ざわざわと喧騒がひしめく昼の大学食堂。喫煙可能なテラス席に運よく陣取れた俺は講義で疲れた頭をニコチンとタールで回復させていた。
「おまたー」
その席に猫屋がやって来る。彼女の両手には蕎麦が乗ったトレイが握られていた。
季節は10月。そろそろ寒さが厳しくなってきた……。厚手のミリタリージャケットに黒い長ブーツという防寒対策バッチリの猫屋を見てそう思う。
「何ジロジロ見てんのさー?」
「……お前は何でも似合うなと思ってな」
「え、えぇ? どーしたよー急に……」
いきなり褒められて驚いた様子の猫屋が俺の対面に座る。
俺の誉め言葉は揶揄いとか馬鹿にしているとかではなくただの本心だ。
我が家に駆けつけてくる酒飲みモンスターたちはどういうわけか人並以上の容姿を誇っている。やはり優れた肝機能が肌ツヤとかに好い影響を与えているのだろうか。三年後の卒業論文で題材にしてみるのも面白いかもしれない。実験対象は三人もいるし。
「いや、俺たちの中でも猫屋はキチンと洒落てるというか品があるよな」
「もー、なんか恥ずかしいから止めてよー」
彼女は頬をポリポリと照れくさそうに搔きながら、テーブルの薬味置きに手を伸ばす。そして七味を手に取り、
「マジでそういう事さえしなければなぁ……」
俺は思わず頭を抱えた。先ほどまでの俺の言葉を全て返してほしい。血のように真っ赤になった哀れな蕎麦を見つめながら、猫屋の気が触れた所業にドン引きする。
「大丈夫だよー、後の人の事も考えて予備のヤツを取ってきてるからー」
そう言って彼女はポケットから七味の瓶を取り出した。ご飯受け取り口の横にある予備の調味料置き場から予め取ってきたのだろう。
「俺が言及したいのは薬味の消費量ではなくて、蕎麦への理不尽な暴力の件だ」
俺には大量の香辛料に溺れた蕎麦の悲痛な叫びが聞こえてくる気がしていた。というか、もはや七味の味しかしないのではないだろうか……?
「七味ってー、どれだけ入れても辛くないんだよ? むしろ旨味がアップするっていうかー?」
「お前の
「えー、人の食べ方にケチ付ける方がナンセンスだと思うけどー」
ギロリと猫屋の抗議の視線が俺を射抜く。……そう言われると、確かに俺が悪いような気がしてきた。
「それにー、この食堂の維持費は私たちの学費から取られてるんだよー? 普通の店じゃないんだし、これぐらいは許してもらわないとー」
「……悪い悪い、1杯やるから許してくれ」
俺は自分が飲んでいた水筒のコップを彼女に差し出した。中には透明でホカホカの白湯以外何物でもない液体が入っている。立ち昇る湯気からすこしばかり、芳醇な香りがするが、誰がどう見てもこれは白湯だ。
……アルコール? はははっ、まさか。
「保温の水筒に熱燗を持参してー、大学に持ち込むほーがヤベーやつだと私は思うよぉー?」
必修のクソつまらない講義を一時間半も素面で受けるとか俺には不可能。当然大学内は飲酒禁止だが、これは命の水なので一切の問題はない。下校方法も徒歩なので、そこも悪しからず。
「なんだ、いらないのか?」
猫屋も今日は俺の家から登校したので徒歩だったはずだ。
「いりまーーす!! いやー、寒空の中で食べる蕎麦には必需品だよねー!」
猫屋はそう返すと、俺から奪い取るようにコップを受け取り、ゴクゴクと飲み始めた。いつ見てもいい飲みっぷりだ。
すると突然、猫屋の目がカッと開かれた。
「なにこれー! うっまーーー!!」
「ふふふ、そうだろうとも」
燗にした酒自体は辛口の安物だ。しかし、水筒に
「これってアレだよねー、
「正解」
この燗酒にはトラフグの鰭を乾燥させた、即席の鰭酒セットを使っている。先日、鰭酒を飲んでみたくて通販でセールになっていたのを購入したのだ。フグの濃い旨味と塩っけが安酒にマッチして最高に美味しい。
「ん? というか、鰭酒だってよく分かったな」
「山口の物産展で飲んだことあるんだよねー! あぁー、おいしーーー」
なるほど、山口県と言えば下関のフグか。
「辛めの蕎麦によく合ってさいこー! 大学で鰭酒やりだすバカが身内にいてよかったー!」
「おい、今すぐそのコップを返しやがれ」
「事実じゃーん」
アハハッと屈託のない笑顔で笑う猫屋。なんて失礼な奴だろう。むしろ、朝から水筒に詰めておくことでじっくりとフグの旨味を出すという、俺の効率的な時間の使い方を褒めてほしいものだ。
「あぁそうだ。安瀬と西代の二人はどうした? 今日はサボってなかったろ?」
「あーなんかー、献血に行ってるー」
「は? 献血?」
その行為自体はとても立派で素晴らしいものだが、普段からの彼女たちの言動を見るに、とても奉仕活動に熱心なタイプとは思えない。
「なんかー、大学のボランティアクラブ主催の献血でー、献血者にはドーナッツとか飲料水を無料で配布されるんだってー」
「へぇ」
物欲に駆られたのなら納得の理由だった。
「おまけに学校公認だからー、献血時間が長引いて多少講義に遅刻しても大目に見てくれるらしいよー」
「おいおい、まじかよ!」
こうしてはいられない……! 邪な理由だらけで申し訳ないが、そんなメリットしかない献血なら喜んで俺の大切な赤血球を提供しよう。ビバ世界平和、ラブ&ピース。奉仕精神がむんむん湧いて来た!
