オグリの娘 ~畜生ダービー~   作:ウヅキ

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第61話 涙

 

 

 年の明けた2013年の1月26日の土曜日。

 薄暗い夕暮れの東京競馬場は、先程本日すべてのレースプログラムを終えた。

 出走した馬達が全て競馬場から引き揚げても観客は誰一人として帰らず、寒空のスタンドに居座り続けた。

 今日はどの競馬場でも重賞ないしG1のレースは組まれていない。にもかかわらず、ここ東京競馬場には十万人を超える人々が集まった。

 むしろ全てのレースが終わってからメインイベントが始まろうとしていた。

 

 群衆は白い息を吐きつつ主役が登場するのを待ち続ける。

 そしていよいよその時が訪れた。スタンド中に流れる、イギリスにおいて一般に国歌として広く認知されている『女王陛下万歳』をバックに、手綱を引かれた二頭の鞍の無い誘導馬に付き添われた、一頭の牝馬が夕闇のターフに姿を見せる。

 

「ただいまから、G1を十三勝したアパオシャ号の引退式を始めさせていただきます。スタンドの皆様は、本馬場へと姿を現した昨年末の有馬記念以来のアパオシャの姿をご覧ください」

 

 アナウンサーの言葉に、観客達は一斉に三頭の馬に視線を向ける。

 まずそこで観客が困惑したのが、先導する二頭の芦毛の馬の身に付けた馬服である。一頭はワインレッドの見るからに上等な品、もう一頭のはそれ以上に品の良い紫の地に菊の刺繍を施された馬服だった。赤い方にはフランス語で『2011年凱旋門賞』、紫の方は『第145回天皇賞2012年』の文字がある。

 そして主役のアパオシャは、白地に黒色の王冠と『2011年Gold Cup』の刺繍が施された馬服を纏っていた。

 これらは全て勝者のアパオシャに贈られた品である。諸事情により、誘導馬にも着せての入場となった。

 

「アパオシャの手綱を引くお二人は、所属する中島厩舎の松井秀行厩務員と中島遼太調教助手です。お二人はアパオシャと最も長く時を過ごしました」

 

「皆様はどうか競馬場でのアパオシャの最後の姿を、目に、そしてファインダーに焼き付けてください」

 

 アナウンサーに促されるまま、スタンドのファンだけでなく、ターフの内ラチ側で無数のカメラマンがカメラを構えて、今日を最後に二度とターフに姿を見せる事の無い『神馬』の雄姿を残そうと、無心にシャッターを押す。

 スタンドの客達に少しでも長く歩く姿を見せるために、アパオシャと二頭の誘導馬は長い直線をゆっくりと歩き続けた。

 

 折り返し地点の第一コーナーまで進んだ三頭と手綱を引く者達は、今度は反転して歩き続けてお立ち台の設置されたゴール板の前を通過した。

 ここで二頭の誘導馬はお役御免。アパオシャはその場に残り、関係者の整列するお立ち台の横に座り込む。

 本来アパオシャは離れた場所で待機する予定だったが、特に暴れる様子もないため、式はそのまま続行した。

 

「えー、では関係者のご紹介をいたします」

 

 司会に名を呼ばれて、アパオシャに関わった人々の代表者が台に登る。

 

 馬主・南丸浩二  調教師・中島大  騎手・和多流次  調教助手・中島遼太  厩務員・松井秀行  生産者・美景晴彦

 以上六人が台に登り、東京競馬場の職員からそれぞれ花束を贈られた。

 

「それではここで、アパオシャ号の輝かしい軌跡を皆様と共に、映像で振り返りたいと思います」

 

 ここでターフビジョンに、ナレーションと共にこれまでのアパオシャの戦いの歴史が映し出された。

 出席した関係者、スタンドの観客、当馬もターフビジョンを見つめる。

 

『史上初の牝馬による無敗のクラシック三冠制覇。2010、2011、2012年、史上初の三年連続JRA年度代表馬受賞。天皇賞・春、有馬記念連覇。イギリスG1三勝、フランスG1二勝。日本馬初の凱旋門賞制覇。日本馬による初のカルティエ賞欧州年度代表馬受賞、最優秀古馬受賞。国際G1十三勝、数多の死闘を勝ち抜いた≪太陽の女帝≫アパオシャ』

 

『アパオシャは2007年3月に北海道の美景牧場で、父オグリキャップ母ウミノマチの子として誕生した。≪スターホース≫オグリキャップ最後の娘の一頭として、馬主南丸氏から大きな期待をかけられて、美浦トレーニングセンター中島厩舎に入厩した』

