南丸浩二は時々思う。数度訪れたが、美浦トレーニングセンターは遠い。
朝に岐阜を出発して、新幹線を使っても最寄りの駅に着いたのは昼過ぎだ。そこからタクシーを拾って、トレセンに向かっている。
まだまだ還暦には十年近くあっても、1月末日の寒さと合わさって段々と辛さが骨身に染み始めている。
「――――栗東の方が良かったかも」
「ははは、お客さんは関西の馬主さんですか」
移動の疲れからポツリと出たぼやきを、タクシーの運転手に聞かれてしまい笑われる。
「岐阜から来たんですよ。滋賀県の栗東トレセンなら、高速使えば半分以下の時間で着きますから」
「なるほど、確かに。私も長年この辺りでタクシー転がしてるから、毎日色んな県から来る馬主さんを送迎しているんですよ」
「でも、最初の馬を美浦の厩舎で預かってもらって、色々としがらみが出来て、今年も二頭目を預けます」
「それは景気の良い話だ。震災があってどこもかしこも自粛自粛じゃあ、辛気臭くて困る。お客さんみたいな馬主も沢山いるから、儂等も儲かる。良い馬かどうかは知りませんがこれからも頑張ってくださいね」
「ええ、ボチボチやりますよ」
さすがに馬をよく知る運転手も馬主の顔までは把握していないのだろう。あるいは知ってても知らないフリをしているのか。
ほどなくタクシーはトレセンに着き、南丸は入り口で馬主資格証を見せて敷地に入る。
数多くある厩舎の中の一つ、中島厩舎を訪れた。
前もって連絡してあったのですぐに事務所に通してもらえた。
「こんにちは中島先生。今日は時間を頂きありがとうございます」
「いえいえ、遠い所からようこそ。電話で込み入った話があると聞きましたが」
中島は上客に椅子を勧めて自身も座る。事務員が温かいコーヒーを出して、まずは一服。
「ところでアパオシャはどうしていますか?後で顔ぐらいは見るつもりですが」
「相変わらず元気ですよ。美浦に帰って来ても女帝として馬達をよく見ています。うちの厩舎の馬の調整にも付き合ってくれて、あと一年でお別れなのが惜しいです」
「そう言って頂けると馬主として嬉しく思います」
今の言葉に世辞は全く含まれていない。アパオシャは世界最強の馬として職員に大金を運んでくれる上に、そこそこ程度だった中島厩舎の評価を大幅に上げてくれた福の神だ。可能なら来年、再来年も走って欲しいと本気で思っている。
現実はそこまで都合よくいかず、繁殖牝馬としての第二の役目を担ってもらうために引退しなければならない。つくづく惜しいがレース引退は競走馬の宿命だ。
「それで、今日はアパオシャの次のレースの相談でしょうか?」
「本題はそちらになりますが、その前に一つお伝えしておくことがあります。今年こちらに入厩するアパオシャの妹の、ウミノマチ10の名前が決まりました」
「それは良かった。それでどんな名前になりましたか?」
「社内公募で決めた、ヴィンティン(VINTIN)と名付けます」
中島は内心、呼び難いと思いつつも、馬主の手前何も言わなかった。
名前の由来は七福神の弁天で、それを少し崩した名と南丸は説明した。
「縁起の良い名前ですね。レースに勝つには実力もですが幸運なのが一番です」
昨年の秋に、二人で北海道の育成牧場に見に行った時はヤンチャな娘という感じだった。ただ、人の言う事を聞く従順性はそれなりに高いのでデビューは出来る。
あとは競走馬としてどれほどかは、実際に調教してレースに出してみないと何とも言えない。
姉ほどの歴史に残る活躍を期待しないまでも、それなりに勝ってくれるのを期待してしまう。
「妹のことはまだ先ですから、そろそろ姉の方の本題に入りますね。今年のアパオシャのレースでご相談があります」
南丸は鞄から一通の手紙を出す。達筆な英語で書かれた切手の貼られていないエアーメールだった。
中島は封筒に印刷されたイラストが目に入り、幾らか合点がいく。王冠を被ったライオンがユニコーンと共に赤青二色の盾を支えたデザインだった。
去年はイギリス遠征した関係で、このデザインの書類が厩舎にも沢山来たから、漠然と内容が思い浮かぶ。
「これはイギリス王室の競馬担当から、何かの連絡ですか」
