鏡写しのカノン 作:ゆなふぁい
ミレニアムサイエンススクールはキヴォトス内では比較的新しい学校で、様々な研究機関の集合体とも言える場所だ。
そしてトリニティ、ゲヘナが衰退してしまった今では生徒の受け入れにより大勢の人数を抱えるマンモス校へと変化していっている。
アリウス分校の代表生徒によって引き起こされたとされるテロの調査にてトリニティとゲヘナだけが標的と認められ、受け入れが認可されるまでは結構な時間がかかったものの、両校とミレニアムは協同の迎撃武力集団を結成することを条件に合意した。
しかしそれは上層部の話。
生徒同士での見えない差別が、ここには溢れていた。
「………」
セミナーの私有地に入り、学生証のスキャンで入室を許可された部屋に行くと、そこには1人だけ、ソファに腰掛けて複数の書類に目を通している。
「ノア、おはよう。随分と早いじゃない」
「あら、おはようございますユウカちゃん」
ユウカとは正反対の色の制服やパーカーに身を包み、柔らかく笑う彼女は生徒会 セミナーの書記である生塩ノア。
ノアはユウカを見慣れないような様子で見つめながら、ゆっくりと首を傾げる。その瞳の奥には、今はない光景を懐かしんでいるように思える。
「………ユウカちゃん、珍しいですね。ずっと前から、髪は結わないようにしていたのに」
「え、やっぱりそうなの?」
「やっぱりって?」
「いや、なんか。よく分からないんだけど、変に思ったの。……そのままにするのが、いつも通りのはずなのに」
「はず、なのに?」
「………今日は、何故か、結わなきゃいけない気がして」
「………そうですか。ふふ、懐かしい。昔のことを思い出しますね」
「ちょっ、恥ずかしいこと言ってないで仕事するわよ?」
「ふふ、はーい」
表情は笑顔を崩さないまま、本当に救われたような雰囲気を纏うノアにたじろぐ。彼女はこんなに疲れていただろうか。
いや、ノアはずっとこんな―――
(分からない)
違和感があるのか、いつも通りなのか、その境界線の周りをぐるぐる回っている気がする。ズレが気になって仕方がない。
本当に、これでいいんだろうか。
「あ、そういえばユウカちゃん」
「なに?」
「今日は随分早いですね。私はお仕事があったのでこの時間ですけど、ユウカちゃんはきちんと終わらせてましたよね? なにか用事があったんですか?」
「ぇ―――」
早起きの理由。
何故目覚ましをかけてまであの時間に起きたのかをノアも知らない。誰にも、自分自身にも理由が分からない不可思議な現象に声を漏らす。
「いや……えっと……私も不思議で……目覚ましが鳴ったから何かあるんじゃないかと思って来たんだけど……ノアも知らないの?」
「えぇ。ユウカちゃんが早朝に来なければなりない理由は、いくら精査しても記録にはありません」
「うそ……」
そんな、わけない。
あるはずだ。
なにもないのにあんな時間にアラームを設定するなんてあり得ない。ノアに訊いて確認すれば全て分かるはずだったのに。
(私は、どうして……)
心に靄が纏わりつく。大事なことを忘れているような気がする。なのにその欠片さえ頭には浮かんでくれない。
心と身体が一致していないような不快感にユウカはぎゅっと拳を握る。息が乱れている。心拍数も正常だとは言えない。
「ユウカちゃん、顔色悪いですよ」
「……大丈夫。私、ちょっとおかしいのかも」
なんで、なんでなんでなんで。
頭が痛い。胸が苦しい。
単純な風邪とかの病気では絶対にないと言い切れる。けれど身体がここまで言うことを聞いてくれないのは始めてだ。
「……多分、いや、仕事が残ってたはず。すぐに探して片付けるから」
「ユウカちゃん?」
「大丈夫だってノア、これは不眠ってわけじゃないし、ただモヤモヤしてるだけだからハーブティーも―――」
(―――いら、ない…し……)
ハーブティー。
ハーブティー?
(………なんで、私はノアがハーブティーを飲ませて寝かせようとしてるって思うんだろう。分からない。何故か、あの表情のノアならそうする気がして……)
「ハーブティー?」
「ぁ、いやっ、なんでもない! 仕事しちゃうわね!」
心配そうに首を傾げるノアから離れて、ユウカは自分のデスクに近づく。椅子に腰掛けて会計書類に目を通す。
仕事は完了している。不備はない。
(なんでよ……今くらい不備ありなさいよ!)
名前が欲しい。
大きくなっていくだけのこのモヤモヤに、名前が。
『【ユウカ】』
「ぅ…く………」
また、名前を呼ばれた気がした。
知らない人の、知っているような人の声。
聞こえるたびに頭痛が酷くなる。奥底にいるはずなのに全く手が届かない存在に汗が滴る。
(だれ……?)
『おもちゃのために食事を抜くだなんて、言語道断ですよ!』
『【ただのおもちゃじゃないよ! 生活必需品だもの!】』
『ダメです! 消費は計画的にしないといけません!』
(あれ、今の、私の声……)
誰かの声に重なる自分の声。声と声が紡ぐ会話が儚い記憶になっていくような気がする。もう少しで、辿り着けそうな、もう少しで戻れるような気がする。
ユウカは咄嗟に別の会計帳簿を手に取って、開く。1から目を通して「おもちゃ」なる物の会計履歴を探すが、どこにも見当たらない。
(次―――!)
また別の。そこにも記述はない。
(次、次、次………っ!)
どこにも記述はない。
「どうして……っ!」
追い求めていた残滓はもう燻り始めてしまっていた。聞こえたはずの声が、聞こえた気がするような物へと、変わっていく。
早鐘のように高まった鼓動が、落ち着いていってしまう。
「はぁ……もう、嫌…」
(何やってるんだろ、ホント)
会計帳簿を整えて、元あった場所に戻す。深いため息と共に頬杖をついて辺りを見回す。早朝のセミナーにはやっぱり、ペンをサラサラと動かすノアしかいない。
「ノア」
「はい?」
「どうしても思い出せないことって、どうすればいいと思う?」