阪神大賞典が無事に終わったその日の夜。
アパオシャ陣営は宝塚市内のホテルに泊まり、レースの疲れを労った。
本来ならG2レースに勝ったのだから、ささやかでもお祝いしたいところでも、世間は大震災の影響で祝い事を忌避するムードが蔓延している。
そんな中で酒飲んでバカ騒ぎなどしたら、大顰蹙を買って競馬界全体にも悪影響が出るとあっては控えざるを得ない。
スターホースを抱える以上は、メディアや国民の目もあるので祝勝会の自粛もやむを得ない。
精々近くの店で酒を買って、部屋で個人か少数で集まって酒盛りする程度で抑えていた。
レースに勝ち、晴れやかな気分でもどこか鬱々とした夜。
アパオシャを所有するオーナーの南丸と調教師の中島は、ホテルの一室の窓際で向かい合ってビールの注がれたグラスを傾けている。
「せっかく今年最初のレースに勝ったのに、寂しい物ですね」
「我々は見られる側の人間ですから、身辺に気を配るのはやむを得ません。今も被災地で苦しんでいる方々の事を思えば納得します」
二人はガラス越しに宝塚の街並みを見下ろす。ホテルは繁華街にほど近いというのに、照明は最小限しか灯っておらず薄暗い。
震災後、真っ先に自粛のやり玉に挙げられたのが酒を提供する居酒屋や繁華街の娯楽施設だ。
被災地で困っている人たちの事を思い、派手な催しは控えるという主張は納得もするし共感もする。しかし、それでは生活が成り立たない人もいる事を忘れてはいけない。中々難しい、答えの出ない問題だ。
「オーナーの所は地震の被害はありましたか?」
「幸い岐阜県は震源地とはかなり離れていたので、揺れを感じた程度で特にありません。会社の方は、うちはそこまで影響は無いと思いますが、いくつかの他会社ではソフトの発売延期や、生産工場の被災でゲーム本体の部品供給が滞る懸念が囁かれています」
「日本の半分が被害を被った以上はどの業界にも影響はありますか」
「ソフトの中には大災害や地震で被災して荒廃した街を舞台にしたゲームもあって、無期限販売延期を決定した会社もあると耳にしました。こういう時だからこそ何か楽しい娯楽を提供して気を紛らわせたいと思っていますが、世論の反応は芳しくありません」
大と南丸はビールを苦々しい顔で口にする。
業種こそ違えど競馬とテレビゲームは共に娯楽産業であり、シェアを食い合う事もあるがそれなりに共感する部分もある。
「こればかりは時が経ち、世論が変化するのを見守りましょう。それで今夜の話とはアパオシャの今後のレースでしょうか?」
「そうです。予定した通り、次は春の天皇賞として調教と準備を進めてもらって構いません。私はその後の事をどうすべきか考えています」
大は南丸の瞳をじっと見つめる。その瞳の奥には迷いなどはあまり見えない。ある程度方針が固まっていて、いくつかの選択肢からどれが実行可能か現場に確認するような段階で意見を聞きたいのだろうと察した。
「春天皇賞に勝っても負けても、アパオシャにはまだまだ走ってもらいます。問題はそれ以降はどのレースを走るかです」
「確かにアパオシャには難しい問題です。彼女は中距離もある程度走れるとはいえ、生粋のステイヤーですから古馬の強豪が集う、例えば宝塚記念には苦戦を強いられるでしょう」
アパオシャは近年の高速馬場化した日本競馬に適したスピードの資質は持っていない。
おまけに世界的にも競馬はマイル中距離が主体で、長距離路線はマイナー化が進んでいる。
走れるレースそのものが減った中で、どのレースに出るかは難題だった。
「ところで日本の馬がドバイに遠征していると耳にしました。昨年の有馬記念でアパオシャを下したヴィクトワールピサや、ブエナビスタも出走するとか。あとはダートの強豪トランセンドもいます」
「確かに日本から五頭が来週のドバイレースに出走する予定です。もしや――――」
大も言わんとする事におおよそ見当がついた。
南丸は鞄から一冊のファイルを取り出してテーブルに置く。表紙には海外レースとシールが貼ってある。
「震災の日から出来るだけ時間を見つけて、世界のレースの情報を集めてみました。春の天皇賞以降、海外に挑戦してみませんか中島先生」
「随分と急な話ですね」
大の言葉に南丸は暗い夜空を見上げ、その後に灯の少なくなった街を見下ろす。
「日本の惨状を見ると、我々に何が出来るかを考えるようになりました。私は一人の日本人として、暗い世に明るい話題を一つでも添えたいんですよ」
