7月23日土曜日のアスコット競馬場は、多くの観衆が詰めかけて熱気が渦巻いている。
高緯度のイギリスの7月は最高気温が25℃を超える事も稀だ。
しかも前日に雨が降り、今も曇り空が広がる中では肌寒ささえ感じるというのに、観客は熱気から半袖で過ごしている者も多い。
競馬場に集まった者達はみな、今日のメインレースを前に興奮を隠そうともしない。
キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス。フランスの凱旋門賞に比肩する、イギリス国内に留まらない、ヨーロッパ最高峰の中距離レースがもうすぐ始まろうとしている。
二時間前には、2歳牝馬によるG3プリンセス・マーガレット・ステークス(芝1200m)もあり、華やかな雰囲気と共に場も盛り上がっていた。
観客達はレースの出走表を見比べて、6頭の中のどの馬が勝つかを熱心に語る。
≪キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス≫ 右回り・約2400m 天候:曇 芝:稍重
現地時間 16時25分(日本時間 0時25分)第6レース発走5分前
1番 アパオシャ 牝4歳 斤量59kg 2番人気
日本から来た五冠の挑戦者。牝馬ながらG1ゴールドカップ(芝4000m)を優勝したため、ヨーロッパ女性からの人気が絶大のタフなレディ。
2番 デビュッシー 牡5歳 斤量60.5kg 6番人気
昨年のG1アーリントンミリオン(芝2000m)優勝馬。今年に入ってから勝ち星は無く、先月のプリンスオブウェールズS(芝2000m)は7着だった。人気薄し。
3番 リワイルディング 牡4歳 斤量60.5kg 3番人気
今年のドバイシーマクラシック、先月のロイヤルアスコットG1プリンスオブウェールズS優勝の二冠馬。現在調子を上げている。
4番 セントニコラスアビー 牡4歳 斤量60.5kg 4番人気
アイルランドから来たモンジュー産駒。今年6月にG1コロネーションC(芝2400m)を勝利したG1二冠馬。
5番 ワークフォース 牡4歳 斤量60.5kg 1番人気
昨年に英国ダービーとパリ凱旋門賞を戴いたトップホース。今月のエクリプスSでは惜しくも2着だったが、本レース最有力馬。
6番 ナサニエル 牡3歳 斤量55kg 5番人気
本レース唯一の3歳馬で、G1勝利未経験。先月のロイヤルアスコットG2キングエドワード七世Sを5馬身差で勝っている。斤量差もあり侮れない。
出走する6頭の中でも、特にファン達が目を付けたのは1番人気のワークフォースと2番人気のアパオシャ。
この二頭は国が違う、性別も異なるが、共に昨年のダービー馬である。
英国人にとってもダービーは特別なレース。
ある英国の偉人が『ダービー馬のオーナーになることは、一国の宰相になることより難しい』と言葉を残すほど、競走馬に関わる者にとってダービーは重要視された。
その二頭のダービー馬が同じレースで激突する。ゆえに今日のアスコット競馬場はいつも以上に熱を帯びていた。
観客達は一頭、また一頭とターフに姿を見せる馬と騎手に大きな声援を送る。ヨーロッパ人にとって馬はただの家畜にあらず。友のように大切な存在だ。
イギリス人は特にそれが顕著であり、馬が日常に溶け込んでいるとまで言われている。
簡単な例を挙げると、郊外でもないロンドン市内に騎馬警官という馬に乗った警官が普通に居る。
町の至る所に馬の形の看板を掲げた店がある。馬の皮を使った革製品の店も多い。
そんなイギリス人が最も熱狂するのが競馬である。正確には一番盛り上がるのは障害競技だが、平地レースもG1ともなると早々負けていない。
彼等は馬を愛している。馬が走る姿に惚れ込み、酔い痴れるのだ。
だから遠く日本からやって来た、異形の黒馬にも惜しみない声援を送り、今日走る他の5頭の馬と変わらぬ敬意を持った。
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吾輩は馬である。今日はいよいよ、前世では一度も走る事の無かった海外の中距離G1レースを走る事になった。
生憎と芝の状態は荒れ模様である。軽く走るだけで、雨を吸った芝が蹄に絡み付く。今日は稍重から重バ場ぐらいかなぁ。
どうも前回のゴールドカップの時といい、今年は天気の神様に嫌われている節がある。
しかも前のレースで散々に芝が痛めつけられて、ただでさえ整備されていない自然の草原に近い地面がデコボコして走りにくい。
穴に脚が嵌まらないように、ゆっくりとした足取りでスタンド前を走る。
「走り難そうだな。脚を滑らせないように気を付けて走るんだぞ」
【ああ、分かっているよ。今日はいつも以上にヘビーなレースになりそうだ。ところで和多、太った?】
何か相棒がいつもより重い(ヘビー)のが気になる。日本食よりイギリス飯の方が美味く感じて食べ過ぎたの?
