こましゃくれり!!   作:屁負比丘尼

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猫屋李花の腐った『こころ』

 

 俺が初めて実践した海物語は、残念ながら初当たりが取れずに終了した。

 

 パチンコというのは意外と時間を取られる遊戯である。

 

 猫屋のアタリが落ち着いた頃には日は沈んでおり、自分に割り振られたペンションまで歩いて戻れば、すっかり夜になってしまった。

 

 俺が寝泊まりするペンションは、他のチューター班の男子と合同の物。

 

 男女混合で宿泊する訳にはいかないので当たり前だ。逆にうちのチューター班女子3人も、現役で合格した18歳組と相部屋であろう。

 

 食事は予め部屋に配給されていたので、俺は部屋に入って早々に1人で食事を済ませた。

 

 量が少なかったが、まぁ宿の提供ならこんな物だろう。

 

(さて……)

 

 周囲に男性の学友が跋扈する共同のウッドハウス。俺はそこで、優雅に食後のティータイムを楽しもうとしていた。

 

 備え付けの紅茶パックを深い断熱コップにセットし、そこにお湯とゴールドラムを注ぐ。スプーンで内容物を優しくかき混ぜてから、カップの縁にそっと口をつけた。

 

(あぁ、心安らぐ……)

 

 茶葉の豊潤な香りと、砂糖代わりの甘いラム。んん、マーベラス。気分は上流貴族だ。俺の所作からは、荘厳な気品が漂っているに違いない。

 

 ただ、こんなにも優雅に佇んでいると言うのに、周りの目は何故か厳しかった。

 

 ある者は俺を異常者の如く恐れ、ある者は俺をこの世にあってはならない理不尽な存在として憎悪を向けている。

 

 完全に会話がない訳ではないが、どうにも心の壁を感じていた。

 

(同性に囲まれてる理想的な状況のはずなのに、今までで一番浮いてる気がする……なんでだ)

 

 いい機会だし、何とか彼らと交流を持ちたい。しかし、何と声を掛ければいいのだろうか。

 

 いつもの調子なら、俺は持参した酒瓶を全員に振る舞って親睦を深める。だけど、周りに居るのは全員未成年だ。酒を勧める事はできない。

 

 ほんと、どうしようか……。

 

(…………そういやぁ、猫屋が酒を奢ってくれるとか言ってたな)

 

 何気なく、初めてのパチンコフィーバーで狂っていた猫屋の迂闊な約束を思い出した。

 

(居酒屋は、パチ屋の帰りにあったな)

 

 焼き鳥と串揚げをメインに扱っている、シンプルが故に外れが少ない田舎の良店舗。今は腹七分くらいなので、飲みに行くにはベストコンディションに思える。

 

 ……猫屋に酒をたかるか、友人作りに精を出すか。

 

 タダ酒……男友達……タダ酒……男友達……タダ酒……男友達……タダ酒、タダ酒、タダ酒。

 

「………」

 

 俺はスマホを操作し、メッセージを送った。猫屋の連絡先はまだ知らないので、西代の方へだ。

 

 日を跨いでしまうと、ケチそうな猫屋は酒を奢ってくれないかもしれない。それに、男友達を作るのは別に今日じゃなくてもいい。

 

(ふっ。自分事ながら、なんて完璧な優先順位の定め方だろうか……)

 

 …………ん、あれ?

 

(俺ってこの前、猫屋が友人作りよりも煙草を優先した事を心中で死ぬほどバカにしてたような……)

 

 ぶんぶんと頭を振って、急いで思考を放棄する。これ以上深く考えるのは、精神衛生上良くないと判断した。

 

 あんな奴とこの俺が同類であるはずがない。

 

「………………返信、来ないな」

 

 何分待っても返事は返ってこなかった。

 

 西代のやつ、スマホを見てないのか? 参ったな……西代が反応しないと連絡の取りようがない。

 

(仕方ない。部屋を直接訊ねてみるか)

 

 俺は煙草と財布とスマホだけを持ち、飲酒欲求に従ってペンションを抜け出した。

 

***********************************************************

 

 暗く、最低限の光源しかない山道を転ばないよう慎重に歩く。女子が使用しているペンションは少し離れていた。

 

 郊外の夜道は、星の自己主張が激しい。なので(やく)無い移動時間でも、不思議と退屈には感じなかった。

 

 落ち着いた気分で歩く道中、ふと、懐中電灯を持った女性が視界に入り込んだ。

 

「……佐藤(さとう)先生?」

「あら、こんばんは、陣内さん」

 

 夜も更けたと言うのに、仕事着のままの佐藤先生が、俺に軽く会釈をする。

 

