ドクターはアニメ版+α。なんでも許せる人向け。
リゾルートは音楽用語における発想記号。意味は“決然と”。
カンタービレも発想記号で“歌うように、表情豊かに”。
誰かを助けるだとか、誰かのためだとか。カンタービレはそんなこと、考えたこともなかった。
教えられたこともない。衝動や使命として、生まれつき自分の中に備わっていることもない。それはきっと、カンタービレを育て上げた“教官たち”も同じのはずだ。彼らの中に、誰かを助けるなんて考えは微塵もなく、生まれる余地もない。
―――あなたはどうなの。
病室にやってきたドクターに向かって、小さく問い質した。
フードで頭をすっぽりと覆った、一見して男か女かもわからないその人物は、返答に少し悩んだようだった。
答えを聞いて、どうこうしたいわけではない。ただ、不安だったのだ。
何度も願い出た治療の中断は受け入れらず、挙句継続治療にかかる費用の支払いも兼ねてロドスで働くことを勧められた時は、失意を感じた。
ああ、結局こうなってしまったのか、と。また過ちを繰り返すのか、と。それならば、あの難民区で暖かな陽射しを浴びたまま、赦されるように死にたかった。
そう思うのに、嫌とも言えずに頷いてしまった。体にすっかり染みついてしまった悪癖と、絶えずまとわりついてくる無気力な絶望に、笑いさえこみ上げてきた。
―――私はまた、誰かの言いなりになって、誰かもわからない人を殺すのね。
―――それが、私への罰なのかしら。過ちの上に過ちを重ねて、血で湖でも作れというの?
だがあの日。面接のためにやってきた、ドクターと名乗る人物は、開口一番誰を殺せばいいのかというカンタービレの質問に驚き、しばらくカンタービレの瞳をじっと見つめた。
“……そうか”
そう言って、何か得心したドクターは、カンタービレの傍に腰を下ろした。
今度は、カンタービレが驚かされた。
“私たちは、君の手を染める血も、君が流す涙も、求めることはない”
“君は戦わなくてもいい。事務処理なんて山ほどあるし、得意なら料理をしてもらうのでも構わない”
“君のやりたいこと、できることをしてくれれば、それでいいんだ。やりたくないことを、強要するつもりはない”
“
カンタービレはすっかり戸惑ってしまって、気付けばドクターを質問責めにしていた。
なんの仕事を回そうとしているのか、一体どんな仕事があるのか、どんな人が就いているのか。思いつく限り細かく聞いた。ドクターはすらすらと答えてくれた。ただ、ロドスで暗殺などはしていないのか、と聞いた際には、厳しい表情で首を振るだけだったが。
すっかり日も傾く頃になって、ようやく問いを吐き出しきったカンタービレに、ドクターは逆に問いかける。
“君は、どうしたい?”
真っ白で、曇りのない瞳だった。
選択肢なんて、与えられたことはなかった。
信頼は、裏切らねばならないものだった。
それをドクターは、見抜いていたように思う。カンタービレは目を逸らして、事務処理を願い出た。
ドクターはわかった、とだけ言って、それ以上は何も訊かずに立ち去った。
その日の夜、カンタービレはベッドの中でひとり、悶々と考え込む。
―――やりたいこと、できることをしてくれればいい? 患者が生きてくれるなら、それで充分?
―――それじゃあ、見返りなんて求めていないようなものよ。
―――どうして……?