「英国女王直筆の手紙です」
「は?何ですって!?」
一国の君主から日本の一個人に手紙が送られるなど、信じられないが南丸の顔を見れば冗談の類でないのはすぐ分かる。
「手紙は一旦、日本の外務省に送られた後、外務省と農林水産省の職員が直接家にまで持ってきました」
「それで内容は?」
「要約すると『去年はとても楽しかった。今年でアパオシャは引退と聞いたから、もし機会があれば何時でもいいから、もう一度イギリスに来てレースを走らないか』というレースへのお誘いです」
中島は南丸がわざわざ岐阜から茨城まで足を運ぶ理由が分かった。この件はとてもじゃないが電話で話していい軽い内容じゃない。
そしてなぜ外務省と農林水産省も関わっているかも理解した。
農林水産省はアパオシャを外国に出す時に、検疫を担当するから必ず関わる。それにJRAは実質的に農林水産省の管轄になる。
さらに去年は日本全体が女王だけでなく、イギリス国民にも大震災復興義援金という形で大きな助けを受けている。こちらは外務省の分野だ。
既に馬主の南丸一個人だけでなく、日本全体が関わってくる話になっていた。
「ある意味、アパオシャは日本代表ですか。そちらの話も困ったものです」
「そちらの話?」
「あっ、ええ。ちょっとアパオシャに関係のある話ですが、優先順位はこちらの方が下ですから、まずはイギリスの方を決めてからお話しします」
「ふむ、分かりました。話を戻します。それで外務省の職員は私に判断を委ねると口で言っていましたが、とにかく出てくれと懇願するような目をしていました。一応農林水産省の職員は馬の体調もあるから、強制はしないと保証してくれましたが」
裏を返せば、不慮の事態を招かないように出るレースのスケジュール調整を万全にして、可能な限り出ろと命令しているに等しい。
普通なら馬主の権利を侵害しているに等しいが、相手が英国女王では日本の役人程度に文句を言ってもどうにもならない。
そして南丸には女王のお誘いを断れる胆力は無い。中島も既に諦めの境地に達している。
「イギリスには女王陛下をはじめイギリス国民から、数十億の義援金を出してもらっています。断るわけにはいきません」
「分りました、ではどのレースに出るかを決めましょう。さすがに凱旋門賞馬がG2程度でお茶を濁すのは無理なので、G1かつアパオシャの適性に合うレースを選びましょう」
中島は書棚からイギリスのG1レースの資料を出して、テーブルの上に広げる。
「アパオシャの距離適性なら最低でも2400mは欲しいです。やはり一番の候補は昨年も勝利したゴールドカップかKG6&QESでしょうか」
「確かに実績のあるレースを連覇するのが無難です」
悩ましい所ではある。一度勝利経験のあるレースなら勝つ確率も高い。しかし昨年と違い、レースに勝って被災した日本に希望を届ける意義は少々薄まっている。
南丸は少し冒険してもいいのではないかと、チャレンジ精神が強くなっていた。資料を見てこれはと思うレースに目を留める。
「―――――例えばこれはどうでしょう、ヨーク競馬場で8月下旬に開かれる、3歳以上牝馬の約2400mヨークシャーオークス」
「そういえばアパオシャはまだ一度も牝馬限定レースには出た事がありませんね。そちらも良いですが、こちらも悪くないです。6月初旬にある4歳以上2420mのコロネーションカップ。場所は競馬の聖地エプソムダウンズ競馬場」
「うーむ、そちらも素晴らしいレースですね」
中島の見せた資料のレースにも心惹かれる。どちらも栄誉あるレースだけに即決とはいかない。
「私見ですが、アパオシャには起伏に乏しい地形のヨーク競馬場よりは、勾配40mの坂のある過酷な地形のエプソムダウンズ競馬場のほうが合っていると思います。無論、昨年経験のあるアスコットレース競馬場かつ、超長距離のゴールドカップが最良かもしれませんが」
調教師の中島は選択をある程度絞り込み、レースの情報を分かりやすく教えるまでが仕事。どのレースを選ぶかは馬主の権利だ。
南丸は熟考して少し冷めてしまったコーヒーを飲み干して、一息吐いて決断を下した。