 

 大げさなナレーションに南丸は苦笑した。確かにアパオシャには期待していたが、それはあくまで若い頃に憧れたオグリキャップの血に対してだった。活躍は度外視していて、まして今日このような引退式をしてもらえるような大名馬になるとは、毛筋程も思っていなかった。

 

『デビューは2009年9月の中山競馬場。並み居るライバル馬達を騎手和多流次と共に蹴散らして鮮やかに勝利。これがアパオシャの栄光の第一歩だった』

 

『二戦目の百日草特別も快調に勝利を挙げ、確かな実力を持つ名馬の片鱗を世に知らしめた。続く三戦目は初の重賞G3ラジオNIKKEI杯、彼女は幾度となく鎬を削る同期のライバル達と最初の苦闘を体験する』

 

 ターフビジョンに当時のレースが映し出される。そこには、ライバルの一頭≪ドバイ王者≫ヴィクトワールピサに先んじてゴールするアパオシャの姿がある。

 

『牡馬相手に初の重賞制覇。この勝利で調教師中島大は一つの大きな野望を抱く。日本競馬で未だ成し遂げられていない≪牝馬によるクラシック三冠制覇≫。夢のような目標だった』

 

『しかしそれはただの夢ではなかった。年が明けて3月の春雨が降る中山競馬場で、またしても劇的な勝利を飾る。弥生賞創設以来、四十七回目にして初の牝馬勝利だった』

 

『そしていよいよ、父オグリキャップが制度によって出走の叶わなかったクラシック三冠の第一戦≪皐月賞≫に挑む』

 

 当時の興奮した実況をそのまま流し、当時はいかに衝撃的なレースだったのかを観客達に伝える。

 

『アパオシャだ!!アパオシャが逃げ切ったー!!会場は大歓声に包まれています!!記念すべき第七十回皐月賞の勝者は和多流次のアパオシャだっ!!1948年の優勝馬≪ヒデヒカリ≫から実に、実に62年ぶりに牝馬が皐月賞を制しましたっ!!父オグリキャップが制度によって阻まれて走れなかった、クラシック三冠の一角を娘が掴み取りました!!』

 

 さらにクラシック三冠の第二戦。ここ東京競馬場で、2007年に生まれた七千頭のサラブレッドの頂点を決める最高の舞台≪日本ダービー≫のゴールが映し出された。

 関係者は『あの史上最低』ダービーの顛末が流れるのか戦々恐々していたが、編集で上手く恥部をカットしてあったため、アパオシャの勝利以外の情報は洩れず、出走した馬達の名誉は守られた。

 ―――――本当に守られたのだろうか?

 

『順風満帆。恐れる事など何も無いと思われたクラシックG1二冠馬アパオシャに、しかし突然の凶報が7月に伝えられた。父オグリキャップの事故死である』

 

 ここで雰囲気が一転する。第二次競馬ブームを牽引した≪スターホース≫オグリキャップのお別れ式の映像が流れ、そこに現れたアパオシャが父の遺影に献花する場面と、涙を流す悲壮的な姿が映し出された。

 

『父の死という悲劇。それでもアパオシャは前を向いて走る。クラシック三冠の最後の一つの菊花賞に挑み、圧倒的な強さで強豪牡馬を捩じ伏せて、≪最強≫ディープインパクト以来の≪無敗のクラシック三冠制覇≫。そして史上初の≪牝馬によるクラシック三冠≫を達成。菊の花を父の墓前に添えた』

 

『年末の有馬記念はライバル・ヴィクトワールピサとの激闘の末、惜しくもハナ差で2着。初めてアパオシャが敗北した。それでも2010年の最高の馬として、3歳牝馬初のJRA年度代表馬に輝いた』

 

『年が明けた3月。始動のレースにはG2阪神大賞典が選ばれた。しかしここで日本に文字通りの激震が走る』

 

 映像はこれまでと趣が代わり、津波で押し流される建物や逃げ惑う人々の悲壮な姿が映し出された。

 日本に住む者なら誰もが知る2011年3月11日。東日本大震災の日である。

 観客の中には実際に東北で死の恐怖を味わった者達もいる。

 

『この大震災を前に、アパオシャは決して折れる事は無かった。苦難に喘ぐ日本の人々に勇気と希望の火を灯すため、母父ミホシンザンも勝利した天皇賞・春を制した後、若き女王は世界に挑戦する』