「あ、どうもこんばんは。……こんな暗い中、外で何をしてるんですか?」

「パトロールですよ、パトロール」

 

 パトロール? こんな山中に不審者が出るとは考えにくいんだけど……。

 

「陣内さんこそ、どこへ行かれるつもりですか? お風呂……のようには見えませんが?」

 

 この集合ペンションには大浴場がある。だが着替えすら持っていない俺は、どう見ても入浴を目的としているようには見えないだろう。

 

「あぁ。俺はこれですよ、これ」

 

 咄嗟に煙草を吸うジェスチャーを見せつける。

 

 ちょうど進行方向に喫煙所があって助かった。『西代と猫屋を連れ出して飲み屋に行こうとしてました』とはとても言えない。それに一応、嘘は付いていない。すぐ後で煙草も吸うはずだ。

 

「煙草ですか……。今どきの子にしては、珍しい若々しさですよね」

「そうですか? 今は手軽な電子タバコブームですし、結構ポピュラーな物だと思いますけど……猫屋と西代なんかも吸ってますし」

 

 まぁ、俺たちが主に吸っているのは紙巻きだが。

 

「……今朝も言ったけど、貴方たち、随分と仲が良いのね。驚いたわ」

「え、えぇ? そう見えますか?」

 

 先生の言葉は、あまり嬉しくはなかった。

 

 西代はともかくとして、猫屋とはなぁ……。未だに少し苦手意識があるわ、あのキャピキャピして女々しい感じぃ……。

 

「俺からすると、そんなに仲が良いつもりはないですよ。他に話せるヤツが居ないから、一緒に居るだけですから」

「…………そう」

「?」

 

 当たり障りのない返事をしたはずだが、先生は一拍ほど間をおいて相槌を打つ。黙っていた間、何故か先生は表情をアンニュイな物へと変えていた。

 

「……ねぇ、陣内さん。このオリエンテーションの中日(なかび)に強制作業が入るでしょう?」

「え?」

 

 急に話題が転換する。脈絡のなさに驚き、ポカンと口を半開きにした。

 

「? 午前中に説明したはずですよね? まさか、聞いていなかったの?」

「え、あ、いや、それは」

 

 どうしよう。まったく聞いてなかった。

 

「あの時はバス酔いが酷くって……」

「あぁ、そう言えばそうでしたね。では、改めて」

 

 こほんと咳払いをして、先生はジッとこちらを注視する。どうやらもう一度説明してくれるらしい。

 

「明後日は、今日の様に全生徒に集まって頂き、()()1()()()()()()()()()()()。内容は伏せてありますが、その日は1日中、その作業に時間を充てて頂く予定です」

「は、はぁ、そうなんですか?」

 

 あの激ムズ課題に加えて、まだやる事を増やすのか。偏差値が低い癖に意外と教育熱心だな、この大学。

 

「私はね『今年は止めておきませんか』と、一応は言ったんですよ」

 

 先生はそう言って、なぜか申し訳なさそうにして顔を伏せた。

 

 その動作の意味が分からず、俺は再度困惑する。

 

「ですが、例年通りに準備している行事を止めるほどの発言力はね、私にはありません。まだまだ若手扱いの准教授ですから、当然なのですけどね」

「……? えっと、何の話ですか?」

「貴方たちには、まだ分かるはずのないお話です」

「は、はい??」

「…………」

 

 ぷつりと、話はそこで終わる。本当に訳が分からないまま、先生は口を閉じた。

 

「さぁ、もう行っていいわよ、陣内さん。お煙草、吸われるのでしょう?」

「あ、え、うっす……」

 

 気持ちの悪い物を心中に残されたまま、解散を切り出される。

 

 な、なんだったんだ? この会話?? ………………まぁいいや。意味不明な上に気まずいので、先生に言われた通りに去ってしまおう。

 

「それじゃあ、失礼します」

 

 別れの返事も待たず、早歩きで先生から遠ざかろうとする。

 

「陣内さん」

 

 先生を横切った後、短く名前を呼ばれた。

 

「安瀬さんにも、優しくしてあげなさい。少しだけ期待しているわ」

 

 通り過ぎた後で聞こえた、理解できない言葉の羅列。脳の処理が追い付かず、思わず足が止まった。

 

「…………」

 

 だが、振り向くまではしなかった。

 

 俺は何も反応を示さず、そのまま歩みを進めた。

 

***********************************************************

 

 集合ペンションの一角、2階建てのログハウスの玄関にたどり着く。

 

(……んんむ)

 

 玄関扉の前で、俺は呼び出しベルを押すかどうか悩んでいた。

 

(この中には西代と猫屋の他にも女がいるよな……)