「おい、今からでも行こうぜ!」
「いやー、陣内は血が清まりすぎてるから無理だとおもうけどー」
「あ」
飲んでるんだった、俺。うぎぎぎ……。
断腸の思いで社会奉仕活動を断念する他ない。この人を救いたいを思う高潔な気持ちは一体どこに向ければいいのだ。
「はぁ……猫屋は何で献血にいかなかったんだ?」
「私は低血圧で検査の段階で弾かれたー」
辛党と血圧って比例しないんだな。
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ほろ酔いで楽しく講義を受けた後は、猫屋と最寄りのスーパーで晩飯の材料調達を済ませた。今はその帰り道。安瀬と西代はそのままバイトに向かったらしい。献血後なのに元気な奴らだ。
「ウヒヒヒー、今日はカレーだー! 圧力鍋を買ってから煮る系の物は格段に美味しくなったよねー!」
「あれはいい買い物だったよな。角煮とかも簡単に作れるし」
ただ、今夜のカレー作りには細心の注意を払わなくてはならない。猫屋がこっそりと大量の青とうがらしを買っているのを俺は見逃さなかった。あんなものを入れられた日には、カレーは猫屋以外に食せない物になるだろう……。
「……ま、まぁ、安瀬たちが帰ってくるまではコイツでチビチビやろうぜ」
エコバックを少し持ち上げて中身を軽く見せる。
ヒプノティックの淡い水色が他の食材を押しのけて一層と輝いていた。
トロピカルジュース、ウォッカ、コニャックをブレンドした、催眠術を意味する銘のリキュール。南国果物特有の甘酸っぱさでアルコールの苦みが誤魔化され、酩酊感だけを心地よく味わう事ができる一品だ。
「辛いカレーにはトロピカルな甘いリキュールだよな」
「分かってるねーー陣内!! ……南国っぽいって言うならパッソアとかも良さそーじゃなーい? 冷凍庫でトロトロにしたら超合いそーー」
「猫屋、お前天才かよ」
「あははっ、よく言われるーー!」
そんな感じでケラケラと談笑していると、家の前まで直ぐにたどり着いた。俺は鍵を開けるために内ポケットを探った。
「…………………………あれ?」
ない。鍵がない。
エコバックを床に置き、俺は体中のポケットを弄りまくった。
「ちょ、ちょっと、どーしたの?」
「鍵がない」
「えー?」
猫屋がアンニュイな声を上げる。その目は一秒でも早く重い荷物を下ろしたいと訴えかけていた。
「いつもは自転車のカギと一緒にしてるじゃーん。駐輪場の自転車にそのまま刺さってないー?」
その言葉で思い出した。今朝、西代の自転車がパンクしており俺の自転車を貸してやっていたのだ。必然的に、自転車鍵とセットになった家の鍵は、現在隣町でバイト中の西代の元へ……。
「やらかした。鍵は西代が持ってる」
「あぁーなるほどー。今朝家出る前、パンクしててプンプンしてたもんねー」
「そういう事だ。猫屋、あれ持ってないか?」
「へ? あれってなーに?」
「安瀬が複製した違法スペアキー」
あのスペアキーは俺がバイトで遅くなる時があるので特に没収などせずにそのままにしていた。
「あぁーー……あれは今、安瀬ちゃんが持ってまーす」
……はぁ。肝心な時に役に立たないな。
「もう普通のスペアー貸し出してやるから、明日にでも鍵屋で三人分複製して来い」
「おっ、それいいねー。なら講義の空きコマが合った時、昼寝しに来ていーい?」
