オグリの娘 ~畜生ダービー~   作:ウヅキ

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 今回も感想数が多くて返信は出来ませんので、この場を借りてお礼申し上げます。
 やはり凱旋門賞は反応が大きいですね。
 日本ダービーに続いて二つ目の山場を越えた感があります。
 ですが本作はまだまだ続きます。読者の皆様はもうしばらくお付き合いください。




第42話 選択権

 

 

 美景ナツは農業高校に通う学生である。

 部活は馬術部に所属していて、毎日部の馬の世話のために朝は五時に起きている。

 学校の敷地内での寮生活のため、通学時間がほぼ無いのが救いだと思う。

 

「ふあー。昨日はあんまり寝れなかったなぁ」

 

 いつもはもっと早く寝ているが、昨日はどうしても気になる事があって寝付けなかった。

 寝不足は作業のミスが増えるから出来るだけ寝ろと、家族から教えられているのに失敗した。

 特に今は学園祭の準備があるから、疲れを残すのは良くない。

 ナツが考え事をしながら歩いていると、別方向から名を呼ばれた。

 

「おはよう、美景。昨日はお疲れー」

 

「うん、おはよう八剣君。昨日の新人戦はお互い頑張ったね」

 

 クラスメイトで同じ馬術部の八剣は、早朝の寒さに震えながらナツに挨拶する。

 昨日の日曜は高校馬術の大会があり、二人も日頃の練習成果を見せる舞台に立った。

 結果は二人とも入賞を果たした。優勝こそ出来なかったが、まずまずの結果を残したと言える。まして八剣は高校から家畜に接点を持ち、馬に乗ったのは今年の四月から。それで入賞まで行けたのは、本人の努力が大きかった。

 

「馬術部の新人戦も終わったし、後は学園祭が終われば一息吐けるよ」

 

「そうだね。後は学園祭だけ。それが終わったら……あっ、そういえばイッちゃんは今週に野球部の秋県大会だった」

 

「夏大会は惜しかったよな。次は頑張って優勝してほしいよ」

 

 二人は簡単な話題を膨らませながら馬術部の厩舎に向かった。

 

 馬術部には他の部員も段々と集まり、協力して馬糞集めや餌やりをする。

 今日は馬達も昨日の大会で疲れているから練習は休み。代わりに学園祭の出し物の準備に追われた。

 

 寮の朝食の30分前に、部の顧問の大鳥に言われて作業を中断した。

 

「ではまた放課後に作業を再開しましょう」

 

「「「お疲れさまでした」」」

 

「あーそうそう、美景さんに渡しておくものがあります。おそらく、今最も欲しいものだと思います」

 

「えっ?あ、ありがとうございます」

 

 ニコニコしている顧問に、一枚の紙切れを手渡されたナツは戸惑いながら紙を覗き込み、目を見開いて喜びの絶叫を挙げた。

 

「いやったーーーーー!!!やったよっ!!黒子がっ!!八剣君、黒子が勝ったよーー!!」

 

「ええーー!?」

 

 隣に居た八剣は突然抱き着いて来たナツに驚き、思考が停止した。

 

「ちょ、ちょっとナツ!?落ち着きなって」

 

「うわっ、お前らそういう仲だったのかよ」

 

「これはこれでアリか」

 

 他の部員の様々な反応の中、ナツはたっぷり20秒は友人の男の娘に抱き着いてから我に返って、顔を真っ赤にした。抱き着かれた八剣は、しばらく川岸で見知らぬ老人と世間話に興じていた。

 落ち着いたナツは部員から、なぜそんなにハジけたのか問われて、顧問に貰った紙をみんなに見せる。

 

「『第90回凱旋門賞優勝は≪太陽の神馬≫アパオシャ!!』――――これって美景の家の馬か」

 

 馬術部でも関心のあったレースの結末に、部員達は一様に驚きの声を上げた。

 

 

 

 

  ≪神馬≫アパオシャが凱旋門賞を日本馬で初優勝!!

