秋風の立ち始めた夕方。
少年は馬繋ぎ場から執務室への坂を駆け上っていた。
まだ近場への手紙の配達ぐらいしかさせて貰えないけれど、外仕事に出して貰えるようになって毎日が楽しい。日に日に名前を貰える日が近付けている気がする。
デッキの階段に足を掛けようとして、窓辺にホルズの後ろ姿が見えた。
室内に向かって何か喋っている。
(あ、もしかして)
少年は慌てて襟とシャツの裾を直した。
「ただいま戻りました!」
御簾の外で声を張ってから入ると、やはり久し振りのナーガ長様が大机にいらした。
二週間振り位だろうか。最近とみにお忙しいみたいだ。
清流の髪、象牙の額。どの角度から見ても絵になる、宗教画のような存在感。
このヒトがいるだけで、いつもの執務室が礼拝所かってほど清々しくなる。
執務室勤務だから他の里人よりは会う機会が多い筈なのに、少年はいまだにドキドキする。
「はい、おかえりなさい」という深い声も空から降って来るようで、少年は羽根でくすぐられるような快感に襲われた。
「お、長様もおかえりなさい。お会い出来て嬉しいです」
思わず変な言葉を口走ってしまう。
長は深い湖の底みたいな瞳を丸くして、「ああ、はい、私も嬉しいです」と、穏やかに返してくれた。
窓辺のホルズが苦笑する。
「あんまり里を留守にしていると、子供なんかにゃすぐ忘れられちまうぞ」
「ぼ、ぼく子供じゃありません。忘れたりしません」
脇の丸机でリリがクスリと息を吐く気配がして、少年は余計にムキになった。
「もう外仕事に出ているし、名前を貰ってもいい位だもの。ね、長様、そうですよね」
どうせいつものように、「あわてんぼさんですね、焦らず精進なさい」と流されると思っていた。
しかし長は、陶器のような頬にひとつの笑みも浮かべないで、真面目な顔で「ふむ」と少年を覗き込んで来た。
え、もしかして名前を貰える流れ? ユゥジーンさんみたいに!?
少年は唾を飲み込んだが、ホルズが慌てて割り込んだ。
「ナーガ待て、こいつは駄目だ、幾ら何でもまだ早い」
「そうでしょうか」
「ああ、駄目だ駄目だ駄目だ!」
そんなに駄目を連発しなくてもいいのに。
ホルズは、ナーガ長が子供の頃育った家で兄のような存在だったとかで、今でもたまに歯に衣を着せない言い方になる。
「欲しいって言うんなら、あげちゃってもいいんじゃないですか?」
長は更に少年を覗き込む。
少年は直立不動で構えた。本当に貰えるかもしれない!
「待て――!!」
「父様、その子はまだ違う」
リリの一言で、ヒートアップしていた場がサッと鎮まった。
結局、直後に他のメンバーが帰って来たので、名前の件はうやむやになってしまった。
少年は何とか話を蒸し返す隙間を伺っていたが、機会のないまま帰宅時間になる。
(明日ホルズさんに恨み言を言ってやる)
思いながらデッキに出ると、大柄な人物と鉢合わせした。
「おお、遅くまでご苦労さん」
白髪の男性は、前長のノスリ。
ホルズの父親で、件(くだん)の『一般人出身の、血統外の長』、だったヒトだ。
今は一線を退いて隠居しているらしい。
「どうだ、仕事には慣れたか」
「はい」
少年は言葉短く挨拶をし、お辞儀をして、素早くデッキを下りた。
同じ長でもナーガ様と比べると、このヒトは普通のお爺ちゃんって感じ。白髪でシワ一杯だし、声もガサツで品が無い。
せっかくナーガ様の声を耳に残して良い気分だったのに、台無し。
御簾の向こうでは彼を迎えながら張りつめた空気になっていたが、少年はそれには気付かなかった。
***
デッキを降りた所で少年は、背後からホルズに呼ばれた。
「おぉい、すまん、ユゥジーンの所へひとっ走り頼む。急ぎだ、棘の森の主殿へ緊急の手紙!」
「え、今から配達、ですか?」
少年は引き返しながら聞いた。
ユゥジーンと居候のシルフィス、二人の青年は、今日は夕方に仕事を終えて帰宅している。
ここのところ仕事が詰まっていた彼らは、明日の昼まで半休の予定だ。
「急遽話を通しておかねばならない要件が出来たんだ。すまないと言っておいてくれ」
「は、はい」
