オグリの娘 ~畜生ダービー~   作:ウヅキ

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第34話 名誉と旱魃

 

 

 2011年6月16日 15:50   アスコット競馬場(イギリス)

 

 

 美景春彦は自らを一介の酪農家の男以上に思った事は無い。牛を飼って乳を搾り、野良仕事に精を出して、一生を終えることが己の分と思って生きている。

 馬も昔は儲かったから父が手を出した程度で、本業の乳牛に比べればオマケぐらいにしか思っていなかった。

 まして競馬の本場、イギリスに行くなど、去年まで考えもしなかった。

 今も新調したオーダーメイドのスーツを着て、ヨーロッパの富豪や貴族に囲まれて座っているのが夢で、ふと起きたらいつものように早朝の牛の乳しぼりが始まるんじゃないかと自らの頬を引っ張る。

 痛い。

 

「やっぱり夢じゃないな」

 

「そりゃそうよ。私達だって何度もお互いに夢じゃないかって言い合ったっしょ」

 

 隣に座る嫁に呆れられても、どうにも現実感が無い。反対席の南丸オーナーも似たり寄ったりなものだが、あちらはまだ目がしっかりしている。

 中島厩舎の方々はそれなりに平静を保っている。彼等は過去に海外遠征もしているから多少は慣れている。おかげで少し心強い。

 周囲から聞こえる異国の言葉は、何十年も前に高校で習った程度の英語力では、一割ぐらいしか理解出来ない。

 もう少し真面目に勉強しておけと、学生時代の自分に言って聞かせてやりたかった。

 

「黒子は大丈夫かねえ」

 

「ここまで来たら、無事に走ってくれれば十分よ。帰って義父さん達に土産話をしてあげれば喜んでくれるっしょ」

 

 嫁は黒子が勝つとは言わない。

 確かに黒子は牝馬ながらクラシック三冠を勝った稀有な存在なのは認める。春天皇賞も勝った。

 しかしそれでも、もうここまでと心のどこかで思ってしまう。

 

「大丈夫ですよ美景社長、アパオシャはきっと勝ちます。あの子はオグリキャップの子です。どんな逆境にだって負けません!」

 

 南丸オーナーの、心から黒子を信じる意志の強さが羨ましい。

 そうだな。ここまで来たらあとは馬と騎手を信じるしかない。

 

「頑張れ、孝行娘」

 

 聞こえないだろうが、ターフに姿を見せた黒馬にせめて声援を送った。

 

 

      □□□□□□□□□□

 

 

 前世も含めて、ざっと七十年ぶりに立つ、アスコットレース場のターフは濡れている。

 今も霧のような雨が降っていて、脚の先が沈み水を吸った芝が蹄を濡らす。

 これから走る環境としては決して良いとは言えないものの、劣悪と言うほどでもない。芝は稍重ぐらいだろう。

 相変わらずこの国の芝の重さには苦労させられるが、どこか嫌いにはなれない愛着を持っている。

 

「いよいよか。お前の背に乗ってから、随分と遠くに来たもんだ」

 

 鞍の上の和多が俺の首筋を撫でる。

 アンタにとって初の海外レースがイギリス王室が観戦する一大レースだから、緊張しているかと思ったがそうでもないか。

 よくよく思えば日本のG1だって、うちの国の一番権威のある一族や、時の首相も時々見ていると考えたら、実質同じと言えば同じか。

 空気に呑まれず、変に固まっていないのは良い事だ。

 

 ウォーミングアップにスタンド前を走ると、観客から声援が飛ぶ。

 その中には明らかに日本語の発音で俺と和多の名を呼ぶ声があった。それも複数。

 俺やランプの関係者以外の、日本から応援に来たファンが結構居るみたいだ。前世の時にもそれなりに居た、なかなか気合の入ったファンだよ。

 

【わざわざ日本から来て、負けて帰るのは御免だ。勝つぞ和多】

 

「気合入っているな。頼もしいよアパオシャ」

 

 スタンドから離れて、上空から見たら三角おにぎり型コースの右角部に繋がった直線コースへ向かう。

 馬の視点から、一緒に走るライバルの力量は多少把握しておく。

 大体の馬は見た感じ、日本にいるそれなりに強い馬ぐらいの雰囲気だ。

 反対に俺は他の騎手からマークの視線をあまり感じなかった。

 ウマ娘の時もそうだった。日本で何度G1を勝っても、今回がヨーロッパ初のレースとなると警戒も薄い。

 過去のデータから日本の馬はヨーロッパの環境に合わないと、この国の連中はみんな知っている。

 おかげで油断してくれて助かるよ。

 後ろを走る馬達もそこまで強い印象は無い。気を付けないといけない馬は精々2~3頭か。

 強いて言えば5番ゼッケンを着けた牡馬は警戒した方が良いかも。

 

「5番のフェームアンドグローリーが気になるのか?あいつはアイルランドダービー馬で、G1を四勝している。去年の凱旋門賞では、5着のヴィクトワールピサに次いで6着」

 