答えの出ない自問自答は、日を追うごとに深まる一方。
カンタービレには多くのものが与えられた。仕事机、ペン、書類、給料、そして自由。だがカンタービレが最も欲した答えは、なかなか得られなかった。
医者が、ドクターが、なぜ自分を治療するのか。納得のいく理由を何度も求めた。ドクターははぐらかしもせず、それがロドスの使命だからと告げた。それは、カンタービレを満足させる理由ではなかった。
そして、カンタービレは悩んだ末に、訊き方を変えることにした。
―――私は、誰かを助けようとか、誰かのために何かをするとか、そんなこと、考えたこともなかったわ。
―――だって、教えられたことがないもの。
―――衝動や使命として、生まれつき自分の中に備わっていることもない。私を育てた人たちもそうでしょうね。彼らの中に、誰かを助けるなんて考えは微塵もなく、生まれる余地もない。
「あなたはどうなの、ドクター。あなたは、私の鉱石病を治療することが使命だと言うけれど。その使命は、どこから来るの? その使命を果たしたとして、なぜ見返りを求めないの? あなたの心の中には、一体何があるの……?」
「……使命に、心か」
ドクターはこめかみに指をあて、動かなくなる。
後にカンタービレが聞くところによれば、ドクターはロドスに復帰する前の記憶を失っているという。そのことを踏まえると、あの問いは少し酷だったかもしれない。
やがてドクターは手を下ろすと、苦しみを押し殺すような声で言った。
「すまない、カンタービレ。考える時間をもらえないか」
「待つわ。私が満足できる答えをくれるなら」
「努力するよ」
ドクターは、色の悪くなった顔をほころばせる。それが何を意味するのか、カンタービレにはまだわからない。
しばらくしてやってきた医者が、カンタービレの健診を告げたので、ふたりは別れた。
夕日に照らされながら去っていくドクターの後ろ姿に、胸の裡が揺れるのを感じた。
そして、カンタービレは目を覚ます。
口の中に砂が入り込んでいる。辺りは暗く、足や脇腹を重いもので抑えつけられていた。
暗闇で独り横たわって、起き上がることが出来ない。頬に触れると、べったりと血がついた。
―――ここは、どこ? 私は一体、どうなって……。
軽く身をよじっても、まともに動けない。目を閉じて記憶を辿れば、案外すんなりと経緯が思い出された。
自棄になった感染者たちが人質を取って立てこもる事件。突如舞い込んできた外勤任務に、無理を言ってついてきたのだ。
カンタービレに任されたのは、犯人たちが立てこもった大型商業施設の偵察。護身用にと手渡されたナイフすら固辞して、カンタービレは単身で潜り込んだ。
任務は順調だったと言えよう。ドクターが交渉の席につき、粘り強く人質の解放と犯人たちの治療について話している間、人質の数と位置、侵入経路、敵の人数を全て割り出した。
ドクターは武力制圧も視野に入れていた。が、犯人たちの交渉役は、徐々にドクターの説得に心動かされつつあった。
しかし、それが裏目に出た。
交渉役は一度通話を区切り、仲間たちへ説得を始めたのだ。
そばかすのように、顔にいくつもの源石結晶をつけた青年は、犯人グループの中でも若い。交渉役など適当な体面で、その実雑用係だったのかもしれない。彼の説得は聞き入れられず、逆に激昂したリーダー格の男がリモコンを掲げた。
商業施設の各所に仕掛けられた、爆弾のスイッチだ。
こっそりと、端から一番近くにいた幼い子供を解放していたカンタービレが気付いた時には、彼らはリモコンを奪い合う中で起爆してしまった。
地響き。轟音。崩落。カンタービレは手のひらに温もりと柔らかさをほんの一瞬感じて、暗闇の中を落下していった。
一連の回想の末に、カンタービレは自分が商業施設の地下駐車場に転落したことを悟る。
ブリーフィングによれば、駐車場は地下五階にまで及ぶ。今自分がどこにいるのかはわからないが、陽の光がさっぱり見えない。随分深いのか、生き埋めになったのか、それとも夜か。
きっとどれにしても、助かる見込みは低い。カンタービレの頭の隅で、そんな計算が弾き出された。
周りが静かで、何も聞こえない。人の声も、何も。
ああ、そうなのか、とカンタービレは思った。所詮、カンタービレは偵察兵。今回だって、本当はもっと最適な人材に任せるはずだった。
無理を言って、ついてきて。時間もないというのに、犯人たちの情報をわかる限り詳細に集めて。
結局、立てこもり犯は自爆した。大勢の人質を、ひとりも解放することなく。