執務室のメンバーったって、普通に夜は家に帰って寝るし、オフの日だってある。
……が、外の世界はそんなのに合わせてくれない。昼夜逆の種族だってある。
特に棘の森の七本牙の主殿は偏屈で、ユゥジーン以外の使者は受け付けてくれない。
(あ――あ、気の毒に……)
思いながら少年は、親書用の皮筒を受け取って、居住区とは反対の夜の坂を駆け降りた。
そちら側は里裏と呼ばれ、修練所の他は放牧地や灌木帯で、人家がほとんど無い。
坂を降りたT字路の、右は山茶花の林。行った事はないけれど奥にノスリ様の隠居家があるという。
ユゥジーンさんちは左に曲がってかなり歩いた放牧地の土手沿い。野中の一軒家みたいな場所だ。
「不便じゃないのか? 居住区の方にも土地は空いているのに」
走って走って、目印の杏の木が見えて来た頃には、かなり息が切れていた。
下のパォの明かりは消えている。もう寝ちゃったのかな。
辿り着いて声をかけたが返事がない。気配もない。
出掛けているのか、どうしよう、待つか、戻るか。
今から……執務室に戻るのかぁ……
うろうろしていると、修練所方向の土手に灯りが見えた。誰かがカンテラを持って歩いている。
少年は慌てて追い掛けた。
「おお――い、お――い」
カンテラは立ち止まってくれたが、ユゥジーンではなかった。背の高い影は、修練所のサォ教官。
「おや、執務室の? どうした?」
少年は汗を垂らしながら肩を落としたが、教官はユゥジーンの行き先を知っていた。
「シルフィスキスカ殿が、小さい子を竜に乗せてあげると言ってくれてな。急な話だったが子供達が大喜びだったので、お願いしたんだ」
大っぴらにするとまた収拾が着かなくなってしまうから、その場にいた運の良い子だけ、内緒でと。
「そこの放牧地で竜を作って、子供五人ばかりを乗せた後、高く上がって見えなってしまった。まぁユゥジーンも馬で着いて行ってくれたから、心配ないとは思うのだが」
「そ、それ、どの位前に? どっちの方へ飛んで行きました?」
「今しがた上がった所だよ。そんなに遠くへは行かないだろう、ちょっとだけだと言っていたし」
少年は頭を抱えた。
シルフィスさんのちょっとは感覚が違う! ユゥジーンさんも止めろよっ!
サォ教官に文句を言ってもしようがない。
このヒトは優れた教育者だが、大人に対して無条件に信用し過ぎるんだ。
この世には子供みたいな大人も大勢いるんだぞっ!
***
という訳で、少年は今、草の馬に跨がって夜空を上がって行く所。
上空にユゥジーンさんを探しに行くことにした。絶対その方が早い。
幸い放牧地には修練所の厩舎があって、サォ教官がいたから馬を借りる事が出来た。
(ラッキーだった。執務室まで戻らなくて済んだ)
腰帯にしっかり差し込んである懐の書簡を確かめながら、少年は空を見渡した。
シルフィスさんの竜なら一度見た事がある。あれだけの竜なら月明かりでも十分に目立つ筈。
しかし上空にそれらしき物は無い。
まだ上まで上がったの? 小さい子を五人も乗せて……
……いや、能力の有り余っているヒトの考える事は分からない。
上ばかり眺めていた少年は、足下を見落としていた。
実はこの時シルフィスの竜は、ずっと下にいた。
居住区に近付き過ぎてユゥジーンに叱られていた位だ。
幾らシルフィスでも子供を乗せてそんな高空へ行く訳がない、幾らシルフィスでも。
そして、子供を喜ばせるだけの目的で作られた竜は馬二頭分程の大きさで、少年が思うより遥かに小さかったのだ。
何にしても、少年はユゥジーンを見付けられなかった。
(どうしよう……)
今から地上に降りて馬を厩に入れ馬装を片付け、執務室まで走って報告……いい加減疲れていた彼は、別の選択肢を選びたかった。
(もうこの足で自分が棘の森へ行って、手紙を届けちゃえばいいんだ)
場所はすぐそこ。
前に一度だけ臨時に手紙を届けた事があるから、要領は分かっている。
七本牙の主殿は確かに怖いけれど、礼儀さえ間違えなければ理不尽に怒り出すようなヒトではなかった。
(よぉし、行っちゃえ!)
懐の書状を帯にギュッと挟み直して、少年は、手綱を棘の森へ向けた。