言わんとする事は大にも分かる。レースを走る馬が人々に希望や感動を与える事は過去にも数多くあった。そのレースが困難であればあるほどに、人々に与える感動は大きくなる。
例えば三度の骨折を乗り越えて、実に一年もの休養を経て有馬記念に挑み、優勝を果たして勇退したトウカイテイオー。
アパオシャの父であるオグリキャップも、怪我や多くの困難に苦しめられながら走り続けた姿には、日本中のファンが感動の涙を流した。南丸自身も感銘を受けた一人だった。
懸命に走る馬の姿には、不思議な力が宿ると長年馬に関わってきた大も認めている。
アパオシャもまた、稀に見る難業に立ち向かい、見事に偉業を成し遂げた。そうした彼女には全国から山のようなファンレターが厩舎に届けられた。
中には多くの不幸に見舞われて、生を諦めるような境遇の者が考えを改めて、再び前を向いて歩き出すきっかけになったと綴られた手紙も幾つかあった。
「日本でアパオシャが走り続ける姿を見せるのも一つの手段です。ですがより困難に立ち向かう姿を見せる事で、未曾有の大災害に遭い膝を折ってしまった人達が再び立ち上がって、前を歩いてくれる力になるのではないか。私はそう思います」
「オーナーの言わんとする事は私も理解します。では、アパオシャを海外のレースに出すと」
「はい。そのために先生の意見をお聞きしたい。何分私は馬の事は素人です。困難でもあの子が勝てる可能性のあるレースを選んでほしいんです」
大は無茶振りされてると思いつつ、向かいに座す馬主には一定の理解と共感を持っている。日本人として国の苦難を少しでも和らげる力になりたいと思う気持ちもある。だからこの提案に否とは言わない。
「分かりました。ではまず現状を理解するために、アパオシャの競走馬としての特徴をおさらいしましょう」
一、現在の日本競走馬の中でトップと言って差し支えないスタミナと強靭な心肺機能。
二、牝馬の中でトップクラス、牡馬と比べても平均以上のパワーに支えられた高い登坂能力。
三、極めて高い知能により勝負所を見極められる思考。
四、重馬場を苦にしない対応力。脚質を選ばない柔軟性。練習でならダートもそれなりに走れる。
五、長距離の運搬でも食欲が落ちない。環境変化のストレスも軽微で、長距離輸送への高い耐性がある。
六、現在の日本の高速競馬にやや対応しきれていない最高速度。末脚はキレがあるが疲れるのかあまり使いたがらない。
七、主戦騎手以外が鞍上になった場合、折り合いがつけられるか不明。
「この時点でアメリカは除外でしょう。あの国は長距離レースが乏しく、日本と同様に高速馬場が盛んです。ドバイも似た理由で除外です」
「ドバイワールドカップはもう間に合わず、招待もされていませんからね。オーストラリアはどうですか?」
「長距離なら四月にシドニーカップ、十一月にメルボルンカップがあります。ただハンデ戦で、アパオシャの獲得賞金ではかなりの斤量を背負う事になります。それに、オーストラリアは畜獣の持ち込みの検疫が厳しく、過去にトラブルもあってあまりお勧めは出来ません」
「となるとやはりヨーロッパですか」
大は少し考えた後、頷いた。
南丸も短い時間でかき集めたデータを大雑把に調べて、おそらくここしかないと見当はついていた。
問題はどの国の、どの時期にあるレースを走るか。そうした詳細な情報はその道のプロに聞くしかない。
「個人的な要望も含めて言わせてもらえば、私はアパオシャにパリ・ロンシャンの凱旋門賞を走ってもらいたいと思っています」
南丸は大の言葉に驚きはしなかった。日本の競馬関係者で凱旋門勝利を意識しない者は皆無だ。馬主、調教師、騎手、JRA関係者、生産牧場関係者のほぼ全てが日本ダービーと並べて、世界一のレースに勝つ事を夢見ている。
「私もオグリキャップの子を、いえアパオシャを凱旋門賞に挑戦させたいと思った事は何度もあります。ただ、あの子の実力は、過去の日本馬が悉く弾き返された世界一のレースに通用すると思いますか?」
大はしばし無言の後、可能性はあると答えた。
「私はかつてマンハッタンカフェを凱旋門賞に送り込みました。結果は凄惨たる有様で、あの子の引退レースにさせてしまった事への後悔が心にまだ燻っています。ですがアパオシャはマンハッタンカフェと違う。ヨーロッパ競馬に適した多くの利点を持っています」
まずアパオシャは長距離輸送に強く、環境変化に耐えられるタフネスさを持つ。マンハッタンカフェはこの点が弱く、体重を大きく落とす事が多かった。
次に高低差の大きい起伏に富んだヨーロッパのレース場は、むしろアパオシャのようなスタミナとパワー重視の馬の方が向いている。