 名声(fame)と栄誉(glory)ね。随分洒落た名前だな。それに恥じない実績もある、と。

 それにあまり聞きたくない名前が出たな。余計に負けたくない相手になったぞ。

 

「ただ、過去データじゃ3000m以上を走った経験が無いから、お前の方が一枚上手だよ」

 

 なるほどなー。G1勝利数なら同格でも、ステイヤーとして是が非でも負けるわけにはいかんな。

 

 そろそろスタートの時間だ。俺も9番ゲートに入る。そして14頭の馬がスタートを待つ。

 

 ―――ゲートが開き、全頭が駆け出す。

 出遅れた馬はいないがスタートダッシュをかける馬も居ない。俺も今日はゆっくりと出た。

 ゴールドカップは日本で例の無い約4000mの長丁場。それにスタートから一度目のゴールを抜けて、第一コーナーを過ぎるまでの1200mは登り坂が続く。

 どの騎手も馬が序盤でスタミナを減らさないように、スローペースで走らせている。

 今回は最後尾で前の馬から一馬身離れた斜め後ろに陣取った。あまり前に居るとポジション争いで余計にスタミナを使うし、前の馬が蹴り上げる泥混じりの芝を被りたくない。仕掛けるのは後半からでも十分間に合う。

 レースは腹の探り合いから始まり、スタンドの観客達の声援を受けて一度目のゴール板を通過した。

 さらに第一コーナーを回り、これから1000メートル近い長い下り坂へと突入する。

 先頭と最後尾の俺とは大体七馬身は離れている。5番のフェームアンドグローリーという馬は中団の内側にいる。

 まだまだ馬群に動きは無く、下り坂の加速も程々に単調な、まさにステイヤー(耐える者)らしい展開が続く。

 

「まだ仕掛けなくていいのかアパオシャ?」

 

 大丈夫だよ和多。他の連中の走りを後ろから観察していたが、前世でのストレイトヴァイスさんやキュプロクスのような突出したステイヤーは居ない。

 普通に走り、普通に勝てる。アクシデントが無ければ、今日はそういうレースになる。

 重く沈む芝を蹴り続けて、前の馬との距離を一定に保ちつつ下り坂の終着点、第二コーナーへと差し掛かった。

 さて、ここからが本番だぞ。

 第二コーナーを過ぎれば、あとはゴールまでひたすら登り坂が続く。その距離、実に1600m。高低差は最大で22mにもなる。

 日本のレース場では考えられない環境のコースは、走り切っただけでも賞賛を受けるとさえ言われた。

 前世でキュプロクスを相手に二度も優勝するのは相当辛かった。俺の引退後に遠征したブラックちゃんも、よくここのゴールドカップを勝てたよ。

 じゃあ、三度目の優勝を掴み取るとしようか。

 

 登り坂に入り、前の馬達も動き始める。集団からバラけて、外側にラインを広げてペースを上げる馬が数頭いる。

 俺はそいつらのさらに外に出て、芝の荒れていない真ん中あたりを走り、ジリジリと順位を上げていく。

 隣の過ぎ去る騎手達はこちらを見て、さらに鞭を入れてペースを上げるが馬達の反応は鈍い。

 徐々に、だが確実にペースを上げて、残り1000m付近で先頭を奪い取った。

 そのまま確実に差を広げて、最終コーナー手前の地点で後続に二馬身差を付けつつ、最終直線に入った。残りはあと500m。

 

 この時点で、既に半分の馬はスタミナ切れを起こして息も絶え絶え。

 俺もそこまで余裕は無いから油断は出来ないものの、他の馬よりは余裕がある。

 2番手にはフェームアンドグローリーがいる。やはりこいつがこの中で一番強い。だが強過ぎはしない。

 末脚を利かせてこちらに追従するが、差を縮めるほどの鋭さは持っていない。

 力は抜かず、さりとて追いつかせない、絶妙な力加減のまま二馬身差を維持しつつ、確実にゴールまでの距離が短くなっていく。

 残り200mのハロン棒が見える。後ろから騎手が必死に鞭を叩いて馬を走らせる音が聞こえる。

 ああ、向こうからしたら和多は鞭すら叩いていないのに、全く差が縮まっていないのが腹立たしくて仕方ないのか。

 舐められていると思えば、騎手の苛立ちは想像を絶する。日本なら俺はこういう馬だと知れ渡っているから、勝ち負けはともかく憤慨しないだろう。しかし初めて走る国ではそうはいかない。

 ホームでお客さんに手加減されて負けるなんて、プライドの高い英国人は絶対に受け入れられない。だから不甲斐無い馬に鞭を入れているんだろうが、叩けば速くなるとは限らないんだから効果的とは言えない。

 

 結局残り100mで全く追いつけないと分かって、後ろの騎手は鞭を緩めた。

 そのまま俺は独走状態のままゴールを駆け抜け、イギリスの紳士淑女からの歓声を受けて都合三度目の勝利を手にした。

 

