吾輩は畜生である。しかし、花を愛でる精神は失われてはいない。
冬の厳しさも少しは和らぎ、美浦トレーニングセンターのあちらこちらで花が咲き始めていた。
桜はまだ蕾がポツポツ開き始める程度でも、梅はよく咲いて紅白の花で見る人々を楽しませている。
残念ながら馬の視覚は人間ほど色彩を詳細に見分けられないから、何となく白っぽかったり赤っぽいように見えるだけで、どうにも色あせた単調な世界に見えてしまう。
それでも嗅覚はより鋭敏になっているから、鼻腔をくすぐる梅の花の匂いが気分を落ち着けてくれる。
俺も畜生ながら、トレーニングの移動の合間に木々を見上げては、一時心を和ませてメンタルリフレッシュに務めている。
「なんだ、また花見か。本当にお前は人間みたいな感性をしているな」
鞍上の遼太がこちらを呆れたように苦笑する。それでも止めさせずに付き合って一緒に眺めているんだから、ノリが良いのか優しいんだろう。
隣のトフィは俺が立ち止まってしまったから、一緒に止まって梅の木を見上げている。
しかしなぜ見上げているのかよく分かっていない。遼太の言う通り、普通の馬に花を愛でる感性は備わっていないから、変なのは俺の方だ。
「花を食べる馬は多少知ってるけど、眺めるのが好きな馬はお前ぐらいだよ」
【花は食べないけど、梅干しはまた食べたいな】
【なにそれおいしいの?】
【人の食べ物だけど、ミカンより酸っぱい】
【じゃあいらない】
トフィはバナナや角砂糖の方が好きだから、こう言うのも仕方ないか。
あの酸っぱさは毎日食べたいとまでいかなくても、時々口にしたくなる味だった。畜生ってのはウマ娘に比べて何とも不便だよ。
さてと、花見はこれぐらいにして畜生は畜生らしく、レースに備えてトレーニングをしようか。
練習コースには顔見知りの馬が何頭かいる。去年からよく一緒に走る、アパパネ、サンテミリオン。反対側からはアニメイトバイオも来た。
最近はこいつらと一緒に走る事がある。前世のトレセン学園で、チームメイトや同学年と模擬レースをやってるような感覚で結構楽しい。
一つ不満があるとすれば、毎回1600メートルしか走らせてもらえない事か。
これ、どう考えても次のG1レースは桜花賞だよな。前に中山で弥生賞の2000メートルを走らせたから、皐月賞と思ってたのにとんだ肩透かしである。
〇クザのオッサンは俺がステイヤーだって分かってるのに、なんでわざわざマイルを走らせるのか。
しかし、前の弥生賞といい去年の阪神のレースもだが、俺以外全部オスばかりが走ってた気がする。
実はこの世界のレースは基本的に雄と雌で出るレースが分けられているのだろうか?
いや、でもそれなら俺がオスばかりのレースに放り込まれるのは道理が通らない。
―――実は俺はオスなのか?いやいや、もしそうならあの五本目の脚があってしかるべき。
大丈夫だ。俺は畜生になってもメスだ。
ちょっと微妙なテンションを花見で回復しながら、数日負けの多い模擬レースを続けて、ボツボツ桜が咲き始めた頃。やけに厩舎が騒がしくなり始めた。
騒がしいと言っても、事務所の電話が鳴りっぱなしで働いている連中が対応に四苦八苦しているだけで、俺達は全く関われないから詳しい話は聞けない。
最近は新しい厩務員と事務員が何人か入ったから、もう電話の番をしなくて良くなったと、チラッと松井が話していたのを耳にしたぐらいだ。
ただ騒がしくなった日を境に、トフィ達がマイルの練習を重ねる横で、俺だけ距離を伸ばして2000メートルを走らされ続けた。
これでちょっと読めてきた。俺が出るレースが桜花賞から皐月賞に変更になった可能性が出たな。それで輸送やらレース場への手配に忙しくなったか?