平坦な高速馬場に特化しつつある日本の馬が、ヨーロッパで良い成績を残せない理由がこれだ。
スピードが遅いのは大きな問題だが、実はヨーロッパのレースの決着タイムは日本の同距離と比べて数秒は遅い。これはヨーロッパ競馬が日本やアメリカほど高速決着に傾倒していないが故の違いだ。
さらにヨーロッパの芝は日本よりソフトで深く沈む。この特性は日本の芝の不良馬場に近いと言われている。アパオシャは弥生賞の時に重馬場を苦にしなかった。十分対応可能と見てよい。
ざっと挙げただけでも、これだけの利点がある。
「実際に現地で走らせて見なければ確証は得られません。ですがかつて凱旋門賞に挑んだ経験から言わせてもらえば、アパオシャはある意味日本競馬より、ヨーロッパ競馬に向いた資質が高いように思えるんですよ」
「――――――分かりました、中島先生。凱旋門賞に挑みましょう。ですが当のレースは十月です。それまでずっと日本で調教を続けるというのも時間が惜しい気がします。もっと前から遠征して修行してはどうでしょう?」
南丸の言い分も分かる。今年の春天皇賞は五月の初日。そこから凱旋門賞までは約五ヵ月空いている。その間に幾つかフランス、またはヨーロッパの他の国のレースに出て経験を積み、環境に慣れておいた方がより確実性が増す。
1999年にエルコンドルパサーがフランスに長期遠征して、本番の凱旋門賞前にフランスで三度レースを重ねて、二勝を挙げている。先人に倣うのも悪くない。
となるとやはりフランス、ロンシャン競馬場でのレースが最適だろうか。
「―――――あっ」
「どうしました中島先生」
「ああ、いえ。海外遠征でちょっと思い出しまして。七年ぐらい前に美浦トレセンの厩舎から、イギリスのロイヤルアスコットを走った馬がいるのを思い出して」
「ロイヤル……あのイギリス王室主催のレースの祭典ですね」
ロイヤルアスコットとは、六月にイギリスのアスコット競馬場でイギリス王室が主催する競馬開催の事である。
イギリス国内だけでなく世界中の競馬界と社交界の大イベントとされて、各界から要人が一堂に集まるヨーロッパでもっとも格式高く華やかな祭典だ。
その祭典に参加するだけでも大変な名誉とされる。日本の馬も過去に数頭参加したことがあった。
「それだけ華やかな祭典を走れたら、馬もさぞ気持ちがいいでしょうね。その上、勝てばきっと日本人も元気が出る」
「……行きますかオーナー」
「行きましょう!それで、どのレースにアパオシャを出しましょうか」
こういう時は勢いが大事である。例え昼間のレースに勝ち、酒が入って多少テンションが上がっていようが決断する事は重要だった。
アパオシャの走りを二年近く間近で見続けて、かなり脳みそをかき回されてロマンに生き始めているとも言える。
せっかく用意したレースの資料を使わなければ損だ。いいオッサンが二人並んでファイルのイギリスレースをパラパラと眺めて、大が一つのレースに目を留めた。
「これはあいつに合うレースかもしれません。G1ゴールドカップ、約4000メートルの超長距離レース」
ゴールドカップはヨーロッパレース界で最も長い歴史と長い距離のG1レースだ。フランスのカドラン賞芝4000メートルと同等の、約4000メートルの超長距離レースとして、アパオシャが次に走る春天皇賞のモデルにもなっている。その格式は世界随一と言われている。
レースにはイギリスだけでなく、アイルランドやドイツといったヨーロッパ中から一流のステイヤーが集まり、ヨーロッパの最強ステイヤーを決める祭典に等しい。
「ほう、かなりの長いレースですね。先生が先程仰ったのは、このイングランディーレ。この時は着外か」
「大丈夫です。アパオシャのスタミナは日本の馬の中でトップです。あいつなら良い結果を出せます」
日本ではお目にかかれない距離のレースでも、アパオシャならきっと走り切ってくれるだろう。
ちょっと酒が入って思考力が低下しているけど、それに二人は気付いていない。
「鞍上は引き続き和多君に任せて良いでしょうか。彼は海外に行ってくれますかね?」
「うーん、多分大丈夫でしょう。下手に鞍上替えたらアパオシャにどう影響が出るか読めませんし、どうしても嫌だと言ったら、二度と乗せないと言えば首を縦に振りますよ」
「そこまで言うのは可哀そうですから、明日私が直接家に行って説得しましょう」