 

 

 10月2日16:15にフランス、パリロンシャン競馬場で行われた記念すべき第90回凱旋門賞は、日本のアパオシャ(牝4)が二着デインドリーム(牝3)に二馬身差をつけて優勝した。勝ち時計は2:24.05のレコード。欧州馬以外での凱旋門賞勝利は創設以来初。

 今年は5戦5勝で無敗。G1勝利は通算7勝と、シンボリルドルフ等の日本記録タイ。

 騎手の和多流次氏は「騎手を続けてこんなに嬉しい事は無い。アパオシャは完璧な走りを見せてくれました。この馬の背で走れる僕は世界一幸せな騎手です」号泣したままコメント。

「全ては馬のおかげです。中島厩舎にとって、いえ日本にとってもこの子(アパオシャ)は神様みたいな馬です。胸を張って親父(中島調教師)に勝利を報告出来ます」調教師代理の中島遼太調教助手。

 

 レースは序盤からアパオシャが仕掛けて、後続集団を大きく引き離して先頭を走る。途中15番のテストステロンと10番のトレジャービーチに先頭を奪われたが、終盤で二頭が力尽きた後に再び先頭に立つ。

 最終直線で後続がスパートをかけて差を縮めても、先頭のまま着実にゴールを目指して二馬身離して逃げ切った。

 

 六月から海外遠征してゴールドカップ(英)、KG6&QEステークス(英)、凱旋門賞(仏)と海外G1三連勝。

 KG6&QEステークスと凱旋門賞同年勝利はリボー、ミルリーフ(ミホノブルボン、イナリワンの父父)、ダンシングブレーヴ、ラムタラに次いで五頭目。牝馬では初。

 関係者筋の話と過去の受賞馬の成績との比較から、日本のJRA賞に相当する11月発表のヨーロッパ・カルティエ賞の受賞はほぼ確実と言われている。

 

 同レースに出走した日本馬、ヒルノダムールは4着、ナカヤマフェスタは7着だった。

 

 

 

 ≪競馬フリークWEB≫

 

 

 

 

 ゴール板をバックに気迫の籠った走りを見せるアパオシャの、画像付き速報ニュースを読み終えた馬術部員は沸き上がった。

 彼等も末席ながら馬に関わる者として、日本を代表して世界最高のレースに挑んだ馬の勝利は誇らしい。それが同じ部の子の家から出た馬となれば、一層の喜びになった。

 大鳥は喜ぶ教え子達を菩薩のような穏やかな笑みで見守る。

 

「いやはや、まさか凱旋門賞を勝つ馬が教え子の牧場から出るとは思いませんでした。私も昨夜は年甲斐もなく身が震えました」

 

「先生はリアルタイムで見てたんですか。いいなー」

 

「よければ録画したレースを昼休みにでも視聴覚室で見ますか?」

 

 未だ三途の川の岸に居る八剣以外の部員達は一斉に手を挙げた。

 

 

 その日は朝からナツは上機嫌だった。クラスメイトから理由を聞かれて、凱旋門賞の事を話せば大抵は納得した。

 家が隣で幼馴染の的場一郎も話を聞いて、普段の仏頂面を完全に崩して両の拳を高く上げた。彼にとってもそれほどにアパオシャの勝利が嬉しかった。

 そしてクラスメイトの誰かが羨んだ。

 

「すげーなー美景の家。外国のレースは勝ったら賞金たんまり出るんだろ?」

 

「うちには全然入ってこないよ。生まれた馬がレースで勝っても、賞金は馬主さんや騎手さんの物だから。国内レースを勝ったら、JRAが少しお金出してくれるけどね」

 

「なんだぁ。世の中そんなに上手くいかないのか」

 

「でもそのアパオシャの兄弟が居たら、凄く高値で買われるんでしょ?」

 

「多分そうだと思う。弟と妹は高く売れたから爺ちゃん達も喜んでた」

 

「羨ましいなー。うちもそんな高く売れる馬が居たら借金一気に返せるのに」

 

 クラスメイトの一人が自分の家の資産と比較して嘆いた。

 それを期に、クラスの三割ぐらいの生徒が同じような悩みを口々に吐き出す。

 事業というのは拡大しようとすると資金が必要になる。ならば金のある所から借りるわけだが、すぐに返せるはずがない。こと農業や畜産業は何年もかけて、商品を育てなければならない。その間に計画通り利益が出せず利息が膨らんだり、買った家畜が病気などで一気に死んだら、その時点で破産を考えるぐらい先を読むのが難しい。

 下手をしなくても数十年かけて数世代を跨いで、少しずつ返済するような気の長く、頭の痛い話である。

 だからこそ、ナツのように一気に金が入ってくる話が羨ましくて仕方がない。

 

「なあ、馬ってそんなに高く売れるの?」

 

 何気なく疑問を口にした八剣に、馬に詳しいクラスメイトが軽く教える。

 

「ピンキリで安けりゃ一頭百万円。凱旋門賞馬の兄弟なら幼駒でも、1億を超える事もザラだぞ」

 

