2012年10月7日 日曜日 晴 フランス・パリロンシャン競馬場
前日の雨も上がり、競馬場付近は年に一度の大イベントを一目見ようと集まった、世界各国の競馬ファン達でごった返している。
ファン達はそれぞれ贔屓の馬の話題で盛り上がり、同時にライバルとなる馬を応援する別のファン集団との諍いも起きている。
今年は4000mのカドラン賞を走るアパオシャも、『大逃げ』による去年の劇的な凱旋門賞勝利の記憶が真新しく、フランスに固定のファンが出来ていた。
そうしたヨーロッパのファン連中を尻目に、ツアーを組んでやって来た日本人のファン達は、お行儀よく集団行動をしてロンシャン競馬場に入っていく。
昨年にも増して、今年は日本人客が多い。
スターホースのアパオシャを目当てに、はるばる日本から来た者も多いが、実は凱旋門賞に挑戦するオルフェーヴルも中々の人気者だ。
2011年のクラシック三冠馬であり、その破天荒な気性は見る者を退屈させない。
同じクラシック三冠のアパオシャに比べて負けは多くとも、その負けもまた愛嬌として受け入れられている。
それに彼もアパオシャ同様に、日本競馬界が長年かけて磨き続けた内国産の血を受け継ぐ馬である。
父は善戦マンと評されたG1香港ヴァース優勝馬ステイゴールド。さらにその父は言わずと知れた、あの大種牡馬サンデーサイレンス。
そこまでは現在の日本競馬界では、さして珍しい血統ではない。重要なのは母系の血脈である。
オルフェーヴルの母には≪最強のステイヤー≫と称された四冠馬メジロマックイーンの血が流れている。
日本から来たファンの中には、惜しまれながら競馬界を去った、かつてメジロ牧場で働いていた馬産関係者も何人かいる。
長い歴史に幕を引いたメジロの系譜が、ヨーロッパ最高のレースを走るのを一目見たい。その一心で彼等はここに居る。
≪神馬≫シンザンの血を持つアパオシャと同様、オルフェーヴルも日本競馬屈指のオーナーブリーダーのメジロの血を引き継いだ、紛れもなく日本を代表する馬と言える。
実は日本馬のオルフェーヴルも、現地フランスでそれなりに人気がある。彼の父系にはフランスG1のジャック・ル・マロワ賞を勝利して、日本に種牡馬として迎えられたディクタスがいる。
さらに母系には、1974年に創設したばかりの重賞オペラ賞で初勝利を飾った牝馬シェリルがいる。
このフランス馬シェリルもまた日本に渡り、天皇賞馬メジロアサマとの子≪天皇賞馬≫メジロティターンを産み、さらにその産駒は≪春・天皇賞連覇≫を成したメジロマックイーン。メジロだけでなく日本競馬史にとっても、シェリルは重要な価値を持つ馬であった。
どちらも故郷フランスでは人気のある馬とは言えなかったが、遠い異国から子孫が帰って来たとなれば、往年のファンの喜びは大きい。
オルフェーヴル自身も先月のG2フォア賞でG1馬等を退けて勝利しているため、凱旋門賞の優勝候補として人気が高かった。
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吾輩は競走馬である。これから世界最高のレース(前座だが)に乗り込む。と言っても晴れ舞台には、まだ少し時間がある。
前世ではカドラン賞は土曜日、凱旋門賞は日曜日に予定されていたが、この時代は同日開催だった。そういうわけで、フェブとヴェンテも一緒に居る。
二頭は今のところ落ち着いている。前日までは出来るだけの事はした。後はこいつらのやる気次第だな。
近くの馬房から引っ切り無しに馬が連れて行かれては、疲れた様子で帰ってくる。
帰って来た馬達はピカピカになっているから、レース後に体を洗ったのだろう。という事は予想通り昨日の雨で芝が相当濡れて、剥がれて泥だらけのコンディションと思った方が良い。
これは難しいレースになるかもしれないな。
しばらくすると、フェブとヴェンテが先に馬房から出された。アイツ等の方が先だったか。
俺は馬房から顔を突き出してフェブに話しかける。
【朝に俺が言った事は覚えているか?】
【………あめでぬれているからいつもよりつかれる。すべりやすいからきをつける】
【もう一つは?】
【――――――――】
坊やは不機嫌そうにそっぽ向いてしまったが、視線だけはこちらをチラチラ窺っている。まったく、この小僧は。
【ほら、忘れていないだろう。一番大事な事だぞ】
【―――ちっ、うえにのってるやつのいうことをきく。これでいいだろ】
【よし、それでいい。お前の相棒を心から信じろ。教えた事をちゃんと守れば、お前より速い奴は居ない。俺もお前に勝てない】
【けっ、うるさいメスめ】
【勝って戻ってこい。それと、転ぶなよ】
【――――――おう】
フェブはこちらを見ずに、返事だけして連れて行かれる。ヴェンテにも一声かけて送り出した。