 

 具体的には、現役合格組と安瀬の4名だ。

 

 もし、ベルを鳴らしてその4人の内の誰かが出た場合、そいつは『え? なに、この人? こんな夜更けに女子部屋に何の用??』と思うだろう。

 

 そうなると、シンプルに不快だ。安瀬なんかが出てきたら、もう本当に最悪な気分になってしまう。

 

(……グダグダ考えても仕方ないか)

 

 俺は意を決してベルを鳴らした。タダ酒のためには、多少の屈辱も我慢しよう。

 

「ん、はいはーい! 今出まーす!」

 

 暫く間を置き、扉が開かれる。

 

「どちら様ですかーって、ちょ、じ、陣内……!?」

「おう、猫屋か」

 

 出てきたのは、ラフな部屋着姿をした猫屋だった。

 

 顔見知りが出てきてくれて助かった。

 

「ちょうどいいや。なぁお前、昼間に酒を奢ってくれるって──」

「いやいやいや!? 早く入って入ってー……!!」

「は!? ちょ、おい!?」

 

 当然、腕を掴まれ引っ張られる。

 

 猫屋は俺を部屋に引っ張り込んですぐに、玄関扉を閉めた。

 

「な、何すんだよ。部屋に入らずとも、話くらい出来たろ?」

「陣内、知らないのー!? 夜8時以降は男女間の部屋の移動は禁止になってんの!! 見つかったら、マズいんだからねー!?」

「え、そうなの??」

「そうなの!! ……はぁー、土屋ちゃんたちがお風呂行ってて良かったー……」

 

 あぁー、なるほど。佐藤先生がパトロールをしていた理由はこれか。

 

 そう考えると、さっきは危なかったな。咄嗟に誤魔化して正解だった。

 

「ん? 待て。お前、配布された資料持って来てなかったよな? なのに何でそんな事知ってんの?」

「はぁー? あそこに大きく注意書きが張ってあるじゃーん」

 

 そう言って、猫屋は壁に張られたA4紙を指差す。それの記載内容はこのオリエンテーションの禁止事項についてだった。

 

「男子の方にはー、アレ張って無かったわけー??」

「……そ、そうかもな」

 

 たぶん張ってあったんだろうが、酒を作ってたせいか見逃してた……。

 

 部屋に入り、猫屋が壁を指差したことで自然と部屋の全容が目に入り込む。

 

 男子部屋との違いが感じられないウッドハウス内には、当然、安瀬と西代も居た。

 

「…………」

「…………」

 

 木の大机では、クソ仏頂面女が教材を広げて勉強を。

 

 2メートルはありそうな古びたホールクロックのそばでは、西代が置物のようになって小説を読みふけっている。

 

 どちらも、俺の存在に気がつかないほど集中している様子だった。

 

「おい、西代。なんで連絡を返さないんだよ」

「ん? え? 陣内君?」

 

 彼女の名前を呼ぶと、西代はようやく俺に気がつく。

 

「何で君がここに?」

「二度も言わせんなよ……お前が連絡を返さないから、直接部屋を訊ねたんだ」

「あぁ、ごめん。ちょうど本が良い所でね。通知に気がつけなかったよ。……それで、用件はなんだい?」

「居酒屋に一杯引っかけに行こう。なんと、猫屋が奢ってくれるらしいぞ」

「え、えー!? な、なにその話、初耳なんですけどー!?」

「パチンコの時、そう言ってたろ?」

「…………あー、言った。言っちゃってたー……」

「なるほど。そういう話なら、ご相伴に預かろう。小説の続きがちょっと気になるけどね」

 

 西代はそう言って本に栞を挟み、懐に収める。彼女はたったそれだけで身支度を済ませたようだ。

 

「猫屋。知っての通り、僕たち滅茶苦茶飲むからね?」

「だな。近くの居酒屋に飲み放題があることを祈れ」

「うへー……調子に乗って奢るなんて言うんじゃなかったなー……」

 

 西代の動作を見て、猫屋も荷物を纏めようとハンドバックを手に取ろうとした。

 

「夜8時以降、敷地内からの外出を禁止する」

 

 その時、無機質な声が俺たちの動きを止める。

 

「そこの規則表にそう書かれているはずですが、もしや頭が悪すぎて日本語すら満足に読めなかったのですか?」

 

 安瀬桜が勉強の手を止め、こちらを見ていた。

 

「……あ゛? 今なんて言ったよ、おい」

「……………………はぁー」

 

 俺は真正面から安瀬を睨みつけ、逆に猫屋は気怠そうに視線を外す。楽しい気分に冷水を掛けられ、憤りを感じていた。

 

