連日の薄暑が小休止に入った。
日当たりのよいテラスでは、小学五年生の真由美が久し振りの読書に興じていた。
彼女が読んでいる本は、小難しそうな魔法理論の学術書である。
書いてあることの全てを理解しているわけではないが、後学のためにと、こうして暇を見つけては読み漁ることを日課としていた。
「何してんの?」
「きゃっ──!」
突然頭上から降って湧いた声に、真由美は思わず喫驚する。
声のボリュームこそ小さいが、発生源は頭一つも離れていなさそうだ。
読むのに集中し過ぎていたのか、真由美は接近してくる人影に気づかなかった。
持っていた本をこぼしそうになりながらも、何とか持ち直し、声の方へ振り返る。
「あ、悪い。驚かせたか?」
そこに居たのは、見たことのない、特徴的な赤茶髪が目を惹く少年。
誰だろうかという疑問より先に、昨晩父親が話していたことを思い出した。
(……そういえば、七夕家のご当主が来るって聞いてたんだった)
流石に、目前に立つ少年が当主ということはないだろう。
こうして平気な様子で立っていることから、その関係者であることは間違いない。
仔細は不明だが、どうやら彼は客人らしい。
「ん、俺の顔になんか付いてる?」
子供っぽく笑って見せる少年。
七草家は十師族結成以来、その立場を不動のものとする名家である。
屋敷にはメイドもいるし、執事だって雇ってある。
真由美は、世間一般にお嬢様と呼ばれる稀有な存在だった。
そして、幼い時から社交の場に立つ彼女は、七草家長女として恥ずかしくない程度の礼節を熟知していた。
(……ぜったい、ワザとだわ)
長年、大人の波に揉まれて来た少女にとって、他人の腹積もりを推察することは、然程難しいことではない。
故に、少年のしたり顔さえ無ければ、丁重に歓待することもやぶさかではなかったのである。
人の読書を邪魔しておいて、悪びれもしないとは、紳士の風上にも置けない輩だ。
人を驚かせるのがそんなに面白いのか、と真由美は心で思う。
初対面だろうが、客人だろうが関係ない。彼女の胸中には小さな反抗心が芽生えていた。
◇◆◇◆◇◆◇
エリカの興味本位な質問に対し、夏彦と真由美が表情を曇らせたのを達也は見逃さなかった。
抱える問題が何であれ、あまり触れない方が無難だろう。
様子を伺って、さりげなくフォローに入るとしよう。
「えーと、それについては少し……と言うか、ちょっとした事情があってね?」
互いに自己紹介をした時点で全く予期していなかったわけではないが、鮮やか過ぎる先制パンチに、真由美はしどろもどろに返す。
本当は言いたい。
彼は自分の婚約者だから、あんまりちょっかいをかけないでねと、冗談交じりに返してみたいと思っている。
そう切り出せない自分が嫌になる。
真由美は昔からずっと、夏彦のことを異性として好きでいる。
しかし、夏彦が自分のことを婚約者として見ていないように感じ、不安に思っていた。
両家の当主によって結ばれた婚約は、確かな現実として、ある。
だが、幾ら自分が愛していようとも、相手に結婚を無理強いしたいとは思っていない。
結婚相手を選ぶ権利は、皆が等しく持つべきであって欲しい。
だから、彼に甘えてばかりでは駄目なのだ。
昔の自分は、ずっと守られてばかりだった。
もう二度と、あんな後悔はしたくない。
足手まといに、彼の負担になるような自分を変えたい。
そうして、真由美は日々の研鑽を怠らず、血の滲むような努力を続けてきた。
だが、今の自分が彼に愛されているかと訊かれれば、答えは否である。
「……よさないか、エリカ。他人のプライベートを詮索するな、とは言わないが、もっと慎みを持て」
達也からフォローになっていないようにも取れる助け舟が渡された。
このまま話題を棚上げして、なんとかして場を濁そうとしているのだ。
それを知って知らずか、エリカは尚も食い下がって来る。
「えーっ。だって気になるじゃん。ねえ美月、深雪もそう思わない?」
「へ、へっ!? 私は別に……」
「う、うーん。私もそんなには、気にならないかなーって……」
いい加減察しろ! という視線を浴びせらているにも関わらず、エリカは止まる様子がない。
こうなると、彼女がそこまで気にする理由が知りたくなってくる。
すると、ここまで終始無言を貫いていた青年が、ようやく口を開いた。
