こましゃくれり!!   作:屁負比丘尼

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あと一撃

 

 お寺の閉門時間はだいたい17時。そのため、俺達の2日目の観光もその時間に合わせて終了した。もう今日の予定は事前に予約しておいたホテルでの食事だけだ。

 

 なので、俺たちは早めにホテルにチェックインを済ませていた。

 

「あー、さっぱりする」

 

 そして、今、俺はご飯の前にホテルの大浴場に入浴している。そこで自分の顔をゴシゴシとタオルで洗っていた。あの馬鹿共に書かれた落書きを落とすためだ。

 

「アイツ等、大学生にもなって普通にお礼が言えないのかよ」

 

 『運転お疲れ様!!』の文字。……これのせいでチェックインした時、受付の人に何とも言えない表情で見られた。この借りは、落書きとは別の方法で報復しようと思う。

 

「ふぅ」

 

 汚れが落ちた事を確認して風呂場まで足を延ばす。そのまま、芯まで伝わるような熱い湯に身体を浸した。

 

(もう旅行2日目が終わりか……)

 

 いや、1日目は旅行じゃなかったな。この場合は連休の2日目が終わった、と言うべきだ。

 

(あぁ、マジで癒される……)

 

 俺は賃貸ではシャワーだけしか浴びていない。なので湯船に浸かるのは久しぶりだった。全身から日ごろの疲れが抜け出ていく。

 

(……酒飲みたい)

 

 俺にはとても素敵な習慣があった。それは風呂場にキンキンに冷やしたビールを持ち込み、酩酊とともに1日の疲れを洗い流す事だ。最近はシャワーだけしか浴びていないし禁酒中だが、その習慣があったせいで、風呂に入ると飲酒欲求が爆発しそうになる。

 

「……とっとと出るか」

 

 せっかくの湯船なのでもっと満喫していたいが、飲酒欲求が破裂しそうだった。それに、俺にはやりたいことがあった。

 

 資格の試験まで後1週間くらいだ。アイツ等が風呂から出た後では勉強などできないだろうし、早めに出て少しでも勉強しておきたい。

 

************************************************************

 

 鍵を使い、305と書かれたドアを開ける。低い室温が肌を撫でた。空調を付けたまま出たので、室内は風呂上りに丁度よい温度に保たれていた。

 

「……ん?」

 

 寝室に入ると、猫屋が座椅子に座って水パイプを吹かしていた。

 

 少しだけ濡れた金髪と湯浴み着、それと口から細く出る白煙がよく似合っている。

 

「あれー、陣内? ずいぶん出てくるのが早いねー?」

 

 猫屋が俺に気づき、水煙草をテーブルに置く。

 

「お前の方こそ早いな。風呂は長い方だっただろ?」

 

 酒飲みモンスターズは全員、風呂好きのはず。賃貸では常に各々が好きな入浴剤を常備しており、毎日違う香りを楽しんでいるくらいだ。

 

「あー、そういう日もあるって感じー」

 

 猫屋はそう言って、ハイボール缶を手に取って飲み始めた。俺から視線を外し、窓から見える京景色に視線をやっている。

 

「………あ、そう」

 

 猫屋のどこか素っ気ない態度で、()()()()()()()()。生理ではない。俺にそのように思わせるためにわざと猫屋はそう表現した。

 

「…………」

 

 馬鹿な俺のせいで、さらに深くなった彼女の外傷。他の2人を置いて風呂から早めに出てきたのは、きっとそれが原因だろう。

 

************************************************************

 

 整形外科の診察室。肋骨を折って入院し、猫屋が隣のベットに来た数日後。俺は猫屋の診察をした医者を訪ねていた。

 

「単刀直入に聞きます。……猫屋の右手はどうなるんですか?」

「…………」

 

 角刈りで彫の深い顔をした白衣の男性。俺の義理のおじさんである斎賀(さいが)竹行(たけゆき)は俺の質問を受けて、眉間に皺を寄せた。

 

「梅治君、患者の個人情報を私に話せと言うのか?」

 