 

 競馬発祥の地イギリスでのゴールドカップ、キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスでの激闘と勝利。倒れ伏すリワイルディングを看取る悲しいシーンが流れれば、そこかしこから悲鳴とすすり泣く声が聞こえる。

 おまけでプライベートの時間にアパオシャに乗るお茶目なイギリス女王の姿が出れば、スタンドから拍手が巻き起こる。

 

「皆様にお知らせいたします。本日の引退式にはイギリス女王陛下がご臨席する意向がありましたが、スケジュールの都合で断念いたしました。ですが名代として女王陛下の孫であり、ロンドンオリンピック総合馬術競技銀メダリストのミラ女史がご出席なされています」

 

 アナウンサーから衝撃的な事実を知らされた観客は大きくどよめいた。

 今回アパオシャが数あるG1勝者に贈られる馬服の中から、ゴールドカップの服を着ている理由である。

 レースの格で言えば凱旋門賞、日本馬として最高の栄誉を誇るなら『近代競馬150周年記念』の天皇賞の馬服が望ましい。

 しかし、はるばる英国から女王の名代として王族が出席するならば、賓客に対して最大限の配慮が求められた。

 よって英国王室が主催するロイヤルアスコットのメインレースたるゴールドカップの馬服こそが最も望ましいと、日本の外務省、JRA、馬主の南丸の間で、すったもんだの末に決定した。

 そして引退式はメイクデビューと引退レースを行った中山競馬場が筋でも、英国王族に相応しい宿泊施設が近隣に無いという理由で、ここ東京競馬場が選ばれた。

 馬主の南丸は余所の都合で振り回されるのにいい気はしないが、相手は被災地にポケットマネーで数億円を寄付した相手とあって、不満を飲み込んだ。

 

『イギリスでG1を連勝した勢いのまま挑むは世界最高のレース、フランスのロンシャン凱旋門賞』

 

『ゴールまであと100m!アパオシャの独走状態!!二番手のデインドリームとはまだ三馬身の差がある!!これは決まったか!?決まったのか!!あの凱旋門賞を日本の牝馬が制覇するのか!!決まったーーーー!!圧倒的な強さでゴールを駆け抜けたーー!!アパオシャが勝ちました!!逃げ切ったアパオシャの背の上で、和多騎手が立ち上がって両手を高く突き上げる!34歳にして和多流次が世界の頂点に立ちました!』

 

『もはや彼女はオグリキャップの娘ではありません。シンザンの末裔でもない。彼女はただの、アパオシャ。旱魃の神の名前の由来通り、世界最強馬≪太陽の女帝≫アパオシャと言うべきです。おめでとうアパオシャ。おめでとう和多流次。日本史上最高のコンビよ、貴方達こそ人馬一体と呼ぶにふさわしい者達は居ない』

 

『ヨーロッパ競馬では稀有な≪大逃げ≫での勝利。世界の名馬を力ずくで捩じ伏せた奇跡の瞬間』

 

『海外G1三連勝の勲章を胸に、2011年最後のレース有馬記念に挑む。世界最強の女帝と相対するのは≪ドバイ王者≫ヴィクトワールピサを筆頭に同期の選りすぐりの牡馬達。さらに2011年クラシック三冠を制した≪金色の暴れん坊≫オルフェーヴル。苦しい戦いの末、それでも女帝は勝利を掴み、日本馬のG1勝利数を八に伸ばしてシンボリルドルフ以来の単独首位を更新した。さらには父オグリキャップと親子での有馬記念制覇を成し遂げた』

 

『年間無敗のG1五連勝。2011年JRA年度代表馬受賞、最優秀4歳以上牝馬受賞、さらにその強さは海外からも絶賛された』

 

『≪欧州最強マイラー≫フランケル、≪オーストラリア最強スプリンター≫ブラックキャビアに次ぐ、≪日欧最強ステイヤー≫として世界三位のレーティング131ポンドを獲得。牝馬初の英KG6&QESと仏凱旋門賞同年制覇など、総合評価により日本馬で初の、カルティエ賞欧州最優秀古馬、欧州年度代表馬を受賞。世界が認める名馬になった』

 

『そして現役最後の年の幕が上がる』

 

『昨年に引き続き天皇賞・春を制覇。メジロマックイーン、テイエムオペラオーに続き、史上三頭目の天皇賞・春連覇を成す。再び英国の地で今度はG1コロネーションカップ、仏G1カドラン賞を勝利。G1勝利数を11に増やす』

