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私がその埃を被った真白のキャンバスに出会ったのは、四月の半ば頃の、少し冷える日だった。小雨が降っていた。
〇
夜明け前に、私達は拠点の移動のために荷物を持って、その廃校にやってきた。花の名前を冠した学校だったようで、その名前が刻まれたプレートが校門に掛かっていた。錆びてしまっていた。
私達は時々そうやって拠点を移し替える。同じ場所に留まっていると、誰かに見つかってしまうかもしれないからだ。持ってきた荷物を広げて、──と言っても寝袋と少しの食糧の他にはほとんど何も無いけれど──使わない入口にはトラップを仕掛けておく。それからひと休みして、午後になると、それぞれ仕事に行ってしまった。拠点の見張りは当番制で代わる代わるやっている。今日は私の番だった。
手持無沙汰になった私は、その学校の中を歩いていた。学校に通ったことはないけれど、放課後というのはきっとこういう空気だったのだろう、というのが分かる。夕焼けの空がオレンジ色に染まっていて、その光が廊下に差し込んできている。
大きな学校だったようで、色々な教室が廊下から繋がっていた。
美術室の扉を開けると、机や椅子はほとんどそのままの形で残っていて、棚には石膏や画材が収められていた。壁に、未完成の作品だろうか、まだ半分くらいが白紙のままの絵画が立て掛けられていた。
いくつか引き出しを開けてみると、筆や絵の具、それからキャンバスといった道具が揃っていた。どうして廃校になる時に持ち出さなかったのかは分からないけれど、きっと仕方のない事情があったのだろう。
〇
私はそこで、人生で初めて絵を描くことについて考えてみた。道具が揃っているならば絵を描ける、というシンプルな始まりから、私の思考は私自身の人生全体の俯瞰にまで向かって行った。そういえば、私はこれまでの人生で一度も、思い出せる限り、絵を描いたことはなかった。絵を描くこととは遠く無縁な生き方をしてきたのだ。それがどういう巡り合わせか、廃校の美術室で真白なキャンバスに出会った。絵を描く? 一体絵とはどうやって描くものなのだろうか。私は壁に立て掛けられた名前も知らない誰かの作品を注意深く観察してみた。机の上の瓶に入れられた向日葵を描いたそれは、景色をそのままそこに閉じ込めたようだけれど、ある一部分にだけ注目して見てみると、それは確かに絵の具で描かれた絵だった。しかしその絵を見つめていても、具体的に絵を描けるイメージはこれっぽっちも湧いてこなかった。
〇
「それで私を呼んだんだ」と先生は言った。
「そう、先生なら絵の描き方も分かると思って」
前に、分からないことは聞いて良いんだよ、と言っていたから、先生を呼びだしてみた。位置情報と共に来て欲しい、とお願いしたらものの数十分で来てしまったから、私は少し驚いた。
「でも絵の描き方なんて私も知らないんだ」彼は少し申し訳なさそうに言った。
「先生にも知らないことがあるんだ」
「それに知っていても、練習しないと上手くなれないんだよ」
「そうなんだ」
少し残念だった。
「一緒に勉強する?」
「勉強?」
「そう、絵の描き方の勉強」と彼は言った。
「でも、先生も知らないことをどうやって勉強するの?」
「今度図書館で本を借りて来るよ、絵の描き方の」
毎週木曜日の午後が一人で見張りをする取り決めになっていることを伝えると、彼はその日に授業をしようと言った。一緒に絵を描こう、という事だった。
「嬉しい」と私は笑って言った。
〇
