吾輩は競走馬である。決して荷物ではない。
数日前に春の天皇賞を連覇して、次のレースのために身体を休めていたら、去年と同じように他の馬と隔離された。
隔離期間の長さと、その後に飛行場に連れて行かれて箱詰めされたので、また海外遠征かと予想がついた。
そのまま他の馬を待たずに飛行機に運ばれて、箱の中で離陸を待つ。
今は5月10日前後。去年に比べて半月は移動時期が早いのは気になるが、その分だけ現地でトレーニングが積めると思えば悪くない。
次もきっと走るのはイギリスのアスコットだろう。また女王陛下の前で走るのを楽しみにしている。
「話に聞いていた通り本当に落ち着いているどころか、飛行機に乗るのが楽しいのか。全く変わった馬だよ、お前は」
呆れの込められた視線を向けて、中島のオッサンが俺の顔を撫でる。
飛行機が楽しみじゃないぞ。むしろこの狭い場所で丸一日以上動けないのは嫌なぐらいだ。
しかし今年はアンタが同行するとはな。去年は息子の方だったのに厩舎の責任者が良いのかよ。
それと去年は来なかった厩務員の松井も、今年はイギリスに同行する。一年かけて英語を勉強したらしい。
「確かカレンチャンが去年の香港遠征の時に、一日機内待機で缶詰にされても平気だったと聞いた。お前も大丈夫かもな」
それは俺も嫌だぞ。動けないのを我慢しているだけで本当は動きたいの。
箱詰めされて金属製の鎖に繋がれて荷物みたいに扱われるのは結構腹立つんだぜ。
俺の非難の感情の込められた視線に気づいたオッサンは、武骨な手で宥めるように頬を撫でる。ふん、そんな程度で騙されんぞ。オッサンに当たっても仕方が無いから、大人しくしているけど。
フライト時間は一日近い。それまでは暇だから飯食って水飲んで寝ているよ。
機内で身動きが取れずに箱入り娘の気分を味わい、丸一日経ってようやく地面に降ろしてもらえた。
去年と同じ空港の倉庫で降ろされて、箱と鎖から解放される。固まった体を伸ばしたり曲げて筋肉をほぐす。
「お疲れさん。お前は機内で暴れないし、餌もちゃんと食ってくれるから助かるよ」
松井は俺の様子をこまめに見ていたから気が休まらなかっただろ?今日はホテルでゆっくり休めよ。
さて、次は移動のためのトラック待ちと思ったら、倉庫で背広姿の数人が待ち構えていた。
「遠路はるばる御足労いただき感謝します。イングランドにようこそ、ミスター中島」
「女王陛下のお招きとあれば断るわけにはまいりません。これからしばらくお世話になります」
背広の一人とオッサンが握手を交わす。ほー、今回は女王様からのお呼ばれのレースだったか。去年はこの国のG1レース二度勝って、一応世界一の馬になったからご招待を受けたって事ね。
背広姿の王室事務官は無線でどこかに連絡を入れて、暫くするとトレーラーと数台のセダンが倉庫前に集結した。
トレーラーは去年よりかなり豪華になっている。中には白衣姿の獣医が既に待機していた。ははぁ、VIP待遇ってことか。
扱いが悪いよりずっといいから文句は無い。オッサンも車に乗り込み、寝床へと運ばれてた。
イギリスに来てから大体10日は経った。厩舎で隔離期間を過ごしてから予定通りトレーニングを始めた。
厩舎は去年より明らかにグレードアップしていて、馬房の広さが倍はある。寝藁は普段使っている物よりフカフカで寝心地も良い。
現地の厩務員は24時間体制でこちらの面倒を見てくれる。
飯の飼葉は去年より味が良く、壁に吊るされた岩塩も質が良い。ただし、相変わらずイギリスの野菜はいまいちだから、ここだけは日本から持ち込んだ味噌と醤油の出番だった。
飯を食った後は広大な練習コースを黙々と走る。背にはいつも乗せていた寮太ではなく、父親のオッサンが騎手を務めた。
「よーし、いいぞアパオシャ!もっと攻めて走るんだ!」
デスクワークで錆び付いていると思ったら、現役の和多と大きな差が無い。こちらの動きを瞬時に読み取って巧みに体重移動をする様は、元騎手の面目躍如というところか。