職員の仕事の増量は不幸だろう。でも俺は多少距離が延びて坂のキツい中山で走れそうだから都合が良かった。
それに前世じゃ皐月賞はナリタブライアンとゴルシーに負けたレース。かつての雪辱の機会が巡って来たと思うと俄然やる気が湧く。
弥生賞とトフィ達との模擬レースで、同年の馬達のレベルは大体把握している。アパパネ以外なら大抵の奴等は中距離でも何とかなる。
他に警戒しないといけないのは、猛とかいう騎手が乗っていたピサという牡馬だな。あいつを抑え込めれば勝率は七割ぐらいだろう。
そうと決まればモリモリ飯を食って、レースまでの時間は目一杯調整に努めるとしよう。
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寒さの厳しい北海道も、三月の下旬となれば多少は暖かさを感じるようになる。
もうすぐ中学三年生に進級する美景ナツは、春休みとあって朝から家の家畜の世話に追われている。
学生は新学期に備えて休みを謳歌していても、家畜を扱う農家の子となれば休み返上で働かねばならない。
それでもナツ本人は家畜の世話を苦とは思わず、むしろ机に向かっているよりはずっと楽しいと思っている。
だからこそ通信簿の数字が芳しくないとも言えるが、農家の子なら余程学力が見込める子以外は基本的に勉強する時間よりも、家畜の世話を手伝っている方が家族からは喜ばれる。美景一家もどちらかというと、その色が強い。
今はウミノマチ09、仮でクーと名付けた牡馬のブラッシングをしている。
「はーい、もうちょっとで終わるから良い子にしてなよ」
まだ生まれて一年足らずの仔馬は落ち着きなく動くから、ブラッシング一つとっても苦労する。
特に今の時期は冬毛が抜ける始まりだから、初めての刺激でじっとしていられない。
「もうすぐアンタの弟か妹が生まれるんだから、お兄ちゃんになる自覚を持ちなって」
そんなこと言っても馬には分からないんだろうが、ついついこの子の姉の時のように話しかけてしまう。
ナツが知っているマチの子は三頭居た。
最初の一頭は競りで買われた後に、地方競馬で今も走り続けている。勝ちも少ないから種牡馬には到底なりそうもない。走れるうちは何とか生きられるから、出来るだけ長く生きて欲しいと願っている。
このクーは牡なのもあるが兄に似ていると思う。比較対象が姉の黒子なんだから、そう思うだけかもしれない。普通の馬なんだからそれが当たり前だろう。
黒子も頑張ってレースに勝ち続けているんだ。弟のこの子ももしかしたら強い子かもしれない。
「アンタも早かったら夏に競りに出されるからねー。せめて良いオーナーに買われなよ」
出来れば地方でも良いから、それなりに勝って賞金を稼いでいれば無碍にはされない。それも競馬場で働く叔父から言わせたら、扱う人間の気分一つで生死が決まってしまう、あやふやな基準でしかない。
畜産農家である以上は、お金のために家畜を売るのが当たり前だと思っている。でも、せめて馬として生まれたのなら走り続けて生涯を終えてほしい。そう願う自由ぐらいはあって良い筈だと思う。
「―――――ナツ、ナツ聞いているのか?」
「えっ?ああ父さん。どうしたの?」
「もう昼だから飯にしようって呼んでるんだ。どうした?」
「ううん、何でもない。キリが付いたらすぐ行くね」
クーを放牧地に放して、道具を片付けて手を洗う。
考え事をしながら家畜の世話は良くない。牛も馬も人間よりずっと力が強いから、慣れていると油断していたら大怪我を負う。一旦ご飯を食べて気持ちを入れ替えよう。
ナツは家に戻って、家族と共に昼ご飯の用意された卓に座る。
一家は昼からの労働に備えて、たっぷり食べて英気を養う。かと言って無言ではなく、それなりに会話は弾む。
「さっき黒子を買った社長さんから電話があったべ。黒子が来月G1に出るから、儂も生産牧場主としてレースを見に来てくれんかと」
「すごいっしょ爺ちゃん!四月のG1だったら阪神競馬場の桜花賞っしょ」
「あーそれなんじゃが、黒子の奴は皐月賞に出ると言っておったぞ」
「本当か親父ッ!?黒子は牝馬だぞ」
「儂も何度か聞き直したが、皐月賞で間違いないべ。牝馬は出られるし、ダービーの時のウオッカの事もあるから分からんでもない」
春彦は牝馬にクラシック三冠を走らせる調教師の考えを疑ったが、日本ダービーを勝った牝馬のウオッカを引き合いに出されたら黙るしかない。
それに今月の弥生賞で牡馬達を薙ぎ倒しているのを見れば、牝馬だろうと期待したくなる気持ちも分かる。
マスコミへの伝達は明日以降になるから、身内以外には絶対に口外しないでほしいと南丸から釘を刺されている。勿論この家の者はペラペラと余所で喋るほど頭が軽くはない。
「で、親父がレースを見に行くのか?」
「G1レースに生産牧場代表で呼ばれるなんて、もう機会が巡ってこんから行くべ。牛達の世話は任せていいか?」
「分かった。家で生まれた黒子の一世一代の晴れ舞台だ。親父が見届けてくれ」
「頼むぞ。それと、ナツを連れて行こうかと思うんだが」
「えっ私?」
「お前も黒子の立派になった姿を見たいと思わんか?社長さんは何人連れて来てもええ言うとった」
「でも爺ちゃんが居ないと牛や馬の世話が大変だし……」
「遠慮なんてせんでええ。ナツが馬の事を好きなのは皆分かってるっしょ。一度ぐらい本場の大レースを生で見るのも勉強っしょ」
ナツはまだ少し躊躇ってはいたが祖母に背中を押されて、祖父と一緒に皐月賞を見に行くことを決めた。
ただし、その夜に何を着て行くかで悩んだ。もしアパオシャが勝った場合はウィナーズサークルで表彰式がある。G1ともなれば全国放送になって、自分の顔も晒されるから普段着など着て行けば間違いなくネタにされる。
さんざん悩んだ末にナツは、学校の制服を着て行けという両親の意見に従った。学校の制服は略式の正装だから間違いではない。