暦の上では四月になっても、北海道は雪が所々残る寒さの厳しい所だ。それでも人と動物は逞しく生きている。
美景牧場に変な馬のウミノマチ07が産まれてから、まもなく一年が経とうとしていた。
小学生だった牧場の一人娘のナツも、今年晴れて地元の中学に進学した。相変わらず勉強はさっぱりだけど、家畜の世話をして日々元気に成長しているだけで家族は嬉しい。ほんのちょっとだけ、勉強も頑張って欲しいと心の中で思っているのは内緒だが。
そんな北海道ならどこにでもある平和な牧場に、一台の見慣れない車が停まった。
車から降りたのは背広姿の中年男性だった。牧場にはちょっと似つかわしくない風体で、寒いのか助手席からコートを取ってその場で羽織る。
「ふう、やっぱり北海道は広い」
疲れと興奮と不安が混ざり合ったような感情で、放牧地を走り回っている馬達を凝視している。
最初にその男に気が付いたのは牧場主の息子で跡取りの春彦だった。
「ああ、こんにちは。突然お邪魔して申し訳ありません。こちらの牧場のオーナーですか?」
「いえ、社長はうちの親父です。それで貴方は?」
「申し遅れました。私はこういうものでして」
男は背広のポケットから名刺を取り出して春彦に渡す。
その名刺を見て、怪訝な顔になった。
「株式会社≪世界一ソフト≫代表取締役社長、南丸浩二?失礼ですが、どういうご用向きか見当もつかんのですが」
「馴染みの無い社名ですから仕方ありません。実はこちらの牧場で生まれたオグリキャップの子に興味を持っていまして」
「あーそういうことですか。確かにうちの黒…ウミノマチ07はオグリキャップの産駒です。立ち話も何ですから、話は中の方で伺います」
相手の目的が分かり、合点がいった春彦はそのまま南丸を自宅の応接室に招いた。
仕事中だった秋隆も一旦切り上げて、男三人が応接室で顔を突き合わせる。それからお茶を一口飲んでから、南丸が口火を切った。
「まずアポも無しに押し掛けた事を謝罪します。知り合いからオグリキャップの最後の子が居ると聞いて、居てもたってもいられずに、すっ飛んで来てしまいました。せめて電話の一本も入れておくべきだったと、礼を失した事を恥じています」
「まあまあ、お気になさらずに。儂等にもそういう向こう見ずになる事は時々ありますから」
「ははは、お恥ずかしい限りです。それでオグリキャップの子は本当に今こちらに?」
「ええ、ちょっと変わった馬ですが元気な牝ですよ。それで、やはりうちの馬を買い取りたいという話ですか?」
「はい。もし先に誰かと契約を交わしてしまっていたら残念ですが諦めますが、まだ買い手がついていないのであれば、是非検討したいです」
春彦と秋隆は大体予想した通りの話で、ある種の安堵を覚えた。生産牧場が直接顧客と馬の売買契約を交わす、いわゆる庭先取引というやり取りである。
競走馬になる馬を手に入れるには、大雑把に二種類の方法がある。
セレクトセールという競りに出された馬に値を付けて買い取る方法。もう一つが今回のように牧場が直接客に馬を売る方法。
大手牧場の有力な種牡馬の産駒は庭先取引が盛んに行われて、競りにまで出てくる事は少ない。
しかし言って悪いが美景牧場のような零細、しかもここは輓馬がメインで、サラブレッドの繁殖牝馬は一頭しかいない。そんな牧場にわざわざ買い手が来る事など無いと思っていた。当然、黒子には買取の話など、今までこれっぽっちも来ていなかった。
「そのために、わざわざ岐阜県からお越しになったとは」
名刺に載っていた会社の本拠地は確かに岐阜県と書いてある。ただ、競走馬の生産牧場は北海道に集中しているから、見学や競りへの参加は基本北海道まで足を運ぶ必要があるわけだが。
「あのオグリキャップの子が手に入る最後のチャンスとなれば、その程度の労は厭いません。私も当時のオグリのレースは生で見ていました。あの頃はまだ二十半ばの若造で、オグリの活躍には胸が躍りました」
昔を懐かしむ南丸の気持ちは秋隆もよく分かる。
あの馬は地方競馬から中央へ殴り込み、数々のライバルを打ち破ってG1レースを勝ち抜いた。そして怪我や多くの不運に見舞われながらも、引退レースの有馬記念でまさかの優勝。
存在そのものが一つの立身出世の物語として完璧な馬だった。当時の競馬の在り方すら変えてしまい、品の無いギャンブルと蔑まれていた競馬の地位を、立派な娯楽やスポーツとして押し上げた立役者とさえ言える。
おかげで美景牧場を始めとした馬を扱う牧場は随分経済的に助けられた。まさに神様のような馬と思われている。
残念ながら種牡馬としては散々な結果になってしまったが、それでもこうしてかつてのファンが産駒を求めて遠方から訪れるのだから、未だ『芦毛の怪物』は人々の心に焼き付いている。
「懐かしい話だべ。あの時代は誰も彼もがオグリオグリと騒いだもんだ」
「あれからもう二十年近くが経ち、最近は会社も軌道に乗って少しは余裕も出来ました」
「ところで失礼ですが、おたくの会社は何の仕事をなさっているです?」