美術室を後にして、私達が寝床にする部屋に彼を案内した。二階の、ただの教室に寝袋を敷いている。
「何か必要なものがあれば言ってね」と彼は言った。
「ありがとう、でも、特別不自由している訳じゃないから、大丈夫。それにサッちゃんが、これ以上先生のお世話になりたくないみたいだから」
「分かった」
私は窓際の机から椅子を引いて座って右手を挙げた。
「先生、質問があります」
彼は少し戸惑った後で、黒板の前に立って言った。
「はい、秤アツコさん」
「絵って何を描けばいいんですか?」
「そうだな」と彼は目線を私よりも奥に逸らし、それから戻した。「好きなものを描けばいいと思うよ。アツコなら、花とか」
「花」
私はあの向日葵の絵を思い出していた。あの絵を描いた人は向日葵が好きだったのだろうか。
「好きなものなら、よく観察しているだろうから」
「観察していることが大事なの?」
「大事だと思うよ」と彼は答えた。「よく見ていないと、描けないんじゃないかな」
〇
彼を見送るために玄関口まで降りて、校舎を出た。月はちょうど頭の上にあって、私達を見下ろしていた。
「あれ」と彼が言った。
「どうしたの?」
「花壇がある。ほら、あそこ」
玄関口から見て左手側に、レンガで組まれた小さな花壇があった。ここに来る時に気が付かなかったのは、それが花壇でありながら、太陽から隠れるように存在していたからかも知れない。その花壇には低木が、好き放題に生えているようだった。
「薔薇かな」と彼が呟いた。
その低木には棘が、等間隔で綺麗に並んでいた。蕾のようなものが、──それは注意深く観察すれば分かるくらい曖昧に──存在している。遠目に見ればそれは茨と大した違いは無かった。花壇を管理する人がいなくなってしまって、花壇を超えて生えようとしているのだ。
「薔薇だね」
薔薇の花は、桜の花弁がすっかり落ちるくらいに咲き始める。一ヶ月後くらいには、ここにも薔薇の花が咲くのだろう。
「ちょうどいいね」と彼は言った。「この薔薇を描こう」
「蕾を描くの?」私はよく分からなかったからそう聞いた。
「違う違う、咲いたら描こう」
「そっか」と私は彼の意図を読み取って答えた。「じゃあ、それまでに練習しないと」
校門の前で、彼を見送った。
〇
廃校には色々な物が、当時の形で残されていた。音楽室にはピアノがあって、私は人生で初めて鍵盤に触れてみた。指を沈み込めると音が鳴る。それだけだった。いくつかの鍵盤は、壊れてしまっているのか音が鳴らなかったし、同じ白なのにキャンバスを見つけた時ほどの胸の高鳴りは無かった。
教室にも色々な種類があることは、その廃校に来てから気が付いた発見だった。家庭科室には料理をするための道具があった。どうやって使うのか分からないものもあったけれど、先生に聞くほど興味は湧かなかった。
結局その美術室が、どういう訳か私を一番惹きつけた。絵を描くことについて考えることは、──その工程や姿といった具体的なものは何一つとしてその形を捉えることはできないけれど、──随分と楽しい時間なのだ。
キャンバスはその一枚しか無かったけれど、白い紙は沢山あった。鉛筆も沢山あった。そんなこと気にしたのも初めてだったけれど、鉛筆にも色々と種類があるようで、2Bという文字が金色に彫られたものは、私が知っている鉛筆よりも文字が濃く書き出された。多分、芯の硬さが違うのだ。