「……いいぜ。もう、それくらいなら」
俺も大分感覚が麻痺してきたなと思う、今日この頃だった。
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寒空の中、二人でぼーっと玄関前で座っている。現在時刻は19時過ぎ。安瀬たちのバイトが終わるのは22時だ。あと3時間はこのまま待ってなければいけないだろう。買った食材があるため、どこかに行く気にもならない。
「酒、開けるか」
「さんせー」
コップ代わりの水筒もあるし、世間の目の事を考えさえしなければ、飲酒は何ら問題はない。
「冷える前に身体を内側から温めないとな」
「まじそれー」
ヒプノティックを開けて、水筒のコップと空の本体に酒を注ぐ。
「じゃー、乾杯」
「乾杯」
コチンっと金属製の音が響く。もう辺りはすっかり暗くなり、綺麗なお月さまも出ている。二人で月見酒と思えば意外と悪くない。……と思っていたが。
「なんか日本酒混じってないか? あと魚介も」
「あー、たしかにー」
元々入れてあった鰭酒の風味が リキュールに混じってしまった。少しノイズの混じった味わいになっている。
「まぁ飲んでれば馴れるか」
「そうだねー、タバコ吸って
猫屋がバックから煙草用品を取り出した。シガレットケースと銀のジッポだ。
シガレットケースには木製でキュートな猫の絵柄が彫ってあった。ハンドメイド品でお高いようだ。手巻き煙草を持ち運べるので俺も欲しいと思っている。
銀のジッポには鷹のエンブレムが刻まれている。米軍基地で買った物らしく、これも高級品。
「陣内、ズボン借りるよー」
「あぁ、はいはい」
彼女は銀のジッポを俺のジーパンに押し当てる。そのままキャップを押し上げながら、同時にフリントホイールを粗い布地の摩擦で勢いよく回した。
それで本来ならジッポに火が付くはずであったが、何故か火は灯らなかった。
「……オイル切らしてたんだったー」
「珍しいな」
「夜に補充しよーと思ってたんだよねー」
「ちなみに俺もライターないぞ」
「……にゃにー?」
ぶりっこ全開な言葉とは裏腹に、猫屋は苦虫を嚙みつぶすような顔をこちらに向けてくる。
「昼はタバコ吸ってたじゃーん」
「講義抜け出して吸ってたらガスがきれた」
「アハハハ! 単位落としたら親が泣くぞー。火がないと私も泣くぞー」
返す言葉もない。最近ちょっとサボりすぎだ、明日は真面目に講義を受けよう……まぁでも、今はそんな事よりも火の確保が急務だ。
酒と煙草は切っても切れぬ間柄。餃子にビール、牛肉に赤ワイン、毛羽先にハイボール、それらと全く同じである。
「……仕方ないからコンビニに買いに行くか? 荷物を放置するわけにはいかないから、どちらかが残る羽目になるけど」
「ふっふっふー、こういう事を見越して備えておくのが、
「自覚あるんだな」
そう言うと猫屋は自分のブーツに手を突っ込み、何か棒状の物を取り出した。それを勝ち誇ったように突き付けてくる。
「安瀬ちゃん風に言わせればー、備えあればうれしいなーというわけよ」
「それマッチか? なんでそんな物がブーツに?」
猫屋の履いている長ブーツは網掛け部分が縦に長いため、確かにマッチ一本程度なら折らずに格納する事ができるだろう。
だが、何でわざわざブーツにマッチなんて仕込んでんだ?
