カントー地方に鎮座する、天を貫く威容を誇る『シロガネ山』。
凹凸の激しい連峰の頂きは6510m。
その登頂難度は非常に高く、頂上へのアタックが成功する確率は約3パーセント。
中腹から上に踏み入った者達の死亡率は驚異の27パーセント。
白銀の頂きを目指した者たちの、およそ3分の1が命を落としている。
しかしこれは、あくまで冬以外の季節での話。
真冬にこの山に挑んで、登頂を果たせた者は未だかつて存在しない。
歴代で雪中登山に挑戦した者たちの数は107人。その内72名が命を落としている。
そうでなくとも、五体満足で帰れる者はほんの一握り。
分厚く積もる雪、頻繁に発生する雪崩や落石、人体に有害なガス地帯。
そして、強大なポケモンたち。
それらは人類が白銀の頂きに手を掛けることを悉く拒む。
誰がそう呼び始めたか。
聳える霊峰のその二つ名は『白銀(はくぎん)の悪魔』。
登山家達は悪魔を打倒する夢を見て、また散っていく。
◆
ある、雪の降り頻る真冬の日。
天からハラハラと落ちてくる、粉のように細かな雪が顔を叩く度に、針に刺されたような痛みを感じる。
下半身全てと、上半身の左半分が雪に埋もれ、身動きの取れなくなっていた私は、ただ粉雪が降ってくるどんよりとした灰色の空を眺めていた。
当時私は18歳で、ポケモントレーナーとしての修練を積むためにシロガネ山に来ていた。
噂通りの極寒の地であり、冬以外でも年中雪が降ることで有名な極地。
今思えば、何故より過酷だと言われている真冬の彼の山に踏み入ってしまったのか。
カントーチャンピオンという肩書きを持った故の慢心だったか。
続々と育つ自分より歳若い後続のトレーナー達を見て感じた、言いようもない焦燥感もあったと思う。
そうした感情の勢いのままに、私は武者修行という名目でこの山に来たのだ。
そんな愚かな小娘が自らに踏み入ってくることが、白銀の悪魔の琴線に触れてしまったのだろう。
相棒の6匹のポケモン達と一緒に、野生のポケモン相手にバトルをしている最中のことだった。
前触れも無く、目の前にあった山の斜面に亀裂が入り、雪崩が起こったのだ。
勢いよく迫ってくる雪流に、思考が困惑する。
何故?
雪崩の前兆である山の鳴き声もしなかった筈だし、バトルも斜面から遠く灘らかな場所で、命令する技も地面や空気への振動が極めて少ないものばかりを指示していたのに。
何故? 何故? 何故?
私の脳内で、疑問が浮かんでは過ぎ去って行く。
答えは『山を舐めていた』他に無いと、今では思う。
しかし、当時の私はこう考え至った。
嗚呼、そうだ。白銀の悪魔は、悉くの人類を拒絶するのだったと。
雪崩に呑み込まれる直前、私は咄嗟の思考で外に出していた手持ちのポケモン達をモンスターボールに戻し、そのまま腰に着けていたものも含めた全てのボールを放り込むようにカバンに仕舞い、それを強く抱え雪崩に背を向けて体を丸めた。
その一瞬の後、人生で味わったことの無い衝撃が全身を打ち、痛みに悶える間も無く私は意識を手放した。
◆
どれくらい経っただろうか。
浮上してきた意識と共にゆっくりと目を開ける。
視界にあるのは薄暗い曇天と、落ちてくる粉雪のみ。
どうやら、なんとか生き残れたようだった。
安堵のため息をひとつしながら体を起こそうとして、気付く。
体の殆どが雪に埋もれていた。
重い雪から露出しているのは、顔と右側の上半身のみ。
腕は辛うじて動くが、雪崩に強く打たれた為か寒さ故か、全くと言っていいほど力を込められない。
これでは体の周りの雪を退かすのは不可能だろう。
圧倒的、絶望の最中にあった。
しかし、手首で鈍く煌いたソレを見て、その絶望は僅かに軽くなる。
私が腕に巻いていた、一見時計のようなそれは、ポケギアと呼ばれる通信端末だったのだ。
時間の確認は勿論、タウンマップのアプリも入っていて、音質は少し悪いが電話をかけることも可能な便利アイテム。
腕を顔に近付けて、前歯でポケギアのコールボタンを押す。
それから緊急時の電話の項目にカーソルを合わせ、もう一度ボタンを押した。
数回のコール音の後、誰かがでる。
──ザザッ……ザーッザーッ……
しかし、そこから流れるのはガビガビとした雑音だった。
当たり前のことを思い出す。
ここには、シロガネ山には電波が無い。
正確には非常に微弱な電波は通っているようだが、電波を発信する施設が遠いためか、その時受信できるかは殆ど運次第だった。
だから山に入る者は皆、山の麓に立てられた管理事務所より貸し出されるトランシーバーのような無線機器を使って助けを呼ぶのだ。
勿論私も貸してもらっていたが、それは腰のカラビナに提げていたので今は使えない。
どうしよう。どうしよう。
再び感情が揺れ、目には涙が僅かに溜まる。
死ぬ?