現役時代に馬のバクシさんやクラチヨさんと共に、G1を勝ち抜いたのは伊達じゃないな。
きっちり仕事してくれるなら、こちらが言うべき事は無い。
ただ、ちょっと気になるのがトレーニング内容だ。
登坂の往復を繰り返すのは分かる。イギリスのレース場は日本より遥かに坂が多いタフなコースだから、登坂トレーニングを重視するのは納得する。
問題は平地の方で、ここ数日は常に左回りのコーナーを走らされている。
しかもトレーニング内容が明らかに中距離を想定した長さだぞ。まさか左回りの中距離レースを走らせるつもりかよ。
アスコットレース場は右回りのレースだから除外。前世で走った事のあるグッドウッドは左右両方を一つのレースで同時に走らせる変則八の字コースで、左に偏らせたトレーニングは不適切。
あとはイギリス国内で左回りの中距離G1レースを開催しているのは、ヨークレース場とエプソムダウンズレース場ぐらいか。
知識である程度知っているが、どちらも前世では走った事の無いレース場。
確かヨークの方はイギリスのレース場の中では珍しく平坦なレース場だったな。
となるとエプソムダウンズの方が可能性が高いか。あそこはスタートから高低差40m近い丘を駆け上がり、後半は一気に20m以上の下り坂を駆け降りる超タフなコースだった。もし走るなら坂道トレーニングは必須になる。
というか、もうそろそろあの英国ダービーとオークスの時期だな。
俺は歳が違うから候補から除外して――――――もしかしてコロネーションカップの方に出るのか?
やれやれ、また2400mの中距離かい。何でステイヤーに中距離を走らせるのかねえ。去年と一緒のゴールドカップで良いじゃないか。
不幸中の幸いは、登りと下りの極端な坂のあるタフなコースを走る事か。そこは俺の資質を見極めてレース場を選択したのかな。
それでも不利な状況下で勝つ事を目指しているわけじゃないし、楽しいとは思わないぞ。
あくまで自分が最高の力を発揮出来る環境で、手ごわい相手と真っ向から戦って勝つのが好きなの。わざわざハンディキャップマッチなんて嫌だぞ。
いい加減抗議したいんだけど、畜生の身じゃ言葉が伝わらない。
かと言って気に食わないから無気力レースなんて、アスリートとして絶対に容認しない。
結局はオッサンやオーナー達に言われるままに走るしかないわけだ。
人の気も知らないで、上で年甲斐もなくはしゃいでいるオッサンを振り落としてやりたいよ。
あぁ、俺もう人じゃなかった。悲しいなぁ。
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アパオシャがイギリスで黙々とトレーニングに励んでいる同時刻の日本。
北海道にある美景牧場の馬用の厩舎で、前社長の秋隆がじっと馬達の検査を見守っている。
獣医師がビニール製の長手袋をはめて、機材を手に牝馬の直腸に腕を肩口まで突っ込む。
助手がパソコンを操作して、記録を取りつつ胎内の様子を確認した。牧場には3頭の牝馬がいるので、これを全頭行った。
これはエコー診断。腸壁越しに音波で馬が受胎しているか確かめる検査だ。種付けした馬は必ずこうして受胎しているかを確認している。
今日は検査の二回目だった。
検査を終えた医師が記録を確認して、何度か頷いた。
「今年はどうですかな?」
「ええ、良い調子ですよ。美景さんの所は3頭全て受胎を再確認しました。これで何事も無く育てば、春には出産しますよ」
良い検査結果を聞いて、秋隆はホッとした。毎回種付けからこの検査結果を聞くまで、夜はなかなか寝付けない。
今年はその心配が当面無くなり、秋隆は馬達をそれぞれ褒めた。
「いやぁ、去年はマチが不受胎だったから心配してましたが一安心だべ」
「ただ、この子は今年15歳です。受胎率も落ちてくる頃ですから、そろそろ繁殖牝馬の引退も考えないといけませんよ」
「多分今回でお役御免でしょう。今までよく頑張ってくれたなマチ。先生、こいつの脚を治してくれて本当に感謝してます」
