変わらない軽い口調で、彼女は見たこともないほど無機質に笑った。
「
「…………」
殺伐とした雰囲気から生じた悪寒が、すぐに事態を把握するようにと急かす。
猫屋から漏れ出た断片的な情報をもとに、『お前のせいだ』という言葉の意味を整理した。
……俺がこうなった発端は、俺が猫屋に黙って勝手に復讐なんてやりだしたせい。全部、俺の自業自得。それは議論するまでもない事実。
『復讐は前に進むために必要な儀式だ』
だけど、客観的に判断するのなら…………俺が復讐を決意したのは、西代のあの言葉があったからだ。
「そ、それを聞いて、あ、安瀬ちゃんが怒って、本気の言い合いになって……私……私……それで訳わかんなくなって……押し倒して…………殴った」
その言葉に、思わず息を忘れた。
「西代ちゃんに謝れって言う安瀬ちゃんを何度も殴って黙らせて、泣きながら止めに入った西代ちゃんの事も、容赦なく蹴飛ばした……」
一部も想像したくない惨劇。
気性も、趣味も、背景も、何もかもが調和して溶け合っていた親友たちの終わり。それを聞いて反射的に耳を手で塞がなかったのは、まだ体が上手く動かせないからだった。
「それで、全部壊れた。大切だった物、全部私が壊した」
ぎゅっと、猫屋は自分の右腕を掴んだ。爪を押し立てて、服の上からでも皮膚を裂いてしまうのではないかと思うほど、彼女は腕を強く握りしめる。
「そのまま私は謝りもせずに逃げて大学を中退してさ…………それから、2人にはもう会ってないんだ」
(……ぁ)
いたたまれなくて止めさせようとしたその時、俺はようやく彼女の右腕の異変に気が付いた。
目を覚ましてからずっと、猫屋の右腕はだらりと力なく垂れ下がったままだった。
今も、痛みを感じている様子はまるでない。
「こんな物、諦めて逃げ出したあの時に、壊しておくべきだった」
俺の視線に気が付いた猫屋は、汚物でも払うように自身の右腕を激しく擦る。
「もっと早く、この引っ付いてるだけのゴミをぐちゃぐちゃにしてれば何も失わずにすんだかもしれないのに」
「…………」
「あ、ごめん。2人の事ならともかく、私の下らない愚痴なんか聞きたくなかったよね。ほんとに、ごめんね陣内」
衝撃のあまり何も言えない俺に対して、猫屋は卑屈気に謝る。その自己嫌悪の強さが4年前とは比べ物にならないくらいに強くて、吐きそうになった。
「まぁ、結局何が言いたいかって言うとー…………生きてちゃいけないんだよねー、私」
作り物の笑顔を浮かべ、彼女は暗く、この世の全てを呪うように自分に『死ね』と言う。
「猫屋」
「だからね、何度も……な、何度も、死のうと思った。で、でも、陣内は、まだ、生きてるから。が、頑張ってるから……わ、私だけ、楽に、なるわけに、はいかないから……」
「猫屋……いいよ、もう。その先は、もういい」
「…………よく、ないよ? 私はいっぱい、いっぱい謝らないと。ちゃんと償いをしないと、いけない。じ、陣内が起きてくれたのは良かったけど……それでお終いにはならないよね? まだ、私は償わないといけない」
「いいんだ……そんな事しなくても、猫屋は十分すぎるほどに償ったはずだよ」
「そんなわけないじゃんっ!!」
白い病室に、黒い稲妻のような怒りが轟く。
「私の弱さで!! 3人を傷つけたんだよ!? 酷い……酷すぎる事をした!! 私みたいなゴミは生きてちゃいけないんだ!! 死ぬべきなんだって!!」
「…………」
次にかける言葉を、間違えてはいけない。
本能的にそう感じとった。
……俺は4年間という膨大な時間を無為に消費して目を覚ましてしまった。猫屋に辛い時間だけを押し付けてのうのうと眠っていたくせに、くたばりもせずそのまま目を覚ましたのだ。
(ごめん。ごめんな、猫屋……)
全て、俺の愚かさが招いた不幸だった。
それを一から十まで自覚しながら、彼女の絶望に染まった双眸を真正面から受け止める。希望を失い、もはや涙すら枯れてしまったであろう悲しい湖面。
猫屋は、本当に死ぬつもりだ。
俺という枷が目覚めてしまったのなら、猫屋はもう……自死する以外に選択肢を見いだせない。
生きる辛さは、彼女をそこまで蝕んでしまっている。
「なら、一緒に死のうぜ」
「え?」
まるで酔生夢死。酔っぱらいのようにふざけて生きて、何も価値あるものを残さずに死んでいく。
……最低な俺は、あくまでも俺らしく、背徳的に彼女の傷心につけこもう。
「お前が死にたいなら、俺も死ぬ。というか、猫屋が自殺したら、俺も絶対に後を追うよ」
「だ、だめ……そんなのは絶対にダメ!!」
「そっか」
…………4年だ。4年間だぞ?
