えー、まず初めに5月28日の日本ダービー後に、心不全で亡くなったスキルヴィングの冥福を祈らせていただきます。
勝利したタスティエーラとレーン騎手には祝福を贈りました。でも当人は喜ぶべきか悲しむべきか迷うような、複雑な顔をしていた事が残念でなりません。
前話で少し触れたアパオシャの弟アウトシルバーは目立った怪我も無く、長いレース生活を引退しました。経済動物である以上は、お金を稼ぐのが重要でしょう。ですがリワイルディングや先日のスキルヴィングと比べて、彼は幸運だったと思わずにはいられません。
やはりどんなレースも命あっての物種。『無事之名馬』とは至言です。
そして天寿を全うしたナイスネイチャはお疲れ様でした。
まだまだ暑さの厳しい9月初週の日本。
二千頭を超える競走馬を預かる美浦トレーニングセンターの一角。中島厩舎の事務所で主の中島大はパソコンに向かい合っていた。
元騎手で、まるで極道のような生き方をしていた大も、事務仕事の一つも出来なければ一つの厩舎を運営する、社長と同義の調教師は務まらない。
と言っても今回は書類仕事ではなく、パソコンとインターネット回線を用いたウェブカメラによる事務報告だった。
液晶画面に映る、息子で部下でもある遼太の定時報告を聞くのが、ここ数ヵ月で増えた大の仕事である。
「アパオシャのフランスでの調子はどうだ?」
「結構良いよ。前のレースの疲労も完全に抜けて、こっちの芝に慣れる所から始めている。ここ二日ぐらい見てると、完全に慣れるのもそこまで時間は掛からないと思う」
年々、通信機器の性能が向上するおかげで、遠いヨーロッパに居ても簡単に連絡が取れるようになって助かる。
「そいつは良かった。飯はちゃんと食っているか?」
「食事量はむしろイギリスの時より増えている。どうもあっちの野菜はイマイチだったから、味噌や醤油を消費する量が多かったけど、フランスに来たら半分ぐらいに減った」
さらに遼太は、こっちはワインが美味いと父に冗談を言う。大も少し笑みがこぼれた。
マンハッタンカフェの時の凱旋門賞挑戦は、走る以前に馬の体調を整えられなかったため惨敗した。今度はそちらの心配はせずに良さそうだったので、厩舎の面々は全員胸を撫で下ろしていた。
「今は合流したナカヤマフェスタとナカヤマナイト、ヒルノダムールと併せ馬をやっている。うちは慣らしだから、ボチボチかな」
「ああ、来週G2のフォア賞とニエール賞だったな。四頭いれば結構身の入った調教になるんじゃないのか」
「馬の仲もそんなに悪くないから調教も順調だよ。特にナカヤマの二頭の方は」
大はふむ、と息子の言葉を思考する。
ナカヤマフェスタは同じ美浦トレセンの二ノ寺厩舎所属の馬で、アパオシャより一歳年上。同じレースを走った事は無いが、トレセン内でそれなりに顔を合わせた事もあるから、馬同士知らない仲ではない。
遼太の話では、調教に行く時にナカヤマフェスタが機嫌を損ねていてもアパオシャがそばに居て、しばらくすると凄く嫌そうにしながら一緒に調教に行くようになるらしい。
機嫌が悪い時は絶対に人の言う事を聞かず、調教も大嫌いな馬でも言う事を聞かせられたのは、大も驚きを隠せない。
「あの気性難で頑固者のナカヤマフェスタでも、アパオシャを無碍にしないのか」
「おかげであっちの陣営から物凄く感謝されてる。三月の大地震から、美浦の馬はアパオシャを完全にボスと認めているらしい。ナカヤマナイトも同じく」
「凱旋門賞じゃライバルでも、同じ日本馬が助け合うのは悪い事じゃない。で、ヒルノダムールの方は?」
「そっちはなー」
遼太が額に手を当てて、いかにも困っているという仕草をする。
「なんだ?」
「うちのアパオシャを見ると馬っ気出すから困ってる」
「またか。で、手を出された事は?」
「無い。発情はしても上下関係は出来てるみたいだから、心配無いと思う。でも万が一があるから、併走以外は距離を取っている」
「ああ、そうしてくれ。うちの女王様にも困ったもんだ。アパオシャ自身には責任は無いんだろうが」
牝馬がそばにいると発情する牡馬はそこそこいる。それは牡の本能だから仕方ないのだが、アパオシャの場合は輪をかけて牡馬が発情しやすい馬らしい。
ヒルノダムールは2歳からずっとレースで負けまくって、上下関係が出来ていてなお発情している。強い牝馬に惹かれる性癖なのかもしれない。