 叔父さんは尤もな理由を口に出す。……確かに、竹行おじさんの言う通りだった。よく知らないが、医者には患者の個人情報の守秘義務という物があるはずだ。

 

「えっと、それは、その……」

「君が家内のお気に入りなのは重々承知しているがね……あんまり無理を言わないでくれ。私は本来、仕事に私情を挟まないタイプの人間なんだ」

 

 叔父さんは困ったように頭を掻いた。もとより、おじさんには俺の入院情報の隠蔽や、猫屋を俺の隣のベットに配置して貰うなどの温情を掛けて頂いている。これ以上の無理を言うのは失礼だ。

 

「す、すいません。でも、そこを何とかお願いできませんか?」

 

 それでも、俺は脇腹から来る痛みに耐えながら背を曲げて、頼み込んだ。

 

「ちょ、ちょっと梅治君。そういう事は正直言って困る……」

「…………」

 

 これは怪我を盾にして迫る行為だ。良くない行いをしている自覚はある。しかし、俺はどうしても猫屋の怪我の状態が知りたかった。

 

「はぁ。どうしたものか……」

「ケチケチした事を言ってるんじゃないよ!」

 

 その時、威勢の良い声と共に病室の扉が開かれた。その声音は女性にしては低く、気品のある物だった。

 

「ま、松姉さん……!?」

 

 そこには、俺のお母さんの妹であり、竹行おじさんの妻である、斎賀(さいが)(まつ)さんがいた。

 

「ま、松。何でここに?」

 

 竹行おじさんは松姉さんの急な出現に怪訝な声を上げた。どうやら、叔父さんが呼んでいたわけではないらしい。

 

「やだねぇ、ほら。アンタが私がせっかく作ったお弁当を忘れて行ったんじゃないか」

 

 あらあらオホホっといった様子で松姉さんは上品そうに笑った。

 

「あ、そうだったのか。悪いな」

「いいんだよ、別に。ついでに梅治の具合を見に来たんだから」

 

 松姉さんは弁当袋を机に置き、診察台に腰かける。

 

「それで、梅治。怪我の具合はどうだい? 栄子(えいこ)に様子を見てくるように頼まれててね」

 

 栄子とは俺の母親の名前だ。松姉さんは専業主婦だが、母さんは働いている。なので、平日に時間が取れる松姉さんに俺の状態を詳しく報告してもらうよう頼んだのだろう。

 

 だけど、俺の怪我なんてのはどうでもいい。

 

()()経過は順調ですよ」

「…………なるほどねぇ。梅治は、自分の怪我なんかよりそっちが気になるわけかい」

「あ、いや、あの……」

 

 無意識的に嫌味ったらしい言い方になってしまった。斎賀夫妻には本当に良くしてもらっている。自分の要望が通らないからと言って、このような態度は不義理で横暴だ。親族とはいえ遠慮が無さすぎる。

 

「ま、マジですいません。お、俺、今、ちょっとどうかしてまし──」

「そう大袈裟に気を遣うもんじゃないよ」

 

 松姉さんは目を細めて、俺の言葉を遮った。そのまま、叔父さんを流し目で見る。

 

「話してあげたらいいじゃないか、アンタ。不埒な事をする訳でもないんだしねぇ」

 

 斎賀夫妻は、両親でも知らない俺の怪我の事情を全て知っている。当然、俺が猫屋の個人情報をどうこうしようとは思っていないはずだ。

 

「…………はぁ。患者の心労を増やしたくはなかったんだがね」

 

 竹行さんは諦めたように、空気の塊を吐き出す。そして、目つきを鋭くして俺に向きなおった。どうやら、俺に猫屋の事を話してくれる気になって頂けたようだ。

 

「まず、梅治君。……聞く、というのなら責任を負いなさい」

「責任、ですか?」

 

 叔父さんの話の出鼻の意味が分からず、オウム返しで意味を聞き返した。

 

「あぁ。……なぁなぁで済ます事を私は決して許さないよ。聞くというのなら、彼女を支えてあげなさい」

 

