あれから────約一年の年月が流れた。
紆余曲折あって私はチャンピオンを辞任し、故郷のマサラタウンへと戻り、実家で母親と一緒に暮らし始めた。
巷では『カントーリーグチャンピオン、電撃引退!?』という風に一時期話題になっていたようだが、それも一年という月日の中で徐々に話題性を薄まり、今では「そんなことあったな」程度の認知度だ。
実際、マサラに帰ってきた当初は町の人々に散々理由を聞かれたもんだが、愛想笑いで誤魔化し続けている内に誰も触れてこないようになった。
要は軽い腫れ物扱いをされている訳だが、だからといって後ろ指を差すような輩はこの町には存在しない。皆いい人ばかりだ。
そんな環境に甘える形で、私は日々の平穏を享受させてもらっている。
少し前まではポケモンバトルの事だけを考えて生きてきたが、こういった何事もない日々を送れる事こそがなによりの幸福なのかもしれない。
さて、そんなこんなでチャンピオンを引退した私だが、今ではポケモン研究の権威であるオーキド博士の助手として働かせてもらっている。
とはいえ、私自身は研究業の知識も技術もない。主な仕事は事務作業だ。毎日それなりに忙しいが、もちろんチャンピオンだった頃の多忙さとは比べるまでもない。
それでも、今の私にはこれくらいが丁度良かった。
というわけで、今日も今日とてお仕事お仕事。
現在の時刻は午前8時。簡単な朝食と身支度を済ませオーキド研究所へと向かう。
ブーツの踵を鳴らしながらえっちらおっちらと歩みを進める。まだ少し冷える空気が頬を撫でる感覚が、なんとも心地良い。
そうしてのんびり、町の風景を眺めながら歩いていると、後方から微かに忙しない足音が聞こえてきた。
遅刻しそうな学生か、サラリーマンだろうか。
そう思って軽く振り返った私の目に映ったのは、意外にも見知った男の子の姿だった。
赤い帽子に赤いジャケット。オマケに名前は『レッド』と、見事なまでに赤尽くしの男の子。
しかし彼のイメージカラーと相反するように、その性格は割りとクールで、口数は多くなく10歳の子どもとは思えない言動をすることもままある。少しばかり変わった少年であった。
そんな彼が表情が酷く焦慮に溢れるものだったから、私は思わず目を丸くしてしまった。
猛ダッシュをするレッド君なんて初めて見た。
遅刻だろうか。朝から珍しいものを見たものだと、私の背後にまで迫ってきた彼に声をかける。
「おーいレッド君! 遅刻かー?」
「おはようショウビさん! 急いでるからまた後で!」
そう早口で言って彼は、私の横を通り過ぎて行った。
軽く土煙が上がる程の勢いで走っていく彼の背中を見ながら、その尋常じゃない様子に疑問符が浮かべる。
しかし、少し考えると理由は直ぐに思い至った。
「……あ、そうか」
そういえば今日は、彼……いや
「今日はあの子たちが、博士からポケモンを貰う日だったか」
なんとも、懐かしい。
何を隠そう、私がポケモンリーグに殿堂入りした時の手持ちの一匹も、博士から貰ったポケモンだった。
今日、あの少年は一匹のポケモンと出会い、そしてポケモントレーナーになる。
長い長い旅をして、彼らは沢山のポケモンとトレーナーに出会っていくのだろう。
楽しい事も苦しい事も数え切れないくらいに経験して────
ああ、つい昔の事を思い出してしまった。
「──旅立つ若人に幸多からんことを」
……願わくば、彼が私のように、愚かで最悪なトレーナーになりませんように。
◆
俺はマサラタウンのレッド。
今日は待ちに待った、初めてのポケモンを貰える日だ。
そのポケモンを連れて、俺は今日からポケモントレーナーとしての旅に出る。
しかしまさかの寝坊。
急いで支度をして、全速力のダッシュでオーキド研究所に向かっていると、一人の女の人が声を掛けてきた。
「おーいレッド君!遅刻かー?」
「おはようショウビさん! 急いでるからまた後で!」
オーキド研究所で博士の研究の助手をしているショウビさんだ。
普段ならば立ち止まって世間話の一つでもするのだが、今はそんな時間が無い。
彼女には悪いが、軽く挨拶をしてそのまま研究所へと走った。
息も切れ切れで研究所に辿り着くと、既に博士と、その孫であるグリーンが待っていた。
二人のもとに走りよって、頭を下げる。
「遅れてごめん!」
「おせーぞレッド! 三十分の遅刻だぞ!」
立ったまま片足を揺すらせて、グリーンが怒鳴った。
遅刻したのは勿論悪いと思ってるけど、そんなに大きな声出さなくても…………。