「ああ、テレビゲームのソフトを作って販売している会社なんですよ。任天〇、ナ〇コや〇ガのような一流の老舗と比べて、知名度は無いに等しいですが」
そりゃ分からんと二人は思った。この家はファミコンすら持った事も無いから、今挙げたような会社も聞いた事がある程度の認識でしかない。
それでも馬を買おうとするぐらいには財を成しているのだから、逃がさないように上客として扱うつもりだ。
「それから知り合いに馬主コミュニティは色々と役に立つと助言されて、去年JRAに馬主登録申請もしました。これがその登録証です」
南丸はカード形式の馬主登録証と馬主バッジを二人に見せる。JRAが馬主に相応しいと認めたなら問題はあるまい。
「先日、偶然取引先の社長からオグリキャップが種牡馬を引退して最後の産駒は二頭しかいないと聞き、もう最後のチャンスと思って、気付いたら北海道に立っていました」
恥ずかしそうに頭をかく。しかし目には未だ獲物を狙うギラギラとした欲望が損なわれていない。
「南丸さんには朗報ですよ。今のところウミノマチ07は誰も声が掛かっていませんから、お売りする事も構いません。何なら、今から実際に見てみますか」
「ではお言葉に甘えて」
かなり食い気味の客に、二人は顔に喜色が出ていた。競りに出しても良い値が付かない可能性も考えていた。しかしこの様子なら、あの枯れた血統の馬でも、そこそこ高値で売れるかもしれない。
良い馬主に買われた方が馬だって良い扱いをしてもらえる。誰も損をしない取引なら万々歳である。
三人で放牧地に行き、春彦が大声を出す。
「おおーい!黒子、ちょっとこっちに来い!」
その声にすぐに反応した一頭の馬が三人のすぐそばに寄って来る。
南丸は最初その黒い馬を、青鹿毛か青毛かと思った。ただ、近づくにつれ違和感を感じるようになる。さらに間近で馬体を見て、困惑の度合いが強くなった。
春彦は柵の扉を開けて馬を出す。
「これがオグリキャップの子ですか。ただ、その何と言いますか――――父親には似ていませんね」
思い出深いアイドルホースの子だから出来るだけ言葉を選んでも、視線の先の全く毛の生えていない黒い馬の外見を褒める事は難しかった。
「芦毛じゃないから印象が全然違うのは仕方がないです。ですが獣医も健康そのものと太鼓判を押してますから、競走馬としては問題ありません。それにこの子はとても頭が良い」
「どうした黒子?何でそんなビックリしてるんだ?」
「人見知りする馬なんですか?」
「うーん、産まれてすぐは儂等にもちょっと警戒心があったから、初めての相手にはちょっと構えちゃうんでしょう。ただ、慣れてくると気にしない性質だから、マメに会ってやればすぐに仲良くなれます。触ってみますか?」
言われるままに南丸は黒子の首を撫でて、だらしなく顔を崩した。
「大人しい子ですね。オグリキャップも普段は穏やかと聞いていますから、気性は父親似なんでしょうか」
「気性の荒さは遺伝する傾向があります。強さも引き継いでてくれたら良かったんですけど」
目当ての馬の元気な姿に満足した南丸は秋隆らと共に事務所に戻る。ここからは本格的に交渉の時間だ。
最初に牧場で保管してあるウミノマチ07=黒子の血統書を見せて、確かにオグリキャップ産駒である証拠を示す。
「ほう、あの子の母の父はミホシンザンだったんですか。オグリキャップと結構近い年代の名馬ですね」
「子供のウミノマチは中央で未勝利のまま引退ですがね。シンザンの血統も今は寂しい限りです」
「ですが母親はどうあれ、オグリキャップの子なら構いません。参考に知り合いの馬主から、オグリの種付け料や産駒の値は少し聞いています。――――四百万円で如何でしょうか?」
美景親子は互いに見合わせて、心の中で喝采を挙げた。黒子を七月の競りに出しても、三百万円が付けば御の字だと思っていた。それが意外と高値が付いた。
「分かりました。あなたにうちの黒子をお売り致します。ただ、うちは見ての通り小さな牧場ですから、馬具を付けて慣らすぐらいは出来ても、夏からの本格的な訓練は育成牧場に預けてしてもらわないといけません」
「では育成牧場への手配をお願いできますか。それまでの間の世話も頼みます」
「手続きと世話はサービスでやっておきましょう。後は中央で走らせるには調教師に預けないといけません。どなたか頼める伝はおありで?」
「調教師の方は知り合いの馬主に相談してみます。入厩にはまだ一年近くありますから、じっくり探しますよ」
当面の道筋は立った。
あとは契約書を作って判を押せば仮の契約は成立する。さらに南丸は手付と称して、契約金の半額の二百万円をその場で出した。残りは育成牧場に送り出してから支払われる。
その日の夜の美景家はちょっとしたお祝いで、いつもより豪勢な夕食になった。
そして売られた黒子は、自分があのオグリキャップ先輩の子供と知って、おまけにその先輩が母ではなく父と知って、ますますこの世界が分からなくなって悶々とする羽目になった。