「救える命があれば私達医者は救いますよ。まさか牛が本業の私がG1馬の母を診る事になるとは思いませんでしたが」
獣医は笑って後始末をして、正式な診断書は後日郵送すると言って帰った。
一日の仕事を終えた美景一家はいつも通り夕食を共に囲む。
「親父、馬達の受胎はどうだった?特にマチは?」
「全頭問題無しだべ。これで少しは肩の荷が下りた」
秋隆が自分の肩をポンポン叩いてほぐし、家族全員がほっと一息吐いた。
受胎しなければ種付け料は全額返金される事も多いが、別の都合の良い牡馬が見つからない事もあったら、その時は一年丸ごと空胎で無駄飯食らいになる。子供も生まれないとなれば、単なる浪費でしかない。特に最も高値が付くウミノマチが二年続けて空胎になり、子が生まれないのは損失が大きい。
今後流産する可能性もあるにはあるが、ひとまず心配せずに過ごせると分かって食卓に安堵の空気が生まれた。
「来年はどんな子が産まれるかねぇ。今までの子みたいにレースに勝ってくれたらいいっしょ」
「マチの次の子はどの馬の種だったかしら?」
「キングヘイローだ。G1馬も出している割には種付け料が安かった」
晴彦の言う通り、キングヘイローは本馬もG1馬かつ、牝馬G1二勝を挙げたカワカミプリンセスを始めとして、何頭もの重賞馬を産駒に持つ優秀な種牡馬だった。
それでも良血統の割に今年の種付け料が150万円と、比較的割安だったのがウミノマチの交配相手に選んだ理由だ。
マチの子が高値で売れて経済的に余裕があっても、未だ経済感覚が追いついておらず、サンデーサイレンス系の高額の種付け料には及び腰になってしまう。
とはいえ明らかに終わった化石血統のオグリキャップからアパオシャのような怪物が生まれるのだから、一概に高い種を付ければ良い馬が産まれる保証も無い。
そんなわけで今回も、この辺りのお得な種を選んでしまう。
最近は従業員も雇って徐々に事業を拡大しているから、少し冒険をしても良いと思っても、経済感覚を変えるのは中々難しい。
現在従業員は二人雇っていて、一人は娘の高校の部活の先輩。彼は高校卒業を控えていても就職先が決まらず困っていた。
そこに同じく牛を増やして従業員を増やそうと思っていた美景牧場が試しに雇ってみた。
今のところ働きは真面目で器用、家畜の世話にも慣れているから即戦力で重宝している。これなら正規雇用でも問題無いと判断していた。
「他の子も無事に産まれて育ってほしいねえ。ナツも大学行きたいって言ってるから、お金はあった方がいいっしょ」
「あいつも将来は家を継いで、馬をもう少し増やしたいと言っている。俺達がもう少し頑張って馬の厩舎も拡張ぐらいはしておきたい」
今年の夏のセレクトセールに出すネコ太郎が予定通りイギリス王室に買われたら、結構な額が自分達の懐に入って来るだろう。
そうなればもっと牧場の設備投資に回せるし、さらに従業員も増やして負担を減らせる。
さらに来年は黒子=アパオシャが帰ってくるから、警備を強化する必要がある。今飼っている番犬だけでなく、いずれ警備員なども雇わねばならないだろう。
「珍しくナツが自分の要望を強く言ったしなぁ。八剣くんのおかげか?」
「あの子がナツの婿に来てくれるなら、あたしは応援するっしょ」
「私もあの子は真面目で働き者だから歓迎するわ」
女衆が口々に、時々家に連れてくる高校の同級生の少年を、娘のナツの婿に推す。父の秋隆も好意的に見ているから、晴彦は面白くない。
たとえ成績の悪いナツに勉強を教えて、大学受験を必死にサポートしてくれる恩を感じていてもだ。
こればっかりは一人娘を持つ男親のエゴだから理屈ではない。
実際はナツはまだ高校二年。大学卒業までに、どうなるか分かった物ではない。
………本気でうちの娘に惚れて結婚を考えているなら、自分を倒した暁には少しは認めてやっても良いかもしれない。
今年も夏休みはうちで住み込みのアルバイトをしながら娘に勉強を教えると連絡があった。その時にはたっぷりと絞って酪農家として鍛えてやろう。