Hの鉛筆を握る。何枚も重なっている白い紙を上から一枚貰って机に置く。目の前に転がっている2Bの鉛筆をよく見る。ただ見るのではなく、観察する。見ることと観察することに一体どのような違いがあるのかは分からないけれど、私はとにかくその鉛筆をそっくりそのまま紙の上に写し出すことだけを考えた。鉛筆はどれくらい太くて長いのだろうか。目の前で見ていても、一度紙に目線を移すと視界と一緒に私の頭も白紙に戻ってしまったように、その鉛筆のことを思い出せなくなってしまう。私は何度も、鉛筆と紙の間で視線を行ったり来たりさせた。思い出すという作業は、こんなに難しいことなのだ。
私は一度手を止めて、思い出すということについて考えてみた。例えば、先生の顔を思い出せるだろうか。驚くべきことに、さっきまでずっと見ていたはずの先生の顔ですら、それを全て思い出すことは叶わなくなってしまっていた。彼の目を覚えていない。優しく笑った時に少し口角が上がる彼の顔が好きなのに、私はそれを思い出せなかった。
そんなことを考えて一度手を止めたものの、私はなんとか鉛筆の絵を描き終えた。それは鉛筆の絵ではあるけれど、それでしかなかった。
何かが違うのだろうか、と私は向日葵の絵を見た。未完成であるにもかかわらず、その絵には私をこの美術室に惹きつけるだけの何かがあった。それを言葉にしようとしても、喉を言葉が滑って上手く言い表せないが、その絵には私の鉛筆の絵には無い何かがあった。単純な絵の上手さとか、そういうものを抜きにしても。何が違うのだろうか? と私は正面に立ってその絵を見た。向日葵は太陽を見るような目で私を見ていた。
〇
「上手く描けてる。描いたことないとは思えない」
次の週の木曜日の夜に、彼は私の絵をそう評した。
「ありがとう。先生、もっと上手く描きたい」
「本を借りてきたよ」
彼はそう言うと、美術室の机の上に三冊の本を置いた。月光の頼りない明かりに当てながら、私はその本を読み始めた。
その本は、──彼は〈教科書〉と呼んでいた──お手本の絵がどうやって描かれているのか、その過程を丁寧に説明してくれる。複雑に絡まり合った糸を紐解いていくように。一本の糸になってしまえば、特別難しいことをしているようには思えなかった。時々、分からないことがあれば彼に尋ねる。彼も絵についてはてんで素人だから、教えて貰うというよりも、一緒に理解しようとするような感じだった。
「本当、少しだけ上手くなった気がする」
その本を読んだ後で、私は彼と一緒にもう一度鉛筆の絵を描いてみた。光はどこから当たっているのか、その影はどれくらい濃いのか。斜めに置いた鉛筆が、遠くなるほど細くなる。当たり前に見ている景色にも、様々な要素が織り交ぜられていて、そういうものを注意深く見つけていく。観察するとはそういうことなのだ、とどこか合点がいって、嬉しかった。
「いや、随分上手くなってる。上達が早い」
彼も横で一緒に描いていたけれど、彼はあまり上手くいかなかったと頭を掻いていた。
「先生にも苦手なことがあるんだね」
「当たり前だよ、完璧な人間なんていない。完璧な絵が存在しないようにね」
「完璧な絵?」と私は聞いた。
「そんなものは存在しないんだって。ワイルドハントの生徒の受け売りだけれど」
「そうなんだ」
安心? そう、私はその言葉に安心していた。完璧な絵が存在しないなら、きっと絵には答えが無いのだ。どこかで間違えたのではないか、という絵への不信感が消え去ったのだ。
「そうだ、今度美術館に行こう」
「美術館?」
美術館を知らない訳ではなかったけれど、私はそう聞き返した。色々な絵画が、──そういえば絵と絵画は何が違うのだろう──飾られている場所らしい。私が知っていたのはあくまで辞書的な言葉の意味としての美術館だったから、そこへ行くことが話の流れと結びついていなかった。美術館にいったい何があるというのだろうか?