相棒の食生活も気になったが、今更軽くなるのは無理だから考えるのは後回しだ。
いつもと違う違和感を無視して、荒れていない芝を蛇行しながら探しておく。
やはりゴール付近の内ラチは特に荒れて、デコボコが酷い。これは多少のロスを覚悟しても、内に寄せずにコースの中央を走った方が良いか。
ターフの状況を把握して、第一コーナーを曲がってすぐに設けられたスタートゲートにそのまま入る。
日本は開始前に馬がゲートの前で待っているけど、イギリスはそのまま中に入って待つ。
他の5頭も順々に入り、準備が整った。
ゲートが開いた瞬間、水を吸ってベチャっとした芝を蹴り上げて、一気にターフに駆け出す。
そのまま後ろを気にせず、下り坂を使って加速して、決して先頭を譲らない。
今日はいつもよりずっと短いレースだから、最初からスタミナを惜しまない。ハイペースのまま走り続ける。
位置取りは荒れている内ラチ側を避けて、やや中央に身を寄せる。
他の馬は俺に倣わず、5頭とも内ラチの方でポジション争いをしつつ、こちらを抜かそうとしていた。
並ばれたら加速して引き離し、追いつかれたらまた加速。とにかく今回は最後の直線の末脚勝負になる前に、可能な限り相手のスタミナを削り切っておきたい。
幸い、こいつらは全部牡だから、牝馬の俺に負けたくない本能がある。前を走ってその本能を刺激してやれば、ある程度思い通りに動いてくれるだろう。
第二コーナーを回り、一度追い抜かれた。外側を走っている以上、余計に距離を走るからこの程度のロスは織り込み済み。ロスを受け入れてでも、荒れたラインとポジション争いでのスタミナ浪費は避けたい。
コーナーを回ればいよいよ、1マイル続く高低差22mの地獄坂に突入した。さあ、地獄へのマラソンはここからが本番だぞ。
登坂と水を吸ったクソ芝に脚を取られて速度が出せない馬の前に出る。
【ホラホラ、どうしたっ!?ノロマばかりでこっちは眠くてたまらないぞ】
【なんだとー!?】
【メスがなまいきいうなー!】
【おまえあとではらませてやるっ!】
挑発に乗った馬達は、力んでさらに加速する。
【はんっ!追いつけるものなら追いついてみせなっ!!】
こちらも脚のピッチ回転数をガンガン上げて、後先考えない牡馬達にも決して先頭は譲らない。
体感的にかなりのハイペースに引きずり込み、第二コーナーと最終コーナーの中間点まで来た。この辺りが今日のレースの中間点ぐらいか。
この時点で既に一頭はバテて、脚に力が無くなっている。まずは2番ゼッケンの馬が脱落。
しかし安心はせず、とにかく脚を動かして地獄の登り坂を駆け上がって行く。同時に常に足元に気を配り、穴に脚を取られてもすぐに体勢を立て直せるように注意し続けた。
正直いつもより早いペースで走り続けるのは辛いんだが、俺でも辛いなら当然隣の馬達も同じかそれ以上に辛い。
事実、横目で残りの4頭を見ると、かなり息が上がっている。さらに4番ゼッケンがズルズルと後ろに置いて行かれた。
あとは最終コーナーを回ってからの根性勝負だ。
元々アスコットレース場は、スタミナと気力をひたすら削り続けながらでも走り切った奴が勝つ、泥臭さの極みのド根性レース場。意地でも負けてやらんぞ。
最終コーナーを回り、スタンド前に戻って来た。あとは最終直線の登り500メートルを走り切るのみ。
残りの距離とスタミナを瞬時に計算して、この登り坂ならラストスパートは残り1ハロンからだ。
まだだ、まだ焦るな。この荒バ場で超ハイペースに引きずり込んだんだ。他の奴等は俺以上に息が上がっている。スタミナ勝負なら絶対に勝てる。
荒れた内の芝を避けて、コース中央に寄せながら、力任せに芝を引き千切って脚を動かす。
途中、後ろから何か落ちる音と、グチャっと嫌な音がして、観客席から多数の悲鳴が上がったが振り返っている暇なんて無い。
残り200メートルで1頭に並ばれた。
ここからだ!首を下げて前傾姿勢を取り、一気に加速力を得た。
悲鳴を上げる心臓を無視して、かつてナリタブライアンがこのレースで勝利を手にしたように、低重心のスパートで6番ゼッケンを突き放す。
もう隣も見ている余裕も無い。ただ、ひたすら前にあるゴール板だけを見て、一瞬でも良いから最初に走り抜けることだけを考えて走り続けた。
それから無限とも思えるような苦痛の時が過ぎ、相棒の声が耳に届いた。