いったい誰が、4年間毎日欠かさずに寝たきりの男の見舞いになんか来てくれるっていうんだ?
(報われてほしい)
彼女の献身によって、俺はまた心の底から救われた。
そして、あの幸せな大学生活は俺のせいで壊れてしまった。
(毎日笑って過ごせるくらい、幸せになってほしい)
……もう自分の気持ちに嘘を付くのはやめよう。
罪悪感や、恩返し。そういった建前で、偽ることなどできない。
俺は、目の前の人を幸せにしたい。
「それなら俺と一緒に生きてくれ」
反論を許さない卑怯者の言葉を使ってでも、俺は優しい彼女の幸福を絶対に手繰り寄せてみせる。
「
かちゃり、と胸の錠前が正常に外れる音がした。
「心の底から愛してる。俺と付き合ってください」
普段なら頼まれたって言わないようなこっぱずかしい台詞を、無限に連なるような猫屋の闇に向かって放り投げた。
「──────っ」
狂うほど情緒を乱していた猫屋は、急な俺の告白を受けて、ピタリと停止する。
「あ、いや、分かってる。俺、25歳の無職で甲斐なしの癖に何言ってるんだって思うだろ? でも、真面目に働いて必ず幸せにするからさ…………け、結婚して欲しい」
告白して数秒後に、今度は畳みかけるようなプロポーズ。
最後におまけみたいに言ってしまったせいでどうにも軽薄になってしまった気がする…………ふ、不安だ。こんなので、俺の気持ちは彼女に伝わるのだろうか。
「あ、あはは…………冗談だよねー?」
案の定、俺の気持ちは真面目には受け止められなかった。
「いいや、マジだ。出来るならこの先ずっと一緒に居たいと思ってる。…………猫屋はいやか?」
「…………だめ……だめ、だよ。そんなの……」
帰ってきた返事は、嗚咽を交えた拒否の言葉。
猫屋の口はわなわなと震え始め、瞳から宝石のような雫が落ちる。
「なんでだ? 本気なんだ、俺。悪いけど、納得のいく理由を聞かせてくれないと引き下がれない」
「わたっ、わたし……ゴミクズなんだよ?」
猫屋は涙が溢れる顔を背け、動かない右腕を俺から隠すように身をよじる。
「さっきの……聞いてた? 安瀬ちゃんと西代ちゃんに暴力を振るって、謝りもせずに逃げ出したようなクソ人間なんだよ、私…………つ、付き合ったりなんかしたらー、私みたいなのはすぐに癇癪を起して暴れだすんだよー? こ、怖くなーい?」
「2人を探して謝りに行こう」
あり得ない自虐を無視し、間髪入れずに猫屋の罪悪感を払うための方法を提案した。
「もちろん、俺も一緒に謝る。あの時は悪かったって言って、土下座でもしよう」
「そ、そんなことで許してくれるわけ──」
「許してくれるよ」
穢れを振り切るように、猫屋の弱気を否定する。
「あの2人ならさ、絶対に笑って許してくれる。そこまで心が狭い奴らじゃない」
「…………っ」
猫屋は何も言い返さない。これも卑怯者の言葉だからだ。
否定すれば、それは安瀬と西代の人間性を貶める事を意味する。罪科に苦しむ猫屋には反論のしようがない。
「こ、この右腕、もう全く動かないんだよ? 料理も作れないし、傷もいっぱいで汚くって……。こんな女より、陣内にはもっと綺麗で素敵な人がいるよ……」
「そんな人間はこの世にいない。俺にとって猫屋だけが生涯を共にしたいと思える人なんだ」
「た、煙草…………煙草もやめてない…………私、汚らわしくて女らしくない……」
「んだよ、俺が一度でも煙草吸ってる女は嫌いだなんて言ったことあるか? …………あぁ、でも禁煙できそうにないなら子供はやめておこうか。無理して作るもんでもないしな」
「い、いや!! 赤ちゃんは絶対に欲しいからその時はちゃんとやめっ…………」
「…………」
「…………」
そこでお互いの言葉が途切れた。
自分が口に出した事の意味に途中で気が付いたのか、猫屋は顔を赤くして黙り込む。
「猫屋」