「いろんな美術品が見られる場所だよ」
「面白そう」と私は言った。
面白そう? そう、私は面白そうだと思ったのだ。美術館という言葉の意味を知った時は、きっとそんなものに何の価値があるのかと私は疑問に思っただろう。私の考え方や価値観は、どこかでスイッチを切り替えたように変わってしまったのだ。
「じゃあ行こう、今度シャーレの当番ってことにして誘うよ」彼は嬉しそうに言った。
「仕事は?」
「何とかするよ」
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次の週の水曜日に、私はシャーレの当番に呼ばれた。表向きはそうなっているだけで、美術館に行こう、ということだった。
仕事は大丈夫? と聞くと、彼は首の後ろを掻きながら大丈夫だよ、と答えた。きっと何かの無理をしたのだろうけれど、それ以上そのことについて言うのはあまり得策ではない気がしたから何も言わなかった。
ワイルドハント芸術学院、という美術学校の自治区に大きな美術館があって、そこのチケットを用意してくれたらしい。
「ありがとう、先生」
「いいんだよ、私もちょうど休んでどこかに行きたかったんだ。丁度いい口実になってくれてありがとう」
適度に気を遣わせないようにする言い回しを、彼はどこで教えて貰ったのだろう。彼のそういう気遣いに触れるたび、彼が私よりもずっと大人であることを思い出す。隣を歩いているはずなのに、ひどく遠くにいる気がするのだ。
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D.U.の駅からはキヴォトスのほとんどの駅に一本の電車で行くことができるけれど、美術館前という直接的な駅名の駅に辿り着くまでには電車の乗り換えが必要だった。電車を乗り換えたのは、──そもそも電車に乗ったことすら数えるくらいしかない──初めてのことだったから、私は刷り込みされたヒヨコが親鳥の後ろを歩くように、彼についていくだけだった。
駅を出ると、D.U.やその周辺とは異なった意匠の建物が建ち並んでいて、嗅いだことの無い食べ物の香りがした。景色に対してそこまで詳細な感想を抱いたのは久し振りだった。彼に案内されるまま、その不思議な街並みを歩く。見たことの無い花が咲いている花壇もあった。
「綺麗な街」と自然と口から零れた。
「だね、D.U.とは違った趣がある」
「ここも美術館の中なのかな?」
「そうかもしれないね」
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美術館という建物の前には噴水と、それから奇妙な形をした何かがあった。ガラスでできたその不思議な構造物を横目にエントランスに入ると、まるでそこが現実と鏡の境界面だったように、私はその沈黙に圧倒された。向かいの壁との遠近感が掴めないほど広い広間は、豪華な装飾が施された天蓋で蓋をされているみたいで、とても静かだった。棺桶の中のように。
「私も来るのは初めてなんだけれど」と彼が言った。「なんか凄い場所だね」
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不思議な構造の建物だな、と思っていると、彼がそのことついて教えてくれた。曰く、どこにいても二枚以上の作品が見えないように壁が立てられているらしい。
「一枚の絵を見て欲しから?」
「そうだと思う」
誰かの顔を描いた絵があった。その絵画の中の女も、私がその女を見るように私を見ていた。真っ黒な世界から私を見ているのだ。すると段々と、私は世界の境界線が分からなくなる感覚に襲われた。絵画を見ているはずなのに、その額縁から、絵画から何かが足元まで這いよってくるような、そんな感覚があった。もしかしたら、美術館にいるのはその女であって、私がその世界の展示物として見られているのかもしれない。
「どう、アツコ」と彼が聞いた。
「不思議な感覚」と答えた。
「この絵を描いた人は」と彼は言った。「何を思ってこの絵を描いたんだろうね」
「何を思って?」
「つまり、どうして絵を描いたのかな」
「どうしてだろう」
彼に言われて、私はまた違った目線でその絵を見つめた。
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「楽しかった?」
駅まで戻る途中に彼が聞いた。
「うん、ありがとう。連れてきてくれて」
〇
ちょっと立て込んだ用事があるから授業が出来ない、と次の日に連絡が来たから、私は自習しているね、と返した。
絵を描く理由について考えながら、彼の置いていった本に倣って模写をする。
貴方はどうして絵を描くの? と私が聞いた。
私は分からなかったから黙っていた。どうしてだろう、と自分なりに考えてみても、それらしい理由は見つからなかった。
じゃあ、絵が無くなってしまったら? と私が聞いてきた。