「もういいんだっ!脚を止めろアパオシャ!!お前が勝ったんだよっ!!レースは終わったぞ!」
その言葉と手綱を無理矢理絞られて我に返り、少しずつ脚の力を抜いて減速する。
大きく息を吸って、脈打つ心臓に酸素を大量に送る。そうして気を落ち着けてから、ゆっくりと脚を止めた。
見渡せばとっくにゴール板を過ぎて、第一コーナーの真ん中までいた。
おぇっ……走り過ぎて気持ち悪いし、脚が痛い。これは三日ぐらい疲労が取れないな。
「さすがのお前でも、今日は接戦だったな。でもやったぞ!お前がこの国で一番の馬になったんだ!スタンドからお前に向けた声を聞いてみろ」
言われた通り、その場で振り返ってスタンドに目を向ければ、日本語と微妙に違う発音で俺や和多の名を呼ぶ歓声が届く。
あー、何とか今日も勝てたか。でもこの距離を走るのはしんどいよ。
他の四頭の馬も満身創痍でフラフラになりながら歩いている。まともにスタミナが残っている奴は誰も居ない。
待て四頭?俺を含めて今日は六頭だったはず。まさかさっきの音は――――――
観客の一部が指差す先、最終コーナーの先で倒れていた馬と、それを囲む数名の医療行為が視界に入り、最悪の想像が頭をよぎる。
「その……お前が気にする事じゃないぞ。レースに事故は付き物だ」
…そうだな。ウマ娘の時もレース中の負傷や転倒事故はそれなりに見ている。
けど、今回はそうはならない。獣医の顔はとてもじゃないが命を救うための必死さが無い。まるで、手の施しようが無い患者を診る諦観があった。
そうか、あいつはもうダメなのか。
俺達馬はウマ娘と同様に時速60~70kmは出して疾走する。そんな速度で転倒したら、打ち所が悪ければ即死することだってある。
あいつは運が悪かった。人に飼われる家畜に生まれて、ただ走る事だけを教え込まれ、そのまま死んでいく。それだけの生涯。
【救われないな】
今日走った馬とは、ほんの十分前に顔を突き合わせただけ。同じ厩舎のトフィやアロマカフェみたいに、同じ場所で寝起きして飯を食ったり走る仲じゃない。けれど、共に命懸けでレースを走った仲でもある。
生き残った勝者として、死にゆく者にしてやれることが一つだけある。
勝者への歓声と、倒れた者への悲痛な声に包まれたスタンド前を通り過ぎる。
和多は俺がどこに向かっているか気付いていたみたいだけど、歩みを止めさせなかった。
向かった先にはターフに横たわり、痙攣をする3番ゼッケンの馬。その左前脚は中から骨が飛び出て、芝を血で濡らしていた。
チームの先輩のフクキタさんが勝った、秋の天皇賞の時のサイレンススズカさんがこんな酷い怪我だった。
そうか、人やウマ娘なら助かる見込みがあるけど、馬では助からない傷なのか。
まだ息はあり、目だけでこちらを追っている。
側に居た獣医や調教師らしき背広の男は、俺達に困惑してどうすべきか迷っていた。
しかし俺は構わず、重傷の3番に顔を寄せる。
【なにか聞きたいか】
【……ともだち……ぶじ?】
【お前の上に乗ってた奴なら、さっき運ばれていった。怪我はしてたが死んではいない】
騎手は救護員に肩を借りていたが、足に力はあったから軽傷だと思う。頭の中はどうだろう?詳しく検査しないと分からない。
【おまえつよい。また……はしりたい】
一度顔を上げて、こいつの血塗れの脚と周りの人間の顔を見渡す。
――――無理だろうな。走るどころか、どう苦しませずに死なせるか考えている目だ。
しかしそれを死にかけた奴に正直に言うのは酷だ。
だから、少しだけ希望を抱いて逝け。
【次に目を覚ませば脚は治っているよ。お前の周りに少し姿の違う父と母が居て、温かく見守っている。そしてまた、自分の脚で走れるようになる】
【………ほんとう?】
【俺もそうだったよ。だから、今は眠れ。そして起きたらまた、このレース場で走ろう。次も俺が勝つけどな】
3番の馬は安心したように目を閉じて、呼吸も少し穏やかになった。
あとは周りの人間達の仕事だ。顔を上げて、この場を立ち去る。
【ありがとう……】
かすかな声で礼を言われたが、これから死ぬ奴には、この程度しか出来ないよ。
せめて違う世界で、姿形を変えて思う存分走れ。じゃあな、名も知らないライバル。
それから観客の、今日の曇り空のような湿った拍手と歓声の中を歩いて通り過ぎた。
着順 馬番 馬名 着差