「古い映画みたいに、ブーツの靴底で火をつけてみたくてー。披露する機会を逃さないためにブーツ自体に仕込んどいたんだー」
「そういう事か。でもマッチって箱の側面にある紙やすり的な物じゃなくても火はつくのか?」
「普通のマッチじゃ無理だねー。これは"ロウマッチ"って言ってー、どこでも擦れば火が付くやつー」
そんなマッチは聞いた事が無い。恐らく通販でわざわざ取り寄せたんだろう。相変わらず、煙草関係の品にはこだわる奴だ。
「まぁ、なんにせよ助かる。とっとと火をつけてくれよ」
「……………………んー」
猫屋は返事もせず、神妙な顔でマッチ棒をジーッと見つめだした。
「よく考えたら私ってー、マッチ使ったことないんだよねー」
「いや、買ったときに試したりしなかったのか?」
「室内だったから怖くてやめといたー」
確かに、火を付ける過程で落としたら火事になるかもしれないので、その気持ちは分からんでもない。
「陣内はー?」
「……あれ? 俺もそんなにないかも」
最後にマッチを使ったのなど、小学生の理科の実験以来だ。
「現代っ子、ここに極まりだねー」
「そうだな。……靴底でやって折ったら嫌だし、確実に床で擦って火つけちまうか」
「ええー!? やだー!!」
猫屋が甲高い声で俺の安全策を否定する。
「わざわざこの為だけに衝動買いしちゃったのにー! この機会を逃せばこの子は二度と日の目を見る事はないんだよー!?」
「……マッチだけに?」
「うっっわ、陣内さっむ」
急に猫屋のテンションが絶対零度まで下がった。そ、そんな引くほど悪くはないだろう。自分ではなかなか面白い返しだと思ったのに……。
「う、うっさい! じゃあ一人でつけてみろよ。失敗したら猫屋がライター買いに行けよな!」
「えーー! 私ジッポあるからライター持ち歩かないのにー! 買っても絶対使わないじゃーん!!」
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「……じゃ、いいよー」
「お、おう」
結局あーだこーだと言い合った結果、折衷案で
俺は下から見上げるように猫屋の足元に座っていた。女性の背後を下から眺めるなど生まれて初めての経験かもしれない。少し見上げると、短いスカートの下から理想的なシルエットをした健康的な長い脚が見える。キュロットスカートなのでパンツが見えるような事は無いが、猫屋は一応スカートの端を押さえていた。
(なんか、いけない事してる気分になるな。……スタイルいいよなコイツ)
家でラフな格好を何度も見たことはあるが、こんなにまじかで見るのは初めてだ。今はミリタリージャケットに隠れてしまっているが、その下に女性らしいくびれた腰があることを俺は知っている。
「ねー、まだー?」
いかんいかん。猫屋に失礼だしさっさとやってしまおう。
こんな邪な考え、
擦り付ける靴底を固定するために、俺はブーツに覆われた彼女の足首を掴んだ。
「ぁっ……!」
突如、猫屋がすっとんきょな声を上げる。どこか悩ましいというか色気を感じさせる声だ。マジで勘弁しろ。
「おい、変な声出すなよ。外だぞここ」
「ア、アハハハ、ごめんごめーん。なんかびっくりしちゃってー」
女性三人を日常的に部屋に連れ込んでいる俺をご近所さん方がどう思っているかは想像がつきやすい。こんなところ見られたらどんな噂を流されるか……。
俺はささっと手に持ったマッチで靴底をこすり上げた。マッチは折れることなく摩擦によって勢いよく発火する。
「お、ついた」
「はやく、はやく! 火、ちょーだい!」
立ち上がって煙草を咥えた猫屋の口元までマッチを持っていく。加えて、風で火が消えないように手で風よけを作ってやる。五秒もしないうちに優しい灯火が煙草の先端についた。それを確認して、マッチを振って火を消す。
「ふぅーーー、ありがとー陣内」
満面の笑みで煙草を満喫する猫屋。そういえば彼女はジッポが切れていたから昼飯から吸ってなかったのか。
そりゃ格別に美味しいわな。いかん、俺も早く吸いたい。
そう思い、ポケットから煙草を取り出して一本咥える。その時ある事に気づいた。
「って、俺の分の火が無くなったぞ」
マッチの火が危なかったので早めに消してしまい、俺の煙草の火種が無くなってしまった。
「なーに言ってるのー? ここにあるじゃーん」
猫屋は自分の煙草の指差す。それと同時に、その綺麗な顔をゆっくりと近づけてきた。
「んっ」
伸ばされた猫屋の綺麗な手が俺の腕を掴んで引っ張る。お互いの煙草の先端がゆっくりと押し合わさった。突発的なシガレットキス。猫屋の造形の整った顔が10センチもない距離に切迫してくる。
酒を入れているおかげか大きくは動揺しない。ゆっくりと冷静に、息を吸い込む。煙草は吸いながらではないと火がつきにくい。
煙草の匂いに紛れて、猫屋の髪の甘い匂いが鼻腔をくすぐった。
「「……………………」」
約五秒間、なぜか二人の視線は煙草の火ではなく、お互いを見つめ合っていた。そして、火が十分に灯ったところで、ゆっくりと離れる。
「「ふぅーーー…………」」
お互いに何かをごまかすように煙を吐いた。
「うまいな」
「ねー」
何も考えず、矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。
「酒も煙草もあることだし、ゆっくり待つか。ビールを開けるのもいいかもな」
「いいねー、さんせー」
再び玄関前に二人で座り込んで、時間がくるのを待ち始める。
……寒かったのか、酔っていたのかは分からないが猫屋の顔は少しだけ赤かった。