「はぁ!?1億って――――じゃあ、美景の家にいた仔馬のネコ太郎もそれぐらいするのかよ!?」

 

 今年の夏休みに美景牧場に住み込みのバイトをした八剣は、産まれて数ヵ月の人懐っこい小さな馬――――マヤノトップガン産駒ウミノマチ11幼名ネコ太郎――――が札束の塊と知って驚愕する。

 

「多分するんじゃないかなー。黒子の弟でネコ太郎の兄のクーは去年競りに出したら、二冠馬の弟って評価で4000万円だったから」

 

「あー俺もここ卒業したら、実家継いで馬に手を出すかなー」

 

「やめとけやめとけ。食肉用ならともかく、競走馬はリスク滅茶苦茶高いんだぞ。一攫千金狙って散財しまくって、倒産する有力牧場だって結構多いからな」

 

「有力な牝馬を沢山仕入れて高い種牡馬を種付けなんてやってたら、10億円やそこらあっという間に融ける業界よ。儲けようなんて思って手を出さない方が良いわ」

 

 楽観的に馬生産に手を出そうとした同級生を、比較的業界に詳しい別のクラスメイトが止める。

 零細の美景牧場から、凱旋門賞勝利のG1七冠馬が出たのは完全に運の領域だ。安易に真似など出来る筈がない。

 競走馬の生産とは、実質数千万円払って一等賞金10億円の宝くじを買うようなものだ。当たれば数十倍の売り上げが見込めるが、当たる率はかなり低い。正直割に合わない事業である。

 

「1億円は大金には違いないけど、事業拡大で新型のハーヴェスターを買ったり牛舎を新築でもしたら、あっという間に無くなる額よね。ナツはどうするの?」

 

「どうするもなにも、お金は爺ちゃんや父さんが使い道を考えるから、私は分からないよ」

 

「貴女は一人娘で、将来は家の牧場を継がなきゃいけない立場でしょ。いずれ経営者になるんだから、たとえ想像でも大金が入ったらどう使うかを常に考えないとダメよ」

 

 同じ畜産農家のクラスメイトに厳しい事を言われてナツは押し黙る。

 元ある家の資産を引き継いだ後、どのように運営して金を稼ぐか。この手の話はどの畜産家や農家の跡取りに付いて回る。

 クラスの生徒の数割はまず家の借金返済に充てたいと言い、またある者は設備投資して性能の良い農業機械を買う。別の生徒は家で生産した作物を加工して利益率を上げるための工房や加工業務を新規立ち上げしたいと、それぞれ目的を語る。

 そんなクラスメイトを見て、八剣はどこか疎外感を覚えた。

 彼は農家や畜産業出身の家ではない。札幌市内のサラリーマン家庭で育ち、諸事情で全く興味を抱かなかった農業高校を進路に選んだ。

 だから多くのクラスメイトのように実家を継いだり、それに類する進路を持っていない。

 同じような一般家庭出身のクラスメイトも居るが、例えば獣医や将来的に畜産に携わりたいと明確な将来を考えている。

 クラスメイトと比較して、まだ目的を模索している最中という出遅れ感を持っているから、八剣は色々と焦りがあった。

 言い換えれば、どんな選択も出来る自由があるとも言えた。ある意味、もっとも将来性に富んだ存在だろう。

 

 それにクラスメイトも目標や将来の夢があっても、これまでの話のように経済的な悩みや焦りは必ずある。

 質や方向性の違いはあっても、先の事で悩む同じ年の高校生だと気付くのはもう少し先の事だった。

 

 

      □□□□□□□□□□

 

 

 アパオシャが日本馬による初の凱旋門勝利を飾ってから、約半月が経った。

 この間、日本ではこれまで震災により自粛ムードが蔓延していたのが嘘のように連日お祭り騒ぎになり、陰鬱な雰囲気を完全に吹き飛ばした。

 競馬関係者はもとより、日本各地の馬を祭る神社ではアパオシャ勝利の奉納祭が行われた。

 今やアパオシャは父オグリキャップに並ぶ、日本で誰もが知る馬となった。

 

 となれば、人々の関心はアパオシャだけでなく、競馬にも再び向けられた。

 休日には日本各地にある競馬場に人が溢れて、経営の厳しい地方競馬の関係者は嬉しい悲鳴と共に、アパオシャに最大級の感謝をした。

 中でも最も恩恵を受けた地方競馬は笠松競馬場だった。

 元から父オグリキャップを世に送り出した聖地として、競馬ファンにはそれなりに認知されていたものの、時が経つにつれ忘れ去られていた。

 それが昨年のオグリキャップの事故死から、末娘アパオシャの獅子奮迅の活躍により、再び聖地として注目を受けて活気溢れる競馬場に戻りつつあった。

 