俺が再度謝ると、ふんと鼻を鳴らして腕を組み、そっぽを向いた。
そんなグリーンの様子に苦笑しながら、オーキド博士が口を開く。
「おはようレッド。昨夜は眠れなかったのかな?」
「はい……今日ポケモンを貰えると思ったら、中々寝付けなくて…………」
「ははは、それならしょうがないの〜。でも今日から君は一人のポケモントレーナーとして旅に出る。時間管理はキッチリできるようにならんとな」
朗らかに笑った彼に再度頭を下げる。
俺の謝罪に軽く頷いた博士は「さて、それじゃあ」と言って、傍らにあるテーブルに手を乗せた。
「ここに、三つのモンスターボールがあるじゃろ」
テーブルの上にある、その言葉通りの三つのモンスターボール。
赤く透けた半球越しにそれぞれのポケモンの姿が確認できた。
「二人にはこの中に入っているポケモンを一匹授ける。これから旅立つ君たちの、頼りになる相棒になってくれるじゃろう」
それから、ボールに入っているポケモンの説明をしてくれる。
炎タイプのヒトカゲ、水タイプのゼニガメ、草タイプのフシギダネ。
どのポケモンも野生では中々お目にかかれない珍しいポケモンだ。
初めて見る彼らに、心が踊る。
「良く考えて選ぶのをオススメするが、直感で選ぶのもそれもまた良いじゃろう。さあ、どのポケモンにする?」
グリーンをチラリと見る。
あちらも俺の方に視線を寄越していた。
「先に選ばせてやるよ」
「……良いのか?」
「オレ様は優しいからな。土下座して感謝しろよ」
「土下座は絶対しないけど…………じゃあ、お言葉に甘えて」
グリーンの事だから、てっきり先に決めたいと言い出すと思った。
言ってることは結構最悪だけど、意外と心の中は大人なのかもしれない。
テーブルに近づき、ボールの中を覗き見る。
さて、どうやって決めようか。
…………旅に出て、近くのジムに挑戦するとして。
トキワジムの専門は地面タイプ。ニビジムの専門は岩タイプ。ハナダジムの専門は水タイプ、だから。
申し訳ないが、炎タイプのヒトカゲは少し活躍しずらそうだ。
なので水タイプのゼニガメか、草タイプのフシギダネのどちらかを選びたい。
あくまで知識としてだが、水タイプは有利なタイプ相性の相手が多くかなり強力、草タイプは弱点が多くてそこまで強くない。そんな感じで把握している。
旅の安定を取るなら、ここはゼニガメ一択だろう。
────しかし、ポケモンバトルはタイプの相性だけでは決まらない。
それを覆して勝ちとる勝利こそに、俺は意味があるとそう思う。
だから。
「俺は、フシギダネを選びます」
フシギダネの入ったボールを手に取り、覗き込む。
嬉しそうな笑顔を浮かべる彼に、思わず俺も小さく笑った。
よろしくな、フシギダネ。
「じゃあ俺はコイツにしよっと!」
そう言ったグリーンが速攻で手に取ったのは、ヒトカゲが入ったボール。
俺が選択肢に入れなかったポケモンだ。
…………あれ、もしかしてコイツ。
俺が選んだポケモンと相性の良いのを選んだのか?
こちらを見てニヤリと笑ったグリーンに、ひくりと頬が引き攣る。
後出しじゃんけんってことか。
前言撤回、やっぱりコイツは子どもっぽい。
「よし」
ニヤついたグリーンが良いことを思いついたと言わんばかりの顔をする。
今貰ったばかりのボールを顔の高さまで掲げて、言葉を続けた。
「レッド。ポケモンバトルだ」
「はぁ?」
ポケモンバトルとは、トレーナーとして生きるのならば避けては通れないもの。
ポケモン同士の強さを競うために、あるいはトレーナーとしての技量を競うために行うもの。
しかしそれは、手に入れたポケモンの性格、特性や使える技を把握して、それを加味したトレーニングを行った末に行うものでもあって。
そう、やっぱり目の前のこの少年は、子どもっぽい。
その誘いに心躍ってしまった、俺も同じく。
「……いや、受けて立つよ」
「よーし、珍しく良い返事をするじゃねーか!」
「良いですかオーキド博士?」
「ああ、幸いその二匹が戦うくらいの広さもあるからの。やってみると良い」
その代わり、と博士が付け加える。
「どれだけ二人がポケモンに詳しくても、バトルに関しては素人じゃ。じゃからそれぞれに監督をつけることにしよう」
「監督? いらねーよそんなもん」
「年上から聞いた事は良く考えるものじゃよグリーン。もしなんの補助も無くバトルをしたら、恐らくこの部屋にある物の弁償代で多額の借金を抱えたまま旅に出ることになるぞ?」
「うっ……分かったよ。でも、監督って誰がすんだよ?」
じーさんがやってくれるのか?