 それは、本当に責任の話だった。叔父さんは医者として、患者の術後のケアの話をしてる。

 

「まぁ、永遠に一緒に居ろ、という訳ではない。しかし、大学を卒業するくらいまでは寄り添ってあげなさい。途中で投げ出すような真似は例え親族であっても──」

「絶対に投げ出しません」

 

 そんな事は言われるまでもない。

 

「うん、いい返事だ。じゃあ、具体的な話に移ろう」

 

 叔父さんはデスクの引き出しからカルテのような物を取り出した。

 

「脅しのような前置きだったが、まずは安心しなさい。幸運な事にそこまで酷い後遺症になりはしないだろう。術後診断の結果を見るに、下垂手(かすいしゅ)になる可能性もない」

下垂手(かすいしゅ)?」

「手首を上に返す、または指を伸ばすといった動作ができなくなる症状の事だ」

「そ、そんな症状があるんですね……」

 

 叔父さんの説明を聞いて、恐怖と安堵の感情が同時に押し寄せてくる。もし猫屋にそのような後遺症が残れば、俺はどう償いをすればいいのか分からなかったからだ。

 

「ただし神経痛の症状は確実に酷くなるだろう」

 

 叔父さんは、淡々とした口調でカルテを読み上げる。

 

「……痛み止めで何とかならないんですか?」

「薬を飲めば痛みは治まるだろう。しかし、ほら、あれは基本的に眠気がくる。だから意外と不便な物なんだよ」

 

 ……眠気が来ると言うのは、確かに学生には面倒な話だ。

 

「話を神経痛の方に戻すよ。まず、基本的には周りの筋肉に圧迫されると、末端神経に痛みが走るはずだ。それと、3か月くらいは()()()()()()()()()()()()()()()だ」

 

 叔父さんが机の上に置かれた人体模型の肘の部分を指さした。

 

「ここら辺の炎症が膨れて神経に響くからね。猫屋さんにも話したが、長風呂は控えるべきだ。でも、周りの筋肉が凝り固まっても良くない。その場合でも、神経が圧迫されてしまうからね」

「……そ、それってどうすればいいんですか?」

 

 長湯してはいけないと言うのなら、凝りが取れずらいだろう。

 

「実際に痺れが走るのは末端神経、つまりは手の方だ。そっちをマッサージしてあげなさい。それで多少は痛みが和らぐはずだ。間違っても素人が患部である肘を触ったりしてはいけないよ?」

「……は、はい」

 

 そ、それは難易度が高くないか? さっきは威勢のいいことを言っていたが、俺は尻すぼみしてしまった。

 

 だって、男の俺からどうやってマッサージをさせて欲しいと頼めばいいのだろうか? …………とりあえず、猫屋が痛そうにしていたら全力で頭でも下げてみるか?

 

「それに加えて、彼女の肘は衝撃に非常に弱くなっている。無茶に右手を酷使した代償だ」

「……はい」

 

 噛みしめるようにして再び相槌を打つ。聞いていて、胃が痛くなってきた。

 

「もう2度と、彼女は運動に右手を使う事は出来ないだろう」

「……っ」

 

 猫屋の運動神経は並外れている。元からの才能もあったのだろうが、それは何年にも渡って研磨されたものだ。どれだけの努力が詰め込まれていたのか想像もつかない。

 

 きっと怪我さえなければ、猫屋は人に勇気を与えられるようなスポーツ選手になっていただろう。誰もが羨む美貌も相まって、人気を博したはずだ。成功が約束された未来を歩んでいたはずなんだ。

 

「…………」

 

 改めて思う。

 

 あの事件の時の俺は最低だった。クズ以下のゴミだ。俺がもっとやり方を選べば、猫屋の後遺症は取り返しがつかない所までは悪化しなかった。

 

 もう、きっと、猫屋に復帰の道はない。

 

「そんなに思い詰めたような顔をするんじゃない」

 

