吾輩は馬である、今の名前は黒子。
母と離れて外の牧草地に出されてから、そろそろ二ヵ月は経ったと思われる。
秋もめっきり深くなり、周囲の木々の葉が赤や茶色に色付いていた。北海道の秋は寒く、毛の無い我が身が恨めしい。
馬の生活は草を食べるか、寝るぐらいしかやる事が無い。あとは柵内を走ってストレスを解消するぐらい。暇過ぎるんだよ。
本当に人間が何のために我々馬を飼育しているのか分からなくなった。これはいよいよ肥えさせて食肉か、皮革目的で育てられている可能性が濃厚になってきた。
やばいなー。今すぐにでも逃げ出したいけど、行く所が無い。大自然に身を任せても、逃亡先でヒグマにパクパクされるか、人間にムシャムシャされるかの二択なんて酷過ぎる。
心が段々荒んでいくというのに、一緒に過ごす大きなお友達二頭は暢気に昼寝をしている。あーあ、頭が畜生の方が却って悩まずに済むなんて。
溜息が出る境遇でも、不意に遠くから聞こえる声に耳が反応した。はて、今のフレーズはどこか懐かしさを覚える。
もう少し近くで聞きたいけど、放牧地から出て行かないと無理だな。
―――――やるか。
意を決して、柵の中で唯一扉になっていた箇所に行く。時々ここの家族が出入りしているのは見ているから、扉の閂の動きも分かっている。
扉と言っても一枚板ではなく、木材数本を組み合わせた簡易扉だ。顔を突っ込めるぐらいの隙間は十分にある。
隙間に口を突っ込んで閂の棒に噛り付いて、横にスライドさせて徐々に引き抜いていく。
よしよし。手は使えないけど、元ウマ娘の知性を舐めてもらっては困るぞ。
扉を開けて外に出て自由を得たら、今度は反対に閂を元に戻した。自由は俺だけでいい。
久しぶりにルンルン気分で声のする方に行く。
そちらは牧場の畑になっていて、今日は家族総出で芋掘りをしているとナツちゃんが話していたな。
ちょうど家族は休憩して、お茶を飲んでいる。採れたてのジャガイモいいなあ。結構長い間食ってない気がする。
そして俺の姿を見た爺さまがお茶を吹いた。
「えっおまっ黒子!どうやって外に出たんだ!?」
聞かれたから、畑に刺さっていた鋤の柄を咥えて水平にしてから横に引き抜くような動きをしたら、親父さんが目を見開いている。
「閂を自分で抜いて出てきただとぉ!?俺、ちょっと見て来る!」
「ちょちょっと、何なのこの子!?本当に馬なの?中に人間が入っているんじゃないでしょうね?」
お袋さんがペタペタと俺の身体を触っている。そんなに触ってもファスナーなんて無いからね。
それはともかく、今の俺の興味はそこじゃないのよ。
木箱の上に置かれている四角くて黒い物体に目を付ける。物体――ラジオ――からは荘厳な旋律と共にアナウンサーの読み上げる文章が聞こえてくる。
あーやっぱり思った通りだ。これはレースの実況だ。前世で現役を退いてから、数え切れないほど聞き続けた実況放送をまた聞けるなんてな。
『―――最後の一頭がゲートに入り、十三頭全てが揃いました。―――さあ、エリザベス女王杯がスタートしました。ちょっとアサヒライジング、ダッシュがつきません。先行争いはダイワスカーレット、ダイワスカーレットがレースをリードします―――――』
なに?ダイワスカーレット?それもエリザベス女王杯だって?あのカレットちゃんがレースしてるの?
絶対に流したらいけない名前に、その場に座り込んでラジオに集中する。
しかもレースの実況者が挙げる名前の中に、アドマイヤキッスとかスイープトウショウとか、結構聞き慣れた名前が出るたびに、体がビクッと動いてしまう。
「もしかして黒子はレースが聞きたいから牧草地を抜け出したの?」
正解ナツちゃん。
『―――三番手にスイープトウショウ!ダイワスカーレットは体半分のリード!振り切ってゴールイン!ダイワスカーレット、フサイチパンドラの順。ダイワスカーレット勝ちました!』
おおー、カレットちゃんが勝ったか。あれ?このラジオから流れているレースで走っているのは俺の知ってる後輩と同じウマ娘か?それとも同名のただの人間が走ってるのかな?
でも、エリザベス女王杯というレースがあるみたいだし、この世界謎過ぎる。
ただ、ラジオからは重賞四連勝とか聞こえている。俺の知ってるカレットちゃんならそれぐらい強い筈だ。
ちょっと混乱し始めた俺の頭をナツちゃんが撫でる。
「黒子も今のエリザベス女王杯みたいな凄いレースに出られるように頑張りなよ。弱かったらお肉にされちゃうから」
――――――!!!全部繋がった。そうか、人が馬を育てるのはレースを走らせるためだったのかよ。前世で見た事あるドッグランやラクダのレースのように、ウマ娘の代わりに動物を走らせようとしたのか。そして弱かったらお肉にされると。
うわっ、どっちにしても俺達馬は人間に生殺与奪権を握られているって事じゃないか。最悪だ。
とはいえ今更言ってもどうしようもない。ナツちゃんの言う通りレースで勝ち続けるしか生きる道は無い。
それに、前世も走り続けていたんだ。畜生に生まれ落ちようがやる事は変わらない。
覚悟を決めた後、とっつぁんが息を切らして戻って来た。
「どうだった春彦?」
「二頭とも逃げていない。扉は閉まったまま、柵もどこも壊れていなかった。黒子、お前扉を開けてから、閂を戻して閉めたのか」
頷いたら家族全員が信じられないと口々に言う。
「あたし達が扉を開け閉めしてたのを見て覚えたのかしら」
「賢い老馬なら人の五歳ぐらいの知能はあるって言うけど、この子は産まれてまだ半年よ。信じられないわね」
「じゃあ、ちょっくら黒子に同じようにやらせてみるか」
爺さまが俺の背を叩いて起きるように促す。
指示通りに牧草地の扉の前で、閂を口に咥えて横にスライドして扉を開ける。その後は先程と同じやり方で内側から閂を閉じて扉を閉めた。
実際に目の前でやられたら信じるしかあるまい。
「アンタ、この子どうしようかしら」
「逃げるわけでもないし、頭も良いから儂等がよく聞かせて止めさせればいいだろう。念のために木板を増やして扉の隙間を塞いでおけば、同じことはするめえ」
「俺が資材と道具持って来る」
とっつぁんが家の方に行き、爺さまが柵にもたれ掛かって俺に語り掛ける。
「黒子よぉい。お前の頭が良いのは分かったから、これっきりにしてくれねえか。そう何度も抜け出されちゃ、儂等も仕事が出来ねえし、驚き過ぎて婆さんがショック死しちまうべ。なっ、儂の言う事分かるんだろ?」
「ヒヒン【悪かったよ爺さま】」
一番欲しかった情報が得られたし、脱走はもうしないから安心しなよ。
その日のうちに扉が一枚板で覆われて内側から閂を動かせなくなった。
代わりに以降はレースのある日に、必ず牧草地の傍にラジオが置かれて、レースの実況中継が聞けるようになった。やったぜ。
でも実況を聞くたびに、ウオッカとかデルタブルースの名前が出て、前世の知り合いがどうなっているのか気になって仕方が無かった。