グリーンの言葉にニコリと微笑んで、博士が自身の胸を打った。
「そう、儂と」
博士が、俺の後ろを指差す。
振り返ると、そこには。
「彼女が監督をするよ」
「……へ? 監督?」
呆けた顔で自身を指差す、先ほど会った女性の姿があった。
※
二人が貰ったばかりのポケモンで戦いたいらしく、博士と私でセコンドのようなものをすることになった。
なんでやねん。
いきなり過ぎるし、そもそも私は長い間ポケモンバトルとは疎遠の世界に居るんだぞ。
なので、いきなりそんなことを言われても困る!と博士に小声で抗議すると。
「なに、ワシもポケモンバトルの世界から離れて長い。それでもポケモン達を近くで見てきて、彼らのことを昔より理解出来るようになったと思っている。君もそうじゃろう?」
「でも、私は…………」
「まぁそんなに気負わんくても良いわい。駆け出しのトレーナー二人に、軽い餞別をくれてるつもりでいれば良い」
普段の仏頂面を忘れさせるような、穏やかな笑みで博士が諭してくる。
それでも私は。
あのシロガネ山の一件から。
「…………私まだ、ポケモンに触れないんですよ。昔みたいに彼らと心を通じ合わせることは、もう出来ないんです。そんな私にバトルの監督だなんて」
「君がどれだけ変わっても、君が積み上げてきたものは変わらない。毎日恐怖を克服しようと、君なりの努力も重ねてきたじゃないか」
ニカリと歯を見せて笑った好々爺は、ポンと私の頭を軽く撫でた。
「ショウビ、怖がる必要なんて無いんじゃ。君ならやってあげられると、儂は信じておるよ」
「…………おじいちゃん」
ああ本当にこの
時に厳しく叱咤されることもあるが、最後には「君ならできる」と笑って、私の背中を押してくれる。
もう長い間、手持ちのポケモンともまともに触れ合えてこなかった。
彼らは研究所の広い敷地内で日々のびのびと生活しているが、真正面から触れ合ったのはあの日以来だ。
寂しい思いをさせていると思う。
だからこそ、私もこの一年間、少しづつ研究所のポケモンとの距離を詰めるように努力してきた。
……これも良い機会なのかもしれない。
「分かった。頑張ってみる」
「決まりじゃな」
話が一区切りついていた所で、私達から離れたところで貰ったばかりのヒトカゲと戯れていたグリーンが「おーい、いつまで話し込んでんだよ!」と声を掛けてきた。
せっかちな
祖父と従姉はそんな少年に苦笑しながら、グリーンとレッドの元へ向かった。
さて、バトルが始まる。
博士はグリーンを、私はレッド君の監督をすることになった。
両トレーナー配置に付き、お互いのポケモンを繰り出す。
「さぁ、初めてのポケモン勝負。緊張するだろうけど肩の力抜いてやってみよう」
「よろしくおねがいしますショウビさん」
こちらのポケモンはフシギダネ。
あちらのポケモンはヒトカゲか。
バッサリ言ってしまうと、負けは確定だな。
フシギダネは草タイプ。ヒトカゲは炎タイプ。
相性が綺麗に最悪だ。
相手の「ひのこ」は威力が弱いが、それでもまともに喰らってしまえば一発アウト。
命中力も高いので、基本は避けるのも難しい。
これを勝たせるのは至難の業だ。
元チャンピオンである私であっても、勝つためのアドバイスはしようがない。
なので。
「レッド君」
「はい」
「先に言っておくけど、この勝負は勝てない。何故だか分かるかい?」
「……相性が最悪だから?」
「うん。今のフシギダネじゃ、どうあがいても勝てないのは目に見えている。だから、このバトルで得られることを逐一説明するのが私の役割だと思ってくれ」
こちらを見上げる顔は、いつも通りの無表情。
だけど、その眼だけは、彼の名前を体現するように燃えている。
負けたくないと、そう思っているんだな。
当然だ。負けたくてバトルをするトレーナーなんて存在しない。
でも、だからこそ。
「どんなトレーナーでも、初めてポケモンを持ってから今まで一度も無敗だった人なんて居ない。負けたとしても次勝てるように、一つ一つのバトルで何かを見出す。それが強いトレーナーになる為の第一歩なんだ」
「……分かりました」
「よし、それじゃあ」
バトル、スタートだ。