今頃は全員死亡か、行方不明で片付けられているだろう。自分が犯人グループならば、絶対に全員死んだと考える。全員死ぬように爆弾を仕掛ける。万が一にも生き残らないように、骨も残らぬように。
助けようという気も起きないほど、徹底的に。
そして犯人グループの口ぶりや声明から、彼らもそうする確率は高かった。彼らの要求は、金でも物資でもなく、人。鉱石病に罹った際、自分たちから全てを取り上げ、を迫害した者たちを連れてこいというものだ。
彼らは、もろともに死ぬつもりだった。鉱石病に罹って全てを失った自分たちごと、感染者したからという理由を、さも正義かのように掲げて虐げてきた者たちを、この世から消し去ろうとした。
つまり、爆弾が爆発した以上は、
カンタービレは、きゅっと胸が締め付けられるのを感じた。
幼く、無邪気で、抑圧された、たったひとりの友人を手にかけたあと、カンタービレは絶望の中を彷徨った。
組織から逃がれ、ボリバルの難民区に辿り着いてひとり倒れた時は、不思議とほっとしたものだ。
やっと死ねる、恐怖も罪悪感も捨て去って自由になれると、そう考えた。
だが阻まれた。おせっかいな医師たちの手で。治療は続けられ、カンタービレは生かされた。
それも今、これで終わり。ロドスは生存者ゼロと考えて、たまたま生き残ったカンタービレは誰にも気付かれず、ここで死ぬ。
―――……嫌よ……。
心臓を締め付ける感覚は、次の瞬間巨大な鋼の塊のような孤独感となって、カンタービレの胸を押しつぶした。
暗殺者だったころよりも深く、激しく心を揺さぶる恐怖心。
カンタービレは胴から下を抑えつける瓦礫の中で必死でもがき、涙を流しながら、嗄れかけた声で叫ぶ。
「嫌……死にたくない……! ドクター、お願い、私を見捨てないで……! 助けて……!」
懇願は、瓦礫に閉ざされる。
子供のように泣き叫びながら、カンタービレは疑問を持った。
ひとりで死のうと思っていたのに、どうして嫌と思うのだろう。
治療が済んだら、手元に残っていた血みどろの
そもそも、治してほしくもなかった。死にたいのだから、放っておいてほしかった。
そのはずだったのに、どうして。
―――どうしてこんなにも、ひとりで死ぬのが恐ろしいの?
それはきっと、心のどこかで気付いていたから。
気付いていても、信じられずに、疑っていた。
今までカンタービレが受けたことのないものだったから。遠い世界の出来事だったから。
恐れて、躊躇った。目を逸らして、否定しようとした。
ああ、なのに、どうして、こんなにも……。
口の中に残っていた砂利が喉に達して、咳き込んだ。
それでも、声を上げようとする。
助けて、独りにしないで、と。
目に涙が滲んで、暗闇が溶けていく。
―――ドクター……!
痛む喉を、無理やり動かそうとする。
その時、光が差し込み、カンタービレの眼を焼いた。
聞こえてくる必死の叫び。何を言っているのか、不明瞭で聞こえないはずなのに、不思議と理解できた。
覆いかぶさってくる、逆光のシルエット。
「カンタービレ……!」
黒塗りになっていても、声でわかる。カンタービレは頭を持ち上げ、手を伸ばす。
「ドクター、ここよ……! 私は、ここ……!」
気付いてくれた。
ドクターは身を乗り出し、カンタービレに手を伸ばした。
差し伸べられた指先から滴った雫が、カンタービレの頬に当たる。汚れと、血と、傷で手がボロボロだ。
構わなかった。
手をつかみ返し、懸命に体を動かして瓦礫から這い出そうとする。
ドクターは他のオペレータ―を呼び寄せながら、決して手を放さない。血で滑りそうになるのを堪えて、痛いほどに握りしめる。カンタービレも、それに応えた。
そうして、格闘することしばらく。カンタービレの足が瓦礫から引き抜かれ、一気に持ち上げられた。
勢い余ってドクターにぶつかり、そのまま押し倒すような形になってしまう。ふたりはそのまま、数秒の間見つめ合い、やがてドクターは汗だくになりながら微笑んだ。
「良かった……遅くなって、すまない」
「……ううん。また、助けられてしまったわね」
ドクターはカンタービレの頬に触れ、親指でうっすらと滲んだ涙を拭うと、医療オペレーターを呼ぶ。
大忙しの医療オペレーターが少し待つように叫び返すのを聞き、身を起こしたドクターは、裂傷だらけの足でぺたんと座り込んだカンタービレに言った。
「カンタービレ、この前の質問のことだけど」
「あれのこと? 忘れてもらって構わないわ。……ごめんなさい、あなたの記憶が失われていることを、知らなかったの」