 実は笠松競馬場には、地方馬から大出世したオグリキャップの銅像がある。この銅像の隣にアパオシャの像を添える意見が、クラシック三冠馬になった時に持ち上がった。

 幸い、馬主の南丸は岐阜県在住で理解があり、JRAも功労者を称える像ならと、両者は快く設置の許可を出した。

 こうして話は上手く纏まり、大震災の影響で制作の延期を挟みながらも、どうにか銅像は完成して2011年中にお披露目の目途が立った。

 近日中には式典が行われ、日本競馬史に消えない名を刻んだ父娘の銅像は、これから笠松競馬場の新たな名物になり、来場者の目に留まるだろう。

 

 

 そして競馬関係者以外で最もアパオシャの恩恵を受けた者が岐阜県に居る。

 彼はアパオシャのオーナー南丸浩二。ゲームソフト制作会社≪世界一ソフト≫の社長である。

 アパオシャの勝利のたびにメディアに顔を出しているのと、自身の公開プロフィールにも馬主と記載している事から、全国規模で顔と名が売れている。下手をしたら、今のゲーム業界人で最も一般に認知された人間かもしれない。

 南丸に馬を見る目は無い。アパオシャを買ったのも、単に企業人として馬主コミュニティの利用価値を重視した点と、若い頃に憧れたオグリキャップの子というだけ。レースに勝てる馬と思って購入を決めたわけではない。

 よしんば全く勝てなくても、出来る限り面倒を見る覚悟を持って買った。

 それが良い意味で予想を大幅に外してアパオシャは勝ち続け、あれよあれよという間に牝馬初の無敗のクラシック三冠馬どころか、凱旋門賞すら勝利してのけた。

 おかげでどの競馬場に行っても馬主から関係を結びたいと接触してくる。

 本業のゲーム販売も会社の名が売れたおかげで、震災で売り上げが落ちると思われたのに、逆に今年はヨーロッパを中心に売り上げが数倍に跳ね上がったと、営業部が狂喜乱舞している。

 さらに南丸が一番嬉しかったのが、ゲーム業界でも五指に入る老舗メーカーの≪栄光≫が業務提携を提案した事だろう。

 この≪栄光≫はゲーム業界黎明期から居続ける大先輩。一大歴史シミュレーションシリーズ≪家康の野望≫や競馬シミュレーション≪ウィナーホース≫などを手掛けている。

 自らの会社が業界の重鎮に認められた。その事実が殊の外喜びだった。

 このように我が世の春とばかりに上向きの南丸は忙しくも充実した日々を過ごしていた。

 

 ある日の午後。スポーツ誌のインタビューを終えた南丸は、会社の社長室でパソコンを操作してソフトを起動する。

 その間、記者との話でカラカラに乾いた喉をお茶で潤した。ここ最近はずっと喋りっぱなしで喉が痛い。

 

「――――――お待たせしました南丸オーナー。今日は忙しい中で時間を割いて頂きありがとうございます」

 

 パソコンの画面に映し出されたのは美浦トレセンに居る調教師の大だった。

 

「こんにちは、中島先生。忙しいのは先生の方でしょう?本来なら直接顔を出さねばなりませんが、画面越しで申し訳ありません」

 

 互いに頭を下げる。アパオシャに関わる二人は、共に通常の業務に加えてメディアの取材や、あらゆる人間からの問い合わせで多忙を極めている。

 そんな中では直接顔を合わせるのは難しい。それでもアパオシャの事で話す事は多いので、大は南丸に今回のようにウェブカメラの会話を提案した。

 

「それで先生、アパオシャは今どうしていますか?」

 

「今は中山競馬場の厩舎で過ごしています。あれだけのレースをして空輸をしても、調子を落としていません。相変わらず強い子ですよ」

 

「それは良かった。レースに勝ってくれるのも嬉しいですが、元気でいてくれるのが一番です」

 

「全くです。どんな強い馬でも病気や怪我に悩まされる姿は、我々も見ていて辛いです。―――――さて、本題に入らせてもらいます。今日はアパオシャの今後についてお話ししたかった」

 

 南丸はある程度予想していた案件だったので、驚かずに姿勢を正す。

 海外遠征という一大イベントを終えても、それでアパオシャの競走馬生活が終わったわけではない。その次の目標を決めねばならなかった。

 