 

 

 

 ゴールドカップ(G1) 芝・右 4000m 天候:霧雨  芝:稍重

 

 

 着順  馬番           馬名  着差

 

 1着   9        アパオシャ    

 2着   5 フェームアンドグローリー   2

 3着   1     オピニオンポール   3

 4着  13      ブリガンティン   4.5

 5着   8         マニガー   0.5

 

 

 決着タイム  4分36秒8

 

 

 

      □□□□□□□□□□

 

 

 

 ≪ゴールドカップ発走直前の日本の某所 長尾宅≫

 

 

 ある老人が自宅の居間で、テレビを前に落ち着かない様子で茶を一口啜る。

 彼の名は長尾謙一郎。かつて厩務員として馬に携わり、そこから調教師の道に進んだ。現在は調教師を引退して、地方競馬の馬主をしている。

 いつもならとうに寝ている時間でも、今日は珍しく日付の変わる時間帯でも起きていた。

 テレビでは霧雨の降る現地で、レポーターが興奮した様子でレースに出走する馬やコースの説明をしている。

 日本では障害レース以外に例の無い、4000mの超長距離レースに不安と期待が大きくなる。

 

「誰かと思ったら爺ちゃんか」

 

「ん?ああ、ちょっとテレビを見たくてね」

 

 パジャマ姿の女性が欠伸をしながらキッチンに行き、冷蔵庫から牛乳を出してマグカップに注ぐ。

 カップを持ち、居間のソファに座る。

 

「競馬だよね?イギリスって事はアパオシャって凄く強い馬が走るやつ?」

 

「知ってるのか?」

 

「ニュースで流れているのと、大学の友達がちょっと話してたのを聞いたぐらいだけどね」

 

「そうか。あと五分ぐらいで始まるよ。お爺ちゃんにとっては友達の曾孫が走るみたいな物さ」

 

 かつて世話をしたシンザンというかけがえのない友は日本国内で敵無しと言われ、一部では海外遠征の声もあった。

 しかし未だ海外への遠征は環境が整わず、時期尚早と言われてその話は流れた。

 それから数百頭ものシンザンの子が生まれては消え、その数倍の血を引く孫や曾孫の馬が生まれた。

 その馬達も競走馬としては殆ど大成せず、ひっそりとシンザンの名も血統表から消えていくと思われた時、ようやく友の名を見つけた。

 そして今日、初めて友の血を引く馬が海外の大舞台を走る。四十年以上待った待望の瞬間を前に、どうして寝ているなど出来ようか。

 孫にそうした想いを話しても、いまいち理解は得られない。孫は馬にはさして興味が無い。だがそれでも良かった。

 

「爺ちゃんの馬じゃなくて残念?」

 

「うん?うーむ、そう言われたら残念かもしれないが、レースを走ってくれるだけで十分だよ」

 

「そっか。―――――へえ、イギリスの女王様も見るレースなんだ」

 

 カメラがスーツ姿の老婆を映す。自分より年上の、しかしまだまだ現役と言わんばかりに生気に満ちた偉人は、大の競馬好きと聞いている。

 あの女王陛下の前で、自分の所有馬を走らせたらどれほど誇らしいか、ホースマンの端くれの長尾は変な想像をしてしまった。

 愚にもつかない想像をよそに、現地では馬達をゲートに入れて、レースはまもなくスタートしようとしていた。

 

 

 

 レースは終わった。長尾は全身を突き抜けた高揚感と幸福の中に沈んでいた。

 結果はアパオシャの二馬身差の文句無しの勝利。現地レポーターの興奮する声が遠くに聞こえる。

 二着はフェームアンドグローリー。凱旋門賞馬モンジューの産駒だったか。

 イギリスゴールドカップ、そしてロイヤルアスコットのG1レースを日本馬が初勝利。

 また一つ、アパオシャが類稀な栄光を得た。

 

「シンザンが引退して四十五年間、待ち続けた甲斐があった」

 

 声が震え、涙が溢れて止まらない。そうだ、この瞬間をずっと見たかった。

 親友の血は外国馬に決して負けていない。シンザンはたとえ海外レースでも勝てた。その事実を曾孫の代で証明してくれた。

 それも親友の父の祖国での勝利は、何物にも勝る栄誉だ。

 

「ふーん、あのアパオシャって馬は牝なんだ。――――ねえ爺ちゃん、私も馬が走る所を見てみたいな」

 

「じゃあ、次の休みにお爺ちゃんの馬を見に行くかい?それか競馬場に行っても馬は沢山見られる」

 

「うん、良いよ。それじゃあ私はもう寝るね」

 

 孫娘は祖父の涙には触れず、部屋に戻る。

 長尾も暫くして寝床に入り、夢の中でかつての親友と再会した。

 詳細は起きた時には忘れてしまったが、幸福な時間だったのは覚えていた。

 

 






 アパオシャは前世の経験から、スキル≪アスコットレース場◎≫と≪登山家≫がデフォでセットされているようなものです。

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