二頭を送り出してから無言で待ち続ける。
しばし経ってから、馬房にまでスタンドの大歓声が届いた。その中には日本人と発音の異なるオルフェーヴルの名を讃える声が含まれている。
ふう、上手くいったか。あれだけ面倒見たんだから、無様に負けてたら仕置きぐらいは考えていたが無駄だったな。
これで日本の馬が凱旋門賞二連覇か。結構な快挙じゃないの。
馬房に戻って来た二頭は洗われてピカピカになっていた。
フェブは俺の馬房の前で立ち止まって、上機嫌で偉そうに馬房に顔を突っ込んだ。
【オレがいちばんはやかった!】
【知ってる。お前は大した奴だよ。ヴェンテもお疲れさん】
【はー、きょうはつかれた】
騒ぎ立てる小僧と疲れ果てたロートル、結果は二極化しているがどちらも役目は果たせたと言っていい。
次は俺の番か。
30分後に迎えが来た。外に出された俺に、坊やが偉そうに言う。
【まけたらわらってやる!】
【なんだ、心配してくれるのか】
【ち、ちげーし!】
はいはい。なら、ご期待に沿えるように頑張ってくるよ。
2番ゼッケンを着けられて、パドックに連れて来られて数回グルグル歩いた後はすぐにコースに出た。
夕刻の薄暗くなり始めたターフを踏みしめると、それだけで蹄が濡れるどころかスポンジの中に沈むような感触だ。芝が柔らかいと言うよりは、予想通り芝そのものが剥がれて泥が露出している箇所が多い。これは不良判定か。
昨日の雨で緩くなったところに、二日続けて散々にレースで掘り返されたらこうもなる。
「これは酷いな。沼か田んぼを走るようなものじゃないか」
背の上の和多が呻く。相棒は俺以外で海外レースを走った事無いから、ヨーロッパ芝の不良状態は経験が無かったな。
去年のイギリスで稍重判定までは経験しても、最悪のコンディションでのレースは初めてか。
【むしろ最悪の中で俺に乗れたんだから喜べよ。貴重な経験をしつつ、勝てるんだぞ】
どれだけ条件が悪くたって、長距離なら俺は負けん。
意図が伝わり、和多は小さく笑って同意の相槌を打つ。
滑らないように気を付けながら、ゆっくりと今日のスタート地点に向かう。
4000メートル用のスタートは、正面スタンドからもっとも離れた外側コースの一番奥まった場所にある。
正面スタンドからは1km近く離れているから、肉眼では殆ど見えない。大抵は中継カメラからのターフビジョンで見られるから問題は無いだろう。
蛇行気味に走って芝の具合を確かめておく。
やはり内側ほど荒れていて、外に行くほど荒れは少ない。尤も程度の差であり、中央付近でもそれなりに荒れている。
最悪外ラチに沿って走った方が疲労面でのロスは避けられるかもしれない。
泥の中を走るのは好きではないが、仕掛け処が増えてスタミナ勝負になるのは歓迎しよう。
泥の中を走り、ようやくスタートゲートまで辿り着けた。
作業員に誘導されてゲートに納まり、他の馬達が来るのを待ち続ける。
順々に納まっていく馬達に、少し新鮮さを覚える。
今日のレースは全部で十頭で走る。その半数の俺を含めた五頭は牝馬だ。
練習を除けば今まで牡馬ばかりに囲まれて走っていたから、半数とはいえ同性と走れるのは結構嬉しい。
全頭がゲートに押し込まれて、すぐにスタートだ。さて、今回はどんなレースになるか。
ゲートが開き、いつもよりゆっくりと馬達が飛び出た。
今回は4000mの長丁場に加えて、芝の泥濘が酷いからスピード勝負にはならない。
その証拠に、左側の大外の馬が後ろで思いっきり右に斜行して内ラチに移動している。スタートから横移動するぐらいには、今日は時間的余裕がある。
俺もゆっくり出て、他のライバル達の出方を窺う。
レースは場の悪さもあってスロースタートで始まり、最初の下り坂に入っても先頭と最後尾とは5馬身も離れていない。
全体的にスローペース。まだ仕掛け時ではないと全部の騎手達が思っている。
――――むっ!囲まれないように少し外側に居たのに、さらに外に一頭が並んだか。
ちょっと待て、何でここで先頭の馬が脚を緩めて、すぐ目の前にいる。これでは蓋をされてしまうぞ!
急いでペースを落として後ろに逃れようとしても、既に後ろも壁を作られた。
「くそっ!囲まれた!」
警戒されていたのは分かっていた。何頭かは妨害してくるのは予想していたが、まさか俺以外の9頭中6頭がこんな序盤から囲むなんて予測出来るか。
半数以上の馬を策で使い捨ててでも俺を勝たせない、か。しかもほぼ同時に動いた様子から、最初から計画していたな。
それだけ評価されているとも言えるが身動きが取れないのはどうしたものか。
とりあえずレースはまだ始まったばかりだ。付け入る隙を探るか作る時間はまだある。ステイヤーとして耐えてみせよう。
和多も今は我慢してくれ。