「いいんだ。私も言っていなかったから」
ふたりしてその場に座り込み、破壊の痕跡を眺めた。
崩落した地下駐車場では、そこかしこで車が潰れたりしているが、大方の救助は終わっていたらしい。
つまり、カンタービレが最後。死体袋がいくつも運ばれているのも見るに、カンタービレが助かったのは、奇跡に等しい。
あの子供はどうなっただろう。目と口をガムテープで塞がれ、人質の群れの端で呻きながらすすり泣いていた、あの子は。
いつかの自分を見ているようで、どうしても放っておけなかった。人質は解放せず、偵察が終わったら戻ってくるように言われていたのに。
ドクターは、前触れなくフードを外す。長く白い髪が露わになり、金属製のマスクをつけた横顔が外気に触れる。
汗ばみ、赤くなった顔で地下の惨状を眺めた。
「私が鉱石病に臨む理由、その使命の在り処は、まだ思い出せない。アーミヤ、ケルシー……サベージ、Wあたりは、知っているかもしれないけれど。それでも敢えて、“今の私”の言葉で言うのであれば」
ドクターは目蓋を閉じる。暗闇の裏側に映るのは、目覚めて間もない日々の記憶。チェルノボーグ、アーミヤたち、ウルサスの親子、レユニオン、タルラ、天災、悲鳴、Ace。龍門、チェン、ケルシー、難民、ミーシャ、スカルシュレッダー。
そこから堰を切ったようになだれ込んでくる様々な記憶と、出会った人々の色々な表情。交わした言葉。
「……失いたくない。失わせたくない。奪われることも、奪わせることも、許したくない。誰にも泣いてほしくないんだ。例えこの想いが幼稚で、甘い理想論だとしても、諦めたくない。それが理由だよ。……理由、なのだけど、ね」
開かれた目は、真っ直ぐにどこかを、過去でも未来でもない何かを見据えていた。
今日だけで多くの死を目の当たりにした、焦燥に擦り切れた瞳で。ズタズタになって、流血の止まらない手を握りしめ。
立てこもり犯との交渉は、上手く行ったようで、行かなかった。もし、言葉を交わしたのが若い下っ端でなければ。リーダー格と直接話をして説得できていたのなら。結果は変わっていたのかもしれない。
けど、そうではなかった。そうはならなかった。犯人グループはほぼ全員死亡し、人質も実に七割が死傷者となった。
アーミヤがここに来ていたら、彼女はきっと膝から崩れ落ちて悲しんだだろう。
「私は無力だ。誰も救えず、ロドスのオペレータ―たちでさえ、悲しませてばかりで……」
「いいえ、ドクター。……あなたのおかげよ」
「え……?」
訊き返し、不思議そうな眼差しで見つめてくるドクターに、カンタービレは何も言わなかった。
しばし無言でそうしていると、慌てた医療オペレーターがふたりの下にやってきた。
カンタービレはあれよあれよという間に担架に乗せられ、後方へ運ばれていく。頬に手のひらをあてて見ると、乾きかけた血が付着した。
手を差し伸べられた時に落ちてきた、ドクターの血の痕だ。自ら崩落した地下に降りて来て、他のオペレーターと一緒に瓦礫を掘り返して出来た傷だと確信できた。
―――見捨てないで、くれた。
―――それでも、助けに来てくれた。良かったって、笑ってくれた。
―――例え、救われない人の方が多くても。
―――あなたは、ロドスは、私を救ってくれた。
いつか、ボリバルの難民区で行き倒れた時、頬に当たった陽の光。
あれと同じ温もりを、ドクターの手と、零れた血から感じ取る。孤独と、恐怖と、過ちと、罪悪に塗れた自分を赦してくれるような、あの暖かさ。
担架の上で揺られるうち、覆いかぶさってくる眠気の中で、カンタービレは想う。
―――ねえ、ドクター。私でも……いいのかしら。
―――こんな私が、あなたの手を握り返しても。
―――あなたの理想の隅に、私が居ても。
―――孤独と恐怖を怖いから、身勝手に何人も殺してきた、罪深い私でも……。
うずくまって泣きじゃくる、幼い自分の夢を見た。
手を差し伸べる人がいた。
顔は見えない。姿もわからない。その人は、俯いて涙を流すことしか出来ない自分を、ただじっと待っていた。
手をつかむことも、引っ立たせることもしない。甘い言葉ひとつ、かけることはない。
やがて泣くのにも疲れて、少女は顔を上げた。真っ赤に腫れあがった目には、あまりに眩しく、痛い光が見えた。
“カンタービレ”
たった一言、自分を呼ぶ声。カンタービレはハッとして、迷わず手を伸ばした。
つかんだ手は暖かく、放しがたいほど優しかった。