 

『日本に帰ってからも強敵とのレースは続く。雨の降る京都競馬場で、2012年牝馬三冠≪強き貴婦人≫ジェンティルドンナと英国女王在位60年の節目に対決。貴婦人を下し、友たる英国エリザベス女王の杯を手にした』

 

『いよいよ最強の女帝のラストラン。2012年12月23日有馬記念』

 

『二冠馬ゴールドシップも来ているが先頭は遠い!アパオシャは残り200メートル!既に名物の坂に入った!内からはエイシンフラッシュ、オーシャンブルーも追従しているが苦しい!外からはゴールドシップ!!速い速い!!信じられない速さで心臓破りの坂を駆け上がる!誰も最強の女帝には付いて来られないのか!!これが世界を席巻した十二冠馬の本気なのか!後続を遥か後方に置き去りにして、孤高のままゴールイン!!あまりの強さにスタンドが静まり返ります!』

 

 ダイジェスト映像が終わり、アパオシャの軌跡が流れる。

 

 

『アパオシャ(Apaošha)』

 

『2007年3月誕生』

 

『父オグリキャップ 母ウミノマチ 母父ミホシンザン』

 

『通算成績 20戦19勝2着1回 連対率100%』

 

『重賞17勝(G1 国内8勝 海外5勝)』

 

 

『主な勝ち鞍』

 

『2009年 ラジオNIKKEI杯』

『2010年 弥生賞 皐月賞 東京優駿 菊花賞』

 

『2011年 阪神大賞典 天皇賞・春 英ゴールドカップ 英KG6&QES 仏凱旋門賞 有馬記念』

 

『2012年 日経賞 天皇賞・春 英コロネーションカップ 仏カドラン賞 エリザベス女王杯 有馬記念』

 

 

『受賞歴』

 

『2010、2011、2012年JRA年度代表馬』

 

『2010年最優秀3歳牝馬』

 

『2011、2012年最優秀4歳以上牝馬』

 

『2011年カルティエ賞 欧州年度代表馬、最優秀古馬』

 

 

 最後に映像にはこんな一文が載せられていた。

 

『今まで父オグリキャップから託された夢のつづきを魅せてくれてありがとう。君の夢は次の世代に託された。ありがとうアパオシャ』

 

 映像が終わり、スタンドは拍手に包まれた。

 それから関係者へのインタビューが行われた。

 

 

 馬主・南丸浩二

 

「皆さん、これまでアパオシャを応援していただき、本当にありがとうございました。特に英国からもこの場に足を運んでいただき、感謝に堪えません。

 最初に美景牧場であの子を見た時は、今日のような引退式をするとは全く思っていませんでした。デビューしてからは常に期待を良い意味で覆してくれる素晴らしい馬でした。父オグリキャップが出来なかった事をほぼ全てやり切った、夢の馬です。今までよく頑張ったと褒めてあげてください」

 

 

 調教師・中島大

 

「私が知る中で最強の馬でした。かつて育てたサクラローレル、マンハッタンカフェが果たせなかった凱旋門賞勝利に我々を導いてくれてありがとう。お前はオグリキャップだけじゃない、沢山の馬や我々日本のホースマンの夢を叶えてくれた神様のような馬だ。もうお前が走る姿を見られないのはとても寂しいが、これからも元気でいて欲しい」

 

 

 騎手・和多流次

 

「アパオシャ、お前には沢山の物を貰ったよ。俺はただ乗っているだけのお荷物じゃないとは思うけど、お前に何かしてあげられたかな?お前が教えてくれたことを、今度は他の馬にも教えられるように頑張るよ。遠くからずっと見守っていてくれ」

 

 

 調教助手・中島遼太

 

「今だから白状しますが最初は脚が遅くて勝てるか不安でした。それが負け知らずで、いつの間にか世界最強の女帝です。

 アパオシャも自分の足が他の馬より遅い事を知っていた。だから勝てる走り方を自力で編み出した。体調管理も自前でするから、常にレースで最高のパフォーマンスを発揮する。誰よりもプロフェッショナルの思考で動く唯一無二の馬でした。イギリスとフランスでは、お前のその無駄を極限まで削ぎ落したようなストイックさと鋼鉄のようなタフネスさに随分助けられた。ありがとう、お前は最高のサラブレッドだ」

 

 

 厩務員・松井秀行

 