「ぁ……」
無粋な茶化しを入れずに、彼女の右腕を手に取った。割れ物を扱うよう丁重に両手で包み込んで、想いを込めるために自身の胸元に掲げる。
きっと彼女も俺を好いてくれている。
これは自意識過剰なんかではない。互いの想いは手を伝って流れていき反発することなく綺麗に溶け合っているはずだ。
「どうかこれからの人生、俺にこの右腕の代わりを務めさせてください」
「………………ぅ、うぅ」
その言葉を皮切りに、猫屋の涙は加速していく。
「ひっく、ぅ…………ごめん、ごめんね…………陣内、ごめん、ねっ……」
「俺の方こそ……4年も…………ごめんな」
そこからは、もう何も言わなかった。
後悔だらけの過去に足を引っ張られた2人の、湿っぽい交際のスタート。
儀式じみた恋心の清算はこれで終わり、明日からはただ幸せになるための生活が始まるのだ。
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光陰矢の如し。
月日が過ぎる速度というのは凄まじく、俺と猫屋が恋人関係になって早くも1月が経過した。
(……もう退院か。意外と早かったな)
目を覚ましてからもずっと、猫屋は欠かさずに見舞いに来てくれた。そのおかげか、早い日数で退院の許可が下りたのだ。
奇跡的にも深刻な後遺症は残っていない。絶好調というわけではないが、日常生活を送る分にはもう問題はない。
「長い間、お世話になりましたっと」
病院のフロントで、誰に言うわけでもなく1人ごちる。体感時間では1月ほどだが、実際には長期間お世話になっていたので、看護師さんたちとは別枠でこの場所事態にお礼を言っておきたかった。
お世話になった病院から一歩外に出る。
俺の昏睡の起こりは、春休み中の出来事。そこから4年が経過し今は春の季節。外では桜が咲き誇り、花弁が風に運ばれて中空を舞い踊っている。
「陣内、退院おめでとー!!」
桜の花びらで舗装された院前ロータリーに、キキィーッと軽自動車が急ブレーキを掛けながら止まる。開いたサイドウインドウからは、猫屋が満面の笑顔を向けてくれていた。
う、運転荒いのな、こいつ……。
「おう、お迎えご苦労さま。わざわざ迎えに来てもらって悪いな」
「いーよいーよ、このくらーい!! なんたって彼女さまだからねー、私!! 彼氏に尽くすのは当然じゃーん?」
この1月で、猫屋は随分と明るくなった。
別に俺が特別な何かをしたわけではない。1日中お喋りしたり、時には何も言わずに身を寄せ合ったりといったごく普通の馴れ合いをしていただけだ。
「いやー、ほんとに陣内は幸せ者だねー? こんなに可愛くて健気な恋人がいてさー?」
「全部自分で言うなよな。俺が言える褒め言葉がなくなる」
「ふふっ、だってなんかこういうの照れくさいじゃーん?」
心地よい春の気風に、朗らかで明るい彼女さま。……いや、マジで幸せだな。ふざけて返事したけど、顔が緩みそうになる。
気色の悪いピンク色の感慨を紛らすため、ずかずかと大股で助手席側に歩いていき無遠慮に乗車した。車内は猫屋の趣味なのか、ストラップやぬいぐるみでこれでもかとデコレーションされている。
まぁ、カーナビ下に設置されたゴツイ灰皿がその調和を台無しにしているわけだが…………喫煙者の俺にとっては最高の内装だと言わざる負えないので黙っておく。
「あぁそうだ。例のブツは持ってきてくれたか?」
「ちゃーんと持ってきてますよー。ブラックデビルでよかったでしょー?」
「おぉ、助かるぜ」
隣に座る俺に、猫屋は小悪魔が描かれた甘い煙草を手渡してくれる。
「病院じゃあまともに吸えなかったからな…………あ、一応聞いとくけどさ。お酒の方は持ってきてないのか? ビールとか、日本酒とか」
「お酒はだーめ。まだお医者さんに止められてるでしょー?」
「ちぇ……」