嫌だ。こんなところで。折角チャンピオンになれたのに。
「助けて…………誰か…………。雪崩に、巻き込まれて…………出れない…………」
誰かが聞いてくれれば、助けが来るかもしれない。
雑音を垂れ流すポケギアに、私は一縷の望みを持って呼びかける。
「誰か、応答して…………痛い…………寒い…………たす、けて…………」
しかし、誰も応答してくれない。
「嫌だよ…………死にたくないよ…………」
遂に、溜め込んでいた涙が溢れ始めた。
ああ、泣いたのなんていつぶりだっただろうか。
チャンピオンになる為に毎日必死に勉強して、寝る間も惜しんでポケモンリーグのバトル映像を眺めていた少し前の自分。
あまりに必死過ぎて、辛いなどということを思う暇すら無かった。
自分が死ぬ時の事なんて考えたことなかったけど。
──そうか、私ってこういう時、泣くんだ。
それを自覚した途端、堰を切ったように涙の勢いが増した。
強くなったと思っていた。
自分の力で生きてきたと勘違いしていた。
私は生涯、気高く、カッコよくトレーナーとしての道を歩んでいくんだって、そう思ってたのに。
情けない! 情けない! 情けない!!
「う、ぁあ…………あぁぁぁああ…………!!」
勉強に励む私をいつも優しく見守ってくれたお父さんの顔を思い出す。
普段は厳しいけれど、私が何かを成した時は一緒に飛び上がるように喜んでくれたお母さんの顔を思い出す。
旅の中で出会ったライバル達を思い出す。
未熟な自分に着いてきてくれた、大切なポケモン達を思い出す。
一人で強くなったんじゃない。
周りの皆が助けてくれたから、皆のお陰で私はチャンピオンになれたんだ。
それなのに、慢心して、勝手に焦って、十分な準備もせずに、全てに無責任に、こんな所に来て。
「ごめんなさい…………みんな、ごめんなさい…………!!」
────謝っても、もう遅いけど。
◆
泣きながらポケギアの向こうに助けを求め出してから、約30分が経過した。
涙も喉も枯れて、目の周りが涙で腫れてしまったのか、ジンジンと痛むのを感じる。
ふと、気付くと、もう手足の感覚がほとんど無い。
意識もおぼろげなものになっていく。
ああ、死ぬ。
──魂が、山に引っ張られているみたいだ。
美しくも残酷な白銀の頂を映したボヤける視界の中、そんなことを考える。
永遠にも感じるほどの絶望の時間。
それが、ついに動き出す。
「グォォ」
声がした。
それは人のものではなく、聞き覚えのあるポケモンのもの。
「…………リングマ」
先程まで交戦していたポケモン、リングマがこちらに近付いてきていた。
目の横にある大きな傷。間違いない、さっき戦っていたいたのと同じ個体だ。
雪崩が発生した直後に走り去っていった奴が、戻ってきたのだ。
かのリングマにある目の横の傷は、私のポケモンが与えたものだ。
奴が私に対して憎悪の感情を抱いているのは、その血走った眼と、荒い鼻息から容易に想像できた。
徐々に近付いてくるリングマ。
対して、こちらのポケモン達は皆雪の下。
抗う手段の一切を、今の私は持ち合わせていなかった。
「グオァァアアアアアッ!!!!!」
私のすぐ側に立ち、こちらを見下ろすリングマが、大きく咆哮した。
空気がビリビリと振動し、思わず目を細める。
駄目だ。
私はこの子に殺される。
希望は無い。
抗う意思も、最早私には存在しなかった。
何処か他人事の様に、今の状況を俯瞰していた。
その刹那。
冷たく、氷の様に固まってしまっていた右腕に激痛が走った。
いや、そんな言葉では表せない程に、途方もない程の痛みが脳の回路をバチバチと狂わせる。
一瞬の戸惑いの後、私は右腕を見る。
──そこには何も無かった。
「…………え?」
困惑が激しさを増す。
何故?