「今年は競馬の聖地エプソムで、コロネーションカップに出しましょう!」
色々迷ったが南丸はコロネーションCを走る事にした。決め手は日本馬として初めて聖地エプソムの地を走る栄誉がある事。さらに同競馬場で翌日に行われる伝統ある英国ダービーと、馬齢以外は同条件のレースだから。実質この聖地の2400mレースを勝てれば、アパオシャは英国ダービーにも勝てたと言ってもいいじゃないか。そう思ったからだ。
「分かりました、調整に全力を注ぎます」
「英国にはこちらから連絡しておきます。――――それで、先生の方の困った話とは?」
「実は今年海外遠征する馬がいるから、アパオシャも一緒に走りに行かないかと、ある馬主からそれとなく話がありまして」
「その馬主というのは?」
「≪サンダーレースホース≫の古田代表です」
「それは随分な方からのお声ですね」
サンダーレースホースは日本の馬産関係の一大グループ『社大グループ』に属するレースクラブ。ブエナビスタやオルフェーヴルのように、数多くの重賞馬やG1馬がここの所属である。
南丸も競馬場の馬主席で、代表の古田とは何度か会っている。正直言って、たった二頭しか馬を所有していない木っ端馬主の自分とは釣り合わない。
「それでどの国に、どの馬と一緒に行くと」
「まだ正式に決まっていませんから内密ですが、凱旋門賞に挑戦するオルフェーヴルに同行してほしいと」
二人は遠征する馬に異論は持たなかった。あの金色の暴れん坊は日本の競馬史の中でも最高クラスのポテンシャルを持つ名馬。世界最高のレースに名乗りを挙げるのに何ら不足は無い。
ただ、なぜオルフェーヴルが遠征する時に自分達にわざわざ声をかけるのか、南丸は相手の真意が分からない。
去年のように複数の馬が同じレースのために海外遠征する事はあっても、あくまで独自に出走を決めるのであって、他の馬の陣営を誘う話は耳にしない。
「その古田氏はなぜそんな事を切り出したのでしょうか?」
「推測になりますがよろしいですか?」
「ええ、どうぞ先生」
「可能性としてはオルフェーヴルの帯同馬として、アパオシャを使いたいと思っているかもしれません」
帯同馬とは、海外遠征などを行う競走馬に同行する競走馬のことである。
馬は繊細な性質を持っていて、慣れない土地に行くと寂しがる習性を持っている。そこで帯同馬と共に遠征することでストレスを軽減したり、現地での調教相手も務める事がある。
凱旋門賞に挑戦したエルコンドルパサーやマンハッタンカフェのフランス遠征にも、こうした帯同馬はいた。
さらに年を遡れば、無敗のクラシック三冠馬シンボリルドルフもヨーロッパ遠征時には、シリウスシンボリが帯同馬を務める筈だった。しかし本命のシンボリルドルフが故障して日本に残ったため、単身二年にわたってヨーロッパを転戦する羽目になった。
残念ながら勝利は掴めなかったものの、慣れない異国の地で単身レースに挑み続けた精神は偉大と言ってよい。
「去年海外遠征した時に、一緒に来ていた馬の調子が良かった話が業界に広まっています。その古田氏以外にも探りを入れている者はいました」
「私は競馬界の事情には疎いですが、通常は他の厩舎の馬に帯同馬を頼むものなのですか」
「いえ、通常は同じ馬主の所有馬か同じ厩舎の馬を連れて行くだけです。私も長年競馬に関わっていますが、他の厩舎の馬を使おうとは普通考えません。それだけアパオシャのメンタルケア能力が優れているという証拠なんでしょう」
南丸は昨年末の有馬記念で、オルフェーヴルが途中でレースを止めて失速したのを思い出して納得した。
同時にそこから巻き返してアタマ差2着になった、常識外の身体能力に驚愕している。
「あの気性ではどれだけ実力があっても、大事なレースに挑ませるには不安が残るから、アパオシャを使うと」
「凱旋門賞に勝つために、万全を期したいということでしょう」
自分の馬が褒められるのは良い事かもしれないが、気軽に海外遠征をする事は難しい。
そして良いように使われているような気がしないでもないが、向こうから話を持ち掛けて来た以上、色々と譲歩を引き出せそうな相手でもある。