 叔父さんは俺の顔を見て、厳し目な口調で声を掛ける。

 

「本来なら後遺症を抱えてしまった場合は、メンタルケアの方が重要だったりするんだ。梅治君がそんな調子では、彼女も落ち込んでしまうだろう?」

「………その通りですね」

 

 猫屋の右腕の代わりを務めると言う俺の思いは、絶対に悟られないようにしよう。

 

「とにかく一緒に居て、笑ってあげなさい。怪我や病気の一番の特効薬は笑顔だよ。彼女は根明(ねあか)で武道で培った精神力がある。過度な気遣いよりは、何気ない幸せな日常が大切だと私は思う」

 

 叔父さんの言う通り、猫屋の心は強い。1人の友達として、俺は彼女を尊敬している。心が弱い俺とは違って、メンタルに関しては心配はない。それに、"笑わせる"というのなら問題は無いだろう。家には安瀬と西代がいる。…………マジで問題ない。断言する。アイツ等と一緒に居て精神を病む奴はいない。

 

「以上で説明は終わりだ。もし君にその気があるのなら、手のツボが書かれた本でも貸し出すが、どうだね?」

「え、いいんですか?」

 

 そんな物があるなら是非、勉強しておきたい。入院中はどうせ暇だ。猫屋に隠れて熟読しておこう。

 

「もちろん。…………あぁ、それと、勝美さんと花園(はなぞの)さんから言伝を預かっているんだった」

「え? 花園さん?」

 

 勝美さんは猫屋の母親だ。だが、花園(はなぞの)とは誰の事だ?

 

花園(はなぞの)龍一郎(りゅういちろう)。私の学生時代の先輩で、猫屋さんの父親だよ」

「あぁ、なるほど」

 

 猫屋家は離婚している。"猫屋"というのは、猫屋の母親である勝美(かつみ)さんの性だ。順当に考えて、猫屋は父親とは性が別だ。

 

 ……昔は花園(はなぞの)李花(りか)だったのか、アイツ。猫屋にピッタリな凄く可愛い名前だ。

 

「まず勝美さんからは『色々とありがとう。また気軽に遊びに来な!!』だそうだ」

「あ、あはは。そうですか」

 

 印象通りで、元気で明るい人だな。松姉さんとはまた違った姉御肌だ。

 

「そ、それで……花園さんの方なんだが……」

 

 竹行おじさんは顔を渋そうに歪め、何故か、急に俺から視線を外した。

 

「『直弟子にしてあげるから、退院後、俺の運営するジムにくるように』……だ、そうだ」

「………………え、な、なんですか、それ?」

「ご愁傷様、梅治君。えらく気に入られてしまったようだね」

 

 お医者様にご愁傷様と言われたのは生まれて始めてだ。縁起でもないのでマジで止めて欲しい。

 

「花園さんは、まぁ、中々に奇人なんだよ」

「いや、意味が分からないんですけど……」

 

 というか、直弟子ってなんだ。面識のない人にそんなこと言われても怖えだけだよ。

 

「彼女の父親は主流な格闘技には全て精通している化け物でね。……通称、伊勢崎の熊殺しさ」

「……まぁ、猫屋の父親なら納得できますけど……」

 

 でも、何で親子そろってそんな変な2つ名がついてるんだよ。

 

「娘の彼氏に求める物は強さだ、と花園さんは言っていたよ」

「あはは!!」

 

 それを聞いて松姉さんが笑いだした。

 

「梅治、丁度いい機会じゃないか。鍛えて貰ったらどうだい?」

「いや、俺もう金輪際、暴力沙汰に関わるつもりはないんで……というか、猫屋と俺は恋仲じゃありませんよ」

「ふぅん? じゃあ、梅治ぃ、だぁれが本命だって言うんだぁい?」

 

 松姉さんがニッコリと、意地が悪そうな笑顔を浮かべた。

 

「迷っているなら、私は西代ちゃ……あぁ、いや、名前を偽ってたんだったか。あの子は……そう、安瀬ちゃんだ。私は安瀬ちゃんがいいと思うね」

「松姉さん、何言ってるんですか」

 

