ノスリは血糊を落とした刀を、研石の上で滑らせ始める。
「何の血だと思う?」
「ええっと? ……ワルイヤツ……?」
「そうだ。お前が言っていたように、草原に悪い奴が忍び寄っていた」
「ええっ」
「心配するな、もう片付いた。力で来るモノ
「…………」
「今朝方、追い掛けていた残党が三方に散ったから、リリに探索の援護を求めただけだ。この手紙は俺が送った物だよ」
足元の水たまりは結構な量になっているが、よく見るとその場所は、しょっちゅう同じ作業をやっているような跡があった。
少年は目をパチパチさせる。
リ、リリさんも、こんな風に剣を血に塗(まみ)れさせて闘うの?
このヒトだってこんなお爺ちゃんで、とっくに引退して、のんびり隠居をしていると思っていた……
「あの、里にも軍隊ってありますよね。うちの兄達も兵士に登録していて、たまに畑仕事を休んで訓練に行くんですけれど、そんな話聞いた事ないです」
「軍の長(ちょう)はホルズだ。奴の判断に任せているが、実質知らせていないんじゃないかな」
「軍隊の意味ないじゃないですか」
「あるぞ。草原内で起こる争乱や盗賊の討伐なんかには、きちんと出動しているだろう?」
「じゃあ今回は何で知らせないんです。近くの村の護衛だって必要だと思います」
「危ない場所にはナーガが結界を張っておく。今回は棘の森付近だったので、夕べの内に主殿に話を通しておいた。軍隊の役割は無いな」
「信頼していないんですか、兄達も誇りを持って勤めているのに」
「誰か死んだらどうする」
「ぇ……」
「草原の外から来た力の分からないモノと里の大切な民を闘わせるなんて怖い事出来る訳ないだろ。ナーガの術で済むのに」
「力の分からないモノなら、長様の術で済まない場合だってあるかもしれないじゃないですか」
「そんな敵が存在したら、それこそ里の軍隊じゃどうにもならん」
「…………」
「ああ、別にお前さんの兄上を貶めている訳じゃないぞ。そういう働きをしてくれる者がいるから、我々はこちらに専念出来る。適材適所って奴だ」
「えっと、じゃあ、せめて知らせるくらい……」
「だから何の為に? 皆を闇雲に不安がらせたって、誰の得にもならないぞ」
「…………」
「草原は平和で、軍隊はたまに畑仕事の合間にちょっと出動する程度。そんなのどかな状況だから、皆安心して暮らしていられる。それがナーガ長の一番に望んでいる事なんだ。外から来るモノだけに集中していられるからな」
「…………それって、結局、みんなを、欺いているんじゃ…………」
ノスリは剣を研いでいた手を止めた。
***
「では質問だ。お前に欲はあるか?」
「えっ、欲?」
唐突な問い掛けだが、少年はノスリの前で、素直に考えこんだ。
「早く名前が欲しいとか、そういう欲の事ですか?」
「そうだな、もっと単純に、朝いつまでも眠っていたい、仕事に行きたくない、とか」
「そういうのも入れたら、限りなくあります」
「さて何故それに従わない?」
「いやいやダメでしょう、欲望のまま寝ていて仕事をサボるなんて、めっちゃ恥ずかしいじゃないですか」
「それだ」
ノスリが真顔で重々しく言って、少年はキョトンとした。
「恥ずかしいと思う心が大切なのだ、偉いぞ」
「え、その、当たり前……ですよね……?」
「ヒトの心から当たり前の『恥ずかしい』が無くなって、みながみな責任を放棄して楽な事ばかりやりたがる。そんな世界だってあるんだぞ」
「へ……誰も仕事に行かないの? まさか、社会が成り立たなくなりますよね」
「だろう? でもあるんだ、草原の外には幾らでも。だから社会が機能せず、貧しく争いばかり起こっている。それではダメだと分かっていても、目先の欲に簡単に負ける。皆がそうなって流れが出来てしまったら、逆らって泳ぐのはとても難しい」
「…………」
「悪い奴の立場になって考えてみろ。暴力で殴りかかるより、そういう方向へ導いてジワジワ社会を蝕む方が、安全に相手の力を削いで行けるだろう。しかも直ぐには分かりにくい、気が付いた時は手遅れだったりする。そちらの方が怖い、ずっと怖いんだぞ」
「い、いるんですか、そんな事する奴? 術とか武力じゃ防ぎようがないじゃないですか」
「そこで最初の『恥ずかしい』に戻る。民に余裕を持って安心に暮らして貰えば、子供達に、当たり前の『恥ずかしい』や『思いやり』を育んでやれる。里や草原の民がそうやって『内側の護り』を固めてくれているから、ナーガは力の護りに専念していられるんだ」
「…………」
「お前達がしっかり恥ずかしい事を恥ずかしいと思ってくれるのは、千本の剣と同じくらい頼もしい事なんだぞ、もっと誇れ」
「はい……」
少年は神妙な面持ちで頷いたが、胸中はまだ納得していなかった。
限られた人達だけが見えない所で闘っている。あんなに腕の細いリリさんも。
それは、皆に安心に暮らして貰う為。悪い誘惑に負けぬ社会を育てる為。
……理屈は分かる、分かりはする、でも……