「アパオシャは人間のように考え、料理を楽しむ変な馬ですが、厩舎でも若い馬達をよく見て、何かと世話を焼く優しい馬です。

 2011年の大震災からずっと美浦トレセンは余震続きで、常に馬達は怯えていた。その馬達を昼も夜も懸命に励まして寄り添ったおかげでみんなが救われた。勿論我々厩舎側の人間も随分助けてもらった。

 レースの強さだけがアパオシャの全てじゃない。本当はこの場の皆さんにも沢山語りたいですが、時間が足りないので残念ですがこれまでにします。あと最後に、一緒に居られて楽しかった。ありがとう」

 

 

 生産者・美景晴彦

 

「黒子、いえアパオシャは私どもの牧場にとって福の神です。あの子のおかげで沢山の人が救われ、幸せになれました。

 私は牛の事ばかりで馬は詳しくない。ですが競走馬の生涯が過酷なのを知っています。それでも怪我や病気も無く、健康なまま走り切って現役生活を終えられたのは、アパオシャ自身が幸運な馬だからです。

 きっと黒子は傍にいる者、見ている者に幸福を分け与える存在なんだと思います。これからは皆さんがアパオシャの幸福な余生を願ってあげてください」

 

 

 登壇した全員がスピーチを終えたのを見たアパオシャは、唐突に立ち上がって自らマイクを持つ女性に近づいた。

 驚く女性はどうしていいか分からなかったが、付き合いの長い厩務員の松井が大体察して、マイクを掴んでアパオシャの口元に近づけてやった。

 

 

 競走馬・アパオシャ

 

【何を言っているか分からないだろうが言わせてくれ。俺はまだ走り足りない。でも畜生だから走るなと言われたら走らない。納得はしていないが理解に努めよう。―――――厩舎の皆、オーナー、和多。今までありがとう。アンタらの事は大好きだったぞ】

 

 

 馬が何を言っているかは分からない。しかし、確かに想いは伝わった。

 付き合いの長かった松井や遼太は堪らず嗚咽交じりの涙を流し、何度も何度もアパオシャの身体を撫でる。

 

 スピーチが終わり、最後は関係者一同との写真撮影で締めくくられる。

 アパオシャは東北の被災地より贈られた、リボンと造花の花輪飾りを首と頭に掛けられる。

 中島厩舎の面々、南丸オーナー家族と世界一ソフトの一部の社員、美景牧場の家族、長尾謙一郎、御栗幸一、母父ミホシンザンの関係者、獣医、装蹄師、英国女王の名代として来た王女とその旦那、そしてずっと背を預けた和多流次。

 沢山の人達がアパオシャの傍に集まり、ターフで最後の記念撮影をした。

 

 撮影が終わり引退式は終わったと思われたが、最後にアパオシャが和多の勝負服の襟を噛んだ。

 

「お前、乗れって言うのか?」

 

【最後なんだからつべこべ言わずに乗れ】

 

 手綱以外の馬具を何もつけていない裸馬に乗るのは危険が伴うが、和多は黙って屈んで乗りやすくしたアパオシャに跨る。

 鞍も鐙も無い酷く不安定な裸馬の状態で、アパオシャはゴール板からゆっくりと走り出す。

 会場は騒然としているが人馬はそんなのは知らないとばかりに、殆ど照明の無い第四コーナーで反転して、正真正銘最後のゴール板を通った。

 

【………ゴールか】

 

「ああ、これで最期だ」

 

 この瞬間に堰を切ったようにアパオシャの瞳から大粒の涙が零れて止まらない。

 もう二度とレース場を走れない辛さだけではない。苦楽を共にした仲間達と二度と会えない悲しみに耐えられなかった。

 和多も涙を堪え切れずに、テイエムオペラオー以来の第二の相棒の首に抱き着いて、人目も憚る事無く泣いた。

 

 

 ≪オグリキャップの娘≫

 

 ≪魔性の牝馬≫

 

 ≪神馬の再来≫

 

 ≪偉大なる女王陛下の友たる黒き女王≫

 

 ≪太陽の女帝≫

 

 ≪太陽の神馬≫

 

 

 数々の異名と称号を持つ最強馬だろうと、精神までは他の馬や人と大きな違いは無かった。

 しかしこの涙こそ、人と馬の確かな絆の象徴なのかもしれない。

 

 





 競走馬アパオシャの物語はこれでおしまいです。
 引退式はyoutubeにあったオルフェーヴルとジェンティルドンナの式を参考にしました。
 次はエピローグです。アパオシャの最初の交配相手の名が出ます。
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