絵が無くなってしまったら? どういう意味なのかよく分からなかったから聞き返した。
絵が無い世界になってしまって、世界の誰も、──私さえも絵のことを忘れてしまう、ということ。と私は教えてくれた。
それは、と私は答えた。悲しい。絵を描くのは楽しいから。
そう、楽しいからだ。私は深く納得した。
「先生、次に来る時には別の教科書を持ってきて欲しい」と彼にモモトークを送った。
彼から返事があったのはその一時間後のことで、「分かった、見繕って持って行くよ」と答えてくれた。
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五月の半ば頃に、薔薇の低木はその蕾のほとんどを花に変えた。桃色と黄色がちょうど半分ずつくらいだ。
ここからは開く蕾よりも落ちる花弁の方が多くなっていくだろうから、一番綺麗な時にその花を描いてしまおう、ということになった。例によって木曜日の、その日はちょっと早い時間から先生がやってきて、二人で花壇の前まで椅子を持ってきて座った。
「綺麗に咲いてるね」と彼は嬉しそうに言った。
「うん。手入れもしてないのに」
ついに一つしかない真白のキャンバスを持ち出して、そこに線を描き始める。鉛筆で薄く、あたりを作っていく。どれくらい経っただろう、私はその白紙の上に完成形のイメージを乗せることに成功した。鉛筆の跡は視覚的な補助というよりむしろ、私自身の手がその花を描くことを覚えるためにやっていたようだった。
彼は黙ってその過程を見ていた。
パレットに絵の具のチューブを絞り、そのいくつかを混ぜて使う。絵の具を混ぜて色を作る、というのも教科書が教えてくれたことだった。私はなるべくその葉の青に似せて、緑と青と、少量の黒の絵の具を混ぜた。
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絵を描き終えたとき、辺りは真っ暗になっていた。少し先に座っている先生の顔も、もう見えないほどだった。もう一度薔薇に目線を戻すと、さっきまでそれを描いていたとは思えないほどに、花も茎も暗闇に包まれていた。
「書き終わったの?」と彼が聞いた。
「うん、多分」
「多分?」
薔薇の絵が描きあがったキャンバスを見てみた。絵の具が乾ききっていないことを除けば、その絵は完成しているように思えた。勿論それは、自分が描き切ったと思う、ということでしかないのだけれど。
「うん、描き終えたよ」
「見てもいいかな」
「うん」
彼にその絵を手渡した。手から離れてしまうと、すっと腕に掛かっていた重みが無くなった。キャンバスが質量として持っている重み以上の何かが外れてしまったような感覚だ。
「先生に貰って欲しいの、その絵」と私は言った。
「貰っていいの?」彼はきょとんとして聞いた。
「うん。元から渡すつもりで描いた絵だから」
そう答えると、彼は嬉しそうにありがとう、と言った。真っ直ぐにお礼を言われるのは慣れていないから、気恥ずかしいような、照れ臭いような気がした。
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それから程なくして私達は拠点を別の場所に移して、それ以降その廃校には立ち寄っていないから、薔薇の低木はまだあるのか、それとも枯れてしまったのかは分からない。あるいは去年の秋に始まったD.U.の再開発計画の一環で校舎ごと無くなってしまったかもしれない。
「家に飾ってあるよ。額縁に入れてね」
その絵を彼に手渡してから七年後、──多分七年後だと思う──に偶然彼とカフェで立ち会って、その絵の行く末を聞かされた。私はもうその絵がどんなものだったか、断片的なことしか思い出せなくなってしまっていたけれど、彼はその絵が未だ綺麗な状態で保存できていることを嬉しそうに教えてくれた。
「ねえ、先生」と私は聞いた。「今から見に行ってもいい?」
「その絵を?」
「そう。あんまり覚えてないから」
「いいよ。ここから歩いて行けるよ」
秤アツコという少女と絵について。(あとがきにかえて)
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いつだったか、完璧な絵というものは存在しない、ということを彼女に言った気がする。その言葉は元々、私がワイルドハントの生徒から聞いて気に入ったから受け売りしていただけなのだけど、彼女はその言葉が絵を描くことに随分と役立っている、と言っていた。
しかし時折、彼女の描いた薔薇の絵こそが完璧な絵なのではないか、と思うことがある。その絵を見れば、今でも彼女がその薔薇を描いていた光景をありありと思い起すことができる。月光とか、薔薇の優しい香りとか、彼女の横顔とか、そういうものまで含めて。
完璧な絵というものは存在するのだろうか? 彼女は多分、今でもノーと答えるのだろう。