「まず最初にお伺いしたい。オーナーはアパオシャを今年で引退させず、来年も走らせますか?」

 

 大の切り出した話は、これまで南丸も幾度となく画面越しの調教師以外から聞かされた。

 ヨーロッパの生産牧場関係者や馬主からは、今年限りで引退するのを前提でアパオシャや、その子供を売って欲しいと言われた。

 日本に帰って来てからも、凱旋門勝利の祝いの言葉の中にそれとなく、馬を売って欲しいと匂わせる言葉があった。

 メディアの取材では露骨に来年の予定を聞いてきて、引退の情報を聞き出そうとしていた。

 そうした者達の思惑は分かる。

 どんな馬も永遠に走れるわけではない。有力な馬なら早々に引退して、その優れた血を早く次代に繋げる事が求められる。

 しかもアパオシャはスターホース≪オグリキャップ≫の唯一の重賞産駒。確実に血を残すには、一年でも早く繁殖牝馬入りさせてほしいと、日本の競馬関係者は願っている。

 同時に周囲から―――例えば自社の社員や近所の人からは、まだまだアパオシャが走るのを見たいとよく言われる。

 日本最多G1勝利記録に並ぶ今、これからどれだけ勝利記録を伸ばせるのか、世間は大きな期待をしている。

 レースを見る者にとっては、馬とは走っている姿が全てだ。その馬の子や孫の活躍を期待する声もあるが、やはり馬自身が見たい声の方が圧倒的に強い。

 だからこそ馬主は大いに悩む。元気なうちに引退させて多くの子を産ませるか、長く活躍させて人々を喜ばせるか。必ずどちらかを選ばなければならなかった。

 その選択は他ならぬ、決定権を持つ馬主の己にしか出来ない仕事だ。

 

「その問いには先生の意見も反映させなければなりません。調教師の目から見て、アパオシャはこれからもレースを走り、そして勝てますか?」

 

「アパオシャは怪我一つ無く、健康そのものです。骨格などに疲労の蓄積も見当たりません。そしてレースに絶対は無いですが、おそらくはこれからも多くのレースを勝つでしょう。むしろアパオシャは、これからがピークです。私はそう見ています」

 

「これからがピークですか?」

 

「はい。人もですが、馬にはそれぞれ個別に肉体の成熟する年があります。早ければ2歳の後半から3歳の半ばで来る馬も居れば、6~7歳のように晩成の馬も居ます。アパオシャの場合は、競走馬の中の平均よりやや遅く、4歳後半~6歳頃までが全盛期ではないかと思います」

 

 大は手近にあるノートにグラフ曲線を描いて、簡単に説明する。

 南丸はその意見に口を挟まない。相手は馬のプロだ。自分より遥かに馬の事を知っている。

 重要なのはそのプロの意見を取り入れて、最終決定権のある自分がどう決断するかだ。

 

「………先生にもう一度お聞きします。アパオシャの体は健康でレースに問題が無いどころか、来年一杯までが最も強い可能性が高いと仰るんですね?」

 

「確実とは言えません。ですが長年馬を見てきた私の目は、そう判断します」

 

 実に悩ましい。一年現役を伸ばす事は、一頭のオグリの孫が減るのに等しく、同時にオグリの娘の立てる偉業がまだまだ積み上がる事を意味する。

 そして南丸を悩ませるのは、東日本大震災。あの忌まわしい大災害さえなければ、天秤はアパオシャの引退に大きく傾いていたと思う。

 もう少しだけアパオシャの走りで、日本の人々に希望の灯を魅せ続けたい。そういう想いが南丸にはあり、未だ心の天秤を揺らしている。

 

 およそ一分間の沈黙の後、大きく息を吐いた南丸は決断を下した。

 

「中島先生、引退は来年末にします。これからもアパオシャをよろしくお願いします」

 

「分かりました。ではまず、有馬記念を勝ちにいきましょう。そして今度こそ無敗で年間を走り抜きましょう」

 

 南丸は回線を切った。

 静かになり、部屋の主は一人天井を見上げて高揚感を隠し切れない。

 

「まだ、あの子の走る姿を見たいんだよ」

 

 か細くなったオグリキャップの血を繋げるのは大事だ。しかし憧れの馬の実子が走り、勝つ姿を見たいという欲求は、それを遥かに勝っていた。

 既に七冠を達成して、おそらく次の有馬記念も勝ち、日本馬として未踏の八冠を戴くだろう。

 それでもなお走る姿が見たい。欲が深いと思うが、この想いだけは我慢したくなかった。

 

 

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