1着 1 アパオシャ
2着 6 ナサニエル 1/3
3着 5 ワークフォース 2
4着 4 セントニコラスアビー 1.1/5
5着 2 デビュッシー 30
6着 3 リワイルディング 競争中止
決着タイム 2:30.8
備考:競争中止したリワイルディングは左前脚開放骨折により、予後不良と診断。その場で安楽死処置が施された。騎手のⅬ・ラットリーは軽傷。
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7月23日土曜日の夜。アスコット競馬場から少し離れたウィンザー城の一室にて、この城の主の老婆が安楽椅子に腰かけながら側近を侍らせていた。
在位50年を超え、御年80歳を迎えてもなお、君主としての務めを精力的に果たし、イギリスに留まらず世界に絶大な影響力を持つ偉人。
そんな偉大な女性も今だけは、決して民衆には見せる事の無い、栄光に似合わない陰鬱な感情を皺だらけの顔に張り付かせていた。
『―――――では私の名でリワイルディングの関係者に、弔辞の手紙を出しておいて』
『御意』
通常、一国家の君主がただの馬に弔いの手紙を出す事は無い。しかし、この女王は大の競馬好きと知られて、今日のアスコットのレースも臨席していた。
文字通り命をかけて走り、悲劇的な最期を遂げた馬に声一つかけない酷薄な人物と思われては、長年に渡って女王が築き上げてきた名声と体面が損なわれる。
そして一個人としても、目の前で命を散らした馬への深い悲しみがある。ゆえに側近は君主の行為に賛同する。
『それと、勝者の日本から来たパワフルなお嬢さんは、次はどのレースに出るのかしら?』
『次はフランスの凱旋門賞に挑戦すると聞いています』
『ああ、そうね。日本人なら必ずそこを選ぶ。あのお嬢さんは勝てるかしらね』
『さて、それは何とも。ですが、我が国の名馬を牝馬ながら次々と薙ぎ倒す強さなら、あるいは――――』
側近もレースに絶対は無い事は知っている。だから主の質問に明言は避けた。
女王もそれは承知で聞いているから、濁した返答を咎めたりはしない。
代わりに近くのテーブルに置いた、紙の束をパラパラとめくる。中身は今日のアスコット競馬場で行われたレースに参加した馬や陣営の簡単なプロフィール覧。
『アパオシャ……ペルシャの悪魔の名を持つ不思議な馬。あの国ではサンデーサイレンスというアメリカの馬の血統が幅を利かせているのに、この子には一切その血が流れていない。それどころか、うちの国にも広まったノーザンダンサーとも全く関わりが無い血統』
『母方の父系には我が国から仕入れて繁栄したヒンドスタンが居ます。母の母を遡れば、四十年前に牝馬ながら本日のKG6&QESを二連覇したダリア、さらに源流はダービー伯爵のハイペリオンにも行き着きます』
『懐かしい名前ね。既に薄っすらとした記憶しか無いのに、こうして血を継ぐ子が異国からひょっこり帰って来て、最高の栄誉を二つも掴んだ』
女王の目に不甲斐ない自国の馬を糾弾する色は無い。むしろ、外国に婿養子に出した孫が里帰りに連れて来た、出来の良い元気な曾孫の活躍を楽しむような喜びがあった。
『ところで、今日のレースが終わってから、あの馬がリワイルディングの傍にいたのはどういうことかしら?』
『断定は出来ませんがアパオシャの騎手や厩舎の関係者は、倒れた馬をせめて看取るために傍にいたのではないかと言っていました。あの馬はとても優しく仲間想いなので、同族の最期に立ち合い忘れないようにするためだと』
『興味が湧きますね。あの馬のレース以外のプライベートな映像や記事は無いのかしら』
『少々お待ちください』
しばらくして、日本語の通訳と共に幾つかの記録媒体や、翻訳して印刷した記事の一部が届けられた。
二人は資料に目を通し、海外遠征前にテレビ放送されたアパオシャの特集番組を見る。
全てを見終わった後、あの馬の特異性にしばらく無言だった。
『―――――フランスにはいつ頃、発つのかしら』
『明日の朝に問い合わせます』
『それと、私の政務で空けられそうな時間も探しておいて。今日はご苦労様』
『畏まりました』
側近は主君の部屋を退出して、難しい仕事に頭を悩ませた。
翌朝、アパオシャの陣営が滞在するホテルに英国王室の事務官から電話があり、大騒動が起きるのは少し先の話である。