 前の賃貸での騒動から思っていたが、松姉さんはこの手の話が大好きだな。

 

「だってねぇ、女の子3人とルームシェアする予定なんだろう? モテモテじゃないか、このこの」

 

 松姉さんはおかしなテンションで俺を肘で突っついて来る。

 

「それ、マジで父さんと母さんには言わないでくださいね」

「あぁ分かってるよ。……けど、栄子が言うには本物の西代ちゃんもかなり可愛いらしいじゃないかい。それに、アンタにベタ惚れだってぇ?」

 

 西代が俺にベタ惚れというのは、正月の偽りの伴侶事件の事を言っているのだろう。

 

「可愛い女の子も3人を侍らせながら大学生活なんて、アンタも悪い男になったねぇ?」

「邪推は止めてくださいよ。……それに、西代は俺に惚れてなんかないです」

「一緒のベットで寝てた、って聞いたけど?」

「…………」

 

 そ、それは距離感のおかしい西代が悪い……はずだ。

 

「と、とにかく、俺みたいな奴にあいつ等が想いを寄せるなんてのはあり得ないですから」

 

 それに、このような話は3人に悪い。俺は松姉さんの勘ぐりを適当に流して、足早に退室する事にした。

 

「じゃあ、俺は病室に戻ります。このお礼はまたいずれ必ず」

 

 手のツボを記した本だけを受け取り、俺は椅子から立ち上がる。

 

「医者へのお礼は快復の知らせで十分だよ、梅治君。まずは自分の怪我をしっかりと治すように」

「はい、今日は本当にありがとうございました。失礼します」

「あ、ちょっと、梅治ぃ──」

 

 退室の際に軽く頭を下げてから、俺は診察室を後にした。

 

************************************************************

 

「…………」

 

 俺は、同じ部屋にいる湯浴み着姿の猫屋を無言で観察する。叔父さんの話を思い出すのなら、今の猫屋には痛みがある可能性が高い。

 

「なぁ、猫屋」

「んー?」

 

 口にハイボール缶を付けたまま、彼女はちょこんと首を傾げる。

 

「右手の調子はどうだ?」

「あー……まぁ、ぼちぼちー? そんなに酷くなーい」

「そうか」

 

 猫屋の痛みがどの程度のものなのかは、返答からは分からなかった。案外平気なのかもしれないし、強がっているのかもしれない。

 

「あ、あー、でも、ちょっと、あんまり動かさないから筋肉がこわばっちゃって──」

「マッサージしようか?」

 

 猫屋の言葉に、俺は思わず食い気味に飛びついた。それは願っても無い言葉だったからだ。

 

「え、え!? そ、そんなあっさりぃー!?」

「……あっさり?」

 

 何があっさりなんだ? ……やっぱり、異性から体を揉まれるのは忌避感があるか?

 

「わ、悪い。やっぱり嫌だよな。忘れてくれ」

 

 俺は猫屋から離れ、勉強道具を取り出す為に自分のバッグの方に向かおうとした。

 

「す、ストップ!!」

 

 だが、その途中で猫屋に腕を掴まれ引っ張られる。

 

「うぉ……!?」

「そ、そんな事ないからーー!! はい!! よ、よろしくー!!」

 

 そのまま猫屋の方へ引き寄せられ、俺の目の前に猫屋の右手が差し出された。爪を綺麗に伸ばしているせいか、その手は男の物とは全然違って、煌めいているようにすら感じる。

 

「あ、あぁ。じゃあ触るぞ?」

「う、うん」

 

 俺は恐る恐る、彼女の柔らかい手を両手で握り、マッサージを始めた。

 

「「………………」」

 

 お互い、何故か無言になってしまう。

 

「あ、えっと、な……今押しているここが労宮(ろうきゅう)っていう自律神経を整えるツボなんだ」

 

 俺は無言に耐え切れなくなり、とっさにツボの解説を始めた。何かで気を紛らわせないと恥ずかしくて仕方がない。

 

「ここは魚際(ぎょさい)って言って飲みすぎとか食べすぎに効くツボだ。俺達にはよく効くだろうぜ……あと、ツボって押しすぎてもダメらしいんだよ。適度に4、5回押して痛気持ちいくらいの力強さでだな─────」

 

************************************************************

 

(手ックス!! これ、手ックスってやつだーー!?)