「ふぅ、安瀬……また嫌味な言い方をするね」

 

 俺たち2人が悪態をつく一方で、西代は冷静に苦言を呈した。

 

「昼間の事でも根に持っているのかい?」

「えぇ、少しばかり。貴方のせいで無駄に走る羽目になりましたから、西代」

「そっか。なら、申し訳なかったと平謝りさせてもらうよ」

 

 ふざけた様子で頭も下げずに、西代は謝罪を(うそぶ)く。

 

「それが人に謝る態度ですか?」

「なんだい? 随分と突っかかるじゃないか、安瀬。ふふっ、もしかして一緒に来たいのかい?」

「そうやって、人をおちょくっているつもりですか」

「いや、半分くらいは本気のつもりだよ……君も一緒に一杯どうかな? 今日は僕も勝ったからね。君の分くらいなら奢ってあげても良いよ?」

「だから……そうやって私を馬鹿にするなと言っている」

「そうか。それは残念だよ」

 

 懐柔しようがない様子の安瀬に対して、西代はとらえどころがないままだ。毅然(きぜん)と自然体が空転を繰り返している。

 

「でもそう言うのなら、どうか僕たちの事は放って置いてくれ。後から先生に報告しても構わないからさ」

「あぁ、そうだな。チクりたければチクれよ、優等生」

 

 ガキ(未成年)じゃないんだ。門限なんぞ、守る必要がどこにある。それに大学側も何の権利があって俺たちを束縛できると言うんだ。

 

「別に、規則を槍玉に挙げたのはただの口実ですよ」

「はぁ?? じゃあなんで口出ししてきたんだよ、お前は」

「…………見ていて不愉快なんですよ。貴方たちの、その振るまいが」

 

 安瀬は筆記用具を手放し、体を完全にこちらへと向ける。

 

「貴方たちは一体何のためにこの大学に入ったんですか? まさか、遊ぶためとは言いませんよね」

「…………」

 

 思いがけない言葉が、こちらの臓腑を的確にえぐった。

 

「飲み会など無駄な事をしてないで、少しは真面目に予習復習でもしたらどうです?」

 

 そ、それに関してはマジで何も言い返せない……。反論する気持ちにさえならない。

 

『何のために大学に入ったか』だと? 家が割と裕福な方で、進学させて貰えるから、目的もなく入学させて頂きました。これが答えだよ、ちくしょう……!!

 

(くそっ、言い返す言葉がない……!!)

 

 この話題で口論しても、勝てるビジョンが見えなかった。道理はあちらにある。

 

 ええい、もう面倒だから無視して逃げてしまおうか。

 

「安瀬ちゃんこそさぁー」

 

 俺が撤退するかどうかで迷っていると、猫屋が強い声紋で安瀬に話しかける。

 

「無駄な事は止めたら?」

 

 あまりに低い声音に、少々面食らう。

 

「こっちも、見ててイライラするんだよねー」

 

 カチリと、部屋備え付けの古時計が秒針を鳴らした。

 

***********************************************************

 

「……無駄?」

 

 思わない所からの口撃に、安瀬の反応が遅れる。

 

「今、そう言いましたか?」

「だって、そーでしょー? いま机に広げてるそれー、大学の教材じゃないよねー?」

 

 冷めきった視線を、猫屋は机上の赤い本に向ける。

 

 赤い本。それはつまり、他大の過去問集だ。

 

「何のために大学に入ったか、だっけー?」

 

 薄ら笑いを浮かべながら、猫屋は安瀬の周囲を徘徊するようにして壁際へと移動する。

 

「安瀬ちゃんがあの難しい課題とかー、講義内容の復習をしてるって言うのなら、今の言葉にも納得がいったよー? でもさー、やってる内容が全然違うじゃーん。それって、この大学の勉強の役に立つのー?」

「それは……」

「安瀬ちゃんって仮面浪人ってやつだよねー」

 

 一瞬言葉に詰まった安瀬を追い詰めるように、猫屋は刺々しい言葉をまくしたてていた。

 

「それこそ、何のためにこの大学に入ったのー? あははっ、もしかして浪人のままでいるのが恥ずかしかった、とかー?」

「っ」

 

 猫屋の嚙みつき方が、少々過剰だった。

 

(……おいおい、なんか話が妙な方向に転がってないか?)