こっそり飲ませてくれるかと淡い希望を抱いていたが、心配性な彼女は許してくれなかったようだ。
(はぁ……禁酒はこのまましばらく続行か。まぁ、煙草があるだけましだけど)
いそいそと包装ビニールをはがし、甘いフィルターを咥えて火を灯す。4年ぶりであろうとも、体は拒絶反応を示さずに幸せの煙をスルスルと肺まで運んでくれた。
「ふぅー…………あぁー、旨い。最高、脳が茹だる」
「……陣内、ちょっとおっさんぽーい」
「仕方ないだろ、ほんっとに久しぶりなんだぜ? 懲役を終えてムショから出てきた中年ヤクザの気分だ」
何の刺激もなかった入院生活後の、あっまーい一服。喫煙者として、これほどの幸せな時間はない。
「……ねぇー、陣内。火、ちょうだーい? 私も自分の吸いたーい」
「ん? あぁほら、ライター」
「ちがーう。そっちじゃなくってー、咥えてるほーう」
そう言って、猫屋は燃焼中の長い煙草を指さす。
……どうやら俺の恋人様はシガーキスをお望みらしい。
「へいへい」
少々悩んだ末に、俺は顎を突き出すように彼女に向かって顔を近づけた。
もう恋人同士なので遠慮することはない。これくらいのスキンシップは当たり前。愛する人のご要望にはきっちりと応えよう。
「…………隙ありっ」
その瞬間、目にも止まらない手つきで煙草が抜き取られる。
「ちょ、おま、何を────んぐっ!?」
「ん……」
ふわりと、柔らかな感触が乱暴に押し付けられた。
「ん、んんっ……」
彼女は懸命に舌を伸ばし、俺の口内に残る煙をさらっていく。がちがちなその挙動は慣れていないのが丸わかりだった。初めてのくせして強がって舌を入れてくるのは、こまっしゃくれだと言わざる負えない。
ひとしきり暴れた後、唇はだらしなく涎を垂らしながらゆっくりと離れていく。
「はぁー……はぁー……」
彼女は犬のように荒い呼吸を繰り返す。興奮しているのか、猫屋の顔は耳まで真っ赤だ。
「はぁー……はぁー……さ、捧げられたファーストキスはレモンじゃなくってバニラ味ってねー!! こ、こんな熱烈なのは、やったことないでしょ、陣内!!」
「お、お前な……さてはそのセリフが言いたいがためにバニラフレーバーのを……」
「にゃ、にゃははははー、まぁーそういうわけー!! こういう初めての方が私たちらしいでしょー? ……ふぅ……ふぅ」
未だ興奮冷めやらぬのか猫屋の呼吸は乱れたまま。…………初めてだというのにアクセル全開で突っ込むからだ。
「確かに俺たちらしいけど……少し張り切りすぎだ馬鹿」
「……ぁ」
今度は俺の方から、ゆっくりと唇を合わせる。
触れるか触れないかの距離を何度も往復し、空いている手では彼女の綺麗な金髪を撫でるように梳く。先ほどの不意打ちじみた接触とは正反対に、ゆるゆると少ない刺激で彼女の昂ぶりを収めていく。
「…………ん」
狙い通り、猫屋の仕草から段々とこわばりが取れていった。
こういった行為に少なからず順応できたのを確認した後で、名残惜しさを演出しながら彼女から遠ざかる。
「ぷはっ…………う、うわわ。なんか、こっちの方が恥ずかしいよーな…………あ、あ、でも、こーいうのが嫌って訳じゃないからね? な、なんか…………うん、す、素敵な感じで…………嬉しい、かも?」
「……そう言うなら、もう一回いいか?」
「え、ちょ、ちょ!? じんな──」
俺はもう一度、愛おしい恋人に覆いかぶさった。
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…………失った時間は取り戻せない。一度壊れてしまった物は完璧には治らない。
これから俺は4年間のツケに苦しむだろうし、猫屋の壊れた腕を見るたびに死にたくなるのだろう。
でもやはり、俺は幸せ者なのだ。
だってこれから一生、猫屋のすぐ傍で生きていけるのだから。