 

 猫屋は陣内の話をまるで聞いてはいなかった。

 

(雑誌に載ってたヤツじゃん!!)

 

 猫屋が思い出しているのは、高校生時代の事。女子高の教室内で友達と回し読みした、女学生向けファッション雑誌に掲載されていた記事を思い出していた。

 

(う、うわーー!? 私、今、陣内と()()()()()()()()!!)

 

 手ックスとは、カップルが手を愛撫しあい性行為への気持ちを高めるための前戯に近しい行為である。

 

 なお、必死に猫屋の手を解しながらツボの解説をしている陣内にそのような気は当然ない。

 

(わ、私、陣内に誘惑されちゃってるーー!!)

 

 陣内梅治にそんなつもりはない。

 

(い、いーいのかな!? もう、これ、オッケーって事でいいんだよねーー!?)

 

 勝手に1人で舞い上がってしまう猫屋。マッサージが始まって数秒も経たない内に、彼女の気持ちはフルスロットルで暴走を始める。猫屋の脳内は好意を寄せる男性からの愛撫のおかげでぶっ壊れそうだった。

 

「ふぅーー……!! ふぅーーー……!!」

 

 猫屋は熱っぽい息を荒げ、色欲の籠った眼で、真剣にマッサージを続ける陣内を見つめる。それはまさしく、獲物を見つめる獣の眼光だった。

 

(む、無防備な姿を晒しちゃってー……!!)

 

 湯浴み着の端からチラチラと除く首元や胸板を見て、猫屋の心中はどんどんピンク色に染まっていく。

 

(や、やっちゃっていいんだよね……!! これ、もう、お互いに合意済みって事でいいんだよねーー!!)

 

 猫屋は陣内に気がつかれないように、ゆっくりと就寝用の浴衣の帯に左手を掛ける。

 

 彼女は次の瞬間にはそれを引き抜くつもりだった。湯浴み着は衣服としては当然、頼りない物だ。そのため、帯を引き抜けば猫屋はすぐに服を脱ぐことができる。

 

 しかし、猫屋は脱衣するために帯に手を掛けたわけではなかった。陣内梅治を()()()()()()に帯が必要だったのである。

 

「にゃっ!!」

 

 猫屋は覚悟を決め、短く息を吐き出して、一気に帯を引き抜いた。

 

「うおりゃーーー!!」

「え、は、ちょ!?」

 

 猫屋の手をマッサージしていた陣内の両手に細長い帯が勢いよく巻き付けられる。そのまま帯は、手首から陣内の胴体に移り、足首を括りつけた。

 

 その間、僅か3秒足らずの早業であった。

 

「取ったーー!!」

 

 猫屋が実践したのは捕縄術(ほじょうじゅつ)、または縛法(ばくほう)と言われる縄を使った人体拘束術であった。猫屋は、武術好きな父親からその技法を習っていたのだ。

 

「ぐ、ぐぇ!!」

 

 帯に縛り取られて、陣内はたまらずに虫のように地面に這いつくばる。

 

「よーーし!! 拘束かんりょーー!!」

 

 その様を見て、猫屋は満足そうにガッツポーズをとった。

 

「な、何しやがる、猫屋!!」

 

 当然、陣内は無駄に洗練された技術で捕縛された事に対して抗議の声を上げる。先ほどまでの甘酸っぱい雰囲気は、既に消え去っていた。

 

「じ、陣内が悪いんだからねーー!!」

「はぁ!? な、なんで!?」

「そ、そんなに無防備な格好で、わ、私を!! 私を!! 私を挑発したんだからーーー!!」

「何言ってんのお前!?」

 

