結果的に文字数はそんな少ないわけではなかったけど。まあいいだろう。
マルの体に異常が起きて約一か月。何かとトラブルはありつつも、少しずつこの生活に慣れて、違和感もほとんどなくなっていた。
いつものように仕事から帰ると今日はバイトがないようなので、マルの「おかえり」という声が居間から聞こえてくる。
ただいまと返事をして、僕は居間へ向かう。居間にはソファに横になってヘラヘラと笑うマルの姿があった。あれ以降、変にギスギスすることもなくバツと僕の約束についても黙認してくれるようになった。たまに皮肉っぽくからかわれることもあるが、それだけで済むなら全然いい方だろう。
「じゃあおかず温めるけどどうする?先シャワー浴びててもいいよ?」
「いや、その前にさ。やりたいことがあるんだけど。」
マルが首を傾げてこちらを見る。そして僕はマルに近づくんだけど、マルは少しびっくりしたみたいに“なになに”と言って後ずさりする。
「動くなよ。」
「いやだって怖いし。」
「いいから。着け終わるまで動くなって」
「着ける?」
「いいから。黙って僕の言うこと聞こうか」
マルがようやく観念したのか、プルプル震えながら目を瞑ったまま動きを止める。何かいけないことをしているような気分になったが、僕はバックからそれを取り出してマルの首にとりつけた。
「着けたよ。」
「え、なにこれ。」
「チョーカー。首輪の代わりになるかなって。」
そして僕はまたマルがなにかを言い出す前に首輪のロックを無言で外す。カチっという音とともに、いつもならばマルの体は魂が抜けたように倒れるはずが、今はそれはない。
チョーカーも首輪と同じ扱いみたいだ。
「え?何してんの?っていうか俺。バツになってない…」
「チョーカーでも良いみたいだね。思い付きだけど上手くいってよかった。これで外出る時に首隠さなくても済む。」
そういって僕はスマホのインカメを起動しマルに手渡す。マルは不思議そうにいろんな角度から自分の姿を眺めていた。
それもそのはず。マルの首元にはいつもあるはずの赤い犬用の首輪の代わりに、真っ白のチョーカーがあるのだから。
「ちなみにそれもワンタッチ式。首輪と同じく簡単に着脱可能。」
と、僕が解説しているのを聞いていたのか聞いていなかったのかは定かではないけど、マルは勢いよく僕に抱き着く。
「ありがとう。マジでありがとう。めっちゃ嬉しい。」
そうとびっきりの笑顔で僕に言った。僕はそれがなんだか照れ臭くて、顔を背けて「どういたしまして」と返答した。
「今度の日曜お前も休みだし、俺もバイトないからさ。一緒に出かけよ?な?いいだろ」
そんなことを無邪気に言うマルを見てたらなんだか嬉しくなってすぐに僕は頷いた。
日曜日になって、僕らは近場の大型ショッピングモールに来ていた。さっき話題の映画を見終わったところで僕は感動に浸りながらベンチに座っていた。
本当の良いものを見終わったあとってどうしてこうこんなにも気持ちがよくなるのか。実際僕は何かをしたわけではないのに、達成感や感動で心が包まれていて、それらが僕を幸せにする。
だというのにマルは買いたいものがあるからとどこかへ行ってしまった。あいつはあの映画のよさがわからなかったらしい。わかっていたら今の僕と同じようにその場から動けなかったはずだ。まあこういうのは個人のセンスとか感覚によるものだから仕方がないといえるけど、とても残念に思えた。
そのまま一時間ほど待つと、ようやくバツは戻ってきた。が、僕は目を疑うことになる。基本外に出る時にマルはバツが買ったいつもの服を来ているんだけど、今のマルが着ている服はそのレパートリーにないものだった。というか、さっきまで来ていた服とは違った。
白のニット服の上に茶色い上着。薄い青色のスカートとレギンスを履いていた。全体的に体のラインが出やすいような服を選んでいる気がする。
「じゃーん。童貞を若干殺すコーデでーす。」
マルはニヤニヤと笑いながらそう言った。僕は意識的に感情を押し殺して
「あぁ、そう。」
と言ってみたけど、マルが不満そうに見つめてくるのでとりあえずサムズアップをしておいた。それでもまだ不満そうだが。
「まあ童貞にそういうのは早いか。俺も褒められたいわけじゃないしな。」
「童貞童貞うるさいな。」
「怒んなよ~」
マルはそう言ってベンチに、僕の横に座る。まあ、マルが楽しそうだし別にいいか、と僕も笑ってみせる。こんな風にずっと暮らせられれば楽しいんだろうななんて思ってしまう。
けどこの時の僕は正直言って油断していた。現実的に見なければいけない問題を見て見ぬフリをしたいただけなのに、楽しそうに笑って毎日過ごしていた。
マルを男に戻すのはどうなったのか?男に戻ったとしてバツはどうなるのか?僕が結局どっちつかずなのは変わっていないじゃないか?僕自身の本性については?マルには裏切ったことを結局謝れてないじゃないか?
客観的に冷静に見て、今のままじゃ色々と問題のあるマルから目を背けてこうやって毎日を楽しめるのは異常であり、僕たちが抱えた歪みでしかなかった。
その歪みは今のところ表面化したトラブルが起きていないだけでいつか爆発するかもしれないものであることには違いはないんだ。
そう。歪み。僕らを表すには端的でふさわしい言葉だ。
二人で映画の感想を言い合っていたら、一人の女が僕の目に入った。女はずっとこちらを見ていて、その顔は何か戸惑ってるみたいで、一度目に入ると怪しくて目が離せなかった。
「どうした?」
マルが言う。別に気にすることではないのかもしれないし全く知らない他人と言えど指をさして怪しいというのは気が引けて、僕はなんでもないと答える。
まあ、そのうちどこかへ行くだろうと勝手に決めつけて僕らは話し続けるんだけど、今度はマルの方が僕の後ろの方を見たまま動かなくなった。その時のマルの目は信じられないものを見たと言った感じで、僕も慌てて後ろを見る。
そこには先ほどの女が立っていた。そして、遠慮気味に彼女はこう言う。
「もしかして、マル、なの?」
ここから僕たちの歪みはさらに大きくなっていく。