これから馬主として競馬に関わって行く以上は、今のうちに頼み事を聞いてやって恩を売っておく事も必要かもしれない。
ましてそれが社大グループの構成クラブなら、色々と繋がりが持てる。
「………もう一度フランスに遠征するのは構いません。次は凱旋門賞ではなくカドラン賞でどうでしょうか」
「芝の4000mならアパオシャの独壇場です。反対する理由はありません」
一度走ったロンシャン競馬場の4000mのレース。アパオシャが負ける要素は百に一つも無い。
イギリスのコロネーションCとフランスのカドラン賞。この二つのレースを基準に、二人はアパオシャの今年のレースの予定を決める。
3月24日 G2日経賞(中山・2500m)
4月29日 G1春天皇賞(京都・3200m)
6月02日 G1コロネーションC(エプソム・2420m)
10月07日 G1カドラン賞(ロンシャン・4000m)
11月11日 G1エリザベス女王杯(京都・2200m)
12月23日 G1有馬記念(中山・2500m)
「調教師としては、アパオシャなら最低一ヵ月のインターバルがあれば問題無いと思います。勿論何か不調があったらレースを見合わせますが」
「分かりました。何事も無ければこの予定でいきましょう」
今回の海外遠征は短期滞在なので、昨年のように三ヵ月の隔離期間は無い。
一つだけ二人の間で意見が割れたのが11月のエリザベス女王杯だ。
南丸は出来れば10月28日にフランスで行われる、芝3100mのG1ロワイヤルオーク賞を走らせたかったが、カドラン賞から20日程度の間隔はさすがにアパオシャでも辛いだろうと反対した。
中島は代案として、G1エリザベス女王杯を提示した。
アパオシャは短い距離はあまり得意ではないが、京都競馬場は名物の坂がある。牡馬だろうが捩じ伏せる坂道の申し子のアパオシャなら、レース展開次第で何とかなる。
もう一つの選択としてジャパンカップもあったが、たとえ距離が200m延びてもオルフェーヴルが出てきた場合、かなり苦戦を強いられると思われる。よって牡馬が絶対に出走出来ない牝馬限定レースを選択した。
こうして理詰めで説いて、南丸を納得させた。
実は中島は内心、賞金が安いヨーロッパのレースより、自分や厩舎の連中の取り分が増える日本のG1の方を走らせたかった。無論、そんな事は馬鹿正直に口にしたりはしない。
一仕事終えた二人は何杯目かのコーヒーで一服する。
「実を言うと今年はイギリスに行かないだろうと思って、宝塚記念を想定していたんですよ」
「ははは、それは申し訳ない事をしました」
「いえいえ、英国女王のお招きとあればやむを得ません。今回は短期遠征ですから、留守を息子に任せて私が行きましょうか」
調教師が厩舎を長期間留守にするのは好ましくないが、近年は通信機器が発達して大抵の国でも連絡が付く。一ヵ月ぐらいなら残った息子や助手達が何とか切り盛りしてくれるだろう。
中島は敢えて言わなかったが、年始にかつてのお手馬≪サクラチヨノオー≫を老衰で亡くしたのがまだ少し堪えていた。
去年にも同じく主戦騎手を務めたサクラバクシンオーが逝った。
立て続けにかつての相棒達に先立たれて、少々気が滅入っている。
だからこそ、時には厩舎の経営者という立場を忘れて、一人の競馬関係者として競馬の聖地に行きたい欲求が止められない。
「競馬というのはロマンですね。私も馬主5年目で少し分かってきました」
「私は調教師の定年まであと6年ですが、もう一生、馬からは離れられませんよ」
中島の自嘲染みた笑みも、今の南丸なら少しは共感する。一生付き合っても構わないぐらいに魅力的な存在なのが馬だと、最近分かってきた。
大雑把だが今年一年のアパオシャの予定を決めて区切りがついた南丸は、本物のアパオシャに会いに行った。
レース以外ではあまり会う事の無いオーナーの顔に、アパオシャはちょっと驚いたが特に厭な顔はせず、果物やニンジンを貰って相手が満足するまで撫でさせてやった。
さらに、もうすぐ妹が厩舎に来ると伝えられると、今度はかなり驚きつつ上機嫌になった。
また一つ楽しみが増えたアパオシャは、しばらくウキウキしながら中島厩舎の馬達をシゴキまくって恐れられた。