 陣内はうつ伏せのまま、猫屋の意味の分からない戯言に驚愕する。

 

「ぐ、ぐぎぎぃ……!!」

 

 彼は早々に猫屋への説得を諦めて、自らの力で拘束から脱しようとする。

 

「ハァ……ハァ……ハァ……!!」

 

 その様をみて、猫屋の情欲的な加虐心に完璧に火がつく。

 

(ぐ、グチャグチャにしてやるー……。私っていう存在を、陣内の心に刻み込む!! 私とまったく同じようにしてやるーー!! 私の事が、好きで好きでしかたなくしてやるんだからーー!!)

 

 猫屋は気がついていないが、陣内の心には既に猫屋李花という存在はしっかりと刻み込まれている。当然それは、安瀬と西代もではあるが。

 

「か、覚悟しなよー、陣内!!」

「ええぇ!? お、俺、今からシバかれるのか!? そ、そんなに悪い事したか!?」

 

 拘束された後、"覚悟を決めろ"と言われた陣内は、これからボコボコにされる以外の未来は無いと考えてしまう。

 

「そ、そんな事、私が陣内にするわけないじゃーーん!! 今から陣内は私に……今から……私に……今から……今……から?」

 

 陣内との問答の途中で、猫屋は言葉を途切れさせながら段々と冷静になっていく。

 

(…………あれ? ここからどうすればいーの?)

 

 床で悶える陣内を前にして、そういった経験の無い猫屋はフリーズした。

 

(え、あ……え、あれ? と、とりあえず、服を脱がすんだよね? そ、そこから? え、あれ? わ、私が脱がすの!? 陣内の服を!? そ、それって、あ、あのえっと…………あれ、あれれーー!?)

 

 猫屋の脳内は、陣内の具体的な裸体を想像してパニック状態に陥った。未だ清い身である彼女に、緊縛的な上級者プレイは不可能だった。強姦に等しい彼女の暴走はそこで完全にストップしてしまう。

 

「ぐ、ぐぐぐ……!! ふん、ぬッ!!」

 

 猫屋がそうこうしている内に、陣内は力づくで拘束を解く。本来、捕縄術は完璧に決まれば自力で解けるものではない。しかし、猫屋は片手しか使えなかったため結び目が緩くなってしまっていたのだ。

 

 陣内はうつ伏せの姿勢から勢いよく立ち上がり、猫屋を睨みつける。

 

「猫屋!! てんめぇ、コレは一体どうい事だ!! ちゃんと説明し…………ろ」

 

 その時、陣内梅治の視界に染み一つない綺麗な柔肌が飛び込んでくる。帯を引き抜いた事によって、湯浴み着は服としての機能を失い、猫屋は首元から股下までの肌を晒してしまっていた。

 

「────────ぁ」

 

 さらに、この時の猫屋は片手の状態でブラを付けるのを煩わしく思い、上の下着を装着していなかった。

 

 塗れた髪で被さって大部分は隠れていたが、猫屋はほとんど上裸になってしまっていた。

 

 バキィッ──

 

 その可憐な姿を見た陣内の脳内にトンでもない刺激が直撃する。陣内の胸中に、過去最大の炸裂音が響いた。

 

「ぅ、ぅ、えゅ、あ、きゃ、きゃあああああああああああああああああ!?」

 

 自身が男に肌を晒しているという状況に気が付き、猫屋は座り込む様にして、前を必死に隠した。

 

「お、お、お、お前!! 何でブラ付けてないんだよ!?」

「う、うっさい!! 今こっち見るなバカーー!!」

「誰が馬鹿だ!! 馬鹿はどう考えてもお前だろうが!!」

「ぅ、う、ぅ、うぅぅううううううううーーー!!」

 

 いわれのない罵倒に怒る陣内と顔をリンゴの様に真っ赤に染め意味の無い言葉を出し続ける猫屋。2人の考えは珍しくどこまでもかみ合わない。

 

「何事でござるか!!」

「どうした、猫屋!!」

 