「お手数おかけします。あとは現地の厩舎ですね。フランスは前回の凱旋門賞の時の厩舎で事足ります。イギリスはイングランディーレの志水調教師は知った仲ですから、そちらの伝を頼ってみます。あとは滞在費をどうするかです。ヨーロッパのレースは凱旋門賞を除いてG1でもかなり安いので、勝っても基本足が出てしまいます」
「それは今日のレース賞金を使いましょう。馬主の私の取り分が5000万円はあります。足りなかったら昨年の分も使えば心配ありません」
本当は今日の賞金は被災者への義援金にいくらか寄付するつもりだったが、こういう使い方なら納得してくれるだろう。
それから現地で勝った時の賞金を寄付するとでも言えば、ケチなどと誹られる事は無い筈だ。
「では大切に使わせて頂きます。ゴールドカップが終わったらどうしましょうか。フランスに行くか、イギリスに残ってもう一度ぐらいレースをするか、あるいは別の国に行くのもいいかもしれません」
「他国に行ったら厩舎探しもしないといけませんし、もう一度ぐらいイギリスで走りましょう。――――――――ふむ、これはどうでしょう」
南丸の開いたファイルのページには、アスコット競馬場で七月開催のキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスと記載してある。
このレースはイギリスレースの中では比較的最近設立した約2400メートルのG1レースだが、その実態はフランス凱旋門賞に比肩するヨーロッパ最高の中距離レースである。
距離こそ中距離に収まっているが、コースの過酷さを加味すれば長距離クラスのスタミナを要求される。アパオシャに向いたレースだろう。
このレースで好成績を収められれば、同距離の凱旋門賞への弾みが付く。
こちらもゴールドカップ同様、過去に日本の馬が走った事もある。五年前にハーツクライが善戦して3着に入ったのが日本馬の最高の成績だった。
ハーツクライは日本馬で唯一、最強馬ディープインパクトに土を付けている。
≪英雄≫に敗北の疵を刻み付けた強馬の記録を超える事が出来るのか。否、アパオシャなら出来ると二人は信じている。
あまり関係無い話になるが、昨年2010年のレースではイギリス産のハービンジャーが11馬身差の圧勝だった。
その後、ハービンジャーは骨折により引退。種牡馬として社大グループが買い取り、今は日本にいる。
彼の馬房はあのディープインパクトの隣である。意外な所で日本とつながりのある数奇な馬だ。
それはさておき、大方の方針は決まった。航空輸送や現地の受け入れ、マスコミへの対応等、もろもろの手配は明日以降になる。
ただでさえ震災で普段と異なる業務が増えて心労が溜まる中で、かつ不謹慎と言われるかもしれないが二人は今の状況をどこか楽しんでいる。
まるで祭りの準備をしているようなものだ。どうなるか分からないからこそ、あれこれ未来への想像を掻き立てられる。
翌月の四月二日。アパオシャが六月以降に海外遠征する旨が関係各社に伝えられた。
つい先日、三月二十六日にヴィクトワールピサがドバイワールドカップを制覇して、日本に明るいニュースを届けたばかり。
その勢いも合わさって、一時でも震災被害で苦しむ人々に立ち上がる気力を呼び起こした。
彼女の生家、美景牧場にもこの報は前もって伝えられており、その時は家族全員が飛び上がって驚いた。
特に社長を務める秋隆は、自分の牧場で生まれた馬が無敗のクラシック三冠馬どころか、ヨーロッパ最高峰のレースを走ると知り、後年に心臓が止まるかと思ったと語る。
そして南丸から是非とも生産牧場代表として一緒にイギリスに渡って欲しいと頼まれた。
しかし老齢を理由に、この機に息子の晴彦に社長業を譲り、新社長の息子夫婦が同行する事で話が纏まった。
一人娘のナツは高校入学を控えており、大震災もあって激動の年を予感させる春と言えた。
感想の中に、競走馬のアパオシャが再度ウマ娘化したら、どうなるかという意見がありました。ちょっと興味を持ったので、本編終了後の外伝で書いてみるのも面白そうだと思いました。おそらく日本語→英語→日本語の再翻訳のように、オリジナルと違うウマ娘になると思いますが、読みたいですか?
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面白そうだから読みたい
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興味無いから要らない
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パクパクですわ(お好きにどうぞ)