さっきまで確かにあったはずだ。
「私の、右手…………」
「グフッ」
呆然とする私を、まるで嘲笑する様に、リングマは短く鳴いた。
見ると、そこには。
リングマの口の、鋭く尖った上下の牙の間には。
私の、腕が、力無くぶら下がっていた。
「あ、ぁ…………」
食いちぎられた。
私の右腕が、持っていかれた。
それを認識した瞬間、諦めによって霞みきっていた恐怖の感情が爆発した。
「う、わぁぁあああああ!!!!!!」
怖い。怖い。怖い。
完全な恐慌状態に陥った私は、やたら滅多らに泣き叫ぶ。
「やだ、なんで!? 私の、腕、返して!! 返してよ!!!!」
「グルァアアア!!!!」
「ひっ」
私の叫び声を遥かに上回る音圧。
恐怖に押し潰され、出しかけた声も思わず引っ込んだ。
駄目だ。もう、駄目だ。
本当に殺される。
チャンピオンになる為に、何もかもを置き去りにしてきたというのに。
諦めという言葉が何よりも嫌いだったのに。
「たす、けて」
人を頼るということが、何よりも嫌いだったのに!
「誰かぁ! 助けてぇぇええ!!!!!!」
残りの力を全て使い切る勢いで、私は叫んだ。
助けを呼ぶ声を。
自力でこの場を乗り切るということを諦めて、近くに居るかもしれない誰かを頼って。
叫んだ。
次の瞬間。
シャギュウゥと強く雪を踏み締める音が直ぐ側で起こり。
その次に。
「エビワラー! マッハパンチだッ!!」
私ではない誰かの声。
それと共に、リングマの横っ面を赤いグローブが打ち抜いた。
視界外からの奇襲に大きく仰け反ったリングマが体勢を戻す前に、声が続く。
「続けて気合いを溜めてグロウパンチ!」
一瞬の溜めの後、二発目の拳がリングマの土手っ腹に刺さった。
気合いを溜めた一撃は的確に急所を抉る。
加えてタイプ一致の攻撃である為、並のポケモンならこれで撃沈する筈だ。
しかしシロガネ山の苛酷な環境で鍛え上げられたリングマは、苦悶の声を上げながらも両手を振り上げ、力強くそれを振り落とす。
『アームハンマー』だ。
「見切れ!」
コンパクトな戦闘姿勢のままリングマの両手を見上げていたエビワラーは、声に合わせて体を半身ずらし、紙一重でそれを避けた。
「決めろォ! インファイトだ!!」
突き出した左手が再びリングマの腹に突き刺さる。
続けて右の拳が、もう一度左拳が。
そして始まる。
絶え間のない猛連打。
目にも止まらない速さで打ち続けられる拳の雨が、リングマの全身に隙間無く浴びせられる。
先に放ったグロウパンチによって攻撃力が上昇した拳は、慈悲など一切無く、ただただリングマの体を蹂躙していく。
そしてラッシュの最後に放たれた、重い右ストレートを喰らって、リングマの重量級の体が吹き飛んだ。
「──……凄い」
思わず、感嘆の声が漏れた。
あのリングマは、この辺りの同種族の長のような存在である。
通常のリングマに比べて強靭な肉体を有し、知能も非常に高く、遭遇したら逃げるようにと事前勧告されていた程のポケモンだった。
チャンピオンである私でもワンオーワンの勝負では分が悪いと判断して、外道ではあるが手持ちを一体以上出して応戦していた程なのだ。
それを、不意打ちからとは言えたった一匹で完膚無きまでに叩き伏せるとは。
「大丈夫か君!!!!」
呆然としていた意識外から、エビワラーに指示していた声の主がこちらに駆け寄ってきた。
「…………あ」
その男に、私は見覚えがあった。
というより、バリバリの知人だった。
「ああ…………シバ、さん」
カントーポケモンリーグ本部、その四天王の一人であるシバ。
なるほど、彼のエビワラーならこの練度は納得である。
そんな感じの感想をぼんやりとした思考で考えていると、私の傍で膝を落としたシバさんが震えた声で話しかけてきた。
「ショウビくん…………君、腕が」
「は、は…………さっきのリングマに、取られちゃいました」
「…………! もう大丈夫だ、直ぐに出してやる!」
なんとか気丈に振る舞おうとしたが、その声は情けない程に震えていた。
一瞬悲しそうに顔を歪めたシバさんだったが、直ぐに他の手持ちもボールから出して、皆で私の上に重なる雪を掘り返し始めた。
必死で雪を掻き出すシバさんの横顔を見ていると、私の視界が周りの氷雪に蝕まれるように徐々に白くなっていく。