 その時、部屋の外で猫屋の絶叫を聞いた安瀬と西代が、その現場に踏み込んでくる。

 

「え?」

「は?」

「あ……」

 

 2人の目に写ったのは、手に帯を握りしめた陣内と、はだけた胸を隠すようにしてうずくまる猫屋の姿だった。

 

「陣内……」

「陣内君……」

 

 凍り付いた女子2名の視線が陣内を貫く。

 

「……ははは。見直したよ陣内君。まさか、君が怪我をしている女の帯を奪い取るとはね? 随分と男らしくて、卑劣な真似をするじゃないか」

「どうやら我は……いえ、どうやら私はあなたの事を見誤っていたようですね。罪状は拷問の末に磔刑(たっけい)でよろしいでしょうか?」

 

 安瀬は怒りのあまりに普段の口調が鳴りを潜め、西代は憤怒の炎を目に灯した西代さまモードに移行する。

 

「ちょ、ちょっと待て、お前ら……」

 

 2人のその様子を見て、陣内は心底震え上がった。

 

「こ、これは違うからな!! 俺は何もやってない!! 何もやってないからな!!」

「犯罪者はみんなそう言うのさ」

「ですね。……まぁ、ご安心ください。私達がきちんとその歪んだ心を矯正して差し上げます。私が信じていた陣内梅治という理想像になるまで、力づくで形を整えてあげましょう」

 

 一切の感情を表に出さずに、2人は陣内に近づいていく。

 

「や、ヤバい……!!」

 

 自分の凄惨な未来を予見して、陣内はうずくまる猫屋に声を掛けようとした。

 

「猫屋!! テメェの胸とかどうでもいいから、恥ずかしがってないであいつ等に事情を説明しろおおお!!」

「陣内!! 私の胸がどうでもいいとか、どういうことだーーー!!」

 

************************************************************

 

 この後、キレた猫屋が陣内に座布団を投げ、陣内が偶然にもそれを躱し、投擲物は西代の顔面に直撃した。当然、西代はキレて、今度は西代が猫屋に座布団を投げようとする。しかし、座布団はすっぽ抜け、真横に居る安瀬の頭に着弾する。今度はもちろん、安瀬がキレた。

 

 そこからは収拾のつかない喧嘩に発展し、彼と彼女達の夜は騒がしく更けていった。

 

************************************************************

 

 

 

 

 ばたん、という音で我は目を覚ました。

 

「……ん?」 

 

 掛け布団を除けて、上体を起こす。賃貸ではない和室に敷かれた4つの布団を見て、今が旅行中であることを思い出した。

 

「……また西代が陣内の布団に潜り込んでるぜよ」

 

 拙者の隣の布団で眠る、小柄で黒髪の友。我の隣は陣内の布団だったはずである。彼女がそこで寝ているというのなら、それは潜り込んだという事実以外の何物でもない。

 

 しかし、湯たんぽ(陣内)は布団にはいなかった。恐らく、朝風呂にでも出かけたのであろう。我が目を覚ました原因の音は、あ奴が扉を閉める音だったのでござろう。

 

「…………おろ?」

 

 陣内、で思い出す。今日はもう……旅行最終日ではないか。

 

「あ、あれ? わ、我、この旅行で何もできておらんのではないか?」

 

 初日は色々と不幸が重なり、無駄になった。2日目はほとんどが移動時間。また、陣内が仮眠を取ったり、夜は猫屋乱暴事件があったせいで、2人きりになれる時間などは存在していなかった。

 

(…………きょ、今日1日でいい雰囲気を作って、想いを伝えろと?)

 

 頭で考えて、それは無理だという結論にたどり着いた。

 

 そもそも、2人きりの旅行ではないのである。複数人との旅行で、どのように告白しろと言うのであろうか? …………できる人間はいるのであろうが、我には少しだけ難しいように思える。

 

 また次の機会を探る。……そんな、後ろ向きの考えが思い浮かんだ。

 

(…………はたして、それで良いのであろうか?)

 

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