 

 一定の基準を超えて悪くなる雰囲気に、息苦しい物を感じ始める。

 

「ねぇそもそもさぁー、知ってるー? 仮面浪人の成功率って、いいとこ10%程度なんだよー?」

 

 間延びした猫なで声が、更に挑発的な含みを持つ。

 

「……何が言いたい」

 

 敵意に近い物を感じ取ったのか、安瀬は猫屋に対して敬語を取っ払った。

 

 今までの人を寄せ付けない冷淡な態度とは違い、安瀬からは周囲の空間を捻じ曲げるような苛烈さを感じた。

 

「んー? あー、ちゃんと言わないと分かんないかー」

 

 意志薄弱な性格だと思われていた猫屋は、意外にも安瀬の怒気に一切怯むこと無く言葉を続けようとする。

 

「どーせ……そんなの、上手くいくはずがない」

 

 壁に背を預け、猫屋は()()()()()ポケットに収めた。

 

 何故かそれだけの動作で部屋の温度が下がったような気がした。

 

「時間の浪費だよー、それ。きっと1年も経った頃には『無意味な事やってたなぁーって』後悔する……無駄な事に本気出してて、バッカらしー」

 

 猫屋の言葉は、腐りに腐りきっていた。

 

「それなのに、これ見よがしに自主勉しちゃってさぁー? なぁに? 私たちとは違うって、優越感にでも浸っていたいわけー?」

 

 嫌悪、無気力、怠惰。それらを混ぜ合わせ、嫉妬を加えた汚らわしい感情。キラキラとして明るい彼女の、汚らわしい裏側。

 

「そんな確率の低い事、上手くいくはずがないのにねー」

 

 裏側の本音は続いていく。

 

「無駄、全部無駄。安瀬ちゃんのやってる事は全部無駄だから」

 

 とうとう、取り繕う皮も失せ堕ちた。

 

「全部、全部、無駄。無価値で意味なんか無かった」

 

 気がつけば、俺の意識は先鋭化していて、彼女の話に吸い込まれていた。猫屋から漏れ出す汚い言葉に、圧倒されている。

 

 臨界点を超えて燃焼する不気味で青白い、残り火。そんな矛盾した存在に魅入られるようだった。

 

「きっと……きっと後悔する。無駄な努力だったって。出来るはずがなかったんだって。そう気が付いた時に、どうしようもなく死にたくな────」

()()()()()()()()()()()()()()鹿()()

 

 腐食していく空気を、寒気がするほどに清んだ一喝が弾き飛ばした。

 

「…………今のは」

 

 安瀬の凛とした声と、どこかで聞いた覚えのある言葉によって、飲まれていた意識がゆっくりと浮上する。

 

「もしかして『こころ』か?」

 

 呆気に取られていた俺は、思い当たった単語をそのまま口に出した。

 

「あぁ、『こころ』だね陣内君。Kの有名な言葉だ」

「……え、きゅ、急になーに? こころ?? K??」

 

 "こころ"や"K"といった単語を口にすると、猫屋は意味が分からなかったのか毒気が抜かれた様子で俺たちに視線を移した。

 

「ほら、高3の時に現代文で習っただろ? 夏目漱石の『こころ』だ」

 

 著者:夏目漱石『こころ』。安瀬が口にした台詞は、その小説の登場人物であるKが発した物だった。

 

 叔父に裏切られ人間不信になった先生と、寺生まれであるせいか過剰なほどストイックなK。『こころ』はそんな2人が心を病むまでの経緯を追従する物語だ。

 

「い、いや、高3ってー……もう2年も前だしー、私が覚えてる訳ないじゃーん」

「……まぁ、それもそうか」

 

 俺だって高校の授業と、予備校に通っていた頃に復習をした程度。だが、そこはやはり日本で売れた本の中でトップ10に数えられる名作。含蓄のある台詞が、妙に脳裏に引っかかって記憶に刻み込まれていた。

 

「悪くない言葉のチョイスだね、安瀬」

 

 本好きそうな西代が、引き合いに出された言葉に興味を持つ。

 

「それで、その発言の意図は何かな?」

「文字通りですよ。怠惰に生き、精進という言葉とは無縁そうな彼女には、この言葉を贈るのが相応しいと感じたまでです」

「……はぁ? なにそれ?」

 

 空間に再び緊張が満ちる。

 

 言葉の意味を理解した猫屋が、臨戦態勢に入っていた。

 

「結局、そんなどこかの誰かの言葉を使ってまで、自分の方が正しくって、私の方が間違ってるって言いたかったわけ?」

「えぇ、そうです」

 

 もはや殺気に近い物を浴びている安瀬は、それでも平然と言い返す。

 

「たしかに私は世間一般で言うところの仮面浪人であり、端から見れば世間体を気にしているような小心者見えるでしょうが……先ほどのような情けない言葉を吐く貴方なんかよりは遥かにマシです」

 

 安瀬は失望の意を隠さずに、短くため息をついた。

 