「俺は、世話の焼ける妹は好きだが、融通の利かない妹は嫌いだ」
その一言に、真由美を始めとする面々は頭上に疑問符を浮かべた。
これが、隣に妹を座らせている達也の言ったことであれば別だったかもしれないが、脈絡なく、夏彦が唐突に口走る内容にしては些か妙であるし、誰に対して述べたのかも分からない。
真由美は、彼に妹がいることを知っていたが、彼女は此処にいないので、妹というワードに違和感を拭えていない様子だ。
彼らの中で、夏彦が言ったことを正確に理解できていたのは一人だけだった。
「……ごめんなさい」
打って変わり、急にしおらしくなったエリカに、一同は目を丸くする。
それは、ギャップというか、彼女の第一印象との差から来る驚きと、夏彦とエリカが知り合いだったことへの驚きであった。
エリカの謝罪に、夏彦は静かに首肯する。
だが、あまりの意気消沈具合に、少々辛く当たり過ぎたかと自省し、どうしたものかと思案し始めた。
要した時間は数秒。
青年は柄になく咳払いをしてから、気遣うように言った。
「そんなに落ち込まなくていいぞ……エリカ」
「────!」
目敏い達也は、真由美の動揺を見逃さなかった。
唖然とした皆の目線を避けつつ、夏彦は項垂れるエリカを宥め始めた。
「久し振りだな」
「……うん」
「元気してたか?」
「うん、元気してた」
「はあ。……エリカ、来い」
「……………………分かった」
その言葉を端に、エリカは席を立った。
彼女は顔を地面に向けたまま、夏彦の座る席へゆっくり近づいて行く。
真由美、達也、深雪、美月は、状況が飲み込めないために傍観することしか出来ず、完全に蚊帳の外だ。
夏彦の前にエリカが立つ。
これから何が起こるのだろうか。
目まぐるしく変化する展開に、各自は様々な思いを寄せながら、行く末を見守ろうとしている。
本来なら、真由美はここで止めに入るべきであっただろう。
後手に回った時点で、真由美の戦術的敗北は避けられものとなっていた。
「……バカ夏兄! 私、寂しかった! 寂しかったの!」
そう言うが早く、エリカは夏彦に抱きついた。
「ウソ……」
「ほう……」
「まあ……」
「はわわっ……」
エリカの声色は震えている。
彼女は、膝に乗っかるような体勢で夏彦の胸に顔をうずめていた。
(何がどうなってるの……?)
真由美は、眼前の光景を認められないでいた。
自分の婚約者が、目の前で他の女と抱擁しているのだから、それも仕方のないことだろう。
彼女自身、彼とはもう何年もああいった行為をしていないのである。
だというのに、あの千葉エリカという女は。
(まさか、寝取られた……?)
今直ぐにでも止めに入りたい衝動に駆られながらも、それは叶わぬことだと悟る。
なぜなら、この店の客層が若い女性で占められているせいか、『離別していた兄妹の感動の再会』を祝福するムードが蔓延しており、邪魔をしてみようものなら大顰蹙を買ってしまうこと請負だからであった。
もし、最初からこれを狙っていたとしたら……。
そう考えた真由美は、千葉エリカに対する認識を改めることにした。
(──ふふふ。私は知らないうちに、彼女の手の上で踊らされていたようね。……油断? いいえ、これは慢心。全ては婚約者という立場に甘えていた結果。……ホント、何も学んでいない)
完膚無きまでに叩きのめされたような敗北。
敗因は言うまでもなく、婚約が解消されることは絶対にありえないと、心の何処かで思っていたことである。
それは、この五年間、夏彦に対して誘いの一言も告げなかったことが如実に表している。
向こうから誘って来て欲しいという独り善がりこそ、彼に対する一方的な甘えであり、真由美の積極性を欠くことに繋がったのだ。
敵を知り己を知れば百戦殆うからず、だ。
今回はしてやられたが、新たに気づいたこと、学んだことは多い。
それを、次にどう生かしていくかが重要なのだ。
自分は常に挑戦者であることを忘れてはならない。
(今は相手を知ることが先決。準備不足で藪蛇を突つくのは愚の骨頂よ、真由美)
妖精姫の二つ名は伊達ではない。
美しい女狩人は、女狐の隙を慎重に探り始めた。
次のラウンドは荒れ模様になる。
淫靡な笑みを浮かべながら舌舐めずりをする真由美は、蠱惑的な魅力に溢れ、とても生き生きとしているように見えた。