鏡写しのカノン 作:ゆなふぁい
どうかお楽しみいただければ幸いです。
観測されているということは人や物、概念の存在意義に大きく関わっている。
概念は人間の観測によって感情や数値、表象として存在が認知され、人や物は人間の観測によって生存や有用性が保証される。
大地も、自然も、そんな人間の観測によって成り立つものだとする人間至上主義的な自然感は非常に興味深い。
自分が今、何をしようとしていたかを忘れた場合、決定的な何かを観測しない限りは思い出せない。
積み上げた思い出も、記憶も、観測されない状況が長く続けば忘れ去られていく。
―――人も、物も、概念も、観測されなかったら。
もし永遠に観測されることなく、一人一人の記憶から薄れていき、最後の記憶の残滓までもが事切れてしまったら。
あるはずの物が、あって当たり前だったものが、なくて当たり前の物にすり替わってしまったら。
それに気づかない人々は、それでも幸せに生きてしまうのだろうか。
◇◆◇
―――胸につっかえるものを覚えた。
こういう時は寝起きが悪い体が悲鳴をあげていることが大半なので目を閉じたくなる。
しかしアラームは約6.09秒前に鳴り終わっていて、迅速に起床し準備をしなければならない。しかしこれだけ頭が回るのだから今日はそんなにひどくないのだろう。
気のせいだ。
「ん………」
スマホへと手を伸ばし、手慣れた動作でモモトークの新着通知を確認する。ノアから2件、あと―――。
「…あれ……?」
途端に視界にノイズが走ったような気がして目をパチパチと瞬く。
少しだけ擦って見直すと、通知はノアから来ているメッセージのものだけだった。内容は昨日話した決済の件の自己報告だ。
先程チラッと見たときには通知は3件あった気がするけれど、気の所為だろうか。寝ぼけているのかもしれない。
「うん、よしっ……」
早めに体をシャキッとさせなければ時間に遅れてしまう。冷えていく体に熱を与えるように、早瀬ユウカは起き上がった。
カーテンを開けて陽の光を取り入れると、血液が体内を循環し、ほんのりと体温が上がっていくのが分かる。軽く手を握るときちんと力が入るようになっていて、自然と笑みが溢れる。
(それにしても、随分と早い時間に起きたわね)
日が昇ってからそこまで経っていないはずだ。
ミレニアムサイエンススクールまでは広域都市鉄道を利用するけれど、そこまで時間がかからないので早朝に登校をすると仮定してもこの時間は早すぎる。
(あれ、なんでこの時間にしたんだっけ……?)
しばらく唸ってみるものの、何故か思い出せない。記憶力には自身がある方だが何故だろう。どこか靄がかかったように、回想の蓋は閉じたままだ。
「………」
忘れちゃいけなかった。
そんな気がするのに。
「まあ、後でノアに聞いてみればすぐ分かる、わよね」
なんとか自分を納得させて、洗面所に急ぐ。
洗顔し、ふかふかのタオルで水分を十分に拭き取ってから長い髪を櫛で整えていく。満足した後、私は鏡を見た。
(あれ?)
鏡の前の自分が、いつもと違う気がする。
(なんか、いつもより大人びてるような……)
洗顔する前は気にしていなかったけれど、いつもの動作をした後に改めて確認すると、自分の表情というか、雰囲気が険しくなっているような気がした。
(あ、髪、そういえば結ってない)
おもむろにふわりと伸びた髪に触れながら気づく。けれど先程まで自分はこの髪型で満足していなかっただろうか。いつも通り、そう思っていなかったか。
「でも、いつもは結ってて……」
―――そう言いながらも確信が掴めない。
一応、いつもの髪留めを探す。すると引き出しの奥の方に仕舞われていたので、2つ手にとって目の前に掲げた。
「使われてないみたいな、仕舞われ方だ……」
これは、何だろう。
寂寥感だろうか。諦念だろうか。髪留めを手に取っただけで湧いてくるこの負の感情は何なのだろう。ドクンドクンと心に巻き付くような何かがとても重い。
(……!)
頭を振って追い出そうとするけれど、余韻がべったりと残ってしまう。軽いため息をついてから、思い出すように髪を結った。
今日は満足な朝食を摂れるほど元気じゃないらしい。
アイロンをかけておいた制服に身を通しネクタイを締め、パーカーを羽織って自宅を出る。ジョギング程度のスピードで軽く走りながら最寄り駅へ向かう。
広がる青空は綺麗で、でもどこかそれを認めたくない自分がいる。自分はそんなにも捻くれていただろうかと不安に駆られる。
【まもなく、各駅停車ミレニアム行きが参ります。白線の内側にてお待ち下さい。次の停車駅はセミナーDBセンター入口です。】
セミナー本部へ向かう列車に乗り込むと、女性に近い電子音声が車内に流れる。いつものようにドア付近に寄っかかってスマホでニュースをチェックすることにした。
『エデン条約の末路。トリニティ、ゲヘナ壊滅の4日間。』
『キヴォトス晄輪大祭が中止決定。トリニティ、ゲヘナ両校の崩壊と確執が原因か。』
『暴風雨のためか、元SRT特殊学園所属の生徒4名らの暴動が遂に鎮圧。連邦生徒会にて厳罰』
『アビドス砂漠で何が起こっている!? 調査隊が目撃した衝撃の施設とは―――!?』
『専門家言及 パラレルワールド存在説!?』
(ぇ……?)
トリニティ、ゲヘナが壊滅。
晄輪大祭が中止。
想像することさえできない文言が画面には表示されていた。あまりの衝撃に腰が抜けそうになる。足が震えて、指先が冷たい。
「うそ……なんで……、!?」
意味がわからない。理解ができない。
どういうことなのだろうか。
自分の知らない、未知の事実がそこにある。
当然のように、当たり前だと説くように。
(あれ……)
それに促されるように、すぐに体の震えは止まってしまう。心臓の鼓動は瞬く間に穏やかになっていって、自分が急速に落ち着いてしまうのを実感する。
(だって………あれ、私―――)
―――なんで、今、取り乱していたのだろう。
それは【知っていた】ことなのに。
それは既に起こってしまったことなのに。
連邦生徒会長の不在から続いた災禍がキヴォトスの平穏という平穏を奪い去っているだけなのに、そんな既知の事実に何を驚いているのだろう。
視界に再びノイズが走る。目を瞑ると、暗闇の中で誰かが名前を呼んだ気がした。
『【ユウカ】』
「ぇ―――」
ビクッとして目を開くと、目の前にある画面に映されている文字列はもう驚きを運ばなくなっていた。あるのは事実と理解と焦燥だけ。
(ゲヘナとトリニティの崩壊なんて特に、結構前の出来事じゃない。なんで今更あんなビックリしちゃってるんだろ……)
「ホント……今日の私ってどうかしてる」
スマホから目を離して、大きく息を吸う。腹部の膨らみを意識して、余計な雑念と一緒に体の中の嫌な空気を吐き出す。
【まもなく「ミレニアムセミナー本部」。「ミレニアムセミナー本部」です。お出口は右側です。次の停車駅は「ミレニアム第7校舎」です。】
開く列車の電子ドアに急かされるように、ユウカは小走りでホームへ降り立った。