「というわけで、こっちは目立った問題は無い。そっちは何かある?」
「相変わらず地震が多くて、美浦も時々揺れるから若い馬が騒いでいる。精神的な柱だったアパオシャが遠征してから、神経質になっている馬も多い。うちの馬も寂しそうだ。特にアプリコットフィズがな」
「あいつらは姉妹みたいに仲が良かったからしょうがないか。姉の方は特に気にしてないのに」
「女王にとっては多少目をかけていても、数いるうちの面倒を見ている馬なのかもな」
厳しいようだが競走馬のレースは仲良しクラブじゃない。時に同じレースを走って勝ち負けを競う間柄だ。大はこれを機に、どの馬も少しは精神的に強くなって欲しいと思う。
そして少しでもレースに勝ったり、掲示板入りして厩舎の実績を上げて自分達の懐を温めてほしい。
「日本からいなくなってつくづく思う。うちの厩舎の馬は、あいつ以外は重賞もなかなか勝てん。次の休日はラフレーズカフェの初重賞、その次はアプリコットフィズ。どちらも勝ってもらいたいが」
厩舎にとって重賞勝利馬が多く所属しているのはレース賞金の収入の面以外にも、馬主にこの厩舎に馬を預ければ勝てると思わせる宣伝効果がある。
そうして良い馬を預けてもらい、レースに勝って、また良い馬を任される。この好循環こそが最も大事である。
そういう意味では、現役どころか日本競馬史を見渡しても最強クラスのアパオシャがいるうちに、何とかして有力な馬を確保して、次のG1馬を育てなけれならない。
「凱旋門賞に勝つとは言わないけど、全力を尽くすよ。だから日本も頑張ってくれ」
「ああ、頼んだぞ遼太」
必要な連絡が終わり、大はパソコンを操作して、フランスとの回線を切った。
息子からそれなりに良い話が聞けて、気分転換にもなった大は別の仕事にとりかかった。
一週間後、アパオシャと別口でフランスに渡った三頭の日本馬がロンシャンのレースに出走した。
G2フォア賞にはナカヤマフェスタとヒルノダムール。G2ニエル賞にはナカヤマナイトが奮戦した。
ナカヤマナイトは5着で特に注目を集めなかったものの、フォア賞はヒルノダムールの優勝。2着もナカヤマフェスタで、G2とはいえ凱旋門賞の前哨戦を日本馬のワンツーは、フランスの競馬ファンから驚きの声が上がった。
ここにイギリスG1二連勝の『女王』アパオシャが加わればかなりの脅威と、凱旋門賞に参加する陣営は日本への警戒をより一層強くした。
□□□□□□□□□□
フランスのパリが一年で最も華やかになる凱旋門賞ウィークまで残り一ヵ月を切った、ある日の夜。
パリ市内のモンマントルの丘の麓。暗い夜を煌々と照らす、花の都の中で最も華やかで甘美な一角。
キャバレー≪ムーランルージュ≫等、大人の欲望を満たす歓楽街にある、一軒の年季の入ったバーに背広姿の男達が集まっていた。
「遅いぞ、もう二杯も空にしちまった」
「悪かったよ、貧乏暇無しって奴だ」
遅れて来た男はウェイターにワインを注文して、空いている席に着いた。
「全員集まったから、本題に入るぞ。今年の凱旋門賞ウィークのレースだ」
バーの男達は一斉に喝采を挙げる。この時期はどこの飲み屋でもこうした男達が夜な夜な集まって、来月の一大イベントに想いを馳せる。
そして十数名の男達はそれぞれ、レースの出走表と財布から札を何枚も出した。
「賭け金はいつものように、1レースに一頭10ユーロ。当たりは1着の馬だけ。凱旋門賞だけは50ユーロ賭け。当たり無しだった時は、そのレースの金は教会に寄付」
「いつものルールと一緒だな。じゃあ、一日目の第一レースからいくぞ」
男達はそれぞれ自分が勝つと思う馬の名を挙げつつ、記録を取る胴元役の男に10ユーロ札を渡していく。
フランスやイギリスの競馬は、日本のように国が胴元を担う国営ギャンブルではない。それぞれ民間企業が胴元を担当して賭けを行う。
ここでの行為はあくまで身内での賭け合いで厳密には違うだろうが、日本と違って割と大っぴらに賭博をしても取り締まられないのはお国柄と言う奴だろう。
次々に札が集まっていくものの、賭け金が一回10ユーロなら、ウィーク中の全レースに賭けても一人の総額は200ユーロを超えない。あくまで節度ある大人の楽しみの範疇に収まった。
一日目のレースが全て終わり、続いて二日目に入る。
マルセルブラック賞、ラガルデール賞、アラビアンWC、そしてメインレースの凱旋門賞になると、男達の酒の入った顔が一層血の気で赤くなる。