「本当に軽薄で……哀れな人。今までの人生、逃げてばかりで必死に努力した事など無かったんでしょうね」

「……!!」

 

 その瞬間、猫屋の表情が屈辱に歪んだ。

 

「ふ、ふざ、ふざけ」

 

 ポケットに隠れていない猫屋の左手が、強く握りしめられていく。

 

「わ……わ、私は……私はっ!! 私にだって──!!」

「オーケー。分かった、分かったから。そこまでにしとけ」

 

 地獄のような彼女たちの諍いに、なんとか割って入る。

 

 もういい加減、胃が痛くなって来た。女の言い争いなんぞ、見ていて酒のあてにすらならない。

 

「なぁに陣内!!」

 

 怒号が今度は俺に向けられる。

 

「陣内には関係ないでしょ!! 入って来ないでよッ!!」

「まぁ、それはそうだけどよ……猫屋、もう止めとけって。この論争に、お前の勝ち目なんてねぇよ」

 

 俺は端的に事実だけを口にした。

 

「わ、私の……私の言ってる事が、間違ってるって?」

 

 猫屋は依然として炉心に危ない火を宿したままだ。

 

「あぁ、そうだよ」

 

 今回の件は、どう見たって安瀬の方が正しい。

 

 対して猫屋は、誰がどう見ても間違っている。まぁ、この大学に入学して俺たちが正しかった事など、そもそも存在しないのだけど……。

 

「内心はどう思ってようが勝手だが、口に出した時点でワルモノはお前の方だ。とっとと謝っちまえよ」

「……ッ」

 

 (たしな)めるような俺の口ぶりが癇に障ったのか、猫屋は俺に対しても憎悪の視線を投げかけてくる。

 

「陣内は安瀬ちゃんの味方なわけ!? へぇー、そう!! そっか!! 私の言ってる事が、全部間違ってるって言うんだ!!」

「……いいや? どちらかと言えば、俺はお前よりだよ」

 

 ぶつけられる激情の梯子を外すよう、あっけらかんとして内心を吐露した。

 

「は、はぁ? な、なにそれ?」

 

 どっち付かずな態度に困惑したのか、猫屋は戸惑った表情を作る。

 

「………………」

 

 俺は直ぐに返事が出来ず黙り込んだ。この言い争いに、少しばかり思う所があったからだ。

 

 世の中いつだって、頑張ってるヤツが正しい。

 

 なので、厳格で勤勉、孤高を好み、自己を研磨する安瀬は圧倒的なまでに正しい。

 

 素晴らしい。拍手したいほどに勉強熱心の努力家。まさに国民の鏡。全ての大学生が彼女の様であれば、日本の未来は明るい明るい。実直に努力できる人間は、得てして賞賛されるものだ。

 

(……で、それに反して俺は?)

 

 昔、必死こいて受験勉強をしていて正しかったはずの俺は、何故こうなっている?

 

 正しく努力して、理想の未来に向かってひた走った俺は、何故こうなった?

 

 正しいだけで、幸せな結果は手に入れられたか?

 

『精神的に向上心がないものは馬鹿だ』

 

 あの台詞を吐いた正善なKは、最後にはメンブレを起こして自殺したのではなかったか?

 

「………………」

 

 常識で物を言えば、向上心を持って生まれない人間なんていない。

 

 誰にでも理想の自分があったはずだ。

 

 そして、不幸や自分の怠惰で、誰しもが現実とのギャップに苦しんだはずだ。

 

 俺に当てはめて言えば、理想は恋人が待つ国立大学への進学であり、現実は浮気されたあげく2浪して微妙な私立大学。不幸も怠惰も……両方経験した。

 

 正しく生きられるヤツは、正しく生きればいい。

 

 ただ……俺はもういい。うんざりだ。

 

 俺は別に、正しさなんて望んでいない。現状に満足はしていないが納得は出来ている。未来に来るであろう怠惰のツケも、文句を言いながら受け入れるつもりだ。

 

「……酷い言葉だったけど、俺は前より猫屋の事が好きになったよ」

「え?」

 

 腐った感情を持った猫屋は、俺と似ているようで好感を持つことができた。

 

 その想いを伝えた猫屋は、きょとんとして俺を見つめる。

 

 彼女も2浪したくらいだ。何か、過去に不幸があったのかもしれない。女嫌いの俺でも、そう思えるくらいには、彼女の心に寄り添えた。腐っている俺は、腐った言葉には共感できた。

 

 そうして、また1つ安瀬桜が嫌いになる。

 

 同じように2浪したくせに、完璧に高潔な彼女。

 同じような境遇なのに、清廉潔白である彼女。

 