安心したからだろうか。
そうして、私の目の前が真っ白に染まりきる。
◆
シバさんが私を雪の中から救出して直ぐ、救助隊のヘリが到着した。
どうやらポケギアでの呼びかけはちゃんと聞こえていたらしい。
後日それを知って、色々情けない事を言いまくってたのを思い出した私は叫び声を上げながら床を転げ回ったのだが。
それはまた別の話だ。
それはそれして、私はヘリで最寄りの病院に搬送された。
目を覚ましたのは、それから2日後。
かなり危ない状態で、普通に死ぬ一歩手前だったらしい。
それでも、病院側の尽力もあってなんとか一命を取り留めた。
…………のだが、意識を取り戻して直ぐに繰り出された、ベッドの側に座っていた母親からの愛ある強烈過ぎるハグ。その猛烈な痛みにより即昏倒。
まさかの身内からの追い打ち。
入院が一週間ほど伸びた。
◆
右腕は、肘から先がやはり無かった。
夢ならどれだけ良かったか。
夜中に再び意識を取り戻した私は、一人声を押し殺して泣いた。
暫く泣いた後、泣き疲れて睡魔に襲われた私は、再びゆっくりと目を閉じた。
「…………お昼か」
次に目を覚ます頃には、時計の針は昼下がりを指していた。
体も痛むし、凍傷が治りきってないのだろう、なんだか全身が痒い。
包帯の巻かれた右肩も、我ながら痛々しかった。
ああ、何度見ても堪らない喪失感。
無念と後悔が胸を泳ぎ、吐き気すら感じる。
しかし、ふと気付く。
「……そうだ、ポケモンたちは」
湧き上がる悲しみを振り払い、雪の下敷きになってしまった筈のポケモン達の入ったボールを探す。
病室を見回すと、直ぐに彼らは見つかった。
ベッドの傍らのテーブルの上に、六つのボールが置かれていた。
僅かに透けたボールの上部から、手持ちのポケモン達が心配そうな顔でこちらを見つめている。
「良かった……。皆、無事だったんだ」
安堵のため息をひとつして、痛む体を無理やり動かし、無事な左手をボールに伸ばす。
「……あれ?」
手が、ボールを掴む寸前で止まった。
「なんで」
困惑する思考。
更に腕を伸ばそうとしても、震える左手はその場から動かない。
どうして。
大好きな彼らが無事だった。
これほど嬉しいことは無いのに。
なのに、私の手はボールを掴めない。
「……ご、ごめんね皆。心配かけちゃった。もう大丈夫だから」
一度手を引っ込め、少し不自然かもしれない笑顔を彼らに送ると、ボールの中のポケモン達は安心したように表情を緩ませた。
それは純粋な善意。
心優しいこの子たちを、今すぐボールから出して抱きしめてあげたい。
なのに、なのに。
なんで、この手はボールを掴めない?
呆然と自分の左手を眺めていると、がらりと病室のドアが開いた。
そこに居たのは、昨日私をK.Oさせた母親だった。
彼女は私を見ると、ぶわりと大粒の涙を流しながらこちらに駆け寄ってきた。
流石に昨日の今日で抱きついてきたりはしなかったが。
母曰く、ポケモンリーグ本部から私が非常に危険な状態だと連絡が入り、仕事もほっぽり出して私に会いに来たようだ。
我が母ながら、優しい人だと心底思う。
彼女は病院に来てから一睡もしていないらしく、目の下の隈、荒れた肌と窶れた顔が見ていてとても可哀想だった。
近所で美人だと評判の美貌が、今だけは見る影もない。
「しっかり寝てよ」と私が苦笑交じりに言うと、「娘が死ぬかもしれないって時に呑気に寝ていられるわけないでしょう!!」と物凄い剣幕で怒られた。
ご、ごめんなさい。
私が素直に謝ると、母は少しだけ目を見開いて、それから柔らかく微笑んだ。
「生きててくれて、本当に良かった」そう言った彼女の慈愛に満ちた表情は、隈や痩けた頬なんて関係ない程に、なんというか。──美しかった。
現実世界で最も危険で困難な山と呼ばれるK2が登頂確率10~11%と言われているのに対し、シロガネ山の登頂確率が3%というのは低過ぎないかと思う方もいらっしゃるかと思います。
これは現実世界とは違い、野生ポケモンによる襲撃というプラスのアクシデントがある為です。
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