「俺はサラフィナだ」
「儂はスノーフェアリー」
「ガリコヴァに入れるぞ」
男達は自らが信じる馬に50ユーロを賭けて、当たった時の額を思い浮かべてニヤついた。
「俺はアパオシャにする」
「何言ってんだ、斤量の軽いデインドリームだよ」
「んだとぉ!?」
「カッカすんなよ。どの馬が勝つかはレースが終わってからのお楽しみってな。私はソーユーシンクに賭けよう」
取っ組み合いしそうな酔っぱらいを周りが引き離して、別の男が札を一枚胴元に渡す。
最後のフォレ賞を賭け終わり、胴元は集めた金と賭け表を封筒に入れて封蝋で固める。後はこの金をバーの店主に渡して、それを店の金庫に入れた。
胴元は毎年変えて、集めた金は集会場の店に預ける。こうする事で金のトラブルを出来るだけ避けて何年も行事を続けていた。
店側も十数名の常連客を失った対価に2000ユーロぽっち手にするのは馬鹿馬鹿しく、今のところ金を紛失した話は無かった。
酒と博打はお互いの信用によって成り立つ。大人の遊びは何年経っても楽しいものだ。
一仕事終わった男達はさらに酒を頼み、話が弾む。職場の話、女の話、一番は馬の話だった。
「この前のヴェルメイユ賞は面白かった。ガリコヴァは良い走りだった」
「ムーランドロンシャン賞も良かったぞ。ラジサマンは惜しかったが、次のダニエルウィルデンシュタイン賞に期待出来る」
「フォア賞は意外だったな。日本馬のワンツーとは」
「G2ならそういうこともある」
「今年も日本は凱旋門賞に3頭挑戦か。しかも1頭はあのダリアの血脈とは驚いた」
客の中でも一番年配の老人がパイプをふかして昔を思い出すように遠い目をする。
「あーあの黒い馬か。イギリスを暴れ回ったのは痛快だったよ」
老人の口にするダリアとは、フランスが誇る1970年代の名牝馬の事だ。フランスだけでなく、イギリス、アメリカと遠征を繰り返して、牝馬ながらG1を十勝した名馬の中の名馬と謳われた。
勝利したレースの中にはイギリスのKG6&QEステークスも入っている。それも連覇を成し遂げていた。
そのダリアの血を受け継いだのが日本馬のアパオシャだった。
古い競馬ファンの中には当時を懐かしみ、同じ牝馬でKG6&QEステークスを勝利した血族のアパオシャを、≪ダリアの再来≫と呼んで応援する者もいる。
さらに、もう一つ血に依る人気が高い理由がある。
アパオシャには現在のヨーロッパの有力競走馬にほぼ入っているノーザンダンサーの血が一滴も入っていない。
同じ日本から来たナカヤマフェスタとヒルノダムールの父系にあたる、主流血統のサンデーサイレンスの血も持たない。非常に特異な血とマイノリティー性を愉快と感じる者は一定数居る。
今年の凱旋門賞ウィークの各レースに出走する馬も、ノーザンダンサーの血が入っている馬ばかり。おそらく血の入っていない馬は片手で数えられる程度だろう。
強い馬、勝てる馬を作るために強い馬の血を入れるのは分かる。しかしそんな飽和した血の現状に飽きている者も多い。
だからこそ主流から外れた希少性に、価値を見出す者はいるわけだ。それが自分達に関わりの深い馬の子孫となれば、余計に親近感を抱くのだろう。
「しかもあちらの女王が大のお気に入りだから、エセ紳士共の面目は丸つぶれだ」
酒の入った男達は上機嫌に、仲の悪い隣国の四枚舌の詐欺師が歯噛みする姿を想像して笑う。
一ヵ月前のイギリス女王が日本の馬を友扱いした話はヨーロッパ中に知れ渡っている。おかげでフランスでのアパオシャの人気は意外と高い。
しかもアパオシャの馬主南丸は今年得たレース賞金の多くを、祖国の大地震で不幸に遭った人々に寄付する旨を公言している。
通信技術が発達した現代では、あの大災害の凄惨な光景を世界中の人間が目にするようになった。
せっかく得た富を躊躇せず苦しむ者に分け与える奉仕精神は、キリスト教が根差すヨーロッパ社会では高く評価される。
そうした経緯から、フランス国民はアパオシャに好意的な目を向けて応援している者も多い。
それはそれとして、自分が賭けた馬や、お気に入りの馬を応援するのがフランス人の大多数だろう。勝てば祝福ぐらいはするが。
どちらにせよレースは一番速くて強い馬が勝つ。それを見て予想するのが楽しいから、男達は競馬に魅入られている。
酒を飲み、どの馬が勝つかを熱く語るのは世界共通の楽しみだった。
運命の凱旋門賞まであと一ヵ月。