 同じであるはずの彼女が、()()()()()()()()()()()()()()

 

「…………」

 

 とにかく眩しくて、眩しくて……妬ましい、目の上のたんこぶ。彼女を見ていると、屁理屈をこねて堕落を正当化している自分がどこまでも汚らわしい。

 

「……いや、何でもない。いいからさ、今日はもう酒でも飲みに行こうぜ。奢れなんて言わないから、前みたいに強い酒をしこたま飲んで(うな)()れてよう」

 

 それでも今、俺は幸せだった。1年前よりは、はるかにマシだ。

 

 間違っていても、飲みに誘える友人が出来た。正しくなくても、幸せを感じられる時間がある。

 

 それでいい。俺にとっては、今の幸せが全てだ。

 

「先に出てるから、ゆっくり来い」

 

 優しくそう言って、俺は猫屋に背を向けた。

 

「西代、行こう」

「ん? あぁ、そうだね」 

 

 言葉は少なかったが、言いたい事は全部言った。それなら、居心地が悪いこの場所に長居する理由はない。

 

 退室しようとする前に、俺は仲裁役の責務を果たすべく、安瀬桜を正面から見据えた。

 

「安瀬、騒いで悪かった。今までの非礼も詫びるよ」

 

 猫屋の代わりに、もはやどうでもいいものに頭を下げる。

 

「…………」

 

 安瀬は俺の謝罪になんの反応も示さなかった。

 

「これからはお前に迷惑を掛けないよう気をつける…………それじゃ」

 

 俺と西代は、その言葉を残して部屋から出て行った。

 

***********************************************************

 

「………………」

「………………」

 

 陣内梅治と西代桃が去った後の室内は、静寂が占拠していた。

 

 2人の視線はいつまでも交わることなく、宙を彷徨い続けている。

 

 陣内梅治が一応の仲裁に入ったことで、2人の諍いは終着点をなくし、有耶無耶に近い状態に陥っていた。

 

「……貴方も、早く出て行ったらどうですか?」

 

 長い沈黙を破ったのは安瀬の方からだった。

 

「いいかげん勉強の邪魔です。外出の規則違反も告げ口するつもりはありませんから、怠け者同志もう好きにしてください」

「……そーだね。そうするー」

 

 刺々しいままの安瀬の言葉。それに怒ることなく、猫屋も退出しようとした。

 

「…………」

 

 ハンドバッグを肩にかけ、足音を立てないようにして玄関までゆっくりと歩く。

 

「…………あのさ」

 

 玄関のドアノブを手に取ったところで、猫屋は小さく口を開いた。首だけを背後に回して、安瀬の姿を一瞥する。

 

 視線の先。安瀬は教材に視線を落として、熱心にシャーペンを動かしていた。

 

 もはや、同室に居る猫屋には何一つ興味がない様子だった。

 

「…………」

 

 ギィと木製の扉を開き、猫屋は外に出る。

 

 ログハウスから最短で離れるよう、彼女はまっすぐに明かりの少ない道を進んだ。

 

 ざっ、ざっ、と苛立ちを含んだ強い足音が夜に木霊する。

 

 そんな荒々しい歩調で、彼女は数分の間、陣内たちの後を追った。

 

「……こんなの、じゃ」

 

 背を丸め、俯いたまま、猫屋は立ち止まる。

 

「私って、こんな最低じゃ、なかったはずなんだけどなぁ」

 

 震えた声で、猫屋は自身を卑下した。

 

「………」

 

 不安定な精神状態。自己嫌悪に囚われたまま、彼女は目についた電柱にふらふらと近づいていく。

 

 電柱を前にして、猫屋は右腕を乱雑に振りかぶる。拳を握り固め、コンクリート製の支柱に狙いを定めた。

 

 彼女は、自傷行為に手を染めようとしていた。

 

「………」

 

 撃ち抜きさえすれば、完璧に壊れる。

 

「………」

 

 撃ち抜けば、完璧に壊れる。

 

「………」

 

 撃ち抜けば、完璧に壊れる。

 

「………」

 

 撃ち抜けば、完璧に壊れる。

 

「…………っ」

 

 こわい

 

「…………………………」 

 

 彼女はそのまま何もできずに、腕を下ろした。

 

「あははっ」

 

 短く自虐的に笑い、懐からお気に入りの紙巻きを取り出して火をつける。

 

『自分勝手に怒って、理不尽に悪口言ってー、結局何がしたかったのー? 人の足を引っ張ってやりたかったー? うっわ、さいてー。キショすぎー』

 

「…………」

 

『ほんっと、いつまでも成長しないガキのまんまー。未練タラタラで情けなーい。こんなヤツに絡まれちゃってー、安瀬ちゃんがかわいそー。というかー、20歳にもなって謝罪の1つもできないんですかー? 陣内が代わりに場を納めてくれて良かったでちゅねー?』

 

「すぅー、ふぅー……あぁー、煙草おいしーさいこー、あはは……早く死なないかなぁー、私」

 

 そう言って、猫屋李花はいつものように煙草を楽しむ。

 

***********************************************************

 

「西代、ヤバい。俺、今すごく文学的な気分だ。今ならウイスキーを片手に小難しい小説が最後まで読める気がする」

「冗談キツイね」

 

 最低限の舗装がされた山道を、スマホのライトを光源にして下る。目的地は当然、居酒屋だ。

 

「君のような人間が文学的な気分だって? 寝言は寝て言うべきだよ、アル中君」

「まぁそう言うなって」

 

 軽口を交えながら、西代が躓いたりしないよう1歩先を先導する。彼女も転ばないように、自然と俺の上着の端を後ろから掴んでいた。

 

「なぁ、お前はどう思うよ? さっきの喧嘩」

「……うぅん、そうだね」

 

 西代は顎に手を当てて、考える仕草を見せる。

 

「悩みとか後悔とか、そんな物は誰にでもあるはずだし、加えて僕たちはまだまだ若輩者。こういった衝突も偶には起きる、と言うことだろうね」

「なんだそりゃ。随分と年寄り臭い分析だな」

「達観していると言って欲しいね。もしくは、大人びているでもいいよ?」

「あぁ、はいはい。西代さんは大人だねぇ。お酒と博打をやらせない限りは」

「ふふっ、まぁね」

 

 真面目な話題をふざけながら回す。外連味が効いた会話は彼女好みなようで、あのような喧嘩を見た後だと言うのに西代の機嫌は良さそうだ。

 

「ただやっぱり、僕ってかなり異端なんだなとは思ったよ」

「? どういう事だ?」

「あ、いや、えっと、そうだね」

 

 機嫌のよい彼女が思わずといった形で本音に近い物を漏らした。

 

「……学歴とか、地位とか、将来の収入とか。あの話の根幹にあった物が、僕にはどうにも無価値としか思えない。きっと、大切な物のはずなのにね」

「そ、そこまで割り切って言えるのは凄いな……さすらいの博徒か」

「僕は無頼(ぶらい)を気取っていたいんだろうね。そっちの方が格好よく見えるから」

 

 得意げな西代は、背後から隣へと躍り出て、俺の顔を覗き込む。

 

「ねぇ、陣内君」

「ん?」

「君にとって、大切な物ってなんだい?」

 

 西代はこちらを試すような微笑を浮かべていた。

 

「文学的な気分なんだろう? ほら、答えてみなよ」

「…………」

 

 問われて、ぱっと思いついた言葉が複数あった。

 

 家族、友人、自分……傍に寄り添って支えてくれる愛しい人。

 

 ただ、そんな小っ恥ずかしい事を俺が言えるはずがない。

 

「酒と煙草とギャンブル。これだ、これがこの世の全てだ」

「ぶっ!! あははは!!」

 

 途端、むせび声が湧き上がる。

 

「た、たしかに、それがこの世の全てだね!! 下手に利口ぶるより、かなり好感が持てるよ……!! はははは……!!」

 

 強がりで怠惰な回答を、御満悦そうにケラケラと笑う西代。

 

 邪悪だよなぁ、コイツも。

 

「……猫屋が追いついてきたら」

「あははは……え、うん?」

「俺たちの中で、最強の酒飲みを決めようぜ。今朝の続きだ。記憶が飛ぶまでぶっ潰してやるよ」

 

 言葉の裏に『さっきの事は触れずに、忘れてしまおう』という意味を混ぜた。

 

 まだ付き合いが短いので憶測の域をでないが……猫屋はきっと、いつもと変わらない笑顔を作って来ると思う。

 

「いいね。受けて立とうじゃないか」

 

 西代はすぐに俺の意を酌んでくれた。

 

「よし。今夜は猫屋を交えて、三つ巴の戦いといくか」

「ふふっ、乱戦なら勝てるとは思わないことだね、陣内君」

「うっせ。お前たちに、酔いを抑える俺の芸術的飲酒方法を見せつけてやるよ」

「ふぅん? 小手先の技術ではないことを期待しているよ」

 

 やんわりと、核心には触れずに右から左へ。

 

「……しっかし、アルコールって本当に便利な物だよな」

 

 ふと自分から漏れ出てしまった言葉は、大好きな酒に関する事だと言うのに、なぜか全く気持ちが入ってなかった。

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